第十一話 死闘
横殴りの雪を体に感じながら数回とんぼを切って着地。
足の裏にサクリとした感触。容赦なく雪が吹き付けてくる。
視界は悪い。雪を連れた風の音が耳朶を掠め続けるその中に、あたしの前後で雪を踏む音が二つ聞こえた。
距離はどちらも十歩ほど。確認するまでもなくあの二人組――空児と精児で間違いない。
あたしは素早く飛びすさった。挟み撃ちでは分が悪い。二人を視界に捉えながら大きく間合いを取り直す。
「咄嗟の機転だったね。でも」
空児の声が響く。張りのある声は吹き荒ぶ風の音にもまるで負けていない。それは空児の内力が人並み外れていることを如実に物語っていた。
「君にはここで大人しく捕まってもらうよ。会わせたい人がいるんだ」
左から精児がゆっくりと近づいてくる。やや遅れる形で空児が距離を詰めてきた。
素早く地形を確認。雪に遮られているが四阿が一棟、それを囲むように奇岩や背の高い木がいくつか見えた。
暗器は通用しない。至近距離からの投擲でさえ難なく躱された。後は持てる剣技と功力を振り絞って立ち向かうだけ。それに師娘は無事。それさえ分かれば恐れるものなんてない。
精児が剣を抜き放った。背格好にはそぐわない長剣だ。それを二本も構えている。明らかにアンバランス、懐に入ってしまえば匕首が圧倒的に有利。しかしコイツは師娘を退けている。取り回しの悪い武器とはいえ、気を引き締めてかからねば。
一方の空児の得物は笛。殺傷力は低いだろうが、おそらくは内力が流されている。屋内の攻防で匕首を弾き返したことがその証拠だ。擦りでもすればひとたまりもないだろう。
あたしの間合いは十歩の距離。精児の方がやや近く、空児は遅れること数歩といったところ。それなら。あたしはすぐさま心を決めた。
奥歯を噛み締め地面を蹴って精児へ向かう。包帯がゆらりとしたその瞬間、精児の姿は忽然と消え去っていた。素早く左右を確認。姿はない。すぐに身を翻して四阿へ跳ぶ。屋根瓦に着地するところを見計らったかのように、笛が横薙ぎにあたしの足を襲った。足裏に内力を集中させ笛の先端を思い切り踏みつけ、そのままもう一度中空へ身を躍らせる。
「姉さん、そっちへ行ったよ」
こめかみに走った痛みを堪えながら前方を凝視する。四阿のはすかいに聳える奇岩の上に包帯はいた。空児同様着地を狙った刺突が繰り出される。咄嗟に右足で剣尖を蹴り飛ばしそのまま後方宙返り、置き土産とばかりに髪の毛を擲つ。着弾も確認せず身を大きく捩って雪の降り積もる地面へ着地、息する間もなく飛び退って距離を大きく取り直す。
四阿と巨岩の上から二つの影がするりと降りてきた。少しずつこちらへ歩みを寄せてくる。横殴りだった風が少しずつ勢いを収め、頬を打つ雪もそれにつれて次第に弱まりを見せていた。
この二人は一体何者だ。あたしの軽功を上回るかのような身のこなし。そして雪上には歩いた跡がほとんど見えない。二人は足跡をつけることなく雪の上を歩いている。音もなく舞い落ちる粉雪のように。
逃げられない。それは直感だった。これほどの軽功の遣い手に出会ったことなど――
駆け抜ける白い影。
「うっ」
弾けた。頭の中で、何かが。火花が。雷光が。
それは軽功。影も踏ませない、あの軽功。
それは、島で。
白い、かげが。
はしる。はねて、ちゅうを、まう。
お、おお、おきれいな、
ね、ねえさ……。
「ぐうっ」
頭痛がする。頭が割れるように痛い。今、あたしは何を口走ろうとした? 分からない。
分からない、分からない。
「まずいね、副作用だ。姉さん、ここは」
頭が痛い。頭の中に釘を何本も突っ込まれてそれをかき混ぜるような。
く、薬はどこだ。どこに。
膝が震える。足取りが覚束ない。頭を押さえる。体の穴という穴から血が吹きこぼれそう。
でも。でも、でも。ここで斃れるわけにはいかない。右手の匕首を無我夢中で振り回す。
「隠娘ちゃん、落ち着いて! とにかく落ち着くんだ。そうしないと内力が暴走してしまう」
誰? だれ? だれがあたしをよんでいるの?
「私たちは味方なんだよ。君を救いに来たんだ」
あたしを救う? それは何? なぜあたしを救うの? どうして救われなければならないの?
味方? そんなはずはない。狂言だ。でたらめだ。あたしを油断させるための。
右手の匕首を確かめる。手のひらに馴染んだ感触。それが現実を教えてくれ――
「がああっ」
何かが逆流しようとしている。胸の中、いや丹田の方から。熱い奔流が体をバラバラにしようとしている。
立っていられない。ドサリと膝をつく。その拍子に懐から何かがこぼれ落ちた。古びた布包が解ける。火照った体。冷たい感触。
二本の短剣に雪がちらちらと舞い落ちた。
錆のこびりついた、不揃いな二本の短剣の上に。
あたしは黙って、それを見つめる。
止まっていた時間。それが少しずつ動き出す。そんな感覚。
そう……だ。そう、だった。
なぜだろう。なぜ、だろう。
すっかり、あたしは忘れてしまっていた。
心に、いいや、魂に刻み込んだはずのそのおもいを。
これは、罰だ。この痛みは罰なんだ。
二人の短剣を掴み、立ち上がる。軋む体に鞭打ちながら。
匕首を構え、左手には短剣を握り込む。
目の奥で星が踊っていた。
「ダメか。姉さん、二人がかりだ。点穴で押さえ込もう」
嘆息混じりのその声が雪の上で跳ねた瞬間、あたしは無心で精児に突っ込んだ。
精児は晒した片目でこちらを一瞥すると、手早く両手の剣を構え直した。
「ええいっ!」
裂帛の気合いが漏れた。颯颯と匕首を舞わし、包帯の巻き起こす剣風をかい潜りながら、必殺の一撃を叩き込む機会を窺う。
頭が熱い。目の底が熱い。血管が、心臓が、熱い。
包帯の双剣はまるで生き物のように自在に動き、あたしの急所を的確に抑えようと間断なく伸びてくる。
初めこそ攻勢に立っていたが、気が付けばスルスルと攻撃がいなされ、あたしは防戦一方になっていた。
通用しない。あたしはついにそう悟った。繰り出す剣技の全てが、この包帯に見切られてしまっている。織女素心剣が全く用をなさなかった。そして、織女派が誇る無双の軽功も同じだった。
あたしは双剣によって完全に封じ込まれている。これでは絶体絶命だった。上下左右、どちらへ身を翻しても、精児の剣陣から逃れられない。
水も漏らさぬ剣撃の輪に空児が押し入ってきた。笛が空を切るたびに、夜の空気が振動する。軽やかで鋭い風切り音に、あたしは思わず首をすくめた。笛には雄渾な内力が流されている。ひと擦りでもすればたちまち点穴を決められてしまう。
目から、耳から、鼻から。
今にも血が噴き出しそうな感覚。
視界が赤い。
ただひたすら、体が叩き込まれた剣技をなぞり続ける。
考えるより先に体が動く。動き続ける。
しかし。
じりじりと、敗北が確かな足取りで迫ってくる。
双剣と笛が、変幻自在の動きであたしを捉えようと迫ってくる。
まだ。
まだよ。
まだ、こんなところで。
「あたしは!」
気合とともに、遮二無二匕首を右へ薙ぎ払う。
「仇を取るんだ!」
虚空へ向かって、あたしは吠えた。
「姉さま方の!」
喉の奥から。肚の底から。
「仇を討つんだ! それまでは絶対に!」
絞り出すように。吐き出すように。
「うわあああっ!」
剣訣で精児の双剣を弾き返す。
精児の足がほんの少し乱れた。その一瞬の隙をついて、あたしは無心で匕首を繰り出した。
届け。
第九手「盈盈一水間」、そして最終手「脈脈不得語」。
この連続技で、その体まで。
精児が小さく身を捻る。匕首は狙い通り、真っ直ぐにその首筋へ。
微かに布を裂く音が響く。
匕首の先端は、精児の頬のあたりを掠めながら、そのまま夜空へ放たれた。
右腕に痺れが走る。あたしの右腕を、空児の笛がしたたかに打ち据えていた。
遠くの方で、金属の跳ねる音がした。
微かなその音が夜気に溶けて消えたころ、あたしは全身を引き裂く痛みも忘れて、精児の顔に見入っていた。
匕首で切り裂かれ、白い包帯がハラハラとずり落ちていく。
その下から現れたのは暗灰色の肌だった。
肌はゴツゴツとしていて、まるで岩石のようだった。
左目は白く濁り、唇はひび割れ、鼻梁も頬も額もでこぼこしていた。
到底、人間の顔だとは思えない。
唯一、右目だけが、潤いを保って雪の光を反射していた。




