第六話 織女派
「ほら、いつまで寝てるのよ」
ぐらぐらと乱暴に揺すられて目を覚ますと、そこには芙蓉と芳槿の姿があった。
「ええ? もう朝なの」
「アンタ、なかなか太々しいじゃない。新入りのくせに最後まで眠ってるなんてね。ふん、さっさと顔洗っちゃいなさいよ。師娘が来るわよ」
「師娘?」
「尼さんのことよ」
「そ。これからはそう呼びなさいよね」
「あ、あの」
「何よ」
ぶっきらぼうにそう返されて、あたしはつい俯いてしまった。昨日、寝付けなかったあたしの手を握ってくれた二人。一言お礼を言いたかったけれど、何だか急に恥ずかしくなってしまった。
「変な子ね、アンタ。さ、行くわよ、芳槿」
そう言うや否や、芙蓉はあたしに背を向けて洞窟を出ていった。芳槿は微笑みを浮かべながら、
「手早く用意してね。奥の泉で顔を洗ったら、すぐに集合よ」
そうしてゆっくりと芙蓉の後を追った。
彼女の背中には一振りの剣。そういえば、芙蓉も確かに背負っていた。
あたしは急いで飛び起きると、言われた通りに奥の泉で洗顔をすませた。泉はものすごく冷たかった。心臓が止まってしまうかと思うくらい。ぬるま湯で顔を洗っていたことが、急に懐かしく感じられた。
鏡もなければ手ぬぐいもない。袖で顔をゴシゴシこすって、慌てて洞窟の外へ走り出た途端、まぶしいお日さまの光が顔に差し込んできた。思わず目を細めてしまう。
開けた視界に、思わず息を飲んだ。目の前には一面の青が広がっている。
これって、きっと海だわ。あたし、初めて見た。
風が頬を撫でる。風はちょっぴり湿り気を含んでいた。ほんのりと潮の香りがする。
眼下に広がる海原が、ずっとずっと遠くまで、果てしなく続いている。
洞窟は丘の中腹にあるみたいだった。その丘のちょうど正面、少し離れたところに断崖があって、まるで青空を引き裂くかのようにそびえ立っている。
口を開けたままきょろきょろしていると、小さな廟が一つあって、その傍で平伏する芙蓉と芳槿が目に入った。
二人の前には白装束の女の人。尼さんだわ。
あたしは急いでそこまで駆けた。そうして二人に倣って平伏する。すると、
「今朝は随分ゆっくりね。あなたたちにとって時間は有限のもの。ゆめおろそかにしてはなりませんよ」
尼さんは立ち上がるよう促すと、一振りの剣を取り出して見せてくれた。ちょうど両手を目一杯広げたくらいの長さで、あたしの身体にはずいぶん不釣り合いなように思えた。
「隠娘はこの剣を使いなさい。肌身離さず携行し、自分の体の一部として扱えるように」
両手でそれを受け取ったけれど、ずしりとした重さがあまりに生々しい。芙蓉と芳槿の真似をして背負うと、なんとなく自分が強くなったような気がした。
「芙蓉、芳槿。あなたたちの剣を抜いてご覧なさい」
二人はすらりと剣を抜き放った。剣身は朝日を浴びてキラキラして、どことなく冷たいような印象を受けた。
つい見惚れてしまったけれど、二人の剣はどこかチグハグというか、どうにも不揃いなように見えた。
「あ」
つい漏らしたその声に、尼さんの嬉しそうな声が重なった。
「気づいたようね。隠娘、答えてご覧なさい」
そうだ。二人の剣は微妙に長さが違う。それに、どちらも鞘に比べて剣身がずっと短い。
「剣の長さが違うわ」
「素晴らしいわね、隠娘。そう、二人の剣はそれぞれ長さが違うの。習い始めは長かったけれど、使い込むうちにどんどん削れて短くなったのよ。芳槿の方がやや短いのがわかるかしら。彼女の剣術が芙蓉よりも磨かれていることの証拠ね。やがてもっと短くなり、手のひらに収まるくらいになる。そうなって初めて一人前、いや天下に敵なしといえるのよ」
そうだったんだ。あたし、長い方が強いのだとばかり思ってた。講談で出てくる一騎当千の猛将たちなんかは、決まって長い武器を振り回して、縦横無尽の活躍をしていたから。
「ねえ、尼さん! なら三国の張飛とか、関羽とか、それと、水滸の九紋龍とか、実はあんまり強くないってことになっちゃうの?」
もしそうだとしたら、結構ショックかも。だってーー
そこまで言ったとき、突然脇腹に鈍い痛みが走った。息が詰まる。隣にいた芙蓉の肘だった。
「いたあぃ……」
「アンタね。師娘だって、さっき言ったじゃない? それにその馴れ馴れしい態度と、言葉遣い。これだから世間知らずの箱入りはさぁ……さっさと改めないとひどいわよ」
「芙蓉、言葉を慎みなさいね。……でも、あなたも織女派に弟子入りしたからには、それに相応しい所作を身につけなければいけない。ふふ……確かにショックなのはわかるわ。関羽も張飛も、知らぬ者がいないほどの大英雄だものね」
尼さんがそう言うと、芙蓉は黙って一礼した。
「さて、二人とも。本日をもって、あなたたちは晴れて姉弟子となりました。今後は隠娘を妹分として、しっかり教え導くこと。いいわね」
芙蓉と芳槿は両手を胸の高さで合わせると、恭しく頭を垂れた。
あたし、これ知ってるわ。
抱拳といって、武芸者が目上の人に対して行う礼なの。横目で二人の仕草を盗み見たあたしは、すぐに真似をして礼をした。本格的な雰囲気に、何だかワクワクしてしまう。
尼さんは満足そうに目を細めると、小さく何度か頷いた。
「さあ、それでは……早速基本から仕込むことにしましょう。先程も言いましたが、あなたたちの時間には限りがある。いいかしら、芙蓉、芳槿。二人の武芸は随分磨かれていますが、もう後一押し、違う角度からの研鑽が必要です」
「はい!」
二人の短く鋭い返事に、空気があっという間に引き締まる。
「それは人に教えるということです。素人に教えることによって、当たり前に思って見落としていたものに気づくことができる。習慣の中に埋没していた、大切なものを再発見できる。隠娘に教えることは、あなたたちの成長を促すことになるの。気を抜くことなく取り組みなさい」
「はいっ!」
二人とも、かっこいい。あたし、心底そう思った。
あたしも織女派の一人なんだ。まだ始まったばかりだけれど、これからどんな修行が待っているんだろう。湧き起こってくるワクワクが、昨夜の寂しさを脇へ退けてくれるような気がした。




