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セロリ

作者: 桃園沙里

 僕は今日、彼女にプロポーズするかもしれない。

 六月の土曜日の夕方、僕たちは彼女の家の近くの駅の改札で待ち合わせをした。

 ひとり暮らしの彼女の家へ行くのは今日が四回目だ。勘違いしないでほしいが、彼女と会うのが四回目ということではない。これまでの半年間に僕らはデートを重ね、食事もしたし、僕の部屋で手料理も振る舞った。彼女の部屋へ行くのが四回目、という意味だ。


 彼女の住むマンションは、商店街が充実した駅の近くにある。改札を出ると通路の向こう側に駅ナカ商店街があった。待ち合わせの時間まで少し時間があったので、僕はふらりとそれらの店を覗いた。

 惣菜店に並ぶアジフライ、ベーカリーのバターの香りが僕を子供の頃の記憶に誘う。

 僕の母は料理が上手だった。母方の親戚から送られてくる旬の野菜を、素材の味を生かして調理する。夏には茄子の煮浸し、トウモロコシの天ぷら、冬にはカツオ出汁の染みた大根のおでん。おやつを手作りすることもあった。学校から帰ると甘いバニラの香りがして、僕はワクワクしたものだ。


 そんな母の料理で育った僕は、自分の味覚に絶対の自信を持っていた。「絶対音感」というものがあるが、僕は「絶対味感」を持っていると思う。僕が美味しいと感じる味は絶対的に美味しく、美味しくないと思う味は何かが間違っている食べ物なのだ。

 僕はある程度の年齢になると、結婚相手には味覚の相性が合った女性でなければならない、と思うようになった。大概の人間も味覚は大切だと思っているだろうが、僕の場合は他の何よりも優先された。

 以前「源氏物語」の「雨夜の品定め」ではないが、友人たちと「好みのタイプの異性」を話し合ったことがある。「最低限、価値観が合う」が皆の一致した意見だったが、その上で何を重要視するか、を議論した。

 異性を評価するポイントは人それぞれだ。友人Aは「笑いのツボが同じ人がいい」と言っていた。同じお笑い番組を見て、同じ場面で笑える人がいいそうだ。

 同じように言うならば、僕の場合は「味のツボ」だ。僕の母ほど料理上手でなくてもいいが、ただ、僕が美味しいと思うものを美味しいと感じる味覚でいてほしいと思っていた。


 特にそう思うようになったのは、ひとり暮らしを始めた大学生の時だ。

 当時交際していた女性と、僕はいわゆる町中華と言われる店で食事をした。

 僕たちは、ひと皿の餃子を分け合い、彼女はチャーハン、僕はラーメンを頼んだ。

「ひと口どう」と差し出された彼女のチャーハンの皿から、ぼくはレンゲで掬い食べた。揚げ物に使った油だろうか、ベチャベチャして古い油の味がした。

「もっと食べていいよ」

 僕は、それ以上食べられなかった。

「おいしい、このチャーハン、懐かしい味がする」

「懐かしい?」

「お母さんの味。こんな感じだったの」

 彼女は、本当に美味しそうに食べていた。僕はその姿を見て、彼女とは一緒に暮らせない、と思った。


 次に、大学の同じサークルの女性を好きになった。穏やかな笑顔を絶やさない女性で、きっと彼女は美味しい料理を作るだろうと想像した。

 サークルのみんなで「学食のどのメニューが好きか」という話になった時、僕は彼女の答えに聞き耳を立てた。

 学食のメニューは、美味しいものと不味いものが混在していた。例えば「チキン南蛮定食」は揚げたてのチキンに甘酸っぱいタレとタルタルソースのバランスが良く、僕が好きなメニューのひとつだ。一方、チャーシューメンなどのラーメン類は、麺に締まりがなく、塩味が立ったスープに豚臭いチャーシューが乗っていて、僕はあまり好きではない。

 その中でどれを選ぶかで、食の好みが大体わかる。

 彼女の答えは、僕が最も評価していない醤油ラーメンだった。一番安い価格帯にあるが、値段相応といった味だ。おそらく彼女は味より価格を重視するタイプなのだろう。

 僕はものすごくガッカリした。容姿や性格が好みであるほど、その失望は大きい。どんなに優しくされても、かわいい仕草をしても、僕がまずいと思う食べ物を美味しいと言う、それだけで、それまで好ましく感じていた彼女の長所が薄寒くなり、評価は一気にマイナスになる。

 僕にとっての「味のツボ」はそれほどに重要なことだったのだ。


 今日会う彼女は「味のツボ」の相性はバッチリだと思う。

 初めて意識したのは、会社の忘年会で行った居酒屋だった。

 誰が選んだ店なのか、一見なんでもない居酒屋なのに、料理が美味しかった。

 お通しの白魚和えをひと口食べ、思わず、美味しい、と声が出そうになったその瞬間、向かい側から声がした。

「これ、美味しい」

 それが彼女だった。


 僕たちは、幾つもの店で食事をした。

 僕のとっておきの老舗洋食屋、お気に入りのカレー店、彼女が好きなカジュアルフレンチ、今まで二人で行った店全て、お互いに美味しく楽しめた。

「この間、ネットで紹介されてた洋食屋さんがあってね、友だちと行ってみたの」

「うん」

「そしたら、祖父ほどの年齢のシェフが昔ながらの味を守って、って触れ込みだったけど、要は昔から全然進歩していない味なわけ。調味料も満足にない時代に出されていた料理を、今もそのまま作ってるような、ね。そうやってネットで持ち上げられて、一度は食べに行くかもしれない。でも二度目はないわね。美味しくないもの」

 彼女も、僕と同様、味に厳しかった。特にプロの料理人に対する目は半端ない。

「今の時代、たくさんの美味しい食べ物が溢れてるじゃない。日々、研究してさらに美味しい味を作らなきゃお客さんを満足させられないと思うのよ」

 僕がその店に行ったら、きっと彼女と同じことを思うだろうと感じた。


 グルメサイトの高評価の飲食店に行くこともある。高評価の店の味の粗探しではなくて、純粋に美味しいものを食べたくて行くのだ。でも、時折、僕らの期待を裏切る店がある。グルメサイトで評価している人が僕らの味覚と合うかどうかは、実際に食べてみないとわからないのだ。


「この間、テレビで紹介されてたスイーツ」

「ああ、出演者が美味しい美味しいって食べてた」

「試しに買ってみたら、全然。ただ甘くてくどいの」

「テレビに出てる人、みんながグルメじゃないよ」

 彼女の手作り料理も今まで三回食べたが、どれも満足のいく味だったし、先月、僕の部屋に彼女が来た時には、僕が振る舞った得意料理を美味しいと褒めてくれたことはもちろん、ベシャメルソースに隠し味で味噌が入っていることも当てた。


 僕は、優れた味覚の持ち主であるが、いわゆる美食家ではない。凝った味の美味しい食べ物を追求しているわけではない。日常の食事をより美味しく食べたいというだけだ。極端に言えば、シンプルな梅おむすびでも、採れたての野菜に塩をかけただけでもいい。僕はただ、僕の人生残り五十年として、一日三食で五万五千回程度の食事、その一回でも不味い料理で無駄にしたくないだけだ。

 僕は好き嫌いは少ない。苦手な食べ物は、セロリだ。子供の頃はピーマンも嫌いだったが、大人になったらピーマンの美味しさを知った。

 そんなことを思いながら店先を眺めているうちに、そろそろ時間になったので僕は駅の改札に向かった。

 今日は何を作ってくれるだろう。オムライスや鍋のような簡単なものでも、美味しいね、とふたりで言いながら食べる。それが幸せな料理なのだと思う。

 駅ナカ商店街から出た僕は、改札横に立つ彼女が手を振るのを見た。


 僕たちは、駅から彼女の家へ向かう途中にあるスーパーマーケットに寄った。

 今までは彼女が準備していたところに僕が訪問したので、二人でこんなふうに買い物をするのは初めてだ。将来の予行練習みたいでいいな、と思った。

 僕はカゴを持って、先導する彼女の後をついていった。

 まず彼女は野菜売り場に行く。

「今日のメニューは」

「家に鰯のマリネ作ってあるから、それにサラダ添えて、スパゲティ・ボロネーゼを作るわね」

「あ、僕が好きなやつ」

「でしょ」

 前回スパゲティ・ボロネーゼを食べた時に、僕が毎日でも食べたいと言ったのだ。本格的なお店で食べるボロネーゼも、レトルトのソースも、彼女が作る深い味とは全く違う。味付けを訊いても彼女は「ナイショ」と教えてくれなかった。

「ラッキー」

 そうだ、今日一緒に料理すれば秘密の味付けがわかる。

 僕はワクワクした。

 彼女は玉ねぎの袋、にんじんを僕が持つカゴに入れる。

「重い?」

「ううん、全然」

 彼女は普通の野菜を選ぶ。特に有機野菜とかそういうのにはこだわらない。その点も僕と一緒だ。高級食材でもそうでなくても、全ての食材は生産者の人たちが美味しくなるように作っているのだ。僕は店頭に並ぶそれらの中から、自分の経済状態や好みに合わせて選んで買う。

 彼女がスッと、野菜の棚からセロリを取って、カゴに入れた。

「え」

 困惑した顔をする僕に、彼女はいたずらっ子のように微笑んだ。

「リョウくんの好きなボロネーゼ、セロリ入ってるんだよ。気づかなかった」

「この間食べたやつも」

「うん。でも美味しいって食べてたから、これでセロリ克服したね」

 僕は思わず後退りした。

「ごめん、……ちょっと、体調が悪くなった」

「怒ったの」

「今日は帰る」

 そう言って彼女にカゴを押し付けた。

「え、ちょっと、待って」

 背後で彼女の声が聞こえたが、僕はそのまま店を出た。

 彼女はすぐに追ってこないだろう。カゴの中身をどうにかしないといけないから。

 僕は後ろも見ずに早足で駅へ向かった。

 すぐにスマホにメッセージが届いた。

「どうしたの。セロリを黙って入れたの、怒ってるの」

「そうじゃない。ごめん。急に体調が悪くなって。後で連絡する」

「こっちは大丈夫。気にしないで、ゆっくり休んで」

 彼女はこんな時でも本当に優しい。

 そう、彼女は悪くない。僕が嫌いなセロリを料理に使ったとしても、僕はそんなことで怒らない。次から使わないように諭すだけだ。

 でもさっき、彼女の料理にセロリが入っていたと聞いた僕は、目の前が真っ白になった。彼女に言われるまで、僕は料理に入っていたセロリの存在に全然気づかなかったのだ。あんなに嫌いだったのに。美味しいとまで感じていた。それが衝撃だったのだ。

 僕は今日まで自分の味覚に絶対の自信を持っていた。僕の味覚こそが正義だった。だからこそ「味のツボ」が僕と合う女性も、僕と同様優れた味覚の持ち主であり、正しい女性なのだと判断してきた。

 わかるだろうか。それまで「絶対正義」と思っていた僕の「絶対味感」が、間違っていたと知った惨めさを。つまり、僕の、アイデンティティがぶち壊されたのだ。この先僕は、何を基準に女性を選べばいい?

 僕は追われるように電車に乗った。

 家に帰ったら、僕は彼女に別れのメールを送るだろう。でもそれは彼女のせいではない。全く彼女のせいではないのだ。(了)

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