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龍笛奏者への第一歩

 その音色は龍の声。龍は天と地を駆け巡る神獣。

 天と地を結ぶ笛の音は、古来より(まつりごと)や宮廷に関わる者の娯楽として、祖先を祭る儀式に欠かせないものとして、雅な方々に親しまれてきた。その昔には、数多くの楽器を演奏する壮大な宴が、広々とした庭でひらかれていたそうだ。

 その音色を、庶民が塀の外から聴いていたのは、今は昔の話。

 その中でも新年を祝う宴は、長い月日を経て庶民にも親しみのあるものになった。昔々の盛大な宴とは楽器の数も、人数も違うけど、笛の音だけは変わらない。

 宮廷楽師が減り、庶民相手にも演奏してくれるようになったのも、昔のこと。今や人々は新年の宴を待ち遠しにして、日々を過ごしている。


 その笛の名は、龍笛(りゅうてき)


 わたしを救ってくれた笛。わたしと彼らをつなげてくれた、運命の笛。




 鈴歌(りんか)の育った村では、新年の宴に龍笛の演奏はなかった。あの老人が村に引っ越してくるまでは。

 初めて老人の演奏を聴いたのは、肌寒い新年の宴だった。村はずれのあばら家を修繕して暮らし始めた老人の演奏に、鳥肌が立った。

 村に人が引っ越して来るのなんて、珍しいことだったから、老人がやって来た時のことはよく覚えている。古い(くるま)に荷物をいっぱい載せて、老人は一人で村に来た。薄汚れた(ほう)を着た老人は、荷台ではなく、馬に乗っていた。

 ずいぶん明るく、元気な老人だという印象が強かった。だから、なおさら老人の演奏には驚いた。笛の音は力強いのに繊細で、演奏中の雰囲気は荘厳で、泥まみれになりながら畑仕事をしている背中の曲がった老人と同じ人には思えなかった。

 老人の演奏に鈴歌は心を奪われた。同時に抱えている問題へ光明が差した。

 李老師(りせんせい)、それが鈴歌の恩師となった老人の呼び名である。


 幅の広い川は絶えずせせらぎ、冬であっても凍らない。水嵩は浅く、水流も穏やかだ。朝日を受けてきらきらと川面が光る。鈴歌はまだまだ冷たい風に吹かれながら、川辺を歩いていた。

 町は川を中心に広がり、大きな邸が立ち並ぶ住宅地と、商店が軒を連ねる大路に、川を境に分かれている。川には大きな橋が一つと、小さな橋が二つほど架かっている。橋が架かっていない場所の路地からは、川辺へ降りることのできる石段がいくつかある。

 町の入口――大門と呼ばれる関所――のある大路から橋を渡り、階段を降り、鈴歌は大きな岩のごろつく川辺を、上流へ向かって歩いていた。

 目当ての邸を崖の上に見つける。老師に聞いていたよりも、邸は古びて見えた。川からは邸の裏側しか見られないが、塗装の剥がれた柵、柵と邸の隙間で伸び放題になっている草が、より手入れのされていない印象を与えた。

 灯りは点っていない。日は真上に近く、上質な硝子が入った凝った飾り窓から、光は充分に差し込んでいることだろう。鈴歌は石を踏みしめながら、その邸へ近づく。

 辺りは水音が反響している。町の喧騒はどこかに消えてしまった。日差しは冬にしては温かく、身軽な恰好であれば散歩にはちょうどいい陽気だった。鈴歌は肩に食い込んでくる荷物を時々背負い直して、邸の窓からこちらが見える位置へ移動した。

 邸を見上げる形で、川辺へ立ち荷物を下ろす。荷の中から細長い筒を取り出し、中から笛を取り出す。

笛の細い方には七つの穴が並び、反対の太い方には大きな穴が真ん中に一つ空いている。笛は所々くびれていて、太い方の先端、頭の方が重たい。

 鈴歌は立ち方を正し、大きな穴に唇を沿わせた。息を深く吸い込んで、指を穴へあてがう。目を閉じ、ゆっくりと息を吹き出す。笛が震える。

 ぴりぴりと指に、手に、口に、振動が伝わってくる。

 高く力強い音が空へ響いて行く。徐々に川のせせらぎが遠くなる。耳に笛の音だけが入ってくるようになると、気持ちが高揚する。

曲は昼の明るさにふさわしく、賑やかで楽しいもの。賑わっている大路の雰囲気を伝えられる曲にした。

 鈴歌は懸命に笛を吹いた。崖上の邸へ、新しい師の耳へ届くように。


 曲が終わった時、鈴歌は窓から顔を覗かせている人影に気がついた。崖の下から見上げる。顔はよくわからないが、影の大きさからして男性のようだった。窓の硝子が光を微かに反射している。

 鈴歌は男性を見上げ、一礼した。黒く重たい外套が揺れる。暖かさ重視で、可愛らしさはまったくない。そのうえ、外套は男物で、鈴歌の本来の体格には合っていない。中に衣を着こむことで体型に合わせてある。

 顔を上げると男性の姿はなかった。鈴歌は気に留めず、笛を筒に戻し、荷を背負った。今は笛の音と、姿だけでも認識されればそれでよかった。

 邸に一番近い石段を上がると、息も一緒に上がった。荷物は極力減らしてきたつもりだが、鈴歌の背を覆うほどの荷と、外套の下に忍ばせた貴重品たちは、かなりの重量になってしまっていた。

 息を整えて、薄暗い路地を抜ける。大路ほどではないが、辺りはざわざわと人々の声が反響していた。昼餉時のためか、微かに香ばしい匂いが人家から漂って来る。鈴歌は疲れと空腹を感じながら、薄らと紅い塗装が残っている邸へとゆっくり歩を進めた。

 パタパタと足音を立てて駆けて行く少年たちとすれ違う。胸に抱えた籠には主人お気に入りの酒家の料理でも詰まっているのだろう。良い匂いに空腹感が増す。しずしずと通りを歩き、抱えた荷物の中身を確認している少女たち。皆この時間は仕事で忙しいようだ。

 鈴歌は近くに見えてきた邸をしげしげと眺めた。大きな門と色の剥げた木柵の隙間を、青い草が生い茂っている。その邸は見た目こそ古ぼけていて、手入れがされていないようだが、周りの邸と比べても広さだけなら引けを取らない。塀の向こうに見える邸は周りと比べると質素だが、細々とした部分に施された文様や装飾は品がよかった。

 手入れをして整えれば、豪華な邸ばかりが立ち並んでいるこの通りでも、充分目を引く邸になるだろう。鈴歌はうずうずとする気持ちを抑えて、門までの道を辛抱強く歩いた。


 宴に始まり、宴に終わる、新年祭。大抵の町では三、四日ほどかけて行われる一年で一番大きな、場所によっては唯一の宴だ。

始まりの宴が終わると、新年を祝う商品の並ぶ市がにぎわい、そこかしこで人々が自由に歌って踊るなど、陽気な雰囲気で満たされる。

終了の合図も宴。賑やかな音楽から静かな調べに変わり、徐々に町がいつもの姿を取り戻していく。それが新年祭だ。

 季節は晩冬。まだ花を咲かせる、温かい陽気は片鱗を見せない。宴が間近になると、各地から町に奏者や芸者、にぎわいを求めて商人たちが集まってくる。

 町の有権者たちによって、宴を彩る奏者たちが選ばれる。鈴歌は老師の紹介で、龍笛奏者の列へ加わることになっている。この町は土地も広く、栄えていて、住人も多種多様だが、龍笛の奏者はただ一人しかいない。その奏者が、李老師唯一の弟子。

 宴の前には奏者同士で選曲の打ち合わせや、練習をする決まりだ。奏者としての経験がない鈴歌は他の奏者より長い時間、打ち合わせと練習が必要になることが予想出来た。出来るだけ長く町に居るために、早く老師の元を離れたのはそのためだった。

 新年祭まで、あと一月。


 新年の宴で新しく奏者が入ることは、有権者たちの方から伝達されているはずだった。鈴歌も老師の弟子宛に文を一通出していて、そちらも既に届いているはずだ。と言うのも、鈴歌の出した文に返事はなく、どこに顔を出しても彼の反応を噂で聞くことすらない。そのため、知らせがきちんと伝わっているかどうかもわからないのだ。

 鈴歌は門の前に立ち、深呼吸をした。寂れた門は薄く開いた状態で、触れるとギギィーと金具が鳴った。中を覗くと同じように古ぼけた戸が数歩先にあった。

 邸から物音がしないのを確かめ、鈴歌はそっと中に入り、戸を手の甲で叩いた。

「こんにちはー、(よう)(せんせい)

 返事はない。が、鈴歌は待った。若くして李老師の元から独り立ちした奏者、葉恍(ようこう)。先ほど川辺から見上げた人影が、この邸の中に居るはずなのだ。数分待っても邸の中から音がしてこないので、鈴歌はもう一度戸を叩いた。

「こんにちはー、文を送りました黄林(こうりん)です!」

 鈴歌は文に示した名前を告げた。鈴歌が奏者として名乗るようにと、老師が一緒に考えてくれた名前だ。

 今度はいくらも待たずに続けた。

「新年祭の奏者に加わることになったので、ご挨拶に伺いました!」

 声を近所迷惑にならない程度に張り上げる。邸の中から、カタンと音がしたような気がした。鈴歌は戸から少し離れた。

「師には同じ奏者として、ご指導願いたいと思っております。黄林です!」

 声を上げると、またカタンと音がした。今度は確かに聞こえた。鈴歌は戸の向こうに気配を感じ、じっと待った。

 これまで聞いてきた葉師の噂話を、鈴歌は思い出す。若いが愛想がなく、腕は確かだが気難しく、雅な上流階級の中でも扱いにくい奏者。

 演奏を褒めたら急に不機嫌になって帰ってしまったとか、酒を勧めたら酔ったからと言ってそのまま戻ってこなかったとか、神経質で、頑固な所を感じさせる噂話ばかり聞いた。他にも、宴の席で主人の悪い噂を広めたとか、出された酒や料理がまずいと言ったとか、粗雑な振る舞いをしたというものばかりだ。

なんにせよ、あまり良い印象ではない。

 鈴歌は葉の技術を頼りにしてきたのだ。内面がどんなに気難しく厄介な性格をしていたとしても、構わない。と、心に言い聞かせて来た。

 ググゥと戸が鈍い音を立ててゆっくりとこちら側へ開いて行く。鈴歌はぐっと拳を握った。どんなクマ男が出て来ても、動揺せず、関係のない話はしないと堅く誓う。ここで嫌われたらどうしようもなく、なりかねない。

 一度機嫌を損ねるとその後ろくに相手にされなかったと、全ての人々が口にした。

 鈴歌はどんどん開いていく戸の向こう、暗くてよく見えない相手に、気圧されまいと体をこわばらせる。

 奥から一歩、こちら側に出て来る。鈴歌はどっと緊張が増すのを感じた。体がわなわなと震え、力が抜ける。また一歩外へ踏み出した相手の相貌が、明らかになる。

 眉間には縦にしわ、切れ長で凛々しい印象を受ける瞳は深みのある黄色。すっと一筋通った鼻、薄く左右の形がそっくりな唇、ひどく整った顔の男性が立っていた。

――クマ男、じゃない!?

 鈴歌は混乱しながら、男性の姿をまじまじと眺めた。薄緑の長袍は黄色の腰ひもで絞められ、包み込まれている体は細いが薄くはなく、背は鈴歌より頭一つ分は高い。戸を押す腕には微かに筋肉が浮いて見える。

「――さい」

 じっとその姿を眺めていた鈴歌は、はっとして視線を男性の顔へ戻した。

「うるさい」

 鈴歌はその声をしっかりと聞いた。低く抑揚がないが、声にはうるおいがある。男性は眉間のしわを濃くし、ギロリと目を光らせた。

「うるさい」

 男性はもう一度同じことを言った。鈴歌はドッと冷や汗をかいた。

「ご、ごめんなさい! すいません」

 出て来た男性が誰かはわからないが、怒りを買うわけにはいかない。鈴歌は慌てて頭を下げた。と、ゴロゴロと背中で荷が崩れる嫌な音と共に、頭がずっしりと重たくなった。

「ぎゃっ」

 頭を下げた勢いでそのまま前のめりになる。背に積んでいた荷が頭の方へ移動したのか、地面についた両手を踏ん張って起きようとするが、頭が重たくてうまく元に戻れない。

――こんなことなら、先に宿をとっておくんだった!

「何、やってるんだ?」

 もだもだと、膝を地面について上体を起こそうと奮闘していると、ためらいがちな声が降ってきた。

「いや、あの、好きでやってるわけじゃ……ないんですけど」

 恥ずかしさと、自分のまぬけさに泣きたいような、笑いそうな状態で、鈴歌は途切れがちに返事をした。

 ぐっと上半身を下半身に引き寄せ、うずくまるような姿勢になると、バサバサと物が地面に落ちた。ドサッと布類に混じって、一冊の古ぼけた本が落ちたのが視界の端に映る。

 鈴歌は慌ててそれを拾おうと手を伸ばしたが、荷が邪魔をしてうまくいかない。

 ふっと、影が落ちた。

 地面に落ちた赤茶けた表紙をさらりと撫で、男性はそれを拾い上げた。鈴歌は何も言えずに男性を見上げて、頭に乗っていた荷物を押しのけた。

 男性は本を開き、何枚か紙をめくり、パタンと本を閉じた。男性がこちらを見る。鋭く、澄んだ瞳だった。ぴたりと閉じられていた唇が開かれる。が、何も言葉は出てこなかった。

 男性はそばにあった他の荷物も拾い、本を鈴歌に手渡すと、拾った荷物を背負っていた大きな麻袋の荷に投げ込むように入れた。

「あ、え、ありがとう、ございます? すみません」

 鈴歌が呆然としている間に、男性は荷物をぽんぽんと袋に押し込んでいた。

 鈴歌の体はそのたびに体が揺れた。なかなかに遠慮や配慮のない力で詰め込まれているようだ。壊れやすい物は布などで保護してあるので心配ないが、男性の雑な動作に驚く。

――この人、下男かな?

 まさか葉師本人ではないだろう。笛が荷の中に入っていることはわかっているはずなのに、奏者がこんな荷づめをするはずがない。笛の音に気づいて窓辺に寄った人影は、葉師だったはずだ。

 鈴歌は口でお礼を言いながら、行動の雑さにムッとする。筒に入れているとはいえ、大事な笛に傷がつかないか気になる力加減だった。

 荷を雑に詰め込まれた後、男性は鈴歌の腕を掴んだ。脇に手を突っ込まれ、鈴歌は身を固くした。分厚い外套がぐしゃと歪む。男性の手の温度が伝わって来ないように、鈴歌の二の腕や胸の柔らかさが伝わっていないことを内心で祈る。

 ぐっと男性の手に力が入り、鈴歌はぐんと掴まれた右側に痛みが走る。

 鈴歌は男性に引き上げられて、ようやく立ち上がった。荷が肩に食い込む。重力が左側に偏り、引っ張られた腕や肩、脇腹が突っ張り、鈍い痛みが広がる。

 鈴歌は右側に重心を移した。掴まれたままの腕が痛かった。

 男性を見る。相変わらず、黙っている。

「……ありがとうございます」

 鈴歌は男性の顔と手を交互に見て、腕を離すように訴えた。訴えが通じたのか、男性は手を離すと、鈴歌の手に視線をやった。左手にはさっき手渡された本を持ったままだった。

「その曲」

 男性の視線を追っていた鈴歌は、その声に顔を上げた。本は笛の教本で、たくさんの曲が載っている。鈴歌が李老師からもらった大事な物だ。

「吹けるのか?」

 その曲というのが、どれかなんて疑問が吹き飛ぶくらい屈辱的な言葉だった。この本に載っている曲は全て吹ける。だから、老師は初仕事を工面して、送り出してくれたのだ。

 鈴歌は胸に本を抱いて、男性をにらむように強く見つめた。

「わたしは龍笛奏者です! どんな曲でも吹いてみせます」


 男性は黙って見下ろしてくる。じっと真面目な眼差しで、鈴歌を見つめている。何かを思案しているのか、時々瞳が揺らめく。

 言葉を待っていると、男性がぶるりと体を震わせた。男性の格好は上品な雰囲気を醸し出していたが、寒空の下では逆効果だったようだ。

「で、なんだって?」

 腕をすり合わせ、一度邸の方を見た男性は、低く小さな声で問いかけてきた。

 鈴歌は息をのみ、気持ちを切り替える。

「僕、黄林です。今回の新年祭で龍笛奏者の列に参加することになった……葉師に、宴のことでご指導いただきたくて来ました。お会いできますか?」

 なるべく詳細に用件を告げ、鈴歌は姿勢を正した。男性はじっと鈴歌を見た後、邸に向かって数歩、足を進めた。

「まぁ、会えるが……指導とは?」

「打ち合わせもですが、宴までの間に選曲や練習、とにかく宴に関することでご指導願いたいんです」

男性はあまり乗り気ではない様子で、問いかけてきた。鈴歌の脳内を、聞きたいと思っていたことが駆け巡っていた。早く師に会って、一つでも多くのことを知りたい。

「指導する理由がないように思えるが?」

「え?」

 断られることは想定していたが、本人ではなく下男にそんなことを言われるとは考えていなかった。その上「理由がないように思える」とは、どういうことだろう。主人は忙しいとか、そんなことをする人ではないとか、そういった理由ならばわかるが。

「実力も知らない相手に何をしろと言うんだ。弟子はとらない主義だしな」

 男性はそう言い放つと邸の戸へと手をかけた。鈴歌は慌てて、その背を追った。男性の袖を遠慮しながら、しかし確かに掴む。

「待ってください! 実力ならお見せできますし、弟子になりたいわけじゃないんです」

 男性の言い分は確かだし、葉師は弟子をとっていないのも知っているが、この男性に言われたのでは納得できない。せめて葉師に会いたい。じっと男性を見上げ、瞳でうったえかける。

「……本当に、弟子志望じゃないんだな?」

 男性の長袍を握った指が白む。鈴歌はしっかりと頷く。嘘だ。本当は、葉師の弟子になりたくて、ここまで来た。素直に弟子入りを申し込んだところで、断られるのは李老師の話で知っている。老師の話では望みは皆無だった。だから、実力と気合を見せて、何としても認めてもらう気で、初めの壁である冬の山越えを乗り越えたのだ。

 男性は鈴歌を見下ろし、眉根をひそめていた。

「さっきの……さっき、川で一曲吹いたんです。他にも、この本に載ってる曲なら何でも吹けます。すぐにでも!」

 鈴歌はダメ押しとばかりに叫んだ。男性はしばらく鈴歌を睨むように見下ろし、深呼吸をするような溜息を吐いた。

「なら、吹いてみろ。なんでもいい」

 男性は鈴歌の手をそっと押しのけて、邸の戸を開いた。鈴歌は手をひっこめながら、あれ、と思った。

「あの……葉師は?」

 さっきからの違和感はなんだろう。ざわりと胸をざらついたものが撫でた。男性の言葉がどうにも下男らしからない。

「別に、誰も名乗ってないぞ。……うちに使用人はいない」

――それって……?

 確かに男性は名乗っていない。よく考えたら、鈴歌もこの男性の名前を聞かなかった。噂でも老師からも、使用人の情報は聞いていなかった。男性に対して言った言葉が頭の中をこだまする。

「『どんな曲でも吹いてみせる』んだろう? 龍笛奏者の、黄林?」

 男性は振り返ると、にやりと口角を上げて意地悪く言った。名前はうろ覚えなのか、戸惑いのある発音をされた。鈴歌はぞっと背筋に寒気が走ったのと同時に、胸がカッと熱くなる感じがした。

――この人が葉恍、龍笛奏者!

 噂の奏者は確かに、意地の悪い男性らしいと、鈴歌はぐっと口角を上げて微笑んだ。


 邸の中は家具が少なく、がらんとした印象を受けた。あるのは一目で高価な品だとわかる質のいい家具ばかりで、それらが使い込まれていないことも、手入れがされていないことも残念でならなかった。

 通された居間は、一言でいえば埃が目立つ汚室(おべや)だった。物が散らかっていないだけまし、という状況で室の隅どころか、いたる所に灰色の綿毛のような埃が積もっている。卓はうっすらと白みが掛かっていて、湯気の立っていない茶杯が一つ置かれていた。冷めているのか、匂いはしない。

 葉師は卓の脇にあった長椅子に腰かけ、鈴歌を仰ぐように見た。

曲を求められているのだと理解してからは、慌ただしかった。荷物を床におろし、中から笛を出して、心に一曲を決める。準備を終えて、いざ吹こうという時に、辺りを埃が舞っているのに気がついた。

「あの……掃除、しないんですか?」

 荷を下ろした時の衝撃で、埃が舞ったらしい。独特な匂いに口元を抑え、平然としている葉師を見る。葉師はちらりと上を仰いで、鈴歌へ視線を戻した。

「しないわけじゃない」

 鈴歌はそれだけ答えた葉師を訝しむように目を細めた。

――こんな中で生活してて、喉おかしくならないの?

 奏者じゃなくても、これは気になる汚れ具合なのではないだろうか。これだけの埃が積もった室で暮らしていたら、喉がやられてしまいそうだ。鈴歌はこの中で笛を吹かなくちゃならないのかと、気が滅入る。

 それでも吹くしかない。奏者としてそれを求められているのなら。

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