搾取
サラリーマン由利濡田太郎は疲れていた。
先週からずっと仕事が忙しすぎるのだ。彼の自由時間は週に1時間もなかった。
会社はいいように彼の労働力を搾取していた。
『俺は……何のために働いているのだろう』
家路をとぼとぼ歩きながら、彼は考えた。
『会社は俺のことを歯車としか見ていない。歯車は社会のために動くのが当たり前だと思っている。そして……給料は、見合わない』
崩折れかけた足を慌てて伸ばし、頭を振った。
『何を考えている、太郎。何のために働いているのかって? 決まってるじゃないか、家族のためだ!』
彼は自分の家に辿り着いた。六畳一間のアパートだ。築40年とはいえ、ここが彼の安らぎの家であった。
「おかえりなさい」
妻の笑子が出迎えた。
「わん、わん!」
愛犬のジロもしっぽを振って主の帰宅を喜ぶ。
「おかえりー! パパー!」
最愛の娘、土師香が両手を広げて奥から駆け出してきた。
ようやく太郎は笑顔になった。
鞄の中から茶封筒を取り出すと、妻に渡す。
「今日は給料日だよ」
妻はそれを受け取りながら、弾む声で言った。
「もちろん、覚えてたわよ。お疲れ様。そしてありがとう。明日銀行に行ってくるわね」
そしてプリペイドカードを太郎に渡す。
「はい、今月のお小遣い」
太郎は知っている。入金されている額は毎月一万円だ。付き合いの食事代も、タバコ代も、趣味のスマホゲームの課金も、必要経費として妻に認められないものは、そこからいつも彼は支払わなければならなかった。
それでも太郎は毎月、笑顔で有難そうにそれを受け取る。
「いつもありがとう。大切に使うよ」
笑子も我慢してるんだ。俺も頑張らなきゃ──太郎がそう考えた時だった。
妻が着ている服が目にとまった。
「あれ……。そんな高そうな服、君、持ってたっけ?」
「あっ……! こっ……これっ!?」
妻の様子はあからさまに慌てていた。
「あの……っ、ねっ! そうそう、ゆうこちゃんのママから貰ったの! 着古しちゃったから、くれるって!」
娘の保育園の友達のゆうこちゃんといえば、確かふっくらとした子だったよな、と太郎は思い出した。
その母親も、確か、娘以上に、ふっくらとしていたはず……。
その服はスリムな体型の妻にぴったりフィットしていた。
食卓につくと、夕食を妻が用意してくれていた。
太郎の帰宅は遅いので、妻も娘もいつも先に食べている。
「はい、大根の葉っぱと鮭のアラの煮物。……いつも貧乏臭い食事でごめんなさいね」
「いいよ、いいよ。俺の稼ぎじゃじゅうぶんなご馳走だよ。いただきます」
片付けをする妻の背中を見ながら、太郎は寂しい食事をとった。娘の土師香がその膝にじゃれついてきた。
「土師香もごめんな」
太郎はその頭を撫でながら、微笑む。
「たまにはピザとか食いたいよな?」
すると土師香はママのほうをチラッと窺い、太郎の耳に口を近づけ、コソコソと告げた。
「いっつもね、ママに言うなって言われてるけどね、今日の晩ごはん、あたしとママはピザ食べた」
愕然となった太郎。
しかし妻が笑顔で振り向き、「ふふ、何内緒話してるのー?」と言ったので、何も聞かなかったふりをして、笑った。
妻が風呂に入っている間にゴミ箱の中を確かめた。
ポリバケツの中の黒いビニール袋を漁ると、底のほうに確かにピザの紙箱が、丁寧に細かくハサミで切られて隠されていた。
『妻も……俺を搾取しているのか』
またわからなくなってきた。自分は一体、何のために働いているのか。自分の楽しみを我慢して、結婚すると同時にやめたパチスロも忘れて。
小遣いの一万円など、パチスロを打てばせいぜい300回程度しか回せない。ボーナス確率は設定1なら1/300よりも低い。
太郎は自棄を起こしてパチスロでも打ちに行ってやろうかと考えた。
『いや……! だめだだめだ! 何を考えている由利濡田太郎!』
彼は激しく首を横に振った。
『娘のためじゃないか! かわいい土師香のために、俺は働いているんだ!』
そこへ娘が幼い足取りでやってきて、言った。
「ねー、パパ! 今日、保育園でね、海斗くんと結婚する約束しちゃったー! パパ、結婚式のお金出してくれるよね? きゃっはー!」
太郎はベランダに出て、甲類焼酎のお湯割りを飲みながらタバコをふかした。焼酎は三ヶ月前に小遣いを溜めたお金で買った4リットル千五百円の、彼にとっては高級な酒だった。
『俺は……娘にも搾取されているのか……』
月は綺麗な満月だったが、とても冷たく寂しく見えた。
窓ガラスをトントンと叩く音がしたので振り向くと、ビーグル犬のジロが前脚でノックしていた。
太郎はサッシを開けると、ベランダにジロを招き入れる。
「おまえだけだな……。俺を愛してくれるのは」
舌を出し、ハッハッと笑うように息を吐くジロの頭を太郎は撫でた。
「むしろ俺のほうが、おまえの可愛さを搾取してると言えるよな。ふふふ……」
ジロが太郎の部屋着の裾をくわえた。
引っ張る。やたらしつこく引っ張って、部屋の中へ連れ戻そうとする。
「ん? どうした?」
あまりに執拗なので、太郎は立ち上がり、ジロに引っ張られるままに部屋へ戻る。
「何か、あるのか?」
ジロは食器棚の下の観音扉のところで立ち止まると、それを頭でコンコンと叩き、振り返った。
「ここに何かあるのか?」
太郎は扉を開けた。
中には犬用チュールがセットで入っていた。
ジロがそれを開けろとせがむ。
「こんないいおやつ貰ってたのか」
太郎は、知らなかった。
「これも俺の給料で買ったんだな……」
太郎がなかなかチュールの封を開けないので、ジロが襲いかかった。
「うわっ……! ジロ! こらっ!」
背中からのしかかり、『早くそれを開けないと噛みついてやるぞ』とでもいうような荒い息を吐きかけながら、太郎の胸に爪を立てる。
苦しまぎれに太郎がチュールの口を切ると、ジロはそれをひったくるように奪って、キッチンのほうへ行ってしまった。
『俺は……誰からも搾取されていたのか……』
次の日の会社からの帰り道、太郎は家に帰りたくなかった。
『俺は……家族から愛されていると思っていた……。じつは、利用されているだけだったのか……』
月が昨日からどれぐらい欠けているかもわからないほど、下ばかりを向いて歩いた。
『妻が欲しいのは……俺の金。娘が欲しいのも……俺の金。ジロが欲しいのはチュール……つまりは俺の金。みんな、俺の金が欲しいから、愛しているふりをしていたんだ……』
眼の前が真っ暗になり、何も見えなくなりそうだった。
『俺は……優しくて、真面目なのがいいと教わって生きてきた。しかし……、そうしているうちに、誰からもいいように搾取されるだけの人間になってしまったのか。俺はみんなに無償の愛を捧げているつもりで……』
光が見えた。
『よし! これからは俺も搾取してやる!』
太郎はそう決めて、拳を前に突き出したが、不可能なことを決断したような気もしていた。
誰にも迷惑をかけないことが美徳なのだと親から教えられて生きてきたのだ。今さら、それに背くようなことが自分に出来るとは思えなかった。
また目の前真っ暗になりかける。
ため息をついた太郎の耳に、荒々しい声と弱々しい悲鳴が同時に聞こえてきた。
「オラオラ! オッサン! もっと持ってんだろ? 出せよ! ほら、飛んでみろ!」
「ヒィッ! も、もうないですよぉ! オイラ貧乏なんッスからぁ〜……」
「いいから飛んでみろって! 殴んぞ!?」
「ヒィッ!!!」
見ると、小柄で小太りなハゲの中年男性が、若い男三人に取り囲まれている。
言われた通りに中年男性が何度かその場でジャンプをすると、ポケットの中からチャリン、チャリンとコインの音が鳴り響いた。
「ほら持ってんじゃねーか」
「有り金ぜんぶ出せっつったろ? お仕置きだなこりゃ」
自分には関係ない。
そう考えて、太郎は背中を向けようとした。
しかし、その時いいようのない怒りが彼の胸のうちから沸き上がってきた。
太郎はぐりん!と顔を後ろに戻した。
「あ……、ありがとうございます!」
中年男性がコンクリートの地面に跪き、何度も頭を下げていた。
若い男のボロボロになった体が三つ、転がっていた。太郎は自分が何をしたのか、覚えていなかった。
「ありがとうございます!」
中年男性がポケットから名刺を取り出した。
「私、真海商事に勤めております五分田瘤男と申します! 後日お礼をさせてください!」
「俺が……やったのか?」
太郎は声を漏らした。息も絶えだえな三人の若い男を見下ろしながら。
「はい! あなた様がやったのです」
五分田は目を輝かせながら、太郎を仰いだ。
「そんな何の特徴もない、ふつうのサラリーマンのあなた様が……。何か格闘技でもたしなんでおられるので?」
何もやったことはなかった。太郎は自分には何の取り柄もないと思っていた。しかし、若い男三人に搾取されそうになっているこの男を見た時、彼の奥から底知れぬ謎の力が沸き出したのだった。
「誰にも……迷惑をかけないように生きろ……だと?」
太郎の口から自然に声が漏れ出た。
「なぜ、俺は……そんな宗教のようなことを信じて今まで生きてきた? なぜ、そんな、自分の力にリミッターをかけるようなことを?」
太郎は月を仰いだ。それは赤く赤く、快いほどに赫く、彼の目の中で変貌した。
「決めたぞ」
彼は呟いた。さっき暴れたせいで整髪料で固めた髪のうち二本が逆立ち、角のようになっている。
「俺はこれより世界を搾取してやる!」
「イカス!」
五分田が感極まった声をあげた。
「ついて行きます! どうか私を下僕にしてください! 私のことはどうか、『五分りん』とお呼びください!」
これが後に世界を恐怖の下に蹂躙することとなる魔王ユリヌンティウス1世がまだ人間だった頃の姿である。
(完)