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在りし夢想のアムネシア

作者: 水色狐

リハビリに。

反響があれば頑張って続きを書いてみます。

 気がつくと、灰色の荒野に横たわっていた。

 視界はぼんやりと霞み、遠くに奇妙な形状の岩群が歪んで見える。重く曇った鈍色の空と、砂混じりの風が頬を撫でていく。――なにも思い出せない。名前、目的、昨晩何をしていたのか、まるで頭の中がからっぽだ。

 意識を手繰り寄せようとすると、わずかに頭が痛む。首を振ってみても何も戻ってこない。仕方がない、まずは現状を把握しよう。


 上半身を起こし、身の回りを確認する。着ているのは砂色に汚れたマントろボロボロの布着、革製の胸当て。そして首から吊り下げられているのは、乳白色の小さな水晶片。拳大ほどの欠けた宝石の一部だろうか、それとも何かの装置の破片か――用途はわからないが、なぜか惹かれるものがある。

 背負い袋には干からびたパンらしきもの、空気ばかりが入った水筒、そして読めないほど擦れた紙切れ。おそらく地図だったのだろうが、いまや模様すら判別できない。財布らしきものは見当たらない。つまり金も、身分を示すものもない。


 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 記憶がなくとも、動けるし、話せるようだ。体に大きな怪我はなく、足も問題なく使える。とりあえず人里に向かうしかない。救いを求めるか、情報を得るか、それが次にするべきことだろう。

 目を凝らすと、遠くに柵のようなものが見えた。人工物があるなら、そこに人間がいる可能性が高い。この荒廃した世界の中で、人跡を見つけるのは幸運だ。


 ゆっくりと立ち上がり、歩き始める。足元の地面は干上がった粘土質で、ところどころに割れ目が走り、瓦片のようなものが散らばっている。かつてここには街があったのか、あるいは古い遺跡が埋もれているのかもしれない。

 記憶が失われているとはいえ、不思議と焦りよりも冷静さが勝っている。自分が元々こういう性分なのか、それとも危機的状況に陥ると自然にこうなるのかはわからない。だが、余計な感傷に溺れるより今は前進するべきだ。


 丘を一つ越えると、簡素な柵に囲まれた小さな集落が視界に入る。小屋やテントが並び、燻るような煙が細い線を描いて空へ溶けていく。距離を縮めるにつれて、鼻腔をかすかな薪と乾いた草の匂いがくすぐる。

 大声で呼びかける前に、まずは様子を見るべきだ。俺は柵の影になりそうなところまで近づき、中を窺った。十数軒ほどの粗末な建物が点在し、その合間に樽や椅子が置かれている。外にいる人は少なく、表情はわからないが、暮らし向きは厳しそうだ。


 その中で、一人の老人が視界に入る。背を丸めて丸太に腰掛け、ゆっくりと空を見上げている。特に警戒している様子はないが、こちらから声をかければ、どうだろうか。

 名無しの放浪者など、厄介ごとの香りしかしない人物に対する反応なぞたかが知れているが、それでも今の自分に撤退の二文字はない。意を決して柵越しに声をかける。

 「すまない、少しいいか?」

 できる限り冷静な声色で問いかける。威圧しないよう、しかし頼りない印象を与えないよう意識する。少なくともパニックに陥った狂人ではないことを装う。


 老人は驚いた様子で振り向いた。その顔には深い皺と日焼けが刻まれ、長い沈黙を経たかのような鋭さの薄れた眼差しがある。俺を見ると、不審そうに目を細めたが、敵意は感じない。

「……旅人かい? この辺りに人が来るのは珍しい」


 旅人、か。そう呼ばれても否定はできない。

「正直なことを言うと、俺は自分が何者なのかもわからない。どうやら記憶を失っているようで、起きたら荒野のど真ん中だった。手がかりはこの水晶片くらいしかない」

 俺は首飾りを示した。老人は怪訝な顔をし、一瞬視線を結晶に注ぐと、再びため息のような呼気を漏らした。


「記憶喪失とな……お前さん、悪いが、この村にはほとんど何もない。分けられる水もわずかだ。旅人を助けてやる余裕はないんだよ」

 老人の声音には憐憫よりも疲れが感じられる。厳しい土地なのだろう、よそ者に施せるほど豊かではないのは伝わってくる。


「承知している。水をほんの少し、そしてここから先へ行くための手掛かりがあるなら、それだけでいい」

 助けを求めながらも媚びるような態度は避けたい。相手が分け与えるものがあるかどうかは、あくまで相手の善意だ。その善意を呼び込むために、少なくとも冷静さと誠実さは保ちたいと思ったからだ。


 老人は頭を掻いて肩をすくめる。

「まいったな。俺らも毎日を食いつないでるだけだが、まあ、喉を潤すくらいはしてやれる。……だが、ここに残っても何も変わらんぞ」

 渡された水袋をありがたく受け取り、口に含んだ瞬間、喉が潤う感覚が広がる。思いのほか渇いていたらしい。まるで生き返るようだ。


「感謝する。それで、どこへ向かえばいい?」

 老人はしばし考え込むように眉間に皺を寄せた後、低く言った。

「この辺りには、リチャードという名の学者が来ていたらしい。十日ほど前に、この村を通り過ぎて南の方へ向かったと噂を聞いた。遺跡を調べ、古文書を集めているんだとか。変わり者だが、あんたが何者かを知る手がかりになるかもしれないな」


 リチャード――その名は俺にとって意味のない文字列に過ぎないが、少なくとも行く先を示す羅針盤にはなり得る。学者がいるなら、知識を持っているはず。俺の記憶喪失が単純な頭の怪我なのか、それとも何らかの呪いかもしれない。その答えを知る可能性がある人物だ。


「わかった。ご老人、世話になった。渡せるものはなにもないが……」

 俺は礼を述べる。老人は疲れたような笑みを浮かべ、

「いや、気にしなくてもいいさ。それより、あんたも気をつけな。荒野は生やさしいもんじゃない」

とだけ付け足した。


 村を離れ、また歩き出す。南へ向かう道のりは、何があるかわからない。だが、行くあてもなく荒野を彷徨うよりははるかにマシだろう。

 首に揺れる水晶片を一度、指先で確かめる。俺は誰で、何のためにここにいるのか。思い出せないが、それを解き明かす術は必ずあるはずだ。焦る必要はない。今は、まだ。

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