第二話 雪の夜に
「母さま!」
「ああ、隠娘」
寝室では母さまがベッドに腰かけていた。お顔は真っ青。あたしはすぐさま母さまの胸の中に飛び込んだ。
「隠娘、わけのわからぬ客人はもう帰ったの?」
母さまのお声は少しうわずっていた。
「ううん、まだなの。父さまと押し問答をしているわ」
あたし、母さまを少しでも安心させたくて、
「とても綺麗な尼さんなのよ。とうてい悪人には見えなかったけれど」
でも。武芸の修行をつけるために迎えに来ただなんて、やっぱりちょっとおかしい気がする。
母さまはぎゅっとあたしを抱きしめてくれた。
「なりは尼でも、こんな吹雪の夜に……物乞いにしろ何にしろ、薄気味悪いことこの上ありません。いいですね、もう見に行ってはいけませんよ」
「はい、母さま。お部屋でじっとしているから、安心して」
母さまは優しく微笑むと、あたしの頭を撫でてくれた。あたしは母さまの横に座ると、そのまま膝枕をしてもらったの。母さまのお膝は暖かくて、なんだかほっとしてしまう。
「もう十歳にもなるのに、甘えん坊さんだこと」
優しく髪をすいて下さる母さまの指先。ほっそりとしなやかで、なんだか少しくすぐったい。あたしは目を閉じたまま、母さまのするのに任せていた。気持ちよくて体が溶けてしまいそう。
まどろみかけたそのとき、扉を開ける大きな音がした。
父さまだわ。どんどんと床を踏み鳴らして、足音からも怒っているのがわかった。あたしは急に不安になって、母さまの膝を下りると、父さまに抱きついたの。
「おお、隠娘。安心おし、薄汚い尼は追い払ってやったから」
頭を撫でてくれる父さまの手は大きくて暖かくて、あっという間にあたしは安心した。
いつもの優しい父さまだ。
「あなた」
「大丈夫だ。全く、よりにもよってこんな天気の日に。気分が悪くてしようがない」
母さまはすぐにお酒の支度を始めた。ベッド脇のテーブルに、お酒の入った器と簡単なおつまみを用意する。父さまは少しだけ表情を緩め、お酒を一息に飲み干すと、
「あの物乞い、捨て台詞を残していきおった。『たとえ鉄の箱に入れて、鍵をかけたとしても、必ず連れて参ります』だと。ふん、大方人さらいのたぐいで間違いないだろう。妄言で心を惑わし、隙を突いたところで仲間が押しかける……よくある筋書きだ」
妄言。確かにそうかもしれない。だって、あたしに武芸の才能があるとか言ってたんだもの。そんなものがもしあるのなら、真っ先にあの憎たらしい小宝を懲らしめてやるんだから。
「まあ……なんてことかしら」
母さまは小さな溜息をついた。空になった杯にお代わりを注ぐと、
「ねえあなた、今夜は三人で寝ましょう? どうしても気味が悪いもの」
その言葉に、あたしは思わず顔を上げた。
「そうだな。力づくでのかどわかしなぞあの尼にはできそうにないが、仲間が控えていたら面倒だ。まあ、仮に賊が押し入ったとしても、屋敷には使用人がたくさんいる。縛り上げて役所に突き出すだけだが……」
父さまと目が合う。父さまは微笑みを浮かべながら、
「久しぶりに三人で寝るか」
「本当? 父さま、大好き!」
あたしね、十歳になったお祝いに、自分のお部屋をもらったの。でも、一人で寝るのは少しだけ寂しかった。最近はずいぶん慣れていたけれど、どうしてもお二人の温もりが恋しくなって、ついベソをかいてしまうこともあった。
あたしは急いでベッドに潜り込んだ。そんなあたしを見て、父さまも母さまも苦笑いをしていたわ。でも、そんなこと気にしない。だって、三人で寝るのは本当に久しぶりだし、絶対に気持ちいいもの。
母さまが部屋の明かりを消した。微かな衣擦れの音がすると、前と同じように、父さまが左、母さまが右、あたしを挟むようにして床に着いた。
母さまのほんのりとした甘い香り。父さまはやっぱりお酒くさいわ。でも、それも今となってはどこか懐かしい。あたしは鼻を小さく鳴らすと、母さまの胸に顔を埋めた。
左に父さま、右に母さまのぬくもりを感じる。
布団の中ってこんなに暖かいんだ。あたし、本当に幸せだわ。
そう思った途端、さっきの尼さんの顔がまぶたの裏に浮かび上がった。
こんな吹雪の夜なのに、どうやって一晩過ごすのかしら。
やっぱり、お叱りを恐れずに意見をするべきだったのかしら。
「隠娘、眠れないの?」
母さまだ。小さく頭を振ると、柔らかく抱きしめてくれた。微かな熱が背中に広がる。
あたしが一人であれこれ考えたって、あの尼さんにしてあげられることは何もない。だってどうしようもないもの。あたし、薄情なのかな。何かをしたいって気持ちに嘘はないけれど、でも……。
もうやめよう。このままじゃ眠れないし、母さまを心配させてしまう。もっと楽しいことを考えようっと。
うん、明日はきっと晴れているわ。お庭に雪はどれくらい積もっているかしら。
老三と雪投げをして、うふふ、たくさんぶつけてあげなくちゃ。老三は優しいから、いつもあたしと遊んでくれるの。でも明日は家庭教師の先生がいらっしゃるから、あまりはしゃいでもいられないのよね。四書五経なんて退屈だわ。英雄豪傑や仙人たちのお話だったら、一日中聞いてても飽きないのに。
あ、でもでも、この間お話ししてくれた、牽牛星と織女星のお話はとてもロマンチックで素敵だった。夜空を流れる天の川を挟んで、一年間も会えないのにお互い相手のことを想い続けているなんて、よっぽど愛が深くないとできないことだわ。あたしにもいつかそんな相手ができるのかしら。何だかちょっと照れ臭いけれど、もしそんな人と巡り会えたら本当に素敵だと思わない?
そうだ、あとは雪で兎を作らないと。お庭を雪のお人形でいっぱいにするの。
それから、梅花姉さまのところへおしゃべりに行って。どうやったらあんな美人になれるのかしら。きっと秘訣があるに違いないわ。こっそり教えてもらわなくっちゃ。
でも小宝に会うのだけは気が進まない。あいつ、あたしを見かけたらすぐに意地悪してくるんだもの。梅花姉さまの弟のくせに、何であんなに憎たらしい性格なのかしら。
この間なんて、あたしの大事な荷葉を不細工だなんて罵ったのよ。ほんと信じられないわ。母さまに縫ってもらった大切なお友だちなのに。女の子に優しくできないなんて、男らしくないったらありゃしない。あたしがもう少し強かったら、おいおい泣かしてやるのに。
講談に出てくる剣客みたいになれたらな。あんなふうに絶技を振るえれば、小宝なんて。
そうだ。さっきの尼さんのお話。あたしに剣の才能があるって言ってた。
とうてい、にわかには信じられないけれど。
でも、もし……それが本当なら。こんなあたしにも、武芸の素質があって、それで強くなれるとしたら……何だかワクワクしてしまう。
父さまが小さないびきを立てだした。いけない、早く寝なくっちゃ。父さまのいびきは恐ろしいくらいうるさいの。雷さまも裸足ってくらい。ますます寝付けなくなってしまう。
それに、早く寝ちゃわないと母さまがきっと心配するわ。
あたしは頭に浮かんでいた小宝の顔を吹き飛ばすように大きく息を吐き出すと、そのまま母さまの胸に顏を預けた。甘いぬくもりがあたしを包み、少しずつ夢の扉が開かれていった。




