第三話 剣仙
「隠娘。……隠娘」
暗闇の中から呼ぶ声が聞こえる。
優しくて、柔らかい声だった。
「いつまで寝ているの? さあ、早く起きてしまいなさい」
声に促されてまぶたを開けると、橙色をした光がじわりと差し込んできた。
寝ぼけ眼をこすりながら体を起こす。
「うーん。母さま、おはようございます」
ふああ、と小さく欠伸をして、うーんと背伸びをする。
「母さま、外のお天気は?」
雪が止んでいるのなら、早く遊ぶ用意をしないと。家庭教師の先生が来る前に、老三と一緒に雪遊びをしなくっちゃ。
「ここでは雪は降らないのよ、隠娘」
その声に、あたしは驚いた。
「……え?」
一瞬、何だかわからなかった。
あたしの目の前にいるのは母さまじゃない。
雪のような肌、切れ長の美しい目。黒く明滅する二つの瞳。それが、微笑みを湛えながらあたしを見下ろしている。
そこにいたのは、昨夜、あたしのうちを訪れた尼さんだった。
「よかった。ぐっすり眠れたようね。安心したわ」
薄桃色の唇が動いた。
「ようこそ、断機島へ」
あたしはただ黙ったまま、尼さんの顔を見つめていた。宝石のような輝きを湛えた漆黒の瞳。そこに微かな細波が立ったようにみえた。
何が起こっているのか、全くわからない。
あたしの耳に、尼さんの声が、どんどん流れ込んでくる。
「ここは断機島よ。私は織女派掌門……俗名は捨てたわ」
だんきとう。しょくじょは……。何を言っているのか、全くわからない。
尼さんは急に真剣な表情になった。
「聶隠娘。あなたには武芸の素養がある。だからあなたを選びました。ここ断機島で武芸の稽古に励み、絶技を身につけ、塗炭の苦しみに喘ぐ民衆を救うのがあなたの使命ーーいいえ、運命なの」
澄んだ瞳があたしをじっと見つめている。身動き一つできなかった。
「隠娘」
その言葉で我に返った。瞬間、手のひらにひんやりとした感触があった。冷たく、硬い。いつも寝ているベッドのものじゃなかった。目をやると、それは石だった。
あたしは大きな石の上で寝かされていた。
冷えた空気の中を、ふらふらと揺れる濁った光。
それは小さな蝋燭だった。
橙色の光が、尼さんの顔の上でちろちろと揺れる。
慌ててあたりを見渡した。周りは剥き出しになった岩肌ばかりで、天井にも、壁にも、床にも、蝋燭以外には何の調度品もない。
まるで洞窟のようだった。殺風景で、不気味で……光の届かない暗がりから、今にも化け物が飛び出してきそう。
恐怖が一気に這い上がってきて、あたしの全身を支配した。鼻の奥がつんとする。目の端から、涙が一つぽろりと溢れた。その途端、まるで堰を切ったかのように、涙は後から後から溢れてきて、袖はあっという間にぐちょぐちょになった。
「よしよし。泣くことなんかないのよ。寂しくないからね、ここには修行仲間の子があと二人いるから」
尼さんはあたしを優しく抱き寄せ、頭を撫でながら慰めてくれた。尼さんの胸は柔らかくて、お香のような、とってもいい香りがした。
あたしは必死に嗚咽を呑み込みながら、
「父さま、母さまは?」
ようやくそれだけを聞くことができた。尼さんはそっとあたしを離すと、柔らかく微笑みながら、
「もちろん何の問題もないわ。あなたのことは、お二人にはご了解いただいているから、安心していいのよ。あなたのことをぜひよろしくって、それはご丁寧にお願いされているの」
「……え?」
夕べの父さまも母さまも、とてもそんなふうには見えなかた。
「あなたが不審に思うのも無理からぬこと。夕べは、いささか手違いがあって、お父さまを逆上させてしまったのです。今朝出直して、きちんとご説明申し上げたら、お父さまもお母さまも二つ返事で賛成して下さったのですよ」
尼さんはそう言うと、あたしの頬を優しく撫でて、涙を拭き取ってくれた。
「ほんとうに?」
小さく鼻をすすりながら尋ねる。尼さんは透き通った瞳で、あたしをじっと見つめていた。
そして、小さく頷いた。
「ほんとうよ。ご両親も、あなたが立派になって帰ってくることを楽しみにされているわ。だから、ここで修行に励むことこそが親孝行になるの。それに、少しの間離れるだけ、永遠に別れてしまうわけでもないわ。あなたは何にも不安に思うことはないのよ」
暖かな手のひら。綺麗に澄んだ瞳。とても嘘をついているようには見えなかったし、薄い灯火に照らされたその姿は、とても神秘的で、まるでお話で読んだ天女さまのように美しかった。
「どうやら落ち着いたようね。では、剣仙となるための準備を始めましょう」
思わず耳がぴくんってしてしまった。剣仙って、講談に出てくる剣術を使う仙人のことだわ。あたし、剣仙のお話が大好きなの。
剣を自在に操って、妖怪や悪人を成敗する、とっても痛快なお話。
事件を解決したり、正直者を救ったあとは、名前も名乗らずに颯爽と去っていく。もちろん見返りなんて求めないの。お決まりのセリフがあって、「路に不平を見れば、刀を抜いてあい助く」って言うの。かっこいいんだから。そんな剣仙にあたしもなれるのかしら。
「ふふ、剣仙に憧れているようね」
そう言われて、急に恥ずかしくなった。さっきまでめそめそしていたのに現金なようで、本心を見透かされたようで、頬がかあっと上気してしまう。
尼さんはふうわりと笑みをこぼすと、
「憧れこそが全ての原動力よ。いいかしら、隠娘。武芸を修めるには気持ちが最も大切なの。そこに素養が大きな影響を与えるわ。この二つは車の両輪のようなもの、どちらが欠けても大成できないの」
あたしの顔をのぞき込みながらそう言った。
「あたしでも……強くなれるの?」
恐る恐るそう聞くと、
「もちろん。いずれあなたは江湖に義を行う剣仙として、その名を大いに馳せることになるでしょう」
力強い言葉だった。その途端、心臓がバクバクと大きな音を立て出して、体の中が熱くなったように感じた。
あたしにも、講談に出てくる英雄豪傑みたいな活躍ができるんだ。それに、剣仙になれば、小宝なんかにビクビクする必要もない。きっと懲らしめて、お姉さまって呼ばせてやるわ。
思わず頬が緩んでしまった。尼さんはクスリと笑みをこぼすと、
「剣仙少女聶隠娘の誕生ね」
ものすごくかっこいいわ。あたしは勢いよくうなずいた。
尼さんの瞳はまるで雲一つない晴れた夜空のようだった。
白い指がゆっくりと伸びてくる。尼さんはあたしの前髪を優しく梳りながら、
「隠娘。あなたは我が織女派の武功を余す所なく身につけ、義侠の行いであまねく世の中を照らすのよ」
声は空気に触れた瞬間、まるで雪のように溶けて消えた。
でも、あたしの耳の奥ではずっと反響し続けていた。
胸がドキドキする。あたしには、この尼さんがものすごく神々しく映った。もしかして、この人、仙人さまかしら。あたし、みどころがあって、仙人さまに選ばれてしまったのかしら。
尼さんは頬を緩めると、そっと後ろを振り返った。空気が微かに振動して、甘い香りが音もなく流れた。つられてその視線を追うと、洞窟の入り口にはほのかな光が差し込んでいて、小さな二つの影がぼんやりと浮かんでいた。
「芙蓉、芳槿。すぐに準備を始めてちょうだい」




