第三話 氷解
姉さま方と会えなくなって――いや、二度と会えないと信じ込んでから一体どれほどの月日が流れたんだろう。
はっきりとわからない。それぐらい長かった。そもそも覚えてもいなければ数えてもいなかったし、そんな気すら起こらなかった。だって、あたしの心の中には「それ」がずっと居座り続けたから。あたしは「それ」に心をずっと囚われ続けたから。
でも、そんなことはもうどうだってよかった。
今、目の前に姉さま方がいる。それだけが、そのことだけが、あたしにとっての現実だから。もう離れたくない。もう二度と、遠くへ行って欲しくない。あたしは声にならない嗚咽を、ただ子どものように繰り返すだけだった。
※
芳槿姉さまは車輪のついた椅子に座っていた。それを芙蓉姉さまが押している。カラカラと乾いた音が部屋に響き、足取りが覚束ないのだろうか、芙蓉姉さまは少しフラフラしながらあたしのベッドまで椅子を押してきた。
「全く、アンタってばほんっと変わんないわね」
ピーピーうっさいんだから、と呆れた口調の芙蓉姉さまだったけれど、あたしはとっくに気づいていた。さっきまで芙蓉姉さまも頻りに鼻をすすっていたことに。
「でも、本当に嬉しいわ。またこうして会えるだなんて。お二人には感謝してもしきれない」
穏やかな口調でそう言うと、芳槿姉さまは少し離れたところで目を細めていた空児と精児に深々とお辞儀をした。
「それには及ばないよ。君たち二人を救ったのも、もともとは私たちが復讐を遂げるために打った一手段に過ぎないからね」
「……」
言葉を詰まらせた芳槿姉さまに空児は微笑みを投げると、
「だから、そこまで感謝する必要もないんだ。だって私たちは君たちの恩人でもあるあの女を殺したくて堪らないんだからね」
それだけを言い残して、二人は部屋を出ていった。
沈黙が部屋を支配した。姉さま方はうつむいたまま、一言も発しない。それはあたしも同じだった。
確かにあたしたちは師娘に騙されていた。比武の話、牽牛派の凶行。全てが狂言、デタラメだった。復讐の炎を燃えたぎらせるあたしに、師娘はずっと薪をくべ続けた。強い霊薬を飲ませてあたしの記憶と感情を押さえ込みながら。
でも、それでも、あたしたち三人にとって師娘は恩人だった。生き地獄のようだった境遇からお二人を救ったのは他ならぬ師娘だし、師娘のおかげであたしは何よりも大切な姉を得ることができたのだから。
空児の言を借りればあたしは「人形」と同じだった。記憶を封じ感情を抑制し、師娘の指示の通りに殺戮を繰り返す人形。ただ、師娘にどんな考えや意図があってあたしをそうしたのかは分からない。
復讐こそがあたしの生きる全てだった。生き甲斐だった。あたしがこの世に存在する意義そのものだった。でも、あたしにとっての「それ」はもう終わった。そう、あたしにとっては。
「ねえ、隠娘」
芳槿姉さまだった。
「少し話しておきたいことがあるの」
その言葉に芙蓉姉さまが小さく頷く。
「あたしたちはもう昔のような武功を発揮することはできないの」
「え……?」
息が詰まった。それはどういうことなのだろうか。混乱する。霊薬の副作用のせいなのだろうか。精児の顔が頭を過ぎる。喉がカラカラになったようで、続く言葉を発することができない。
「見ての通り、足を動かせなくなってしまったのよ」
下半身の感覚がないの。芳槿姉さまは静かにそうこぼした。
「あたしは目をやられてる。全てが霞んで、ぼやけて見えるんだ。もうすぐ何も見えなくなるらしい」
だからあの二人と戦ったとしても、絶対に敵いっこない。仮に万全の状態で挑んだとしても勝ち目は薄い。それはアンタもわかってるでしょ? こてんぱんにやられたんだからさ。おどけた感じの芙蓉姉さまの言葉に、懐かしさが込み上げると同時に、言いようのない悲しみが湧き起こった。
「それにね、もともと争う気はないのよ」
芳槿姉さまの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「あたしたちは師娘のためなら、師娘が望むなら、この命を捧げても惜しくはなかった。生きていること自体が屈辱だったあそこから、師娘はあたしたちを連れ出してくれて、そして新しい人生を――生きるための目標を与えてくれたのだから。それは生きる意味と言ってもいいわ」
「そうさ。それは師娘が何者だったとしても絶対に変わらないし、変えようとも思わない」
「あの日。師娘はあたしたちの魂が欲しいと言ったわ。もちろん理由なんて教えてくれない。でも、あたしたちはそれでも構わなかった。ただ一つだけ、心残りなことがあったけれど」
そこで言葉を切った芳槿姉さまは、あたしをじっと見つめてから芙蓉姉さまを振り返った。
「ねえ、芙蓉。そうでしょう?」
「さー? そんなこともあったかもね」
どこか決まりの悪そうな芙蓉姉さまの様子がおかしかったのか、芳槿姉さまはクスリと笑い声を立てた。
「不思議ね。そう思わない? 隠娘」
あたしにはおっしゃることの意味がよく分からなかった。何が不思議なのだろう。
「あの二人のことよ。師娘への復讐だけが目的なら、わざわざあたしたちを助けなくてもよかったはずなの。だって」
「ああ。二人があたしたちに構っているその隙をついて、師娘は逃げおおせることができたんだから」
話を聞いて確かにそうだと思った。しかも数年間もお二人を匿って治療を施し、今度はあたしも同じように救出してくれたのだ。
「あたしたちを救うことが、あの二人にとっての復讐……」
空児は確かにそう言った。一手段だとも。
「それが何を意味すんのかは分かんないわね。さしずめ師娘の邪魔というか、妨害? 嫌がらせをしてるみたいにしか見えないんだけど」
ますます分からなくなる。芙蓉姉さまの見立てはあまりに安直な感じがするし、かと言ってそれ以外に何か思いつくわけでもない。「考えても仕方ないわ」芳槿姉さまは首を捻るあたしにそう言うと、
「あの二人はあたしたちを救ってくれた。そしてもう一度、可愛い妹分に再会させてくれた。それが現実じゃない。だからあたしたちはどちらにも味方しないって決めたの。それにね」
芳槿姉さまはそこで一旦言葉を切った。わずかな沈黙を挟んだ後、寂しそうな、でもどこかほっとしたような、寂寥と安堵の色がないまぜになったような表情で、
――あたしたちはあの日、一度死んだんだもの。
ぽつり、とそうおっしゃったのだった。




