第七話 予兆
あたしを迎え入れてくれた師娘は優しかった。
髪を梳りながら、あたしのことを労ってくれた。
そして、頭痛が二度と起こらないようにするために、次のような助言を与えてくれた。
−−いいかしら、隠娘。あなたの頭痛は、普段なら霊薬の効能によってしっかり抑えられているのよ。でもね、しっかり覚えていてちょうだい。あなたの心に迷いやためらいが生じたとき、それが引き金になって頭痛を起こすことがあるの。素心を体得するためにも、心のシミになるような要素は全て取り除かなくてはならない。今回のようなことがまたあってはあなたも不安でしょうし、黄泉の二人もきっとハラハラするわ。だからあなたにこの丸薬を授けます。心に細波が立ちそうになれば、すぐに服用するのよ。わかったわね。
月明かりの中、師娘からいただいた丸薬を眺めてみる。つやつやと金属のような光沢を湛えたそれは、月光を浴びてますます薄青く輝いてみえた。
※
烏衣鏢局の件についてはしばらくの間関与しないことになってしまった。
その理由は不確定な要素が出てきたからだった。一つは暗器対策を入れ知恵した何者かの存在。もう一つはあたしに点穴を仕掛けようとした謎の女武芸者の存在。この二つだ。師娘はこれらを懸念材料と考え、この二つが明らかになるまでは静観すると判断したのだった。
あたしは悔しかった。でも師娘の言いつけは絶対だ。それに、師娘のことを信じてさえいれば必ず道は開ける。今までだってそうだったし、これからもそれだけは間違いない。
もちろん悪の巣窟をほったらかしにするのは気が引けたが、その分市井の見回りを厳重にすればいい。あたしはそういうふうに自分を納得させることにした。
※
懐中に肌身離さず携帯している姉さま方。あたしはくるんである布をほどき、中から姉さま方を取り出した。月の光は今夜も変わることなく窓辺から静かに差し込んでいる。そうして二人の姉さま方を照らしている。
あたしは恭しい手つきで姉さま方を卓上に並べた。少し長い方が芙蓉姉さま。短い方が芳槿姉さま。あたしは姉さま方に一礼すると、うなじから匕首を取り出した。そっと姉さま方の横に並べる。かつて断機島で修行をしていたころ、あたしの匕首はまだ剣だった。姉さま方と三人で毎日修行に明け暮れて、芙蓉姉さまは意地悪で強かったけれど本当はあたしのことを心配してくれて、芳槿姉さまはとてもお優しくて軽功がお得意でかけっこではいつも一番で。だからあたしにとって姉さま方の形見は何よりも大切で。こうして三本並べると、まるであの頃に戻ったようで、それで、ずっと一緒にいられるような気がして。
姉さま方、ご覧になって下さい。あたしの剣はこんなに短くなりました。全て師娘の教導のおかげ、そして姉さま方のご指導の賜物です。必ずやこの匕首でもって怨敵を屠り、姉さま方のご霊前にご報告にあがります。それまでもうしばらくご辛抱下さい。
夜空を見上げる。月はあの頃と何ら変わることなく空にかかっている。島で姉さま方と見上げた月、ひとりぼっちで見上げた月。そして、今ここから眺めている月。どれも同じ月だ。ただ、見上げるあたしが変わっただけ。いつも一緒にいた姉さま方がいなくなってしまったから。
目の底が熱くなった。熱さはじんじんと広がって、やがてじわりとあたしの視界をぼやけさせた。
「うっ」
同時に、あのとき烏衣鏢局で感じたような強烈な頭痛に襲われた。手が震える。頭が重い。あたしは急いで師娘にいただいた丸薬を取り出し、近くにあった霊薬でそれを流し込んだ。しばらく目を閉じると、頭痛はまるで氷が太陽に出会ったときのように、音もなく溶けて跡形もなくなった。心の中を涼しい風が流れていくような、積もった汚れを払い落としてくれるような、そんな感覚が走り抜けた。
まぶたをゆっくりと開ける。目の前には冷たい月の光。それを浴びる二本の短剣とあたしの匕首。短剣を掴み上げるとそれには茶色い錆がいくつか浮いていた。くすんだ色の布にそれを包み直し、卓の隅へ転がすとガチャリと濁った音が小さく響いた。磨き抜かれた匕首は濡れるような輝きを発している。命を預ける何よりも大切な匕首だ。手にとって二、三度角度を変えて刃の輝きを確認してから、あたしはそれをうなじに格納した。
※
「皆さま、本日も私どもの舞台にご来臨下さいまして、誠にありがとうございます」
季節はもう冬だというのに、舞台は黒山の人だかりだった。割れんばかりの歓声と拍手に包まれているのは、旅芸人の姉妹。今日も精児と空児は剣舞と笛の演奏を披露していた。二人はこの建康では知らない人がいないほどの人気を誇る姉妹で、舞台に立てばこのように大勢の観客が押し寄せるようになっていた。
精妙な笛の調べと、それに合わせた軽快勇壮な剣舞。そして空児の類まれな美貌−−これらがその人気に火をつけた、らしい。
あたしは今日も楼上から二人の演舞を見物している。あの烏衣鏢局の一件以来、替天行道をする機会が全くなくなってしまったのだ。路地裏で「釣り」を仕掛けても、ただの一人も声をかけてこない。むしろ、人の姿が目に見えて少なくなっていた。大通りは目の前のように大いに賑わっているが、外道が潜むような暗がりからは人の気配が遠のいているようだった。
ちらちらと雪が舞い散っていた。
それにしても、あの精児の剣舞は見事だった。縦横無尽に舞台を駆け回り、その小さな体を巧みに使って流麗な剣さばきを間断なく披露している。包帯を体のいたるところに巻いているので、素顔はまるでわからないが、そうしたところも人気の後押しをしているらしかった。
程よいところで見物を切り上げようと屋根瓦から腰を上げたそのとき、舞台上で笛を奏でる空児と目があったような気がした。
※
その日の晩、あたしは師娘に相談をお願いした。それは行き詰まってしまったかのように思える現状についてだった。
替天行道が思うようにいかない。このままでは腕が鈍ってしまう。感覚が錆び付いてしまう。せっかく師娘の教えの通りに心を鍛え上げてきたのに、これではまた標的を討ち漏らしてしまうかもしれない。そうなれば、牽牛派を根絶やしにするという本懐から遠ざかってしまう。
あたしは一気に胸の内を吐き出した。師娘はそんなあたしを慈しみ溢れる瞳で受け止めてくれた。そして頭を抱えるあたしを、いつかのようにそっと抱きしめてくれた。
師娘の腕に力が入る。だがそれは弱々しいものだった。そうだ。怨敵牽牛派の卑劣な行いのせいで、師娘は片腕を失ったのだ。必ず牽牛派を殲滅し、師娘の前にヤツらの臓腑を捧げるのだ。それこそが、織女派第一席に課せられた、何よりも重い使命なのだ。
「隠娘。あなたの気持ち、とても嬉しく思います。私の言いつけを全て忠実に守る素晴らしい弟子。私にはもうあなたしかいない。かけがえのない弟子なのよ」
心が震えた。師娘の愛情、温情に。必ず、そのお気持ちに応えてみせる。
師娘の温もり。仄かな甘い香り。
「きっと、完成はもうすぐなのね」
※
昼ごろから降り出した雪は、すでに吹雪になっていた。白い雪が大地を覆っている。あらゆる全てのものを覆い尽くすかのように、窓外では雪がいつ止むともしれず降り続けている。ただ白く、どこまでも白く。雪は世界を覆い尽くす。全てを飲み込むように、覆い隠すように。雪はどこまでも降っていた。




