第四話 師娘
「あの女は神仙なんだ」
その日、空児はまるで挨拶でもするようにさらりと言った。
「もちろん剣仙でもある。でもね、仙人は不老不死ではないんだよ」
いつもと同じように杯の解毒剤を飲み下す。あたしたちが毎日服用しているこの薬の材料は二人が用心棒を務める烏衣鏢局からもたらされていた。西の方にある山岳地帯、蜀の地に聳える霊峰からはるばる運んできているそうだった。
部屋にはあたしと空児だけ。姉さま方は隣の部屋で内力を運行している。それがお二人の服薬した後の日課だった。それによって症状の悪化を少しでも遅らせることができる。精児にとってもそれは同様だが、彼女の場合は体の七割が鉱物化しているため、焼石に水ほどの効果も期待できないらしかった。
「殺せば死ぬ」
空児は言う。仙人とは不老不死ではなく不老長生の存在である。霊薬を服用することによって老化現象を抑え込んでいるに過ぎない。よって欠損した体は再生などしなければ、常人には計り知ることができないほどの緩やかな速度で確実に劣化している。だから――
「殺せる」
と。
虫の知らせ、というものは本当にあるのかもしれない。
なぜならばその夜――あたしたちの目の前に満身創痍の師娘が姿を現したのだから。
※
真っ白の僧衣が紅に染まっていた。右袖は風もないのに頼りなくフラフラと揺らぎ、残された左腕は力なくだらりと垂れ下がっている。一歩、また一歩と、足を引きずるようにしてあたしたちの方へにじり寄って来る師娘の顔色は真っ青だった。不規則に乱れた吐息がここまで到達するその間に師娘の身に何が起こったのかをありありと教えてくれている。
あたしはその凄惨な様子に息を呑んだ。姉さま方の手を握る。お二人の手も小刻みに震えていた。やがて師娘は部屋の真ん中くらいで歩みを止めた。血糊を刷いた赤い唇から苦しそうな呼吸音がポツポツと漏れている。
「忌々しい、あの……」
そう漏らすと、師娘は左腕をゆっくりと上げた。関節の軋む音が聞こえてきそうなくらい、緩慢で、機械じみた動きだった。左手を鳩尾まで運ぶと、何かを掴んで引き抜くような動作をした。遅れて微かな金属音が床で跳ねる。
「二度までも、この暗器で」
確かに音はしたが床には何も見えない。髪の毛以上に細い暗器なのだろうか。
いや、しかし。今はそれどころではない。
二人は。空児と精児は。
二人はどうなった?
朱に染まった師娘。それは同時に先ほどまで行われていたであろう死闘の凄惨さをも現していた。
「……隠娘。そこにいたのね。私の大切な隠娘……。さあ、迎えに来ましたよ」
ごぼり、と鮮血が胸をしとどに濡らす。明らかに、師娘は致命傷を負っている。
ただ黙ったまま、凝視する他ないあたしたちの前で、師娘はまるで糸が切れるようにして床に膝をついた。溢れ出る血が床に敷き詰められた石畳の隙間を音もなく這う。
「ああ……でも、もうダメね。このままでは、全てが無為に」
口を開く度に赤い飛沫が散る。乱れる呼吸音はまるで壊れた笛だった。
師娘は膝だけでにじり寄ってきた。でもわずか数歩を進んだだけで力なく倒れ伏してしまった。上目遣いで見つめてくる漆黒の瞳。その瞳の奥にかつて見えた光芒は、今にも消え失せてしまいそうなほどに頼りなく瞬いている。
「隠娘……芙蓉、芳槿。最期に頼みが。三人を、織女派門人と見込んで、頼みたいことが」
掠れた声。荒い息遣い。薄らいだ瞳。あたしたちは滑り落ちるようにベッドから降りると、急いで師娘の元へと駆けつけようとした。
「ダメだ! 行っては……!」
飛んできたのは鬼気迫る叫びだった。髪を振り乱し、右手で脇腹を抑え、壁に寄りかかるようにして立っている空児の姿が目に飛び込んできた。
つい足が止まってしまう。なぜだかは分からない。ただ空児の放つ言葉から、そのボロボロになった姿から、ただならぬ気配、雰囲気を感じ取ったからに過ぎない。
「お願い。私はあなたたちの師娘なのですよ。私に、少しでも恩義を感じているのなら……最期の望みを叶えさせて頂戴」
二つの言葉に挟まれてわずかにためらったその瞬間だった。床を這った芳槿姉さまが頽れた師娘を素早く助け起こし、芙蓉姉さまは一息に駆け寄って顔についた血糊を拭った。
「ありがとう、二人とも。それでこそ……あなた方を救った甲斐があるというものです」
空児は床に片膝をつき、歯噛みの音が聞こえそうなほどの形相で師娘を睨んでいる。だが精も根も尽き果てたのか、そこから立ち上がる気配はない。
「残念ですが、私はもう保ちません。ここで最期を迎える覚悟はできています。だから、せめて……せめて最期はあなた方三人に看取ってもらいたいのです。どうか、その膝の上で」
その言葉に弾かれるようにして、あたしはすぐさま師娘の前に跪いた。すでに意識が朦朧としているのだろうか、焦点は定まらず宙をさまよい、口の端からは小さな赤い泡が音もなく溢れている。
「遺言を……隠娘。声が掠れて……そう、もう少し顔を」
膝の上でみるみる弱っていく師娘の口に、あたしは急いで耳をつけようとした。
「ああ……完成は間近に迫っていたのに。時が満ちるのを待つだけだったのに……」
あたしは全身を耳にした。一言一句、聞き漏らすまい、とさらに顔を近づけた、そのとき。
突然師娘の顔が翻った。あっという間もなく、あたしの唇を柔らかく暖かなものが押し包んだ。鉄の味。次の瞬間には唇を上下に押し広げながら、ぬめりとしたものがあたしの口の中へと入り込んできた。それは口の中を無遠慮に這いずり回る。
師娘に口を吸われている。ようやくそれと気づいたとき、あたしの口の中に硬くて冷たい球形のものが突如として現れた。息苦しさと羞恥で唇を引き剥がそうともがいても、師娘の腕ががっちりと絡みついて抜け出すことができない。
口の中に熱くてドロリとしたものが突如溢れた。同時に師娘の唇がゆっくりと離れる。あたしはただ茫然自失として目の前に立つ小さな影を見上げた。そこには包帯がずり落ち岩肌を晒した精児。その双剣が師娘の胸に深々と突き刺さっていた。
師娘は薄く発光していた。少しずつその姿が薄くなっていく。芙蓉姉さまも芳槿姉さまも消えゆく師娘に取り縋って嗚咽を漏らしている。
あたしは何がどうなったのか全く理解が追いつかず、息苦しさに任せて大きく息を吸ったその拍子に、口の中に現れた球をごくりと飲み込んでしまった。




