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剣仙聶隠娘 ー剣仙少女project01ー  作者: 吉野川泥舟
第三章 替天行道
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第一話 帰郷

 あの雪の晩から、およそ六年。


 あたしはちょうど十歳で、父さまと母さまと、たしか年老いた使用人がいて。


 雪がごうごうと降りしきる中、あたしを迎えに師娘がやってきた。


 白い雪が大地を覆い隠す。


 少しずつ、ゆっくりと、そして確実に。


 雪は何のためらいもなく、大地をどんどん漂白する。


 今のあたしに必要なのは、雪のように真っ白な心。


 ――素心。


 あたしは決意を胸に、生家の門を見上げている。                                


 ※


「旦那さま、大変です! お嬢さまが帰ってきなすった!」


 あたしの顔を見た使用人は、腰も抜けんばかりに驚くと、手にした箒を投げ捨てて屋敷の中へと走って行った。


「師娘、到着いたしました」


「ええ、そうね。懐かしいわ」


 師娘を先導して、屋敷の門をくぐる。


 広い庭園。置かれた奇岩巨石。植わっている木々は昔の姿を留めたままだった。


 数本の桃の木があって、広がる枝にはブランコが一つ。まだ幼かったころ、確か父さまにお願いして作ってもらったものだった。


 近づくと、ブランコはまるで昨日今日かけたばかりの新品に見えた。痛んだ様子はなく、苔の一つも生えていない。あたしは思わずブランコを撫でた。目を上にやると、そこには大ぶりの桃の枝が一つ。手を伸ばせば容易く手折れてしまいそうだった。


 ――あの頃は、父さまに肩車してもらわないと届かなかったのに。


 そう思ったとき、後頭部のあたりに、針で刺したかのような痛みが走った。


 小さく数度頭を振る。


「隠娘、隠娘かい?」


 背中に声がかかる。優しくて暖かいその声は、父さまのもので間違いなかった。


 ゆっくり振り向くと、そこには両手を広げた父さま。横には口を覆った母さま。もう一人、老いた使用人は少し離れたところで鼻をすすっている。


「隠娘……隠娘。ああ、よくぞ……よくぞ無事に帰ってきてくれました」


 嗚咽を漏らす母さま。父さまも涙をこぼしている。


 以前は豊かな黒髪だったのに、母さまの髪には少しだけ白いものが混じっていた。よく見ると、父さまのひげにもほんのりと霜が下りている。


「隠娘、ただいま帰りました。父さま、母さま、お言いつけの通り、織女派の武功をすっかり身につけて参りました。ご期待に沿えるよう、努力いたします」


 父さまは一瞬呆然とした。口を開けたまま、わずかに後退りする。


「隠……娘。お前の後ろにいるのは……?」


 父さまはあたしの後ろに佇む師娘を指さすと、


「あ、あ、あの晩の……」


「はい、父さま。あたしに武芸を授けて下さった、大恩人です。師娘のおかげで、あたしはものすごい武功を身につけることができました。さあ、父さまも一言師娘にお礼を」


 あたしは笑みを浮かべてそう促した。でも、父さまは今にも腰を抜かさんばかりにガタガタと震えている。がくりと膝を折った母さまを、慌てて使用人が助け起こした。


 そこに師娘が一歩を進み出て、

 

「これは聶大人どの。あの雪の晩は大変失礼いたしました。ここに非礼をお詫び申し上げます。さて、私は既に世俗を捨てた身、どうか御憐憫を賜りまして、軒端なりともお貸し願えませんでしょうか」


 深々と慇懃にお辞儀をした。


 ※


「師娘、こちらでお寛ぎ下さい」


 あたしは自分の部屋のちょうど真向かいにあった、空き部屋の一つに師娘を請じ入れた。


「ありがとう、隠娘。私は俗外に身を置くこと久しく、世俗の調度に興味などありません。休息さえ取れればそれ以外に何の望みもないわ」


 師娘はそう言うと、嫣然と微笑んだ。師娘はほんとうにお美しい。右の袖がだらりと下がっているのが痛々しくて仕方ないが、それでも師娘は天女のような美貌を誇っていた。


「ごめんなさいね。私は利き腕を失ってしまい、満足に武功を発揮することができないの。だからこそ、万一の備えをしておかないといけない。私はここで内力を練っているから、あなたも部屋で休むといいわ」


「はい、心得ております。では小一時間ほどの後にでも」


「そうね。そうしましょう。いいかしら、隠娘。休息の前に霊薬を舐めるのを忘れないように。疲れると頭痛がすることがあるわ。少しでも頭痛を感じたら、いつもより多めに舐めるのよ。いいわね」


 あたしは深々とお辞儀をして、そのまま師娘の居室から退出した。


 ※


 久しぶりだった。


 ほんとうに、久しぶり。


 断機島での生活の中で、あたしはすっかり自分の部屋のことを忘れていた。


 それなのに、あたしの部屋は、あの頃と全く変わらずにあたしを迎え入れてくれた。

 

 本棚にはお気に入りだった小説のたぐい。


 ベッドはふかふかで、太陽の香りがしていた。


 枕元には毎日一緒に遊んでいたお人形。


 あたしはそれを手に取って、ピンク色の頬をした顔をじっと見つめた。


 確か、母さまに縫ってもらったお人形で、名前は――。


 僅かに、頭痛が走る。


 さっき庭の辺りで感じたものと同じだった。


 師娘のおっしゃる通り、疲れが溜まっているみたいだ。いや、むしろ、この痛みは姉さま方からの励ましのようなものかもしれない。


 ――隠娘、お願いね。しっかりやり遂げるのよ。

 ――チッ。弱音なんか吐いたらグーパンだかんね。


 あたしはすぐに霊薬の瓶を開け、小さな杯に並々と注いだ。銀色に輝く液体は微かな虹彩を放っている。師娘特製の霊薬だ。それを口に含み、そのまま飲み下した。


 すぐに下腹部の辺りが熱を帯びてきた。やがてその熱が少しずつ胸の方にせり上がってきて、すうっと体が軽くなった。気持ちもどんどん落ち着いてきて、微かな眠気に襲われた。


 あたしはベッドの上で座禅を組み、内力を運行させながら休息を取ることにした。


 ――あなたの武功は本物よ。


 目を閉じると、師娘の声が蘇った。


 ――でも、憐憫の情は任務遂行にとって余計なもの。例えるなら、それは白い紙にこぼれた小さなシミ。


 師娘は愁いをたたえた顔でそう言った。


 師娘の言うことはもっともだ。あたしが何よりも優先して果たさねばならないのは、姉さま方の仇討ち。そして牽牛派を根絶やしにすること。万全の態勢でそれを成し遂げるためにも、あたしの弱い心を鍛え直す必要がある。


 師娘も血を吐くほど悔しかったに違いない。あんなに可愛がっていた姉さま方を失った悲しみは、何に喩えることもできないはず。


 卑劣な手を打った怨敵を、ご自身で八つ裂きにしたいはずなのに。


 ――私はもう満足に武功を発揮することはできない。


 その無念はいかばかりだろう。


 それなのに、あたしの心を汲み取って、あたしに仇打ちを任せて下さっている。


 期待をかけて下さっている。


 ――あなたの武功は群を抜いているけれど、悪辣な牽牛派を倒せるほどには使い慣れていないわ。


 師娘のご指摘のとおりだ。いかに闇討ちとはいえ、ヤツらは姉さま方を倒すほどの遣い手なのだ。万全の準備で確実に仕留める。仕損じるなど、絶対にあってはならない。


 ――そのためにも、しばらくの間は市井の悪を裁きながら、時節の到来を待ちましょう。そうするうちに、武功もどんどん体に馴染むし、心構えも引き締まってきます。時が満ちれば、道は自ずと開けるもの。


 断機島での戦闘訓練が思い出された。獣どもを屠るうちに、あたしの心はどんどん磨かれ、研ぎ澄まされていった。無駄なものをこそぎ落とすかのように。そして、身につけた武功を迷いなく発揮することが、奪った命に対する最高の礼儀であり、弔いになるのだ。


 ――さしあたっては、いったんあなたの故郷に身を寄せましょう。そこを拠点として、各地にはびこる悪を成敗するのよ。仇討ちの前に、地ならしも必要です。苦しんでいる民衆を救えば、きっとあの子たちも黄泉で喜ぶに違いないのだから。いいかしら、隠娘。あなたなら誰よりも上手くできるわ。


 あたしは師娘の愛に心が震える思いがした。絶対にその期待に応えてみせる。


 そして、その晩から「替天行道」が始まった。


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