心の初海開き
夏も8月に入ると学生たちは夏休みを迎え、町のあちらこちらで活気ある声が響き渡る。
神楽正義は心のトレーニングパンツを何時から始めるかを悩んでいた。
8か月を迎えて「パーパー」や「やー」とか意思を口にし始めているからである。
正義は心の部屋に座り
「ネットでは意思の疎通とトイレに自力で座れるか……それから……俺の心の余裕!」
と言い
「心ちゃん、頑張ろうか」
とにっこり告げた。
何かが違うと気づいていない初めての子育て奮闘中の専業主夫・正義であった。
専業主夫の探偵推理
その話は突然やってきた。
渡井静子が朝の10時頃に姿を見せると
「神楽君、明後日なんだけど町内会の海水浴に行かない?」
心ちゃんは初海でしょ?
「早朝に出て帰りは夕方の5時頃なんだけど」
貸切バスで温泉付きのホテルで部屋を借りて海水浴して日帰りよ
と告げた。
正義は心を抱っこしながら
「そうかぁ」
心ちゃんの初海開きか
と言い
「心ちゃんは海行きたい?」
と聞いた。
心は正義を見て
「あーいー」
と手を挙げた。
正義は笑顔で
「行きたいんだ」
と言い
「一途さんと話をして明日返事して良いですか?」
行こうとは思ってますがやっぱり一途さんに話さないと
と返した。
静子は笑顔で頷き
「そうね、じゃあいい返事待ってるわ」
と答えて、立ち去った。
その日、帰宅した一途はその話を聞くと
「良いわよ」
とあっさり答えた。
「泊まり?」
正義は首を振ると
「いや、日帰りなんだけど朝が早くて帰りが遅いから」
と答えた。
一途は笑みを浮かべると
「良いわ、明後日は食べて帰るわ」
心配しないで
と告げた。
「心の……初海開き……か」
言って積み木を手に一人で遊んでいる心を一瞥して直ぐに正義を見ると
「海、楽しんできて」
と付け加えた。
正義は頷いて
「ありがとう、今度は三人で海へ行こう」
と告げた。
一途は少し困ったように笑みながら
「……そうね」
と小さく呟き
「お風呂入るわ」
と浴室へと向かった。
少しずつ一途も変わり、時折だが心に視線を向けることがある。
正義はそれに
「少しずつだよな」
と「頑張る!」と両手を握りしめて呟き、夕食の準備を始めた。
そして、翌々日の早朝に心を抱っこして荷物をリュックで背負うと渡井静子と共にバスが停車する公園へと向かった。
楽しい海水浴の始まりであった。
しかしこの時、その海で思わぬ事件が待っているとは思ってもいなかったのである。
バスは町内の人々を乗せて走り始めた。
参加者は年配者が多く総勢で15名であった。
車内はワチャワチャと話声が響き、戸惑っている正義に渡井静子は笑顔で
「まあ、あまり気にせず楽しみましょ」
皆それぞれ自由だから
と笑った。
走り出したバスは一路東京湾アクアラインを目指し、そこから千葉県の木更津市に入ると館山自動車道に乗って富津公園へと向かった。
そこに最近できた富津シーサイドホテルがあり食事と日帰り温泉と海水浴が楽しめるのである。
正義は心を抱っこしながら窓の外を見させていた。
心にとっては初めてのバス旅行であり初めての町内会の旅行であった。
ただ、これまで子育て百戦錬磨のプロが沢山乗っているので
「あらあら、可愛いわね」
寝がえりは?
「歯が生えてきたから離乳食ね」
などなどパッと見て分かる辺りが凄かった。
心は正義の腕の中で話しかけられると
「あーい」
とか
「ぱーぱ」
とか声をあげて喜んでいる。
人見知りするほどの年齢にはなっていないようであった。
正義は安堵しながら窓の外へ視線を時折向けながら
「そう言えば、俺も本当に数年ぶりだよなぁ」
と考えていた。
小学校低学年頃は母親に連れられて町内会の旅行に行った記憶があるが中学に上がる頃にはもう行かなくなっていた。
そう考えるとゴタゴタガチャガチャとしたこういう雰囲気は何処か懐かしい気がしたのである。
中学の頃はそれが鬱陶しく思えていたのである。
だが、今は懐かしく温かい気がする。
静子は正義と心の横に座りながら
「神楽君は優しいのね」
と笑いかけた。
正義はそれに驚くと
「え?」
そうですか?
と返した。
静子は頷くと
「そうよ、町内会の旅行は大体が定年退職した夫婦とか言わば年配の人間が多いもの」
若い子は参加したがらないのよ
「しても喋ったりしないわ」
と告げた。
「でも神楽君はおばちゃんの話も丁寧に聞いてくれるもの」
正義はそれに
「そんなことないですよ」
と答え
「俺も中学の頃には町内会の行事には参加しなくなったから」
と言い
「でも今は懐かしいですね」
心ちゃんがいるからかな
「俺も心ちゃんのように可愛がられていたのを思い出しました」
と微笑んだ。
静子は微笑み心の頭を撫でると
「心ちゃん、海楽しみよねー」
と笑いかけた。
心はそれに
「あーい」
と笑って答えた。
バスが富津シーサイドホテルの前に到着するとホテルの従業員が姿を見せた。
「いらっしゃいませ」
「お待ちしておりました」
丁寧なお辞儀に挨拶が交わされ正義はリュックを背負って心を抱っこしてバスを降りた。
静子は正義の手持ちの荷物を持って降り町内会長の佐々木和夫に
「佐々木さん、部屋番号教えて頂戴」
荷物おきたいのよ
と呼びかけた。
正義は「すみません」と声をかけ
「渡井さん、俺持ちますから」
と告げた。
静子は笑って
「いいの、いいの」
部屋へ行って荷物降ろして心ちゃん着替えさせて海に行かないとね
「神楽君もゆっくりできないでしょ」
と告げた。
正義は静子の心配りに
「ありがとうございます」
と答えた。
静子と正義は同じ部屋で正義は奥の部屋で心を着替えさせて自分も着替えると
「渡井さん、着替えましたか?」
と声を掛けた。
静子はそれに
「着替えたわよ」
と答え、貴重品を一つの鞄に纏めると部屋の鍵を閉めてシーサイドホテルの正面の海水浴場へと出かけた。
そこには既に数名の海水浴客がおり備え付けのパラソルの下に座っている人も居た。
静子は空いている一つの下に行くと敷物を広げて荷物を置いた。
所謂キープと云う奴だ。
そこへ参加者の一人小泉美佐子が
「渡井さん、私たちもいいかしら?」
と声を掛けてきた。
静子は正義と一緒に波打ち際に行きながら
「良いわよ、どうぞどうぞ」
と答えた。
その時であった。
他のパラソルから若い女性の声が響いた。
「あのー、そこ私たちが取っているんですけど!」
それに年配の女性が
「占領しないで他の人も使えるようにしなさいっていってのよ」
と答えた。
ザワザワと数人の若い女性と年配の女性が集まり言い争いになり始めたのである。
静子は溜息を零すと
「どっかの町内会の人たちかしら」
皆で使えばいいんだけどねぇ
と呟いた。
正義は気にしながら
「そうですね」
と言い、波打ち際に心を座らせると
「ちゃぷちゃぷだぞ」
と海の水を救って心の足に少しかけた。
心はぱしゃぱしゃと水を叩き
「ぱぷぱふ」
と正義に話しかけた。
静子はそれに隣に座りと
「あらあら、心ちゃんは怖がらないのね」
と笑った。
正義は驚くと
「え?」
と聞いた。
静子は笑って
「武はねぇ、海に始めて浸かったときギャン泣きしてね」
大変だったのよ~
「今はあーんなにゴツク偉そうになったけどねぇ」
と告げた。
ギャン泣きって……と、正義は渡井静子の甥っ子である武を思い出しながらプッと笑いを零した。
そこへ先ほど揉めていた若い女性が海に泳ぎに来て口々にぼやき合っていた。
最初に口を開いたのは多田きみこという背の高い女性であった。
彼女はぷんぷん怒りながら
「本当に古参住宅のおばさんたちは煩いわよね」
この前うちの子がスケボ乗ってたら怒られてね
「そりゃこっちが悪いけど、子供に言うなっていうのよね」
とぼやいた。
それに少しぽっちゃりした女性・金子鈴が頷いて
「わかる、わかる」
あるわよ、それ
「でもマンション敷地内だったんでしょ?」
少しくらいはね
「私も路上に少し車置いてたら直ぐにマンションの管理人に苦情がいってね」
古参住宅のおばさんたちだと思うわ
「だから今回の町内会の旅行も来たくなかったんだけど安いし~私たちが出している町内会費からだからと思うとね」
ねえ、岬さん
「マンションと古参住宅と別にしてって言ってくれないかなぁ」
と告げた。
色々あるようである。
彼女の言葉に彼女たちと一緒に歩いていたほっそりとした女性・笹村純子が
「でも今年が初めてなんでしょ?」
と告げた。
岬と言われたショートカットの女性・岬律子は首を振ると
「笹村さんは今年越して来たんだったわね」
実は三年ぶりだったのよ
「まあ、とにかく次の定例会の時は町内会長に藤堂さんに言ってみるわ」
とぼやいた。
「あの人たち子供たちにもガミガミうるさいし」
鬱陶しいもの
そう言って、浮き輪を持って走っていく中学生くらいの男の子に目を向けて
「太介、あんまり沖にいくんじゃないわよ!」
と声をかけた。
岬太介は一瞥して直ぐに視線を背けると海に向かって走り
「わかってる!」
と浮き輪を手に飛び込んだ。
多田きみこと金子鈴も同じように海へ入っていく自分たちの子供に声を掛けた。
海水浴場は遠浅なのである程度の距離までは子供でも歩いて行ける。
だが、沖の方では突然深くなるのでやはり注意は必要なのだ。
今日の正義は心と一緒の初・海水浴なので泳ぐつもりは全く無かった。
正義は手で海水を救うと心の手にそっとかけた。
心は正義の手を掴み
「ちゃぷぱぷ」
と零れ落ちていく海水を見て笑みを浮かべた。
正義は抱っこをすると少し深い場所で座り心の頸元まで海水に付けた。
心は正義にギュッと捉まり目をぱっちり開けていたが直ぐにパタパタと泳ぐように手足を動かした。
抵抗があまりないようである。
反対に正義が
「おお」
心ちゃん凄い!
と驚きながら支えた。
パパバカである。
可愛くて仕方がないのだ。
静子はその様子を見て微笑み
「でも、心ちゃん」
これなら温泉も行けそうね
と言い、身体を伸ばして周囲を見回しかけて目を見開いた。
「ちょ! あの子!!」
正義は少し大きな声に静子の視線の先を見て浮き輪が沈み溺れかけている先ほどの子供に
「あ! 危ない!!」
と思わず声を零した。
同じ時、少し離れた場所から
「お客様!!」
と声が響き、正義は顔を向けると慌てて助けを呼びに行く女性従業員の姿が見えた。
一緒にいた子供達も驚きながら
「お、俺じゃないから!」
「た、助けてー!」
と叫んで、浮き輪で浮きながらおろおろしていたのである。
他の人々もどうしていいのか迷っているようであった。
泳ぎが得意でなければ二次遭難の可能性があるのだ。
だが、ホテルの従業員が助けに戻るまで持ちそうにはなかった。
正義は立ち上がり心を静子に預けると
「渡井さん、心をお願いします」
と駆け出した。
静子は驚きながら
「大丈夫なの!?」
神楽君
と叫んだ。
正義は頷いて
「一応、泳げるので」
と答え、泳ぎ出した。
海辺にいた岬律子は慌てて
「太介!」
誰か! 太介を!
と叫んだ。
ザワザワと誰もが目を向け、騒然とした空気が海辺に広がった。
浮き輪が萎んで子供が溺れかけているのだ。
助けに行かなければ子供は死ぬ。
正義は沈もうとしている太介の元へ着くと手を伸ばした。
瞬間に太介は手を払ってばたつかせた。
抵抗されては助けようがない。
正義は驚いて
「落ち着いて!!」
体の力を抜いて!!
「俺が泳いで連れて行ってあげるから浮くだけでいいから!!」
水に浮くだけのつもりで!
「そうでないと俺も助けにくいから!」
と言い聞かせるように強い口調で呼びかけた。
このままでは本当に二次遭難になる。
太介はハッと正義を見て目を閉じると浮き輪を握ったまま身体の力を抜いて身を任せた。
正義は立ち泳ぎしながら安堵すると顎を腕で支えて対岸に添って横に泳ぎ、離岸流から離れると流れに乗って岸に向かった。
そして、立てる場所まで来ると太介を抱き上げて岸へと上がり彼を降ろした。
正に間一髪である。
律子はぐったりとして座った太介に
「もー、だから沖にいくなって言ったじゃない!」
と言いながら抱きしめた。
先程一緒にいた多田きみこと金子鈴も泳いで戻ってきた子供達と合流すると
「ねえ、もうホテルに戻りましょう」
「ちょっと休んだ方が良いわ」
とホテルへ行くように勧めた。
笹村純子と一緒に駆けつけた水着姿のホテルの従業員も慌てて
「大丈夫ですか? どうぞ、こちらへ」
と彼女たちを案内した。
正義は大事にならなかったことに安堵の息を吐き出し近寄った静子から心を預かって抱き締めた。
「すみません、ありがとうございます」
静子は首を振ると「何言ってるの、ありがとう」と微笑み、落ちていたペシャンコになった浮き輪を見て
「でも浮き輪がしぼむなんてね」
怖いわね
と手にした。
正義は頷いて片手で心を抱き、反対の手で浮き輪をもらうと
「ん?」
と首を傾げた。
空気入れがちゃんと閉じていたのである。
「まあ……普通はそうだよね」
空気入れが閉じてなかったら直ぐに空気が抜けるし
静子は不思議そうに正義を見ると
「どうかしたの?」
と聞いた。
正義は頷くと
「この浮き輪……どうして萎んだのかなぁと」
と言い、近寄ってきたホテルの従業員に目を向けた。
従業員は頭を下げると
「先ほどはお客様を助けていただきありがとうございます」
丁度交代のタイミングで
「他のお客様に声をかけて頂いて駆け付けましたが……お客様がいなければ間に合っていなかったと思います」
と言い
「お名前を教えていただけますでしょうか?」
と聞いた。
正義は驚きながら
「あ、いえ……別に気にしないでください」
と告げた。
従業員は首を振り
「そう言うわけには参りません」
と告げた。
静子はクスッと笑って
「今日、三ノ輪町内会で利用させてもらってます」
彼は神楽正義君です
と告げた。
従業員は笑顔で頭を下げると
「かしこまりました」
と答え
「お疲れでしたらホテルでお休みになってください」
と告げた。
正義は集まってくる人々を見て
「あ、じゃあ」
部屋の方で休みます
と答え、浮き輪を従業員に渡すと
「その浮き輪、先程の子が使っていた浮き輪なんですが……おかしいので保管しておいてもらえますか?」
というと心と静子と共にホテルへと戻った。
心は海に入って疲れたのかシャワーを浴びて服に着替えると直ぐにくぴーと眠った。
正義もシャワーを浴びると服に着替え、次々に訪れた町内会の人たちに褒められて恐縮するしかなかった。
ただ気になったのは浮き輪であった。
空気弁は閉じていたし空気入れの蓋もしてあった。
大きな外傷らしい外傷もパッと見では見当たらなかった。
何故萎んだのか? である。
昼食になると眠った心を抱っこしてホテルのレストランへと出向いた。
町内会の人たちと一緒の食事である。
正義と静子が行くと既に町内会の人々が席に着いており会長の佐々木和夫が全員揃ったことを確認すると
「先ほど神楽君が人を助けたということで」
その礼で飲み物は自由に飲んで良いそうだ
「食事とデザートもランクアップしてくれるそうだ」
神楽君、ありがとう
と告げた。
正義は首を振り
「いえ、でも……助けられて本当に良かったです」
と答えた。
昼食は豪華な会席で大満足のモノであった。
正義も熟睡している心を膝に寝かせながら料理を楽しんだ。
「心ちゃんは起きてから持ってきた離乳食を温めて食べさせてあげないとだな」
もう少し歯が増えて食べれたら食べさせてあげたかったなぁ
とやはり親バカなコメントしか出なかったのである。
そこへ先ほど助けた岬太介と同じ富士川町内会の会長の藤堂貢が姿を見せると
「富士川町内会の会長の藤堂です」
先ほどはうちの町内会の子供を助けていただきありがとうございます
と頭を下げた。
「先ほどは礼も言わずにすみません」
正義は笑顔で
「いえいえ」
無事でよかったです
と答えた。
藤堂は頷き
「あれから3年ぶりで……同じことが起こったらと……」
本当にありがとうございました
と礼を言って立ち去った。
正義はそれを見送り
「う~ん」
と声を零すと
「やっぱり気になるなぁ」
とぼやいた。
静子は苦笑して
「食べてからにしなさい」
従業員の人に保管してもらうように言っているんでしょ?
と告げた。
正義は頷くと
「ですね」
と答えると食事を再開して、その後、先程の浮き輪を受け取りにフロントへ出向いて驚いた。
フロントに渡井静子の甥っ子の武と久守晴馬が姿を見せていたのである。
正義は目を見開くと
「アレ?」
渡井さんに久守さん?
と声を掛けた。
武は正義を見ると
「ん?」
と間を開けて
「あー、おばさんが町内会の海水浴って言ってたけど」
ここだったのか
と告げた。
正義は「はい」と答えた。
「それで何かあったんですか?」
武はピタッと言葉を止めると
「んー」
と唸ると
「これは警察の仕事だからな」
と告げた。
横で久守晴馬が
「実は匿名で通報があって調べに来たんですよ」
と説明をした。
……。
……。
武は「おい」と晴馬に声を掛けた。
晴馬は冷静に
「彼は優秀な探偵です」
と言い、正義に向くと
「今日、人が殺されるという警察庁に電話があって一応調べに来たんですよ」
と告げた。
正義はハッとして
「それは何時ごろのことですか?」
と聞いた。
晴馬は手帳を見て
「午前10時5分ですね」
と答えた。
正義は考えながら
「バスが到着して……心ちゃんの初海の頃だよな」
と目を細めた。
武は正義の様子に
「どうした?」
何かあったのか?
と聞いた。
正義は「実は」というと
「今日、浮き輪が萎んで子供が溺れかけたんです」
と告げた。
「なるほど」と武は言うと
「それが何か問題だったのか?」
と聞き返した。
「浮き輪の空気入れが傷んでたとか、封をし忘れてたとかあるだろ?」
浮き輪自体が傷んでいることもあるからな
正義は頷いて
「普通はね」
と言い
「でも、空気入れは問題なかったし浮き輪が傷んでいる様子もなかった」
と答えた。
そして、フロントの女性に
「あの、俺、先程従業員の人に浮き輪を保管してもらうように頼んでおいたんですけど」
と告げた。
女性は「ああ」というと裏に回って浮き輪を手に戻ってきた。
正義はそれを受け取り
「これなんだけど」
と今度は丁寧にゆっくり回しながら見た。
武も晴馬も同じようにじっと見つめた。
正義は手を止めると
「……これだ」
とヒラヒラの下に開いている小さな穴を見つけたのである。
浮き輪のひらひらとした縫い目の下で良く探さないと分からない状態であった。
正義は目を細めると
「やっぱり、これ……恐らく故意に開けた穴だと思う」
と呟いた。
武は正義から受け取りその穴を見ると
「確かに、な」
と呟いた。
「故意じゃ無ければこっちの方にも穴が開いているはずだからな」
正義は頷いた。
「もしかしたら電話はこの事かも」
晴馬は「それはつまり」と聞いた。
正義は午前中にあった岬太介が溺れた話をしたのである。
あの時、彼がもっと沖へ出ていたら。
助けの到着が遅かったら。
彼は死んでいた可能性がある。
正義は目を細めて
「この浮き輪の穴を誰が、どうしてこんなことをしたのか」
と呟いた。
武は腕を組むと
「もしその事の密告なら」
電話してきたのは犯人か
「犯人が何をするか知っていた人間になるな」
と告げた。
晴馬はそれに
「しかし、犯人が自分の首を絞めるようなことを電話してきますでしょうか?」
と告げた。
「知っていた人間……の可能性の方が高いかと思いますね」
正義は考えながら
「ですよね」
と呟いた。
そこへ食事を終えた静子が心を連れて
「あらあらあら、神楽君の帰りが遅いから様子を見に来たら」
なんなの、武
「何かあったの?」
と近寄った。
心は目を覚ましており
「ばー」
まんま
とよだれを垂らして正義に手を伸ばした。
正義は心を静子から受け取り
「ごめんね、心ちゃん」
お腹空いた?
「離乳食温めてあげるね」
とギュッと抱きしめた。
……。
……。
武は「あー、ちょっと待ってくれ」と言いかけて言葉を飲み込んだ。
が、静子は正義に
「ご飯は食べさせてあげとくわ」
武の手伝いをしてあげてくれるかしら
と告げた。
晴馬は頭を下げると
「ありがとうございます、助かります」
と礼を述べた。
武はふぅと息を吐き出し
「悪いな、おばさん」
と言いかけたとき、奥の方から悲鳴が響いた。
更なる事件が起きたのである。
静子は正義から心を受け取り
「行ってらっしゃい」
と頷いた。
正義は心を見ると
「……ごめんね、渡井さんとご飯食べててね」
後で一緒にお風呂入ろうね
と頬にキスをすると武と晴馬の後に続くように走り出した。
心はキョンッとみてうるっと目を潤ませると
「あー、ぱーぱー」
と泣き出した。
静子は心をあやすように軽く揺らしながら抱き
「お部屋に戻ってパパ待とうねぇ」
と歩き出した。
「子供は泣くのも仕事」
百戦錬磨の子育てプロである。
ギャン泣きにも動じない肝っ玉は持っているのだ。
声の先では一人の女性がホテルの裏手の駐車場に倒れており周囲に枝葉が散らばっていた。
武は直ぐに電話をして救急車を呼び寄せた。
晴馬は女性の肩を軽く叩き
「しっかりしてください」
分かりますか!?
と呼びかけた。
正義は上を見て屋上に見えた人影に目を細めた。
「……誰か……いる」
それに電話を終えた武が見上げて
「ちっ」
というと駆け出した。
正義は倒れている女性を見ると
「この女性……あの時の」
と呟いた。
そう、海辺で歩いていた4人の女性の一人であった。
正義は「確か」というと
「笹村って呼ばれていた富士川町内会の人だ」
と告げた。
彼女は救急車が到着するとそのまま病院へと運ばれた。
その後、屋上で下を覗き込んでおろおろしている女性を武は捕まえて姿を見せた。
正義は目を見開くと
「貴方は溺れかけた子のお母さん」
と告げた。
武は彼女を見ると
「今、ここに女性が倒れていたんだがあんたが突き落としたのか?」
と詰め寄るように聞いた。
彼女は蒼褪め首を振ると
「は? ち、違うわ!」
わ、私……呼び出されたのよ!
「部屋に戻るとドアに紙が挟んでいて『1時に屋上に来てください。大切な話があります 藤堂』って書いていたから屋上へ行ったのよ」
と告げた。
それにやじ馬で集まっていた人々の中にいた藤堂貢が岬律子に
「岬さん……一体なにが」
と聞いた。
律子は怒るように
「あ、貴方がメモを置いて私を呼び寄せたんじゃないの!」
本当に本当に私はやってないです!
と叫んだ。
武は息を吐き出すと
「とりあえず、署まで来てください」
と言い、藤堂を見ると
「貴方も一緒に」
と告げた。
藤堂は慌てて
「いや、俺は何も知らないです」
そのメモなんかも全く身に覚えがない
と告げた。
正義は武を見ると
「あの、少し待ってもらえますか?」
取り敢えず俺の部屋で話を
と言い
「彼女には溺れかけて休んでいる子供さんもいるし」
他の町内会の人も居るので
と告げた。
確かに周囲の人々は驚きながら戸惑っている。
武は考えて
「……取り敢えず、部屋を用意してそっちで状況を聞く事にするか」
と歩き出した。
空いている部屋に案内されて武と晴馬と正義と藤堂と律子の5人で向き合った。
正義は戸惑っている二人を前に
「あの、取り敢えず話を」
と口火を切った。
「先ず、岬、さんですね」
律子は頷いた。
正義は彼女に
「その、置いていたメモは持っていますか?」
と聞いた。
彼女は慌てて
「え、ええ」
とポケットからメモを取り出すと
「これを」
と置いた。
確かに彼女の言ったメモがあった。
が、藤堂は指をさすと
「これは俺の字じゃない」
俺は置いていない
と告げた。
正義は武を見ると
「この紙の字を藤堂さんと岬さんの字と照合してもらえますか?」
と言い
「それから指紋も」
と告げた。
武は手袋を出して
「わかった」
と答えるとメモを晴馬に渡した。
晴馬は袋に入れて
「鑑識を呼んでいるので渡して調べてもらいます」
と答えた。
正義は頷いて
「お願いします」
と答え、律子を見ると
「今朝のお子さんの浮き輪が萎んだのは……誰かが針で穴を開けたからです」
と説明した。
それに律子は蒼褪め
「まさか……どうして」
と呟いた。
藤堂は視線を逸らして唇を閉ざした。
正義は二人の様子を見て
「今朝のお子さんが溺れかけた件と言い笹村さんが落ちた時に屋上へ岬さんが呼び出された件と言い」
繋がっていると俺は思います
と告げた。
「お心当たりはありませんか?」
藤堂は眉間にしわを寄せてチラリと律子を見た。
律子は息を吐き出して顔を上げると
「笹村さんは去年引っ越ししてきたばかりで同じマンションの知り合いという程度で私と彼女が共通してと考えると古参住宅のおばさんたちとかくらいしか」
でも殺されるほどのことは
と告げた。
藤堂は少し目を見開いて彼女を見たものの直ぐに息を吐き出し
「馬鹿なことを」
そんな恐ろしいことを考える人間はいない
「路上駐車や道路でローラースケートをしたり危険なことをするから注意しているだけだ」
と答えた。
武は肩を竦め
「おいおい、感情的にならずに町内会で話し合った方がいいな。それは」
路上駐車は死角を作って歩行者を危険にするし
「ローラースケートを公道で使うのは危ないし交通法違反だ」
と告げた。
「ただ注意の促し方もある」
正義は「確かに」と思ったものの
「その、一つ気になっていたんですが」
3年間町内会の旅行は中止していたんですよね
「何故?」
と聞いた。
それに律子は腰を浮かせると
「そんなこと関係ないと思うわ!」
と言い顔を背けた。
正義はふぅと息を吐き出すと
「このままだともしかしたら岬さんのお子さんがまた命を狙われるかもしれないですし」
と告げた。
律子は顔をしかめながら
「中川さんはもういないし……関係ないわ」
と小声で呟いた。
藤堂は大きく息を吐き出し
「実は3年前に今回と同じように海水浴を町内会で企画して行ったんですが」
その時に……中川純一君という当時小学4年生の子供が海でおぼれて亡くなったんです
と告げた。
律子は「藤堂さん!」と厳しい口調で言った。
正義は藤堂を見ると
「その溺れたこと……何かあったんですか?」
そうでないと岬さんがそんな反応することないですよね?
と告げた。
律子は口を噤んだ。
藤堂はふぅと息を吐き出し
「その中川純一君も浮き輪が海の中で萎んで溺れて亡くなったんですが……その暫くした後に岬さんの太介君は友達同士だったんですが海に入る前にケンカをしてて彼が純一君の浮き輪に悪さをしたんじゃないかという噂があって」
と告げた。
律子はそれに
「太介は何もしてないわ!」
古参住宅のおばさんたちが根も葉もない噂を立てただけじゃない!
と怒った。
藤堂は律子を見ると
「黙っていたんだが……その噂をしていたのはマンションの方だ」
私は妻からそう言う話をマンションの女性たちが噂していると聞いてね
「彼女たちは子供がそれを見たって言われたからと言っていたよ」
と告げた。
「黙っているつもりだったが……もうこうなったら全てを話すけど」
金子さんと多田さんだ
律子は驚くと
「嘘!」
そんなこと二人とも一言も言ってなかったわ!
「それに二人とも古参のおばさんたちだって」
と告げた。
藤堂は彼女を見ると
「マンション以外の住宅の人間は小学校に行っている子も殆どいない」
小学校の子供たちの誰と誰が仲が良いとか悪いとか知らない人が多い
「金子さんと多田さんのお子さんたちは二人と一つのグループだったみたいじゃないか」
だからそう言う話になったと私は思っていたんだが
「まあただの井戸端会議だと思って根も葉もないそんな噂を立てない方が良いと注意はしたけどね」
と告げた。
正義は「そんなことが」と言い
「その中川さんはその事があって引っ越しを?」
今はどちらに?
と聞いた。
律子は首を振ると
「知らないわ」
と答えた。
藤堂も首を振ると
「私もまったく」
と答えた。
正義は律子を見ると
「岬さんは笹村さんが落ちて直ぐに屋上に訪れたんですよね?」
と聞いた。
律子は頷いた。
「ええ、屋上の戸を開けた時に声が響いていたので」
それで覗きに行って怖くなって……
武は腕を組むと
「だが本当は突き落としてそんな作り話をしているんじゃないのか?」
と睨んだ。
晴馬も彼女を見て
「そうですね」
もし貴方が犯人でなければ怪しい人がいたはずです
と告げた。
律子は蒼褪めると
「だから! 紙を渡したじゃないですか!」
私はやってないです!
と叫んだ。
正義は彼女に
「その時、誰も屋上にはいなかったんですね?」
途中で変な人には?
と聞いた。
律子は「会ってないわ」と答えた。
正義は考えながら
「屋上にも、途中にも怪しい人がいなかった」
と呟き
「一つは太介君の浮き輪が故意に萎むようにされていた」
一つ笹村さんに危害を加える
「更にもう一つは岬さんを犯人に仕立てる」
と呟いた。
「これが全て繋がっているとしたら何かちぐはぐだよなぁ」
晴馬は正義を見て
「それが繋がっていると考えればですね」
と告げた。
「もし繋がっていなければ?」
正義は彼を見て
「繋がっていないとすれば」
偶然が重なり過ぎているよ
「だって、この二件ともに岬家が関わっているんだから」
と言い沈黙を広げた。
「しかも、この二件……どちらも……」
正義はハッとすると
「あの、金子さんご家族と多田さんご家族を呼んでください」
確かめたいことがあります
と告げた。
「それからお願いがあります」
そう言って武に言葉を続けた。
武は驚いたものの立ち上がると
「わかった」
序でにその二家族も連れてくる
と部屋を出た。
10分後に気まずそうに金子鈴と息子の金子卓也と多田きみこと多田真が姿を見せた。
律子は二人を睨み直ぐに顔を背けた。
鈴はそれに罰が悪そうに笑みを浮かべながら
「も、三年も前の話でしょ?」
私は卓也が純一君の浮き輪に太介君が穴をあけるのを見たって言うからその話を多田さんにしただけで
とシドロモドロと告げた。
卓也は目を見開くと慌てて下を向いた。
きみこは頷いて
「ええ、噂話よ」
私は金子さんに聞いたからそれを……その……中川さんに『浮き輪おかしくなかった? 』って聞いただけで
と告げた。
正義はそれを聞き卓也を見ると
「見たの?」
どうしてそれを使う前に言わなかったの?
「見てたんだよね?」
と聞いた。
卓也は視線を彷徨わせながら少しして
「違うんだ!」
本当は……俺が……悪戯のつもりで
「でもあんなことになるなんて思ってなくて」
と言い始めた。
鈴は慌てて
「卓也!! ダメ!」
と叫んだ。
卓也は泣きながら
「もう良いんだ」
俺しんどい
「太介の横にいて笑って話してもしんどかった」
と言うと
「それをお母さんに話ししたら……もし変だって分かったら誰がしたってなるからって」
その時純一と太介が喧嘩してたし
「母さんは俺の為に……全部俺が悪かったんだ」
と言い頭を下げると
「ごめんなさい!!」
悪戯のつもりだったんだ
「あんなことになるなんて思わなかったんだ!!」
でも噂が広がって怖くなって
「いえなかったんだ!」
と泣きながら震えた。
鈴はへなへなと座ると「卓也」と名前を呟いた。
律子は既に興味を失ったように視線を落としていた。
友達だと信用できると思っていた二人がそんなことをしていたのだ。
表面でニコニコしておきながら……ショックは大きかった。
武は腕を組むと
「その件は後程ゆっくり署で聞く事にします」
君は悪戯だったかもしれないが
「未必の故意が認められれば殺人になる」
と告げた。
鈴は震えて
「そんな!」
本当にそんなことこの子は考えていなかったんです
と泣きながら顔を伏せた。
正義は卓也を見ると
「君のやったことは悪戯で済まないことだって分かっているんだよね?」
と告げた。
卓也は静かに頷いて
「ちゃんと、します」
と答えた。
正義は鈴を見ると
「子供を守りたい貴女の気持ちはわかります」
でも貴女が反対の立場ならどうですか?
「卓也君がそんな噂を流されたら?」
卓也君が純一君のように死んでいたら
と言い
「卓也君も苦しんだと思います」
だからあの時、俺じゃないって咄嗟に叫んだんだと思う
と告げた。
「誰でも間違いを犯すことはある」
だけど
「それを犯した後にどうするかが大切だと思う」
正しい道を指し示して見守り共に歩いてあげるのが役目だと俺は思いますが
鈴は卓也を見て
「苦しかった?」
と聞いた。
卓也は頷いて
「うん、でもお母さんが守ろうとしてくれた気持ちはわかってる」
ごめん、ありがとう
と告げた。
鈴は彼を抱き締めた。
「私もごめんなさい」
そう告げて律子を見ると頭を下げて
「太介くんのこと……本当に……ごめんなさい」
と謝罪した。
律子は怒りと同じ母親としての気持ちとを持て余しながら小さく頷くことで応えた。
正義は静かに笑むと
「今の貴女方ならちゃんとやり直せるから罪を償ってください」
と告げた。
そして
「でもやっぱり、中川さんは知っていたんだ」
と言い
「武さん、それでお願いしたことは?」
と聞いた。
武は顔を向けて
「ああ、調べたらすぐに連絡してくれる」
と言いかけて震えた携帯を手に
「ん? そうか、分った。さっき知らせたホテルのファックスに直ぐに送ってくれ」
それからその音声データも送ってくれ
「携帯に頼む」
というと立ち上がった。
そして5分程して戻ると正義に
「お前の思っていた通りのようだな」
と言い、律子と藤堂と鈴ときみこに
「実はこれが警察に匿名で入ってきたんだが」
と携帯に送られた音声データを聞かせた。
律子は目を見開くと
「笹村さんの……声」
と呟いた。
鈴もきみこも同じように驚いて顔を見合わせた。
正義は武が渡した写真と戸籍謄本を見ると
「これで全て一つに繋がった」
と言い
「ただ太介くんはきっと気付いていたんだと思います」
と告げた。
「笹村さんは苗字も変わって雰囲気や髪形も変わってますが……中川純子さんです」
3年前からかなり痩せられているようですが
「笹村は中川さんの旧姓です」
そう言って戸籍と写真を見せた。
それには全員が絶句した。
正義は全員を見て
「恐らく、笹村さんはその噂を聞いて太介君と岬さんに復讐しようとしたんだと思います」
純一君の浮き輪に細工しておきながら覆い隠していた二人に
「でも太介君を殺すつもりはなかったと思います」
誰かが見つけるよりも早くにホテルに助けを呼びに行っていたので
「それに岬さんを突き落とさずに自分が被害者になろうとしたことからも俺はそう思います」
本当のことを二人に言って欲しかったんだと思います
と告げた。
「ちゃんと全てを明らかにして笹村さんに本当のことを教えてあげてください」
太介君もずっと苦しんでいたと思います
「だから浮き輪が萎んだ時に助けを拒否した」
彼は犯人が純一君のお母さんだと分かっていたから
「この後、どうするかで……貴方がたの将来が決まると思います」
今なら皆さんで乗り越えていけると思います
どんなに覆い隠そうとしても事実は一つなのだから
「そしてそれを一番分かっているのは自分自身なのだから」
全員が俯き頷いた。
笹村純子はその全てを聞き太介と律子に謝罪した。
2人はそれを受け入れ被害届を出さなかったのである。
太介は純子に
「俺、喧嘩したまま純一があんなことになって……俺のせいかなぁって思ってた」
俺が一緒に遊んで泳いでいたらとずっと思ってたから
「噂が立った時もしょうがないって思って」
と告げた。
純子は微笑むと
「純一はその喧嘩のこと許してたわ」
泳ぎに行く前にね
「ちゃんと謝る」
って言っていたの
「だから、そんな純一をと思って」
ごめんなさい
と告げた。
その後、帰宅した彼女たちはそれぞれの道を歩くことになる。
律子は甘い言葉でただただ持ち上げる人よりも時には厳しく本当に自分たちのことを見てくれる人の方が大切なのだと気付き、マンション以外の町内会の人たちとも打ち解けるようになり、笹村純子も実家へと引越し、金子家も新しくやり直すつもりでマンションを後にすることになった。
多田きみこも息子たちも律子たちと共にマンション以外の人たちと打ち解けるようになるのである。
今回の事を切っ掛けに彼女たちも少しずつだが変わり始めることになったのである。
解決後、正義は心と渡井静子が待っている部屋へと戻り静子と遊んでいる心を見た。
瞬間に心は泣き始めると
「ぱー」
ぱーあ
と手を伸ばして正義の服を掴んだ。
静子は笑って
「我慢していたのよねぇ」
心ちゃん偉かったのよ
と告げた。
「パパが大好きなのね」
正義は心を抱き締め
「ごめんな、心ちゃん」
と頬にすりすりした。
その後、初温泉に慌てて入り、帰宅の途に付いたのである。
静子は話の顛末を聞くと
「そうね」
悪戯なんて言葉で済まされないことがあるものね
と言い
「怖いことだけど」
少し先を考えればしないで済むのだけど
と呟いた。
正義も頷き走るバスの中から車窓を見つめた。
陽は落ち、町は闇に覆われていた。
帰宅すると一途が既に帰っていて正義を出迎えた。
「おかえりなさい」
正義は笑顔で
「ただいま」
というと
「今日は心ちゃんの初めてが一杯だったんだ」
と告げた。
心は正義の腕の中でぐっすり眠っており、一途は少し笑むと手を伸ばしかけた。
が、その手を止めると
「そう」
と言い、ぎゅっと握りしめると降ろして
「お風呂入ろうと思っていたの」
入って来るわ
と背を向けた。
恐らく。
いや、きっと。
一途は家族が嫌いだと言っていたが……本当はそうではないんじゃないかと正義は思っていた。
何があったのか。
一途のことは何も知らないのだ。
家族の事。
彼女の仕事についても。
過去も何もかもだ。
正義は不意に浮かんだ思いに心をベッドに寝かせながら
「一途さんは……いつか話してくれるんだろうか?」
と呟いた。
一途はシャワーを浴びながら
「酷い妻で母親よね」
もしかしたらあの父よりも酷い人間かも知れないわ
「軽蔑しているあの父よりも」
と呟いて目を閉じた。
この時。
外には闇を纏った静寂が広がり、町を包み込んでいた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
続編があると思います。
ゆっくりお待ちいただけると嬉しいです。