第四話 白きこころ
「ほら、二人とも。つまらない意地を張っていないで」
呆れた様子の芳槿姉さま。間に入ってくれて、少しだけほっとした。
「それに、芙蓉。そんなことで気を乱すなんて。牽牛派に遅れを取っても知らないわよ」
「何言ってんの。牽牛派ごとき、軽く撫でてやるわよ。どんな技を使うか知んないけど、あたしたち織女派の軽功について来られるヤツなんていないわ」
芙蓉姉さまはおどけた調子でそう言うと、手にした剣をそっと置いた。
「いい、隠娘。あなたには、ここのお留守番を頼むわね」
「そういうこと。あたしたちが帰って来たときにちょっとでも汚れていたらグーパンだかんね。頑張って一人でお掃除よろしく」
どうして芙蓉姉さまって、いちいち余計なことを言うのかしら。
「きっと寂しくって、泣きながらお掃除するんだと思うけど。あはは、ぐずりながら寒玉床を磨く姿が目に浮かぶわ」
イタズラっぽく笑うその顔を見て、あたし、またしてもカチンときてしまった。
「泣くもんですか。誰が」
小さな言葉はやがて大きな波になって、そのまま止まることなくあたしの感情を押し流した。
「せいせいします。がさつな芙蓉姉さまの顔を見なくって。この洞窟でのんびり、誰にも気兼ねなく過ごせると思ったら、明日が来るのが楽しみで仕方がありません」
ーーそのときだった。
「もうやめて! いい加減にして、二人とも!」
芳槿姉さまの叫びが空気を引き裂いた。
寝転んでいた芙蓉姉さまが慌てて身を起こした。あたしも、予想外の怒声に腰を抜かしてしまった。一緒に生活して四年を過ごしたけれど、芳槿姉さまのこんな剣幕は初めて見た。
激昂に身を打ち震わせる芳槿姉さま。あたしには、その姿がものすごく恐ろしく映った。顔は青ざめて、眉間には深々と亀裂が生じている。一体、どんなお叱りを受けるのだろう。恐怖と焦燥で、ただ芳槿姉さまを凝視することしかできない。
ところが、だった。
「いい、二人とも。しっかり聞いて欲しいの」
次に聞こえたのは、いつも通りの、静かで落ち着いた、芳槿姉さまの声だった。
「ねえ、芙蓉。あたしたちは師娘に恩があるわよね。絶対に返せないほど、大きな」
芙蓉姉さまは黙って俯いた。
「あたしたちをあの地獄から救ってくれたのは師娘。その恩に少しでも報いるため、あたしたちはこの道を選んだ。剣仙になるための、この果てしない道を」
水滴の音が静かに響いた。一滴、二滴。微かな音が長い尾を引いて、やがて溶けた。
空白になった洞窟の中で、小さく鼻をすする音が聞こえる。
「だから、比武では絶対に負けられない。負けることは許されない。もしも負けてしまえば、師娘に教わった織女派の武功を否定することになる。それは絶対に許されない」
芳槿姉さまの独白に、少しずつ凄みが増してきた。声はぐるぐると洞窟内を駆け回る。
「たとえ、刺し違えたとしても。絶対に倒れることは許されない。牽牛派よりも先に倒れることなど、あってはならないの」
その迫力に、思わず唾を飲んでしまう。まるで何かに取り憑かれたように、芳槿姉さまは言葉を継いでいく。
「腕を落とされても、足を落とされても。この体の動く限りは、絶対に。そうよ、剣がなければ噛み付いてでも。きっと師娘は喜んで下さる。牽牛派の秘奥を手に入れられれば、きっと」
そうして、ぷつりと言葉が途絶えた。再び、洞窟内に水滴の音が響き出す。
口の中がひりついた。芳槿姉さまの抱く決意は、あまりに凄惨で苛烈なものだった。あたしはすっかりそれに飲まれてしまっていた。
「……ね、隠娘。だから」
どれくらいの沈黙が流れたのだろう。
それは穏やかな声だった。さっきまでの思い詰めた口調とは全く違う、別人のような声。
優しく労ってくれる、いつもの芳槿姉さまの声だった。
まるで、芳槿姉さまが二人いるような、そんなありえない錯覚を抱いてしまう。
芳槿姉さまの手がそっと伸ばされ、あたしの頭を優しく撫でてくれた。白くて温かなその手が、しかし今日はどこか儚く、そして空恐ろしく感じられて仕方がない。
「あたしたちのこと、忘れないでね」
ポツリとこぼしたその言葉。水滴よりも小さな、その言葉。それが、あたしにはまるで天を引き裂く雷鳴のように聞こえた。
その驚きは、さっき感じた空恐ろしさをあっという間に追い払った。
急に不安になった。そして寂しくなった。このまま、姉さま方とお別れしてしまうようなーー
そこに、沈黙を守っていた芙蓉姉さまの声が割り込んだ。
「しけた面してんじゃないわよ。あたしたちはアンタの姉さまでしょ。任せておけばいいの」
あたし、辛そうな顔してる。
「うん。芙蓉の言う通り。信じて」
あたし、苦しそうな顔してる。
「でも、まるで……お別れみたいで」
不安に押し流されて、涙がどんどんこぼれてきた。胸元も、膝も、びちょびちょになった。
そして、ぐずるあたしの耳の中に、芙蓉姉さまのため息が虚ろに響いた。
「はあ~あ、ほんっとに。アンタの泣き顔見てたら気が滅入って仕方ないわ。情けなくって、ほんと、イヤになる。晴れの門出にケチをつけないでよね」
「だって! だって、だって、なんだか様子がおかしいんですもの! 無事に帰って来てくれますよね? 比武で勝って、剣仙になって、お祝いするんですよね? それで、それで」
「帰ってくるわ。もちろん牽牛派を圧倒してね。あくまで比武よ。命のやり取りはしないわ」
「でも、でも! さっき、姉さまは……」
あたしは言い募ろうとした。でも、それを容赦のない舌打ちが遮った。
「ちっ。ビービーうっさいわね。黙って待ってたらいいの、アンタは!」
「そんな言い方って!」
「うるさい!」
洞窟が揺れた。芙蓉姉さまの右拳が寒玉床にめり込んでいる。天井から、石のかけらがパラパラと降りてきた。
「アンタさあ、あたしになんか恨みでもあんの? ねえ、答えてよ! あたしたちはね、剣仙になるため、全てを捨てて、忘れて、修行に打ち込んできたの! それがもうすぐ実を結ぶってのに、いちいちお子さまに絡まれて、ほんと、鬱陶しいったらないわ! 今すぐ表に出て、ザクザクに刻んであげようか?! そうしたらちょっとは静かになるでしょうよ!」
「芙蓉、落ち着いて」
そして――
「だめよ、芙蓉。落ち着いて、頭を冷やして。ねえ芙蓉、あたしたち、もうずっと昔に決心したじゃない。後悔はしないって、全力で恩に報いるんだって。だから、苛立たないで。お願い、芙蓉。ここでしくじれないのは、あなたも十分にわかっているはずよ」
芙蓉姉さまは両手で頭を押さえていた。ぶるぶると両肩が震えている。何かを懸命に堪えているように見えた。こんなに辛そうな芙蓉姉さま、あたしは今までに見たことがなかった。
「隠娘。あなたには感謝しているの。本当よ。この四年間、本当に楽しかった」
うっすらと涙を浮かべた芳槿姉さまの瞳が、あたしを真っ直ぐに見つめている。
「あたしたちは織女派よ。織女素心剣を受け継いでいくの。織女素心剣は、純真無垢な織女星の心を宿した剣術。だから、あたしたちが磨くのは、刃だけではない。心を磨くのよ。一点の汚れもない、真っ白な心を目指して。それを素心というの。求められるのは、真っ白な心。ねえ、芙蓉。あなただって」
「……わ、わかってる。そうだった。こんな心じゃ……」
芙蓉姉さまはうめくように、ようやくそれだけを吐き出した。
落ち着きを取り戻した芙蓉姉さまを、芳槿姉さまが労るようにして抱きしめた。そして、二人は小さくうなずきを交わした。
芙蓉姉さまはあたしなどまるで眼中にないかのように、いつもと同じ仕草で横になった。芳槿姉さまが明かりを消す。
洞窟は気まずい雰囲気で満ちていた。でも、そう感じたのはあたしだけなのかもしれない。
あたしの心が弱かったんだ。
織女派の名誉をかけた比武なのだから、万に一つの失敗も許されない。
そんなの、わかりきっていたことなのに。
それなのに、あたしときたら。
めそめそして。
ぐずぐすして。
こんなのじゃ、姉さま方の心にいらぬ波紋を立ててしまうに違いない。
そうだ、そうに違いない。
大切なのは真っ白な心なのだから。わずかの汚れも許容されるはずがない。
ほんとうは、姉さま方に激励の言葉を掛けたかった。でも、悲しみが心の中に広がってしまって、それどころではなくなっていた。
やがて二人は静かに寝息を立て始めた。
気にしてはだめ。辛気くさいのは晴れの門出に相応しくない。また明日、朝起きてから、改めて励ましの言葉を贈れば大丈夫。そして笑顔で行ってらっしゃいを言おう。
明日。
明日の朝になれば、このもやもやもきっと晴れているはずだから。




