第一話 帰郷
あの雪の晩から、およそ六年。
あたしはちょうど十歳で、父さまと母さまと、たしか年老いた使用人がいて。
雪がごうごうと降りしきる中、あたしを迎えに師娘がやってきた。
白い雪が大地を覆い隠す。
少しずつ、ゆっくりと、そして確実に。
雪は何のためらいもなく、大地をどんどん漂白する。
今のあたしに必要なのは、雪のように真っ白な心。
――素心。
あたしは決意を胸に、生家の門を見上げている。
※
「旦那さま、大変です! お嬢さまが帰ってきなすった!」
あたしの顔を見た使用人は、腰も抜けんばかりに驚くと、手にした箒を投げ捨てて屋敷の中へと走って行った。
「師娘、到着いたしました」
「ええ、そうね。懐かしいわ」
師娘を先導して、屋敷の門をくぐる。
広い庭園。置かれた奇岩巨石。植わっている木々は昔の姿を留めたままだった。
数本の桃の木があって、広がる枝にはブランコが一つ。まだ幼かったころ、確か父さまにお願いして作ってもらったものだった。
近づくと、ブランコはまるで昨日今日かけたばかりの新品に見えた。痛んだ様子はなく、苔の一つも生えていない。あたしは思わずブランコを撫でた。目を上にやると、そこには大ぶりの桃の枝が一つ。手を伸ばせば容易く手折れてしまいそうだった。
――あの頃は、父さまに肩車してもらわないと届かなかったのに。
そう思ったとき、後頭部のあたりに、針で刺したかのような痛みが走った。
小さく数度頭を振る。
「隠娘、隠娘かい?」
背中に声がかかる。優しくて暖かいその声は、父さまのもので間違いなかった。
ゆっくり振り向くと、そこには両手を広げた父さま。横には口を覆った母さま。もう一人、老いた使用人は少し離れたところで鼻をすすっている。
「隠娘……隠娘。ああ、よくぞ……よくぞ無事に帰ってきてくれました」
嗚咽を漏らす母さま。父さまも涙をこぼしている。
以前は豊かな黒髪だったのに、母さまの髪には少しだけ白いものが混じっていた。よく見ると、父さまのひげにもほんのりと霜が下りている。
「隠娘、ただいま帰りました。父さま、母さま、お言いつけの通り、織女派の武功をすっかり身につけて参りました。ご期待に沿えるよう、努力いたします」
父さまは一瞬呆然とした。口を開けたまま、わずかに後退りする。
「隠……娘。お前の後ろにいるのは……?」
父さまはあたしの後ろに佇む師娘を指さすと、
「あ、あ、あの晩の……」
「はい、父さま。あたしに武芸を授けて下さった、大恩人です。師娘のおかげで、あたしはものすごい武功を身につけることができました。さあ、父さまも一言師娘にお礼を」
あたしは笑みを浮かべてそう促した。でも、父さまは今にも腰を抜かさんばかりにガタガタと震えている。がくりと膝を折った母さまを、慌てて使用人が助け起こした。
そこに師娘が一歩を進み出て、
「これは聶大人どの。あの雪の晩は大変失礼いたしました。ここに非礼をお詫び申し上げます。さて、私は既に世俗を捨てた身、どうか御憐憫を賜りまして、軒端なりともお貸し願えませんでしょうか」
深々と慇懃にお辞儀をした。
※
「師娘、こちらでお寛ぎ下さい」
あたしは自分の部屋のちょうど真向かいにあった、空き部屋の一つに師娘を請じ入れた。
「ありがとう、隠娘。私は俗外に身を置くこと久しく、世俗の調度に興味などありません。休息さえ取れればそれ以外に何の望みもないわ」
師娘はそう言うと、嫣然と微笑んだ。師娘はほんとうにお美しい。右の袖がだらりと下がっているのが痛々しくて仕方ないが、それでも師娘は天女のような美貌を誇っていた。
「ごめんなさいね。私は利き腕を失ってしまい、満足に武功を発揮することができないの。だからこそ、万一の備えをしておかないといけない。私はここで内力を練っているから、あなたも部屋で休むといいわ」
「はい、心得ております。では小一時間ほどの後にでも」
「そうね。そうしましょう。いいかしら、隠娘。休息の前に霊薬を舐めるのを忘れないように。疲れると頭痛がすることがあるわ。少しでも頭痛を感じたら、いつもより多めに舐めるのよ。いいわね」
あたしは深々とお辞儀をして、そのまま師娘の居室から退出した。
※
久しぶりだった。
ほんとうに、久しぶり。
断機島での生活の中で、あたしはすっかり自分の部屋のことを忘れていた。
それなのに、あたしの部屋は、あの頃と全く変わらずにあたしを迎え入れてくれた。
本棚にはお気に入りだった小説のたぐい。
ベッドはふかふかで、太陽の香りがしていた。
枕元には毎日一緒に遊んでいたお人形。
あたしはそれを手に取って、ピンク色の頬をした顔をじっと見つめた。
確か、母さまに縫ってもらったお人形で、名前は――。
僅かに、頭痛が走る。
さっき庭の辺りで感じたものと同じだった。
師娘のおっしゃる通り、疲れが溜まっているみたいだ。いや、むしろ、この痛みは姉さま方からの励ましのようなものかもしれない。
――隠娘、お願いね。しっかりやり遂げるのよ。
――チッ。弱音なんか吐いたらグーパンだかんね。
あたしはすぐに霊薬の瓶を開け、小さな杯に並々と注いだ。銀色に輝く液体は微かな虹彩を放っている。師娘特製の霊薬だ。それを口に含み、そのまま飲み下した。
すぐに下腹部の辺りが熱を帯びてきた。やがてその熱が少しずつ胸の方にせり上がってきて、すうっと体が軽くなった。気持ちもどんどん落ち着いてきて、微かな眠気に襲われた。
あたしはベッドの上で座禅を組み、内力を運行させながら休息を取ることにした。
――あなたの武功は本物よ。
目を閉じると、師娘の声が蘇った。
――でも、憐憫の情は任務遂行にとって余計なもの。例えるなら、それは白い紙にこぼれた小さなシミ。
師娘は愁いをたたえた顔でそう言った。
師娘の言うことはもっともだ。あたしが何よりも優先して果たさねばならないのは、姉さま方の仇討ち。そして牽牛派を根絶やしにすること。万全の態勢でそれを成し遂げるためにも、あたしの弱い心を鍛え直す必要がある。
師娘も血を吐くほど悔しかったに違いない。あんなに可愛がっていた姉さま方を失った悲しみは、何に喩えることもできないはず。
卑劣な手を打った怨敵を、ご自身で八つ裂きにしたいはずなのに。
――私はもう満足に武功を発揮することはできない。
その無念はいかばかりだろう。
それなのに、あたしの心を汲み取って、あたしに仇打ちを任せて下さっている。
期待をかけて下さっている。
――あなたの武功は群を抜いているけれど、悪辣な牽牛派を倒せるほどには使い慣れていないわ。
師娘のご指摘のとおりだ。いかに闇討ちとはいえ、ヤツらは姉さま方を倒すほどの遣い手なのだ。万全の準備で確実に仕留める。仕損じるなど、絶対にあってはならない。
――そのためにも、しばらくの間は市井の悪を裁きながら、時節の到来を待ちましょう。そうするうちに、武功もどんどん体に馴染むし、心構えも引き締まってきます。時が満ちれば、道は自ずと開けるもの。
断機島での戦闘訓練が思い出された。獣どもを屠るうちに、あたしの心はどんどん磨かれ、研ぎ澄まされていった。無駄なものをこそぎ落とすかのように。そして、身につけた武功を迷いなく発揮することが、奪った命に対する最高の礼儀であり、弔いになるのだ。
――さしあたっては、いったんあなたの故郷に身を寄せましょう。そこを拠点として、各地にはびこる悪を成敗するのよ。仇討ちの前に、地ならしも必要です。苦しんでいる民衆を救えば、きっとあの子たちも黄泉で喜ぶに違いないのだから。いいかしら、隠娘。あなたなら誰よりも上手くできるわ。
あたしは師娘の愛に心が震える思いがした。絶対にその期待に応えてみせる。
そして、その晩から「替天行道」が始まった。




