第八話 暗殺
あたしと師娘は船に乗って島を出た。
目指すは南の都、建康。
東西に渡って流れる長江の水運を利用した交易と、海上貿易が盛んな、水都とも呼ばれる大都会。
人口数百万の大都市だ。
あたしは師娘があつらえてくれた尼僧の装束に身を包んでいた。旅の尼僧に身をやつし、大都会の喧騒に紛れながら標的を狩るのだ、と教わった。
真っ白い僧服を着ていると、何だか芳槿姉さまのことを思い出してしまう。
あたしは胸に潜ませた二人の短剣の感触を確かめた。
姉さま方、ついにここまで来ました。もう後少しです。後少しで−−
建康の城門を潜ると、たちまち雑然とした空気に包まれた。どうにも埃っぽくて煩わしい。
怨敵、牽牛派はどこにたむろしているのか。
雇われた刺客とやらはどこに潜んでいるのか。
早く情報が欲しい。
今すぐにでも指示をもらいたい。
しかし、師娘が示したのは簡単な暗殺だった。
きっと本番前の予行演習に違いない。
逸っているあたしに平常心を保たせるための。
確かに、あたしは逸っている。
喉から手が出そうなほどに。
早く、早く−−
「いいかしら。これも仇討ちのため、二人の霊を慰めるためには必要な犠牲なのよ。ほら、あそこを行列が通るでしょう? あの真ん中で、馬にまたがってふんぞり返っている男。あいつは良民をいたぶる悪い役人なのよ。今すぐ首を取っていらっしゃい」
あたしは小さくうなずくと、軽功を駆使して一気に近づいた。そうしてうなじから匕首を抜き取って、音もなくその男のみぞおちに差し込んであげた。そのまま匕首を回して首をかき切ったけれど、誰にも全く気づかれなかった。刺された男すら、自分が殺されたことに気づいてないみたいで拍子抜けした。これなら虎の方がずっと手強い。
あたしが師娘の前に跪き、切り落としたばかりの首を捧げたくらいで、ようやく行列は耳をつんざくほどの悲鳴に包まれた。
師娘はものすごく嬉しそうに、あたしのことを褒めてくれた。
「それでいいのよ。初めてとは思えない手並みだったわ。それでこそ織女派筆頭です。二人ともきっと黄泉で喜んでいるに違いないわね。さあ、その汚らしい首はさっさと溶かしてしまいましょう」
そう言うと、師娘は懐から紙包みを取り出して、その中身を首に振りかけた。白目をむいたままだらしなく鼻血を垂らすその首は、あっという間に溶けて煙になってしまった。便利なものがあるのね、とあたしは感心するばかりだった。
その後は宿にひきとった。仇討ちが待ち遠しかったけれど、師娘から出されたのは違う指示だった。
「白昼の襲撃は見事な手際だったわ。では次の命令を与えます。今度は夜中だから、もっと容易なはずだけど。私たちが泊まるこの大通りから少し離れたところに、金持ちの商人たちが住む区域があるの。その中に、賄賂を取って私腹を肥やす張というゲスがいるわ。コイツを成敗するのは無辜の民衆を救うことにもなる。今すぐに行って首を切ってくるのよ」
あたしは慎んで拝命すると、すぐに出発した。月があかあかと照らす中、磨き抜かれた軽功で疾走する。夜の繁華街は人通りが多かったけれど、あたしに気づいた者など一人もいない。
あたしは塀を駆け、屋根を飛び移り、狙いと定めた商人の屋敷に到着した。
窓をそっと開けて屋敷内に潜入すると、そこはひときわ豪華な作りの寝室だった。無駄に動き回るのは効率がよくない。あたしは寝室の梁に飛び上がると、そこで息を殺すことにした。
ほんの少し待つと、でっぷりと太った年配の男が入ってきた。コイツが標的で間違いない。
思わず笑みをこぼしそうになる。
うなじから匕首を取り出して、逆手に構えた。
じっくりと観察する。心は平穏、何の動揺もない。
明らかに素人だ。呼吸音、所作、雰囲気、あらゆる全てがコイツをただの素人だと教えてくれる。
造作もない。そう、思ったときだった。
わずかに、心がドキリとした。
男の太い両腕には赤ちゃんが一人抱かれている。
男はベッドに腰かけると、抱いていた赤ちゃんをあやしだした。赤ちゃんは男のあごひげを引っ張ったりして、嬉しそうに笑みをこぼしている。
「あいたた、こらこら。阿蘭はほんとうに元気いっぱいだな」
男は赤ちゃんの頭を撫でたり、両手に捧げて高く持ち上げたり、それは楽しそうだった。
赤ちゃんも可愛らしい笑い声を上げて、無邪気にはしゃいでいた。
その光景を見ているうちに、昔のことを思い出した。姉さま方と暮らしていたとき、あたしたち三人でこっそり虎の赤ちゃんを飼っていたことがあった。びっくりするくらい愛くるしくて、修行が終わったあとはいつも一緒に遊んでいたけれど、飼い方がわからなかったあたしたちは、わずか一週間ほどで死なせてしまった。あのときはほんとうに辛くて悲しくて――
芙蓉姉さまも、芳槿姉さまも、いたたまれない顔をしていた。あたしもぽろぽろ泣いてしまって。
二人の顔がふっと過ぎった。
心に細波が立つ。
あたしがこの男を始末したら、赤ちゃんはどうなるのだろう。
不思議と汗が流れた。
「さて、そろそろ商談の時間か。賄賂はたっぷり弾んでもらわんとな。ハハハ、元手いらずの商売はこれだから止められん」
その一言だった。
心の中でカチリと音がする。
そうだ。コイツは民衆から搾り取ることだけが能の、薄汚い商人でしかない。赤ちゃんはかわいそうだけれど、コイツ一人を始末すればたくさんの人が救われる。
師娘の言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。
それは大きな反響となって、繰り返し心の中で再生される。
――正義の執行には犠牲がつきもの。これは千古不変の真実よ。
――奪った命のぶんだけ、流した血のぶんだけ、あなたは強くなる。
――そうすれば仇討ちに近づく。黄泉の二人もそれを待ち望んでいるわ。
あたしは音もなく梁を下りた。
そして、全くの無防備を晒していた標的の背中に匕首を突き立てた。
標的の首筋に脂汗が吹き出す。やや遅れて、びくり、と匕首を通して痙攣が駆け上がって来た。
標的はゆっくりとした動作で振り向こうとしたけれど、それより早く抜き取った匕首で首をねじ切ってあげた。
赤ちゃんはキャッキャッとあどけない笑い声を上げている。その顔に数滴の血がこぼれたけれど、赤ちゃんはまるで無頓着だった。
あたしは床に転がった首を右手に提げ、そのまま窓を蹴って月明かりの中へと飛び出した。不思議にも、ほんの少しだけ胸の奥が痛かった。しかし、夜気を切り裂いて駆けていくうちに、心の中にあったもやもやしたものは次第に晴れていった。
宿に帰ると、師娘は不機嫌も露わにあたしを問い詰めた。
「隠娘。どうしてこんなに遅くなったの。これくらいで手間取っていては仇討ちなど叶わないわよ。まさかとは思うけれど」
「いいえ、師娘。確実に仕留めました。首はここに」
あたしは慌てて、血に濡れたそれを地面に転がした。
「そう。しかしこの程度の仕事、瞬き一つのうちに果たすような程度の低いもの。とにかく遅れたわけを言いなさい」
あたしは師娘に問われるまま、屋敷でのことを包み隠さず話した。すると、
「情けないわね。いいかしら、隠娘。そういう場合は、標的が一番愛しているものを真っ先に片付けるのよ」
窓辺から月光が差し込んできた。
「その喪失感と絶望感こそが罰になるの。じっくりとそれを味わわせてやってから始末する。いいわね」
あたしの体を電流が走り抜けた。
確かに師娘の指摘する通りだ。まさに理にかなっている。
いつだって、師娘はあたしの心を導いてくれる。迷った心を励ましてくれる。
「ご教導くださり、ありがとうございます。次からはそのようにいたします」
あたしは腰を折ってそう答えた。
「物わかりがよくて助かるわ。よい弟子を持てて私は幸せです」
師娘の顔を月光が照らす。うっすらと笑みを浮かべた、美しいその顔を。




