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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アタシ、天使

作者: 245

今日も下界をパトロール

「正しき行いは正しき導きにより保たれます」

 

 Nastyの目の前に分厚い、彼女の腕よりも分厚い本が五冊積まれる。非正規雇用の雑用天使が何百冊の本を抱え、退屈そうに机を回っていく。上司である大天使が何かを言っているが、彼女の頭にはまるで入ってこなかった。


 Nastyは不機嫌そうな面持ちのまま、明後日の方向に目を向ける。

 彼女の隣に座るJeremyが、配られた本の一冊をぱらぱらとめくり始めていた。Nastyは彼の無関心な瞳と、挿絵の大口を広げて笑うヒトを順番に見た。


「新たな門出に、幸多からんことを。それでは、所属を発表しましょう」


 大天使に名を呼ばれ、純白の天使達が通達書を受け取るため前へと出ていく。やかましい歓声を上げる天使、大天使が居る手前落胆を隠さざるをえない天使。


 Nastyの番が来た。

 渡された紙面には、『生活品質維持部』とだけあった。


* * *

 

 風を切り、地球の夜空を駆ける。鳥も、雲も置き去りにして。そうしてNastyはぼんやりと物思いにふけっていた。

 同じ部署に配属となった同期のAgnesがひどく嘆いていた。『生活品質維持部とか、生き地獄やん!』。


 確かに、今も昔も一番人気の恋愛統括部は恋のキューピッドとして働けるし、啓示部ならばいちいち擬態することなく天使としての威厳を十分に発揮できる。


 それに対して生活品質維持部の仕事は、ヒトが普通の暮らしを送るための、経済・文化・地球環境への影響を最低限に留めた介入――要は取るに足らない雑事――であり、面白味には欠ける。


 それでもNastyはAgnesに同意する気にはなれない。


(だって、生命財産管理部よりマシだし)


 生命財産管理部はヒトの命を最重要視する都合上、ヒトの個人の生命に関する様々な要因に介入しなければならない。当然業務は多岐に渡り、その責任もトップクラスに重い。うつ病を患って退職する天使も多いという。


(天使がうつって、笑っちゃうんだけど)


 Nastyはあまり思い悩まない性格だ。新卒採用では、ヒトに似た性格のものが選ばれやすい。自分のそういう性格も、きっとそういうヒトに寄り添うために在るのだろう。


 そうこうしているうちに目的地に着いた。島国日本の住宅地にある、ごくごく一般的な戸建てだ。

 Nastyはすぐさま戸口には降りずに、ぐるりと家の周囲を飛んで観察し、二階の窓から一息に突入した。


 白く大きい翼がガラス窓を透過して、音も無く部屋に降り立つ。両翼を広げると、羽根が部屋を満たして舞った。そうして、雪のように降って消えた。天使の存在は、地上において希薄だった。


「……さて」


 部屋を見渡すまでもなく、ベッドで眠る男の子を視界に認める。Nastyは無音で近づくと、男の子の頬に手を当てた。


 齋籐有真(アルマ)。年は十三。徒歩20分の中学校に通っている。叔父叔母と暮らしており、兄弟はいない。


 事前に貰ったデータと一致している。この少年こそが、Nastyにとって一人目の担当する人間である。


 (アルマ)か、とNastyは投げやりな気分になった。

 神に救済される哀れな魂という人間のイメージと、自身の知る天上の神の実態が乖離しているからだ。


 ――神様はアタシたち天使に面倒事を押し付ける方なんだよ。


 Nastyはそっと少年から手を離すと、一旦天上に戻るべく、翼を広げてからぐっと絞る。


「……天使様」


 Nastyは少々驚かされた。自分の身体が反応一つせず、全くの冷静状態であることに。

 無関心。天使と人間は、異なる存在であるがゆえに。


 例えば、天使に地上の物理法則は通用しない。窓は透過するが、フローリングには立つことができる。抜け落ちた羽根は一切の痕跡を残さず、天使の姿であるときのNastyを人間は視認できない。


「……」


 Nastyは微動だにすることなく、じっと少年の枕元に立っている。少年の寝息を立てる音だけが聞こえる。寝言の類か。


 Nastyはそのまま、頭の中で少年の声を何度も再生させる。かすれて、不安感を一杯に孕んだ声音だった。縋るような言葉遣いは、彼が今置かれている境遇を物語っている。


 Nastyはみたび翼を広げ、ついぞ戸建てを飛び出した。重力からも空気抵抗からも解放されて、とんでもない飛翔速度で天上へと向かう。


 今夜は残業だ。何せマニュアルは五冊もあるのだから、じっくり読みこまなくてはならない。


 * * *


「あいつらに復讐したい、って思わない?」

「え……」


 河川敷でアルマは、筆箱の中身やら教科書やらを拾い集めてはぼろぼろのリュックサックにしまいこんでいる最中だった。

 Nastyの声に驚いて、少年は振り返ったきり固まってしまった。Nastyにまじまじと見つめられ、戸惑いを隠せない様子だ。


 Nastyは初めてヒトの身での顕現を行ったので、目の前の少年が自分を認識できているかどうか、自信が無かった。

 しばらく、互いに牽制するかのような間があった。


「……」

「……」

「あっ!」


 そうこうしているうちに、ついさっき川に投げ捨てられた体操服が、流れに乗り始めてしまっていた。もう結構、遠い。アルマは慌てて駆け寄ろうとするが、その拍子に転んでリュックの中身を再度ぶちまけた。


「待ってて」


 Nastyはそう言うと、川の中へと躊躇なく足を踏み入れた。ざぶざぶと細長い両脚で流れを横断し、体操服を捕まえる。


「取った」


 Nastyはヒトの身の不自由に辟易した。水に足を取られては、容易に走ることすらできない。しかし致し方ないことである。業務遂行にあたって、ヒトの身での顕現が必要不可欠なのだから。

 

 そうしてまたざぶざぶと河川敷に引き返すと、少年アルマに体操服を差し出した。アルマは俯いたまま受け取って、先ほど同様固まってしまった。


「……」


 斎藤アルマはその知性においてグレーゾーンに身を置く人間である。ゆえに、それを考慮した介入を行え、とは上司の言葉だ。


 Nastyは別段なんとも思わなかった。彼の存在は自然界における多様性の産物なのだから。しかし、それを考慮できる文化や社会性が地上で発展することは無かった。この先の彼の人生には、平均的な人々が経験するようなイベントは無く、進学も就職も結婚も無く、成功も無い、ただただ無味乾燥、無価値な道程だけが待ち受けている。


 アルマの半ズボンから見える両脚は、かさぶただらけで、醜い姿となっていた。握りしめる体操服は、首元だけががびよびよに伸びている。

 

「お前をこんなふうにして、笑う人間たちに、仕返ししたいとは思わないの?」

「……」

「アタシならその手助けをしてあげられる」


 Nastyは手を差し伸べる。天使たちにはヒトを救う義務がある。


 生活品質維持部においては、担当のヒトが健康で文化的な最低限度の生活を維持できるよう介入を行うという救い。


 ちなみに、天使の職場にヒト同士の虐めを未然に防止するような部署は無い。虐めはヒトの進化の中で有益な行為であり続けているというのが、天上に住まう全存在の客観的な判断だからだ。


「とりあえず、帰るか」

「……」


 アルマは素直に頷いた。Nastyが手伝ってリュックの中身を集め終えると、日はもう沈もうとしていた。

 

 彼にはNastyが本当の天使のように見えたでしょう。


* * *


 玄関口には斎藤夫婦が揃って出てきた。まあ、見ず知らずの女性がこんな時間に我が子を連れてくれば、そう対応するのもおかしくはない。


「……」


 夫婦は冷めた目つきでアルマを一瞥する。半ば押し付けられるように引き取った、不気味な甥。彼らにとってのアルマの価値は、一体どれほどのものなのか?

 

 不用意に警戒を煽ることのないよう、Nastyの服装はラフな十代の普段着から落ち着きのある大人っぽいコーデへと変わっている。そのことにアルマが気づいた様子は無かった。無関心というよりかは、極度に視野が狭い。今も、家の中に入ろうともせずにNastyの横でぼんやりしている。


「こんばんは。お宅の息子さんが河川敷で困っている様子でしたので、少々お手伝いしたのですが、辺りがもう暗くなりましたので、家まで送らせて頂きました」

「そうですか」


 叔母は不審を露に、食い気味に言った。


「どうもありがとうございました」

「有真、早く入りなさい」


 叔父が強引に手を引っ張って、アルマはやっと家の中へ。そして、叔父に頭を下げさせられて、


「……ありがとう、ございました」


* * *


 それからたったの一時間後の話だ。


「こんばんは」


 相変わらず呆然と、心ここに在らずといった表情で固まるアルマの手を、Nastyは引っ掴む。

 そのままアルマの体を抱き寄せると、思い切り翼を広げ、跳んだ。


「……!?」


 Nastyの華奢な腕はがっちりとアルマを抱えている。だが、みるみるうちに小さくなっていく自分の家と、宙ぶらりんの両脚の感覚に、ただただ体を固くするのみだった。


 新幹線より遅く、景色たちに置いてけぼりにされない高さで。

 天使のご加護のおかげで風の抵抗も音も無い快適な空の旅だ。

 

「……ははっ」


 不意に、腕の中のアルマが笑った。それはNastyが想像だにしない、楽しげな声だった。

 

「綺麗。綺麗だ」


 アルマは、どこを見てそう言っているのだろうか。眼下の景色はNastyにとってただの夜の街でしかなくて、アルマの美的感覚に供するものだとは到底思えなかった。だから、Nastyは聞いてみる。


「楽しいか?」

「え……」


 返事は存外戸惑い気味で、Nastyがいることすら思考の外にあったかのよう。


「楽しくない?」

「た、たのしい」

「じゃあ、もっと高く飛ぶか!」

「う、うん!」


 そうやって二人はいつまでもどこまでも、遊びつかれるまで夜空を駆けた。


 またある日、Nastyは二本のバットを携えて、アルマと共に真夜中の中学校に忍び込んだ。


「お前がやりたいと思うことは、なんだってやっていいんだよ」


 Nastyはそう言ってバットを手渡す。アルマはバットを引きずりながらも両手でしっかりと握りしめ、その重みに圧倒されるかのように呆然と見つめている。


 そんなアルマを尻目に、Nastyは思い切りバットを振った。

 華奢な音が鳴って、強化ガラスが粉々になって夜に舞った。きらきらと月明りの明滅が、校庭の暗闇へと吸い込まれて消えて行く。

 

 存在意義を失った窓に見惚れているかのような視線を注ぐアルマ。Nastyが次の窓を指した。


「ほら」


 風が吹き抜ける。


「お前が見たかった海だよ」


 Nastyがはるばる日本で一番透き通った海に連れてきてやった時でさえ、少年アルマはぼんやりと水平線を眺めているだけのように見えた。

 しかし、そこに彼の本当のよろこび、幸福のサインがあることをNastyは既に理解していた。


 しばらくすると、アルマはおそるおそる波間に足をつけ、しゃがみこんだ。それから押し寄せる波に逆らうように手でかいたりして、その指先を一瞬なめた。


「しょっぱい」

「ふーん」


 アルマの隣でNastyもしゃがみこんで、べろりとなめてみる。濃い塩の味が、口いっぱいに広がる。


「……」


 Nastyにとってそれは、ヒトの身体が発する信号でしかなかった。

 しかし、隣のアルマが何かを期待するかのようにNastyを見つめていた。Nastyは、何か面白いことを言おうとしたが、思いつかなかったので、やめた。


「これは、しょっぱいな」


 アルマが控えめに、にこりと笑う。それから、おそるおそる立ち上がると、突然力強く足踏みした。

 当然水しぶきが舞った。Nastyの目や口に入って、しょっぱいし、しみる。


 アルマは悪戯好きする子供の表情をしていた。Nastyは即座に深いところへ進んで、アルマ目掛けて思い切り海水をかけた。


「うわ」


 アルマも近づいてきて、両手で思い切り掬いあげる。二人は、海水の応酬を繰り広げる。

 夕焼けを掬い上げては、二人の体で砕いて飛ばす。ちらちらと注がれる観光客たちの視線も気にならなかった。


 少年アルマはそういう自由が欲しかった。


「そう。やっと自由になれたんだよ、アルマ」


 アルマとNasty以外誰もいない家で。明朝、電気の点いていないリビングは薄明るい。辺りは、文明が滅んでしまったかのように静かだった。

 Nastyはアルマの肩を掴んで優しく説いた。アルマの望みが一つ叶ったのだ。

 

「この家に住むのはもうお前一人。もう彼らの目を気にしなくていい。何をしたっていい」

「一人……」


 Nastyが白いカーテンを開け、窓も開け放すと、清らかな朝の風が吹き込んできた。小さくなっていく自動車の唸り声や、小鳥の囀りが聞こえてくる。

 いじわるな叔父母はもうここにはいない。Nastyがそういうふうに取り計らったから。


「さあ、まず何をやりたい?」

「……」


 アルマに呆けた表情は無かった。ニンゲンの目。緊張の中に一滴の恍惚を混ぜ込んでいる。


* * *


 冷蔵庫の中身が散乱し、家具は取れたり割れたり引き裂かれたり、壁には穴が開いていて、滅茶苦茶になった家の、リビングでアルマはため息をついた。空虚で、深い嘆息だった。


「ずっと、ずっと、こうしてみたい、って考えてた事だったんだけど」


「いろんなものをなぎ倒したり、ばらまいたりするのは面白かったけど。怒られないのも、よかったけど」


「……。ほんとは、ぜんぜんたのしくなかったんだ。最初の一回だけ、ちょっと楽しかったかな、それだけだよ」


 そこらじゅう破けて中身が飛び出しているソファの上でアルマは両膝を抱え、静かに涙を流し始める。

 それはひどく惨めで、物悲しくて、見ていてこちらが居た堪れなくなってくる。アルマは大声を上げて泣くことを憚るかのように、音一つ立てずに泣いている。


 Nastyは何も声をかけずに黙ってアルマの隣に腰掛けた。

 そうして、数分か、数時間か過ぎた。いつの間にか、外から聞こえてくる日常は忽然と姿を消していた。


「天使さまは、どうして僕のところにきてくれたの?」


 アルマはもう泣いてはいないようだ。口ぶりは無意識に出た独り言みたいだった。


「神さまが言ったんだ。人間を幸せにするのが天使の仕事だ、って」

「……そうなんだ」


 アルマはいつも通り、ぼうっとした感じで、どこを見ているのかも分からない目線で、漫然とそこに存在していた。


「ぼく、幸せになれるのかなあ」


 独り言は、ソファからむき出しの緩衝材に吸い込まれて消えて行った。


* * *


「齋籐有真はおまえの担当ではなくなりました」


 一枚の紙面を渡される。大天使の言った通り、そこにはNastyの担当がアルマから、同区に住む一人の女子高生へと変更された旨が記載されていた。


 なぜ、とは聞かなかった。


「どこへ」

「生命財産管理部へ」


 それは、ついこないだだって労基へ駆け込んだ天使がいたほど過酷な部署。ヒトの生命を直接裁量する大いなる責任の伴う仕事。

 

「じきに生命財産管理部から斎藤有真の終了記録書が提出されるでしょう……直接前任者であるおまえには閲覧の権利がありますが、連絡致しましょうか?」

 

 天使長の声のトーンが落ちている。Nastyは、うつ病で退職したJelasの泣き顔を思い出して、ふっと笑った。

 この天使長には、未だ人間らしい感情が残っている。だから、十年目にもなって彼は大天使(第八位階級)のままなのだ。


「結構です」


 Nastyがそれだけ告げると、天使長もそれ以上何も言わなかった。


 恭しい礼をし、事務所を出る。 

 天は澄み切った群青、雲海に陽光が煌めいて眩しい。木陰では年少の天使たちが、幻獣と共に無邪気に戯れている。Nastyは大きく伸びをした。


 ――どうでも良かった。


 斎藤アルマは遠からず同じ道を辿る運命にあった。であれば、最後に楽しい思い出作りが出来た分、Nastyの行いをアルマは感謝するかもしれない。それとも、やっぱりNastyのせいで死が早まったと非難されるかもしれない。


 だが天界に善は無く悪も無い。


 Nastyたちがヒトの生活に介入するのは、そういう業務だから。それ以上でもそれ以下でも無い。天使らの業務による罪悪を、どうして天上にいない者に決められようか?


* * *


 一週間経って、Nastyには一つの気づきがあった。


「ユウキのストーリー見た?」

「見た。路上で外国人と踊ってるやつでしょ。意味わからんて」


 屈託の無い笑みで、女子高生たちが楽しそうに話している。全国三万店舗の喫茶チェーンはいつでも緩やかなヒトの野生味に溢れている。


 つまらなそうにPCを叩くヒト、馬鹿みたいに大声で喋るヒト、秘密めかして笑い合うヒト、美味しそうにエスプレッソを飲むヒト。そのどれもが、実にヒトらしさに溢れている行為の数々だ。


 誰も、自分が死ぬなんて露ほども思っていない。

 

 ヒトはいつか必ず死ぬのに、普段そんなことはお構いなしに生きている。真横を自動車が通り過ぎる時に死を意識するヒトは居ても、友人と馬鹿なことを言って笑い合う時に死を意識しているヒトは少ない。実に奇妙だ。


 結局、ヒトは皆、瞬間を生きているに過ぎない。

 その瞬間が楽しければそれでいいという者ばかりなのだ。


 Nastyは心の中で一つ結論づける。そして今日の監督業務を同僚に代わってもらう連絡を入れてから、コーヒーを握りつぶして亜音速で飛び立つ。


 個人の人生の充足のために他人の命が絶対的に必要である個人というものがあるのならば、その殺人は肯定されるべきだ。


* * *


 日本の八割の街並みなんてものはその実近代のふりをした集落文化圏で、市街地にいくら車の通りがあっても、ちょっと外れて山のほうに行けば、そこには途端に文明の灯りが届かない自然が広がっている。


 学校から700メートルの自然には通りがかるヒトも車も動物もいなかった。

 五人の中学生がいた。


「おまえもう死んだほうがいいよ」


 斎藤有真は落ち葉の地面に正座して、両腕両足をガムテープでぐるぐる巻きにされていた。

 中学一年生とは思えない体格をしたクラスメイトの藤川が、不機嫌を露にそう言った。

 

「おまえさ、調子乗りすぎ。最近。だからさ、殺してやるよいい加減」


 藤川の親友の中学生が、ポリタンクの蓋を開ける。

 一瞬で灯油の低俗に淀んだ臭いが漂ってきた。懐かしい、冬、とアルマは思った。


 次の瞬間、アルマは頭から灯油をぶっかけられていく。中身は少なく、つま先までびしょびしょになるということは無かった。


 藤川が懐から百円ライターを取り出すと、三人の中学生がアルマから距離を取るように後ずさる。

 静かに灯されたライターの火を、アルマは茫然と眺めていた。


「……」


 ライターを持った無表情の藤川が、近づいてきた。しかし、アルマに着火されることは無かった。


「火はヒトの叡智の始まりで、天上からもたらされた光、ってお前たちは言うけど」


 Nastyが立っていた。アルマは相変わらず呆然としたままだ。Nastyは冷めた目つきで、それと、藤川らを順に一瞥する。


 藤川の手にあるライターから火が無くなっている。消えたのではない、火はNastyの掌の上にあった。現象だけを取り出しているのだ。


「こんなものに一体どれだけの価値があるっていうんだよ」


 Nastyがその火をまるで水のように藤川の頭頂部へ流すと、火は炎となった。


「え」


 理不尽な速度で炎が全身を覆い、中学一年生を焼いた。それは、他三名も同様だった。一切の抵抗の余地もなく、彼らは平等に燃えていた。


 熱い。たすけて。

 おかあさん。


 愚鈍なアルマの視界に映ったのは、Nastyの翼だ。どんどん黒くなっている。


 Nastyの翼が濁っていく。濁流のように、野蛮に、愚鈍に。鋭利なかぎづめのように、翼は硬さを纏う。命の灯が焼き尽くされる度、純白は消えていく。鴉の羽根がぽたりと液体のように落ちる。


 やがて四人が焼死体と化し、あたりは再び自然の静寂に包まれる。


「二百年後には、お前たち全員灰だ」


 ヒトの世界には堕天使という言葉がある。

 だが天界には無い。ゆえに、黒い翼を堕天使と結びつけることはヒトの世界でしか意味を持たない。


 堕ちることに善も悪も無い。

 天上にとって、Nastyのその黒い翼は体操服くらいの意味合いでしか無かった。


「え……え……」


 Nastyによって拘束が解かれたアルマはその場から動く気配を見せなかった。正座のまま、だらりと両腕を垂らしてNastyを見上げている。


「死んだよ、お前の事を虐めてた奴らは」

「……そんな」


 アルマは俯いて、泣きそうな声で言った。


「僕のせいで」

「そう、おまえのせい」

「あなたのきれいな羽根が」

 

 アルマは確かにそう言った。俯いたアルマの目の前には、枯れ葉に紛れる、黒くなった羽根があった。

 Nastyは笑った。地球の青空よりも晴れ渡った大笑いだ。


「どうでもいいじゃん、そんなこと」


 Nastyは羽根を拾い上げる。


「お前もアタシも、皆等しく灰なんだから」

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