美しい写真
聞かれて困ることがある。
「どうして、そんなに美しい写真が撮れるんですか?」と。
僕は本当にこの質問が苦手なのだ。いや、聞かれたくないという方が正しい気がする。それに、あの子のことを思い出す。
「……写真の神様に許してもらったからだと思います」
こう返答すると、きまって質問した人は困惑してしまう。まぁ無理もないだろう。これは僕と彼女だけの秘密なのだから。
大学二年の冬、僕はある写真のコンテストで一位を取り、写真の神様に嫌われた。たぶん、やってはいけないことをしたのだろう。
自然は時と共に変化し、一秒たりとも同じ状態にならない。そして何より、偶然性や不自然さまでもが自然の中に内在していると思う。だからこそ、その二度とない状態を自然が織りなす不自然さを収めることができる写真は人を魅了して止まないのだろう。だけど、僕が何枚写真を撮ろうともフレームの中に
は既視感しか感じない陳腐な物ばかりが映り込んでしまう。そう魔が差したのだ。僕は花を買い、花瓶を選んだ。照明や角度、場所さえも自分で選んだ。使われてない講義室の一室に机と花瓶を置き花を挿し、照明を調節し、幾日も写真を撮り続けた。何枚とったか忘れたが、同じような写真を毎日見続け、ようやく納得のいく写真が撮れた。そこには僕が伝えたかった恐怖という感情が映っていた。まるで絵画のような美しい写真。それもそうだろう、忠実に僕が撮りたい物を撮りたい場所に置き、撮りたい角度で撮ったのだから。そう、ファインダーをキャンパスに見立てて僕は絵を描いたのだ。これをコンテストに出したのも気の迷いだった。
「こんな写真とったら写真の神様に怒られちゃうな」
当たり前だ。写真の意義を無視したような写真なのだ。罰が当たってもしかたない。そんな風に考えていた。しかし、結果は一位を取ってしまった。ただ、写真の神様は僕に一生消えない罰を与えたのだった。
大学三年の四月、写真部の部室には僕の絵が貼られていた。それもでかでかとコンテスト一位となった作品であることも書かれている。僕はこの写真を撮って以来、普通の写真を撮れなくなっていた。そしてこの写真を見るたび何か冷たいものに心臓を鷲掴みされた様な気分になる。不規則な心臓の鼓動を治すためにも周りを見渡す。今日は新入生が部室を見学に来ていて二、三年生が壁に貼られた写真を紹介しながら一年生を勧誘していた。ふと、新入生と思われる髪の長い子が部室に入ってくる。
「雄介君、あの子お願いできる?」
忙しそうにしている部長に言われ、一言、いいよと言い、彼女のもとへ向かう。
「こんにちは、一年生だよね。見学かな?」
僕は努めて明るい声で言った。その子は一年生にしては大人びていてとても人目を惹く容姿をしている。僕の視線にまるで気づいている様子もなく、部室を見まわしたかと思うと一点を見つめたまま言った。
「あの写真はだれが撮ったんですか?」
彼女の視線の方を見ると僕の写真があった。コンテスト一位とでかでかと書いてあるから嫌でも目に入るのだろう。
「僕が撮った写真だよ」
そう言うと彼女は初めてこっちを見てきた。彼女の表情からは何も感じられなかったが端正な顔立ちの女性に見られるのが恥ずかしくて僕は目をそらす。
「そうなんですか。もっと近くで見てきます」
彼女は僕の写真の前まで行き、20秒ほど見たらまた僕の前まで来てこう言ったのだ。
「あれは写真というより絵みたいですね。ただ…、いえ、なんでもありません。失礼しました」
そう言い彼女は部室を出て行った。褒められることに慣れていた僕は唖然とした。どうして?なぜ?
初めて僕の意図を理解してくれた人が現れたことで戸惑いと嬉しさが心の中に同居していた。
新歓の席に彼女の姿があった。名前は瞳だそうだ。
新入生も少しずつ大学生活にも慣れ始め、キャンパス内も落ち着いてきた五月頃は少し汗ばむくらいの暖かさと心地よさに包まれていた。僕は今日、写真部の活動でキャンパス内を散策していた。本当はキャンパス内を自由に歩き回り写真を撮るというものなのだが、僕は写真を撮ることを諦め、目に映る物だけを甘受している。数人で笑いあう学生たち、音楽を聴きながら一人、家路を急ぐ学生、咲き誇り役目を終えた花々、何を見ても手がカメラを触ろうとしない。自分が何を撮りたいのかも忘れてしまった。なんともなしに歩いていると、不意にシャッター音がした。音の方を見る。瞳がこちらにカメラを向けて立っていた。
いつからそこにいたのだろう、妙な存在感がある子だからいたら気づくはずなのに。カメラに視線を落とした彼女の表情はとても冷たく見えた。
「気づかなかったよ。どうしたの、何を撮ったの?」
焦りからか少し早口になる。
彼女は顔をあげ手本となるような作り笑顔をうかべ言った。
「先輩を撮ってみたんですが、ダメでした」
そういえば、彼女が入部してから一度も彼女の写真を見たことないことがない。何がダメなのだろう。
「良ければ見せてもらえないかな?」
彼女のもとへ行こうとしたとき、また彼女はカメラを構えシャッターを切った。
「カシャ」
「やっぱりまたダメでした」
僕は思わず苦笑し、彼女のカメラを覗き込んだ。
「僕なんかを撮るからだよ。被写体が悪いよ。どれ」
液晶に映っていた写真を見て僕は殴られたような衝撃と共に熱を感じた。そこに映っていたのはピンボケしているが、今にも動き出しそうな僕が映っている。しかもその輪郭がぼやけた顔には、はっきりと彼女の写真を見れることに対する僕の嬉しさが現れていた。もっと彼女の写真が見たい。何かわかる気がする。
「さっき僕を撮った写真も見して」
言うが早いか、カメラのアルバムを見始める。これもピンボケしていたが、やはり僕の苦悩が映っている気がする。次は、どんな写真があるんだろう。次、次……。
「そんなにがっついて見ないでくださいよ。私の写真なんてどれもこれもピンボケしてたり角度が変だったりでまともな写真なんてないですよ。変な先輩ですね」
彼女は僕のすぐそばで笑っていた。僕はどうやら彼女の写真が見たくて彼女が持っていたカメラを引き寄せていたらしい。急に恥ずかしくなり彼女から距離を取る。
「ごめん。最近、スランプ気味で…君の写真を見たら何かわかるような気がしたんだ」
恥ずかしくて目も見れなかった。彼女の写真が頭から離れない。走り始めようと意気込む人、おそらく想い人に早く会いたいのであろうその顔は何とも言えない幸福感に包まれていた。一人歩く青年、何かに葛藤していることが嫌でも伝わってくる。彼女の写真には被写体の思いが鮮明に映っていた。彼女は技術さえ手に入れれば素晴らしい写真家になると思う。
「君はとてもいい写真を撮るね。映っている人たちの思いが手に取るように分かる。うらやましいよ」
僕とは何が違うんだろう。
「こんなピンボケ写真を褒めてくれたのは先輩だけです。お世辞でもうれしいです。…私は先輩の撮る写真の方が素敵だと思います。ただ、完成しすぎていて絵のようだと感じるんですが、先輩の写真には先輩が伝えたいものがはっきりと映っていますから。私の写真には私の思いは映らないから」
言われて初めて気が付いた。彼女の写真は被写体の思いは映っているのだが、彼女自身の意図は感じられない。自分の感情は写真の中には入れないで被写体の思いだけを映すことを信条にしているものとばかり思っていたがどうやら違ったみたいだ。彼女は自分の写真に自分の感情を入れたがっている。それなのにどうして彼女の写真からは彼女のことは何も感じることができないのだろう。思考すると一つの考えが頭をよぎる。
「たぶん君の写真は被写体に寄り過ぎているんだと思う。被写体が100%で君の感情が入り込む余地がないんだろうね。被写体70、君の感情30くらいで撮ってみたら」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
「なんだか、難しい話ですね。でも頑張ってみます。ありがとうございました」
微笑む彼女は無邪気そのものだった。初めて本当の彼女を見た気がする。柔らかい笑顔をする子だ。
「僕も何言ってるのかわからなくなってきちゃった。ごめんね。そろそろ寒くなってきたし部室に戻ろうか」
外は少しずつ赤みがかり冷たい風が吹き始める。戻る途中はたわいもない話をした。部室に戻るころには、僕は彼女を瞳と呼び、彼女は僕を雄介さんと呼んでいた。
秋口になり、肌寒くなると、写真部にくるメンバーも固定される。僕も瞳もそのメンバーの一人だった。僕が瞳に抱いている感情は恋愛なのかどうかも分からないまま、僕と彼女の微妙な関係は続いていた。彼女はというと、僕や本などでいろいろと写真の技術を身に着け、めきめき成長しているところだ。そろそろコンテストが近い。ぼくは結局またファインダーの中に絵を描いた。知り合いに頼み込み二人で手を握ってもらい、光を当て影を作り、握った手を放す瞬間の影を幾重も撮り続けた。僕が伝えたい寂しさが映り込んだ写真がやっと撮れ、コンテストに応募した。その時に思ったのは、この写真が瞳の写真に負けてくれることだった。瞳もこのコンテストに参加することは知っていたので、あえて彼女がどんな写真を出したのか聞かなかった。どんな写真でもいい、瞳の写真の方が評価されるべきだ。
結果は瞳の写真は落選。僕の写真がまた一位となった。評価には完成度が群を抜いている、この風景に出会えることが奇跡であり写真家として神に認められているようだと書かれていた。
違う。違うんだ。何もかも違う。前提が違う。これは写真じゃない。
コンテストの結果が出た後、お祝いを兼ねた飲み会が開かれた。瞳も出席していたが僕とは目を合わせる気がないようだ。飲み会が終わり僕が家に帰ろうとすると瞳が僕の横を歩き始めた。
「コンテストおめでとうございます。あの写真、私も見ました。とてもよかったです。私のよりずっと……」
ここで、瞳の写真の方が僕は好きだとは言えなかった。どんな言葉が彼女を傷つけるのかわからない。
「そういえば、僕はまだ瞳の写真を見てないな……よかったら見せてくれない?」
僕は自分の写真より瞳の写真が見たい。
「いいですよ。でも……」
歯切れが悪かったが瞳はカバンからカメラを取り出し、僕に写真を見せてくれた。そこに映っていたのはベットで上半身を起こしながらカメラの方を向いている男性だった。この写真から感じ取ったものに吐き気とどこに向けたらいいのか分からない怒りを覚えた。この感情は何だろう?嫉妬なのか?分からない。分かりたくない。とても背徳的で魅惑的なその写真は評価とは別の次元のものに感じられた。
「……」
何も言えなかった。口を開けば怒りが嫉妬が悲しみが溢れそうなのだ。
彼女は僕の方を見ている。僕も無言で彼女の方を見る。感情と名のつく前のより原始的なものが僕の心をかき乱す。
「この写真は……、いや、違いますね。私はただ雄介さんに甘えていただけだった気がします。雄介さんは私の噂を知っていても変わらずに接してくれてましたから。」
そう、知っていた。容姿のせいか瞳の恋愛事情はなにかと耳にすることが多かった。瞳は一年の中でもかなりの容姿の良い男性と付き合っていたのだが、他の男性とも寝ていたと。曰く、顔が良い男性なら大体よしとする女性なのだと。
「噂には聞いていたけど、こうして写真として見るとさすがに辛いものがあるかな」
やっと言葉が出た。言って気づいたことだが、どうやら僕は彼女の写真を見て辛かったようだ。今、僕はどんな顔をしているのだろう。
「ずるいことを言うかもしれませんが、何も言わないし私を求めてこないからこそ雄介さんの傍にいたかったんです。余計なことを考えずに写真のことや思ったことを言える先輩の傍だけが本当の私を出せる場所だったんだと思います」
確かに、ときおり大学で見かける彼女の顔は作り物のようだった。今、僕の目の前にいる彼女はとても悲しそうで今にも泣きそうな声色をしている。僕らは恋愛とは違う何かで結ばれているのかもしれない。もっと深くでもっと絡み合って。分からないのに分かるのだ。
「良かった。なんとなくだけど分かった気がするし嬉しかったよ。僕の隣は君が来た時のことを考えて空けといておくから」
これでよかったのだろうか。もっと彼女の心に踏み込むべきなのではないか。知りたいと思えば思うほど知ることの怖さに押しつぶされる。
「ありがとうございます」
涙を流しながら彼女は囁いたのだった。
三年の冬、すっかり寒くなり白が目立つようになってきた。今日、僕は瞳に部室に行く前に大学の屋上に呼び出された。コンテスト後の飲み会後の数週間は少しぎこちなかったが、もうすっかり元に戻っていたのでどんな用件で呼び出されたのか分からなかった。階段を上り屋上のドアを開ける。日の光に照らされた瞳がこっちを見て微笑んでいた。
「どうしたの?こんなところに呼び出して、告白でもしてくれるの?」
急に視界が明るくなり目を細めながら、瞳に問いかける。
「まぁ、そんなところです。雄介さん」
その言葉に胸騒ぎがしたが努めて平静を装おう。
「期待しちゃうようなことは言わないでくれよ。なんか今日の瞳、変だぞ」
何が何だか分からない。
「そうですね、ごめんなさい。今日は雄介さんに私のことを話しておきたくて。雄介さんは私の写真には私の感情が映ってないって言ってましたよね。それってたぶん、私が本当にその感情を知らないからだと思うんです」
彼女の写真の傾向は相変わらずである。技術がよくなり、ピンボケはしなくなったのだがより一層、被写体の感情だけが強調されるばかりだった。
「それは、飛躍しすぎじゃないかな。君にだって感情はあるだろ」
僕よりも多くの人を愛し、多くの人に愛されているんだから、瞳はきっと感情豊かな人なのだろう。
「どうなんでしょうか。ただ、私は本当に誰かを好きになったことなんて一度もないと思いますよ。告白したことは一度もないですし、告白されても一度もドキドキなんてしたことないですから」
ならどうして、他人を受け入れるようなことを彼女はするのだろう。
「瞳がいろんな男性と寝たっていう噂も聞いたよ。感情は恋愛だけじゃないもっと他にもいろいろあるでしょ」
僕は何を言っているのだろう。
「私はいろんな感情を知りたかっただけなんです。誰かを慕う気持ちも、恨む気持ちも、愛する気持ちも。私はうまくそれができない。でも周りの人は息を吸うようにいろんな感情を表に出せる。レンズ越しだとそれが私には際立って見えました。だから私は写真を撮ったんだと思います。恋愛ごっこもそう、求められたから応じただけです。求められ続ければ求めてくる人の気持ちも分かってくるものだと思っていました。……なんだか疲れてしまったみたいです」
感情豊かだと思っていた瞳が、実は最も感情を求めていた。その事実が胸に突き刺さる。分かり合えているものだと思っていた。だが、今は瞳を遠くに感じる。
「……瞳にだって感情はあるだろ。なんなら僕も協力する。二人なら見つけれるものもあるかもしれないだろ」
遠くに行ってしまった瞳を少しでも僕のもとへ近づけさせたい。
「雄介さんは優しいんですね。少しだけ、躊躇しちゃうところでした。」
彼女はなんの迷いもなくこちらに向き直りながら屋上から身を乗り出した。なぜだろう、僕はカメラを構えたのだ。そして、落ちていく彼女に向ってシャッターを切った。僕が撮った写真には落ちながらも満面の笑みを浮かべる瞳の姿が映っていた。死ぬには不自然な笑顔、とても美しい写真だ。写真からは彼女の溢れんばかりの感情が映っていた。
彼女の死をきっかけに僕は写真を撮れるようになった。ファインダーの中にたまに彼女の面影を見つけることができる。それを撮ると、不思議と良い写真が撮れるのだ。ありがとう、写真の神様。
私がまだ幼いころに父親が死んだ。それ以来、母は仕事と男のことにしか興味を示さなくなった。何度も違う男と母の食事に付き合わされた。母に似て私も美人と呼ばれる類だと知ったのは中学に入って、よく男性から声を掛けられるようになってからだ。ただ、男性というものがどういうものなのかは母と共に家に来る数々の男から学んでいた。彼らは力が強く、傲慢で、無知なのだ。そして私は母にとってお荷物でしかないことも知っていた。だから私は、母に好かれるように、訪ねてきた男には子供らしい無邪気な笑顔で迎え入れ、夜な夜な聞こえてくる声には無知を装い続けた。唯一の楽しみといえば母から買ってもらった携帯のカメラで写真を撮ることだった。最初は人、特に家族を好んで撮っていた。私にないものを私は一生懸命フレームに収めようとした。次に、理解はしているが私が持ち合わせていない感情を持つ人たちを撮り始めた。私にはないから見たい。私にはないから残しておきたい。
私が通っていた高校には写真部がなく、ずっと一人で撮っていたので、大学では写真部に入ろうと決めていた。他の人たちはどんな写真を撮っているのだろう。緊張と好奇心で少しだけ歩く速度が速くなる。写真部の前まで来てドアを開けた。
「すみません。部活の見学に来ました。」
女性に促され、男性がこちらに来る。構わず部屋に飾られている写真を見渡す。そこには花瓶に花が入っているだけの大きな写真があった。使われていない教室に萌ゆる花が1輪だけ花瓶に活けてある写真。私は途端に怖くなった。咲き誇る花が散っていく姿が頭から離れない。私は今、恐怖という感情が手に取るように分かる。それほどに完成した写真だった。まるで絵のような。聞くと、私に話しかけてきた男性が撮った写真だったようだ。これ以上ここにいたくない。それほどに私はあの写真を恐れた。気づくと足早に写真部を後にしていた。
だいぶ大学生活にも慣れてきた五月ごろ、私は告白してきたそこそこイケメンと言わる子と付き合うことにした。これで、他の人からアプローチされることも減るだろうし、ステータス的にも問題ない。やっと、好きな写真に取り組める。写真部にも慣れてきて、みんなの顔と名前が一致するようになった。写真部の活動で私が好きなのは大学を歩きながら写真を撮るというもの。最初はみんなと行動していたけど、今は大体、一人で好き勝手歩いている。それと、あの写真を撮った例の先輩は雄介と言うらしい。あの人は基本的にいつも一人だしほとんど人前では写真を撮らない。でも、彼の写真の知識はとてもすごいし見る目もあるからみんなから信頼されているようだった。
一人でいろいろと考えていると斜め前を歩いていた男性が急に立ち止まり一点を見つめる。その先には一人の女性が歩いていた。彼の表情を見ると、とても嬉しそうだ。彼女に会って話したいという思いが伝わってくる。私も誰かをこんな風に愛したい。自然とカメラを構えシャッターを切る。撮れたのはピンボケした男性の姿だった。
「あーあ、またピンボケしちゃった」
消すか消さないかで迷っていると前方からこっちに向かってくる人がいることに気が付いた。あの先輩だ。あの先輩の写真からは強烈に感情が伝わってくるのに、どうしてあの先輩からは何も感じもないんだろう?あの先輩を撮ったら何か感じるかもしれない。
「カシャ」
ダメだ。少しだけ悩んでいる様子だったけどそれ以上は分からない。先輩がシャッター音に気が付きこっちに来る。もう一枚。
「カシャ」
画面を見る。やっぱり分からない。
「やっぱりまたダメでした」
先輩が微笑み、私のカメラを見る。私の写真を見た先輩はなぜかとても驚いていた。それから先輩は私の写真を見始めた。その顔は真剣そのものでカメラがあれば今の先輩の顔を撮りたいのにそのカメラは今、先輩が見ている。距離が近い。でも不思議と嫌悪感を抱かない。もっと、そばに……急に恥ずかしくなってきた。先輩をからかうと露骨に距離を取られてしまった。それから先輩とたくさん話すことができた。どうやら、先輩は写真の神様という単語が好きらしい。何より嬉しかったのは先輩が私の写真を好きだと言ってくれたことだ。それに先輩からいろいろとアドバイスももらった。先輩を雄介さんと呼ぶこともできた。雄介さんと話すのは他の男性と違って楽しい。今までは、好きになってくれた人の中から選び、与えられたものを、求めてきた手を拒むことはしなかった。だけど、今、私は雄介さんを求め始めたのかもしれない。
秋に入ると私は自分がよく分からなくなっていた。そして、雄介さんのことも。考えれば考えるほど分からなくなる。どうして雄介さんは他の男のように私を求めてこないのだろう?私のことが嫌いなの?嫌いなのにどうして傍にいさせてくれるの?どうしてそんなに優しいの?分からないから知りたくなる。だから、私は求めてきた手を次々と握り返した。求めてくる男のことならだいたい分かるようになったころには私はだれとでも寝る女だと噂されていた。もちろん写真部にも広まっていることも雄介さんの耳にも届いていることも。ただ、雄介さんは相も変わらず私を受け入れ優しく接してくれた。私が嫌だったことは噂のことじゃない。さらに雄介さんのことが分からなくなってきていることだ。そんな時、コンテストがあると聞いた。それも去年、雄介さんが一位を撮ったコンテスト。私はこれに応募することにした。作品のテーマは愛。それから私は求めてきた男たちに「愛してる?」と尋ねることにした。みんなきまって「愛してるよ」と言う。そんな時、私は気づいてしまった。私に愛してるという顔がみな同じだということに。これが愛。この顔を写真に撮って応募しよう。
そして、最高の愛が撮れ、私はその写真を応募した。結果は落選、写真の神様は私のことが嫌いなようだ。一位を撮ったのは雄介さんだった。雄介さんの写真は握った手を解く瞬間の影を映した写真だった。その写真を見ると寂しさで胸がいっぱいになる。雄介さんの写真から寂しさを学んだ。どうやら、ここ最近、私は寂しかったようだ。
雄介さんを祝う飲み会の日、私はどんな顔をして雄介さんに会えばいいのか分からなかった。怖いのだ。私の写真を見せるのが。私は私なりの愛を写真に収めた。あれが私の知っている私の世界の愛なのだ。でも雄介さんの愛は違った。雄介さんの写真を見て私は思った。会って話している時はとても楽しくて、別れの時間が来ると寂しくなる、それが雄介さんにとっての愛。それはまさに私がずっと雄介さんに対して抱いてきた思いだった。これが愛。こんな感情に気づきたくなかった。私はもう汚れすぎている。こんな醜い片想いは止めにしよう。一緒に帰るとき、本音の中に嘘を織り交ぜて話した。ただ、抑えきれない思いは涙となって頬を伝った。
冬になり寒くなったある日、母の知り合いが母のいない時間帯に訪ねてきた。どうやら、母より若い子の方が好みだったらしい。私は拒めば母に怒られると思い、求めに応じた。ところが、それを知った母は怒り狂い泣き叫んだ。母の中で何かが壊れたらしい、その日から母は精神科に入院することになった。一度だけ見舞いに行ったら、「あなたなんか生むんじゃなかった。死んじゃえ」と言われてしまった。病院のベットで暴れ始める母を見たとき、未来の私がそこにいるような気がした。他人の歪な感情を貰い続け肥えた私が行きつく先はきっと今の母親の姿なのだろう。母親のお金を頼りにして大学に通っていたので母親なしでは生きていけない。母親の知人からは「俺のところに来たら、学費も生活費も出してやる」と言われていたが今度は彼のおもちゃとなって生活しなければならないと思うと嫌気がさす。なら、いっそこのまま死にたい。私が一緒にいたいと思える人の傍で。死ぬならいい天気の日が良い。新潟の冬は晴れの日がほとんどない。運命の日が来た。今日は朝から晴れていた。今日なら死ねる。私は雄介さんを屋上に呼び出した。最後に雄介さんを見てから死にたい。そう思い、雄介さんの方を見ながら飛び降りた。不意に、雄介さんがカメラを構えるのが見えた。私はとても大事なことに気づいてしまった。雄介さんが私を撮ってくれたことは一度もないのだ。笑わなきゃ。とびきりいい笑顔にしよう。そう言えば、雄介さんは自分は写真の神様に嫌われてるって言ってたっけ。お願い、写真の神様、雄介さんを許してあげて。