第七話 軽功
「ねえ、芳槿ちゃん。本当に、あれをやるの……?」
あたしは切り立った崖の上から、米粒みたいになった廟を見下ろしながらつぶやいた。
今、あたしたちが立っているのは、洞窟の正面にそびえていた断崖……そのてっぺんだった。
すぐ下には、四方に張り巡らされたツタがあって、その上を駆けながら剣を舞わせる尼さんと芙蓉がいた。まるで空中を滑るかのように、縦横無尽に馳せ回っている。
「そうね。あなたにはまだ早いけれど、似たようなことはすると思う」
芳槿はさらりとそう言った。
「大丈夫よ。誰しも最初は不安に感じるわ。それに、さっきの山道、平気だったでしょう?」
あたしたちは廟のところから、ここまで歩いてきた。山道はとても険しくて、あちこちにツタが生い茂っていた。進むにつれて剥き出しの岩肌がどんどん増えて、進むほどに不気味な感じが募ったわ。尼さんも、芙蓉も芳槿も、すいすいと難なく登っていく。あたしはその後ろをついて行くのでやっとだったけれど、不思議と全然息切れしなかった。
そうだ。あたし、ついて来られたんだ。今まで、こんな山道見たこともなければ、歩いたこともなかったのに。
芳槿に目を向けると、彼女は微笑みでそれに応えてくれた。
「だから、怖いことなんてない。あたしたち織女派は、天下で最も軽功に長けた流派なのよ」
その言葉を聞きながら、ツタの上で攻防を繰り返す二人へと目を向ける。
ーーいいかしら、隠娘。よく見ておくのよ。さあ、まずは芙蓉、あなたからね。
崖の上に着いてすぐのことだった。尼さんは震えるあたしに微笑みを投げると、芙蓉と一緒に断崖から身を翻した。あたしには飛び降りたようにしか見えず、自分でもびっくりするくらいの悲鳴をあげてしまった。
ところが、次の瞬間。二人はまるで雲を踏むかのようにして、向かいにそそり立つ岩壁の上に立っていた。まるで信じられない光景だった。驚くあたしをよそに、二人はさらに駆けていった。
垂直に切り立った岩を駆け上がる。宙に身を舞わせてくるくる回転すると、今度は枯れた松の枝先に立っていた。宙返りを何度もしながら、今にも崩れ落ちそうなツタの上をつたって走って行く。全く速度が落ちることなく、まるで疾風のようだった。
そうして、二人はひとしきり縦横無尽に駆け回ると、剣を抜いて戦いを始めたのだった。
これが織女派。あたしもいずれは、こんなふうになれるんだ。
まるで剣舞をしているようだった。軽やかで、美しくて。そこがツタの上だなんてことをたやすく忘れてしまいそうになるくらい、二人の舞は優美で華麗だった。
やがて剣舞は終わりを迎えた。二人が宙返りをしながら絶壁の上に帰ってくる。
二人はまるで息を切らせていない。額に汗すらかいていないように見えた。
「さあ、隠娘。次はあなたよ。軽功体験をしていらっしゃい」
ゴクリと生唾を飲む。途端に体が震え出した。
「怖がらなくても大丈夫よ。芳槿が手を引いてくれますからね」
芳槿が笑顔で手を差し出した。
その手は白くてほっそりして、まるで精巧な細工もののようだった。あたしは彼女の手をしばらく見つめた後、勇気を振り絞って手のひらを重ねた。
その瞬間、世界がぐるりと一周した。
「きゃあああっ!」
「舌を噛むわ。叫ばないで」
あたしは必死で歯を食いしばった。目なんかとても開けていられない。離されまいと芳槿の手を思い切り握り込む。耳元では風がごうごうと唸りを上げ、足はまるで空気でも踏んでいるかのように、何の感触もない。ただ頬を切る風だけが、確かなものとして感じられるばかりだった。
「大丈夫よ。ほら、目を開けて」
その言葉に、恐る恐る目を開けてみると、真下では谷が大きな口を開けていた。途端に意識を失いそうになってしまう。
でもーー
あたしたち、空を滑っている。それは確かに実感できた。まるで鳥になったみたい。
「着地するわね」
芳槿はそう言うと体を捻った。たちまち視界が右に左に、上に下に、ぐるぐる回る。
あたしたちが「着地」したのは細いツタの上だった。あまりに予想外の着地場所に、すうっと血の気が引くのがわかる。でも、とても不思議なことに、ツタは全然ぐらつかない。地面の上にいるのと全く変わらなかった。
「これが軽功よ。怖くはなかった?」
労るような優しい言葉に、あたしはさっきまで感じていた恐怖をすっかり忘れて、
「う、うん。何だか、鳥になったみたいで楽しかった」
頬を切る風はさっきよりも冷たく、そして強く吹いていた。
「そう。ならよかった。では、もう少しだけ駆けてみましょうか。言葉で説明するよりも、実際に体験した方がわかりやすいから」
そこからは結構大変だった。ツタの上を駆け抜けたと思ったら、岸壁を蹴りながら上へ上へと登ったり、まるでコマのように宙返りを何回も決めたり。途中で何度か気持ち悪くなったけれど、少しだけ慣れたような気がした。




