第五話 芙蓉と芳槿
「こんにちは。聶隠娘さん」
呼ばれて振り向くと、瓶を捧げ持っていた女の子と目が合った。
「ようこそ、断機島へ。歓迎するわ」
その子は真っ白な衣を着ていた。髪は漆を塗り込めたようにつやつやと黒く輝いている。腰まで伸ばされたそれは、まるで星一つない夜空みたいだった。漆黒の髪が白い衣に映えて揺らめいている。
「う、うん! ありがとう、よろしくね」
白い衣の子はやや垂れ目がちな目を細めると、
「あたしは芳槿。こちらこそよろしくね」
よかった。とても穏やかで優しそう。
「……ほら、あなたも」
芳槿は小さく後ろを振り向くと、一歩下がったところで佇むもう一人の子を促した。
でも、その子は返事をせずに、黙ったまま、あたしに鋭い視線を投げつけてきた。
「ほら、ね?」
それでもその子は動かない。代わりに、小さな舌打ちが響いた。
芳槿の後ろにいた子は、明らかに不機嫌そうだった。あたしは途端に怖くなって、地面に目を落としてしまう。
「もう。だめじゃない。せっかく……」
「……わかったわよ。あたしは芙蓉。別によろしくしてくれなくてもいいけど、ま、とりあえずはよろしくね」
煩わしそうな声で、まるで吐き捨てるかのようだった。
「あ、あの、えっと。よ、よろしくね」
あたしは自分の舌を持て余しながら、ようやくそれだけ言うことができた。
その子――芙蓉は芳槿とまるで対照的だった。赤茶けた髪を後ろで束ねて、首を捻るたびにそれがぴょこぴょこ左右に動く。少し吊り目がちでとても気が強そうに見えた。
会話はそこで途切れてしまった。だって、芙蓉がものすごく険しい目つきであたし睨んでいるんだもの。こんな視線、あたし初めてだった。顔を合わせれば決まって絡んでくる小宝だって、こんなきつい目で睨んでくることはなかった。
「ね、隠娘さん」
横たわる沈黙を破ってくれたのは芳槿だった。じっとあたし見つめる彼女の瞳は、細波一つ立たない静かな水面のようで、どこか神秘的だった。
「さっき師娘から言いつかった通り、ここでの生活についてはあたしたちがきちんと教えるから、大丈夫。……ね、そうでしょ、芙蓉?」
芙蓉を見る。彼女は不満を隠そうともせず、渋々の体で頷いた。
「ならいいの。ねえ、隠娘さん。今日はいろいろあって疲れたでしょう? 霊薬も服用したばかりだし、早めに休んだ方がいいわ」
そう言われた途端、急に疲れがのしかかってきた。無意識のうちに、ほうっと大きなため息が溢れる。
「緊張していたのよ。あまりに突然すぎる出来事が、立て続けに起こったから」
よかった。芙蓉はどうにもとっつきにくいというか、あたしに敵意のようなものを向けている。でも、芳槿は違った。とても優しく接してくれて、何よりあたしのことを労ってくれている。
「ありがとう、その……芳槿ちゃん」
芳槿は僅かに頬を緩めた。眉に落ちかかる黒髪を指で少し弄りながら、
「何だか新鮮ね。さあ、おしゃべりはこれくらいにして、休む支度をしましょう。芙蓉?」
「わかってる。……よおくわかってるから」
芙蓉はそうこぼすと、あたしたちを置いて一人スタスタと洞窟の奥へ向かった。
ふと立ち止まり、こっちを振り向いて無言で顎をしゃくる。
「いきましょ。あの奥が寝室なの」
あたしの手を、ひんやりとした手のひらが包み込んだ。
そこは、寝室とは名ばかりの場所だった。
真ん中には大きな石がどん、と置かれていて、それはさっきあたしが横になっていた石の三倍はあった。その端っこには燭台があって、小さな蝋燭の炎が濁った影を揺らめかせている。
あたりを見渡しても、箪笥や机などの調度品は一切なかった。
驚きのあまり立ちすくんだあたしの耳に、微かな水音が聞こえてきた。音のした方を見ると、一番奥の壁に亀裂があって、そこから水が流れ落ちている。その下には小さな池ーー水溜りがあって、そこに湧き水が一滴、また一滴と滴り落ちていた。
蝋燭の炎が揺れるたび、大きくなった三人の影が、壁や床の上でふらふらする。
「これが、寝室……なの」
あまりに違いすぎる。鏡台、本棚、勉強机。あたしの部屋にあったものは何一つない。かろうじてベッドのように見えるのは、部屋の真ん中に置かれた大きな石だけ。もちろん、布団のようなものは見えない。
「アンタねぇ」
芙蓉だ。首を斜めに傾けて、あたしの顔を覗き込んできた。
「何を想像してたんだか知んないけどさ。流石にその態度は失礼なんじゃない? ここはあたしたちの部屋なんだけど」
見つめるその瞳には、明らかに怒りの色が浮かんでいた。
「アンタがどんだけ恵まれた生活をしていたかは知んないわ。でもね、ここはあたしと芳槿にとって、どんなお屋敷よりも素晴らしい場所なの。見下げてんじゃないわよ」
怒気をはらんだ低い声に、あたしは慌てて手を振った。
「ち、違うの。その、あの、そうじゃなくって」
でもどうしよう。何て言ったらいいのか、まるでわからない。
「芙蓉」
「何よ」
あたしと芙蓉の間に芳槿が入ってくれた。
「この子はついさっきまで、世俗で何不自由ない生活をしていたのよ。突然島に連れて来られて、とても重大な決断をして、寝床としてここを紹介された。頭が混乱するのも無理ないわ。もしもすぐに飲み込める子がいたら、あたしはそっちの方が不自然だと思う」
よかった。あたし、心底感謝したわ。芙蓉はいちいち怖いけど、芳槿がいてくれたら何とかやっていけそうに思える。
芙蓉は口をつぐむと、黙ったまま芳槿と向かい合った。やがて、
「そうね。あたしたちとは事情が異なるワケだし」
そう言うと、今度はあたしに目線を向けた。
「それに、まだ全てが決まったワケじゃない。ここからがスタートだから。……いい? 隠娘」
「う、うん」
芙蓉は口角をぐいっと釣り上げた。白い八重歯が僅かにその姿を見せる。
「明日から本格的な修行が始まる。あたしたちの足を引っ張らないよう、アンタは死ぬ気でついて来ること。わかった?」
「わ、わかった」
あたしはそう答えるのでやっとだった。
「さ、もういいでしょう? 芙蓉。早く休まないと明日からの修行に響くわ」
芳槿は静かにそう言うと、そのまま石の上に這い上がった。やっぱりこれがベッドなのね、と思っていると、続けて芙蓉が石のベッドに手をかけた。
いけない。早くあたしも上がらないと、また怒らせてしまう。慌てて登ろうとしたら、芙蓉の手がスッと伸びてきて、あたしをぐいっと引っ張り上げてくれた。
芳槿が蝋燭の火を吹き消すと、洞窟はあっという間に真っ暗闇になった。さっきまでの明るさがまるで嘘のように感じられて、少し身震いをしてしまう。
あたしたち三人は川の字になって、石の上で横になった。あたしを真ん中にして、両隣が芙蓉と芳槿。横から二人の温もりが伝わってくる。
でも、石の寝床は冷たく、硬い。
昨夜、父さまと母さまと寝たことを思い出して、ついべそをかいてしまったら、あたしを挟んで眠っていた二人がそっと手を握ってくれた。それは暖かくて優しい手だった。あたしがその手を握りしめると、二人はそれ以上にしっかりと、あたしの手を握り返してくれた。




