第八話 吹雪の夜
その夜は大吹雪だった。吹き付ける風は強く、雪を斜めに走らせている。風の唸り声に脅されるかのように窓枠が苦しげな音を漏らしていた。
そのとき、廊下から微かな音が聞こえた。古びた木材が軋むような音。内力を回して耳をそば立てる。それは人の足音のようだった。響きの数からしておそらく二人。
さらに集中する。ひそやかな足音だがその中に年老いた鈍さは感じられない。この古びた宿の主人たちではなさそうだ。吹雪に降り込められた旅人がこの宿を訪ねてきたのだろうか。
やがて二つの足音はあたしの部屋の前で止まった。窓がカタカタと頼りない音を立てている。少しの沈黙を挟んだ後、部屋の扉をコツコツと叩く音がした。あたしはくすんだ色の扉をじっと見つめたまま黙ってその音を聞き流した。少し置いて、再び乾いた音が小さく響く。
「こんばんは」
その声に思わず腰を上げた。声の主は女性だった。こんな夜に女性の旅人が来訪しようとは。
「いや、運よく見つけることができてよかったよ。どうだろう、少し私と話をしてくれないものだろうか」
吹雪の夜に身を寄せる場所もなかなか見つからず、きっと心細かったに違いない。あたしは急いで部屋の扉を開けた。
そこに立っていたのはすらりとした長身の女性だった。顔は白く、唇は燃えるように赤い。肩口には雪が降り積り、漆黒の髪も濡れそぼっている。吐く息の白さが屋外の冷たさを如実に物語っていた。
その美貌にあたしは息を呑んだ。そうしてまじまじと彼女をの顔を見つめた。どこかで見たような気がする。そして気がついた。この人は建康で舞台に立っていた姉妹の一人だ。
「改めまして、こんばんは。私は空児。芸を売って各地を巡り歩く、しがない旅芸人さ」
嫣然と微笑む空児に、あたしも小声で挨拶を返す。
「聶隠娘です。訳があって、ここに滞在しています」
「……ふうん? そうなんだ」
空児は不思議そうに首を傾げたが、
「不躾だけど、少しいいかな」
「ええ、どうぞ」
会釈を返し、慇懃に請じ入れる。空児は肩の雪を廊下で払い落とすと、柔らかな笑みを湛えたまま音もなく室内へ入ってきた。
「もうお一人は」
「うん、精児だね。ああ、それはそうと」
空児はあたしを振り返った。ちりん、と涼しい音がこぼれる。彼女は腰に笛を差していた。その飾り紐の先端につけた小さな玉の擦れた音だった。
「応対してくれたのは君のご両親かな?」
首を傾げるあたしを空児は訝しそうな表情で覗き込んできた。
「君に用事があると言って取次を頼んだ途端、悲鳴を上げて倒れ込んでしまったんだ。なんだか申し訳ないことをしてしまった。ごめんね」
微笑みながら頭を下げる彼女に席を勧めながら、卓上に出しっぱなしにしてあった霊薬の瓶を片付けようとしたとき、手元に鋭い視線を感じた。手にした瓶を興味深そうに見つめながら頻りに頷いている空児。
「頭痛薬なんです」
短く答えたあたしは、瓶を素早く袂に隠した。空児は相変わらず微笑みを浮かべたまま部屋の中を物色するかのようにあちこちへと視線をさまよわせている。
「へえ、これは可愛らしい人形だね」
それは棚の隅に置かれた古びた人形だった。
「丁寧な作りだ。これを縫った人の気持ちが詰め込まれているような、そんな気にさせる。君のだろう? 名前とかあるのかな」
背を向けたままの空児。あたしはその背中に視線を注ぐ。彼女はためつすがめつするようにその人形を観察しているようだった。
「あの」
「なんだい」
振り返った彼女と目が合う。腰の笛が小さな音を立てた。
「もうお一人は」
「気にかかるのかい」
「ええ」
聞こえた足音は確かに二人のものだった。しかしあたしの前には空児一人しかいない。もう一人の旅芸人、妹の精児はどこに行ったのだろうか。
「彼女は彼女で用事があるんだ」
空児はそう言うと腰の笛をそっと抜いた。赤い飾り紐の房が揺れる。
「それにしても、すごい大吹雪だ。世界が白で包まれていく。この世のあらゆる全てを」
ちりん。玉の擦れる音。
「覆い隠すような、そんな気にさせるね」
不思議な人だと思った。湛えられた笑み。穏やかな所作。そして、あたしが抱いているのとまるで同じ感慨。雪が世界を白く覆い隠す。それはあたしの心。心の有り様そのもの。全てを覆い尽くし、覆い隠し、一点の陰りも、汚れも、そこに見出すことはできない。そんなあたしの心。
空児は手にした笛をくるくると弄んでいる。笛はどうやら年代もののようだった。材質まではわからないが、艶やかな光沢を放っている。ところが、笛の穴が空いているちょうど裏側の辺りに、斜めに走った傷があった。金属で思い切り削ったような傷痕。
「ここにはもう一人客人がいるだろう? 精児はその人のところに行っているのさ」
もう一人の客人。ここに身を寄せているのはあたし以外にもう一人。そう思い至ったとき、ちょうど向かいにある師娘の部屋から大きな物音が轟いてきた。




