第二話 忘れ得ぬ二人
空児に聞かされた話は、そのときのあたしには到底すぐに受け止められるものではなかった。
あまりの衝撃に目の前が真っ暗になったのを覚えている。
復讐。
あのとき空児はそう言った。「あの女」に復讐するのだと。
この世でたった一人の家族、かけがえのない存在である自身の姉。
精児を異形の姿に変えてしまったあの女。
不倶戴天の仇だ――そう言う彼女の瞳には大粒の涙が溢れていた。
空児が言う「あの女」。それはあたしたちの師娘だった。
芙蓉姉さまと芳槿姉さまが断機島へ連れて来られる数年前に、空児と精児の二人は師娘に伴われて島へ来たということだった。
つまり彼女たちはあたしと同門の先輩だった。それならあの吹雪の夜のことも頷ける。あたしの繰り出す織女素心剣が全く通用しなかったこと。初見殺しの技がことごとく躱されたこと。全て合点がいった。
慌てて後輩の礼を取ろうとするあたしを空児は押しとどめた。もう織女派じゃないから。織女派を抜けて新たな武芸を身につけたから跪くには及ばない、と言って。
精児には天賦の才があった。それに惚れ込んだ師娘は強い霊薬をどんどん与えたらしい。やがて霊薬の副作用が現れた。精児を襲ったそれは、体が鉱物化するものだった。霊薬の原材料には数種類の鉱物を含んでいるらしく、精児の体は少しずつ岩石のようになっていった。鉱物化現象によって成長が止まった今の精児は副作用が出始めた十二歳ごろの体格のままだという。しかも鉱物化は今も尚少しずつ進行していた。だから精児は片目しか見えないし、話すこともできない。
そして――師娘によって精児は「失敗作」とみなされた。途端にそっけなくなった師娘に不信感を覚えた二人は隙を突いて島から脱出したが、師娘は特に気にかけなかったらしい。
「あの女はね。私たちが野垂れ死ぬと思ったんだ。霊薬なしでは生きていけない体にされたからね」
霊薬。姉さま方もあたしもそれを服用していた。その霊薬には依存性と副作用がある。依存性は、定期的に霊薬を服用しないと命を保てないということ。副作用は、身体や精神に何らかの異常をきたしてしまうこと。霊薬は超常の力を与えてくれる代わりに、こうした呪縛によってその身を永遠に蝕み続けるものでもあった。
復讐。「あの女」への。あたしの師娘への。
それが空児の、いや二人の悲願だということは痛いくらいによく分かった。
「大丈夫。君の複雑な胸の裡は理解しているつもりだよ」
空児は穏やかにそう言った。
「あの女は君を後継に選んでいる。その執心ぶりは姉さん以上だ。そしてあの女にはもう君一人しかいない。どうあっても、君のことを取り戻したいんだ」
二人の復讐。それは――
「きっと君の身柄を躍起になって探しているはずだ。そこにつけ込んであの女を討ち果たす。そして」
織女派をこの世から葬り去る。
強い意志を秘めた口調で空児はそう宣言した。
※
「隠娘ちゃん。すっかりよくなったみたいだね」
空児はにこにこと笑顔を浮かべながら、精児の捧げ持ったお盆から杯を取り上げた。
その杯には濃い緑をした液体が入っている。
空児は手にした杯をいつもと同じように自分であおった。精児も同じように杯を口につける。そうして残った一つをあたしに差し出した。
この液体には鉱毒の解毒作用、つまり霊薬によって引き起こされる副作用を中和する効能があるとのことで、昏睡していたあたしにずっと飲ませていたそうだ。
二人は断機島を抜けたあと、霊薬の副作用に悩まされながら逃亡を続けていた。命を繋ぐには霊薬を舐める他なかったが、それでは副作用から逃れられない。でも、その以前に、逃亡者の二人には霊薬を手に入れる術がなかった。
霊薬の呪縛はまさに枷だった。織女派を恨み、師娘を呪い、自分たちに背負わされた運命の残酷をさを天に嘆いていたあるとき、二人はある一人の奇人に出会った。二人のことを憐れんだ奇人は珍しい薬草を惜しげもなく調合して、一つの解毒薬を作って二人に飲ませた。
それが今あたしが手にしている杯の液体だった。
「少し苦いけれど、効き目は抜群なんだ。今更言うまでもないけれどね」
悪戯っぽく笑う空児を見ていると、あれほど苛烈な復讐心を胸の中で燃えたぎらせているようには到底思えない。
空児に言わせると、あたしは順調に回復しているらしく、頭痛がしなくなったことがその証拠だという。これはあたしを診断した空児の推測だが、おそらく記憶や感情が何らかの形で揺さぶられたときに起こる症状ではないか、という。
ただ、空児にもなぜ師娘があたしにこうした霊薬を与えていたのか、その狙いとするところまではわからなかった。おそらくは掌門しか知り得ない何らかの秘密や理由があるに違いない。空児はそう結論づけて、焦らず療養することを勧めてくれた。
空児の薬によって副作用は中和されつつあった。そして、霊薬で得たはずの武功はというと、不思議なことに全く体から失われることはなかった。空児と精児にしてもそもそもが武功を扱っていたのだから、意外に感じるとか驚くことではないかもしれないが、あたしにとってこのことはとてもありがたく、そして嬉しいものだった。
※
そして、その日がやってきた。
天が裂け地が割れ、大河が氾濫して洪水で押し流されてしまうような、大きな衝撃。
茫然自失。夢か現か。体の底から、芯から、ぶるぶると打ち震えるような、大きな歓喜。
声にならない。言葉が出てこない。溢れるおもいがあまりに大きすぎて、それに声が、言葉が追いつかない。
かつて心が引き裂かれたことがあった。それは心に黒くて大きな爪痕を残した。後悔という名の決して消すことのできない傷痕を。そして後悔はあたしの心に「それ」を生み出した。やがて積み重ねた時間、流れた時間のその分だけ、あたしの中で生まれた「それ」はどんどん大きくなって。
喪失の悲しみを、ポッカリと開いた穴を、埋めるように、埋めようとするように、あたしはただ「それ」にしがみついた。固執した。ひたすら「それ」を果たすためだけに、あたしはずっと生きてきた。
「それ」は黒い鎖のようなもの。あたしの心と体をがんじがらめにする、黒くて太い鎖だった。繋ぎ止めるために、逃れられないようにするために。
でも。今、あたしを縛り付けていた黒い「それ」は、まるで太陽に出会った氷のように、ただ静かに、そして驚くほどすんなりと、溶けて消えて失くなった。
目の前に。ずっと夢にまで見た人がいる。
会いたくて、声を交わしたくて、たまらなかった。
あたしにとって、かけがえのないお二人が。
名前を呼びたくて、触れたくて、仕方がなかった、そのお二人が。
もう短剣に語りかけなくてもいい。胸にきつく抱き締めなくてもいい。
唇が震えて喉が掠れた。
これが精一杯。口からこぼれたのは声にならない音、たったそれだけ。それに、あたしは万感のおもいを込めた。
お二人は、昔とまるで変わらない笑顔を浮かべたままで。声にならない泣き声をあげて、顔をぐしゃぐしゃにするあたしを、失くしたはずのいつかの日と同じように、ちょっぴり困ったような、どこか照れ臭いような、そんな表情で受け止めて下さった。




