紫檀
暗闇だというのに、その男の顔がはっきりとわかるのは、彼自身が光を放っているからだ。
目は赤く光り、白の束帯をまとい、白銀の笏を持ち、しずしずと『宙』を歩く。
「止まれ!」
誠治郎は抜刀し、刀身を身に水平に構えた。銀の刀身が鈍く光る。
「ほほう 東雲のものか」
男の目がつうっと細くなる。
男は、笏を天に向かって振った。
大きな氷柱が天に向かって打ち上げられ、空中で、大きな音を立てて割れ、氷のかけらになる。
誠治郎は、刀身を持つ手に力を込めた。
「日輪よ」
誠治郎の手にした刃から、まばゆい光が放たれた。
ばらばらと降り注ぐ氷のかけらは、光にはばまれ霧散する。
「やるじゃないか」
男は、面白そうに嗤った。
「兄上なのですか?」
本来は後ろに下がるべきであるはずの緋鋭は、家臣を押しのけて、男に問いかける。
年のころも顔も、すべてが、男は、緋鋭とそっくりであった。
「そう、わかっているであろう? お前と我は、つながっているのだから」
「陛下、なりません!」
誠治郎は、男から目を離さず、叫ぶ。
目の前の男が、紫檀かどうかは、問題ではない。
この男は、まぎれもなく、『魔』だ。それも強烈な力を持っている。東雲の力は太陽由来のものだ。日の光のない夜に誠治郎の力をすべてぶつけても、この男を止められる保証はない。
「聞け、緋鋭。我は、わが身に起きた不幸の数々の、それらを恨んでおるわけでも、ここにいるものたちを殺めるために来たわけでもない」
ニヤリ、と、男は嗤った。
「我が不幸は、母であった、あの女の狂気ゆえ。ただ、同じ血を引く者でありながら、ぬしは皇帝、我は母に崖から突き落とされた」
「突き落とされた?」
瑞花が崖の上から転落したのは確かだが、紫檀に何があったかは、定かになってはいない。
もし、紫檀が崖から落とされたのであれば、なぜ、ここにいるのか。あの谷から落ち、無事でいられるものとはとても思えない。
「双子として、これは、あまりにも不公平と思わぬか?」
「皇帝の座が望みか?」
「まさか」
誠治郎の問いに、男は頭を振る。
「我が欲しいのは、照魔鏡」
パチンと、男は指を鳴らした。冷気が走り、すべてが凍りつく。凍てついた大気が、ピリピリと肌を刺す。
男のまとう妖気に、あの日と同じ感触を誠治郎は感じた。
山が光り、星が流れた、あの晩。崖の下から吹き上げていたモノ。
「我が不幸の源である鏡を我に──」
男が言いかけたその時、
「月影よ。穢れを浄化せよ!」
シャリンと、神楽鈴を鳴らし、鏡子が叫んだ。
ついっと彼女が伸ばした神楽鈴の先に、寝待月の姿が現れる。辺りに金の光が満ちた。
周囲に張った氷が、月光に融かされていく。
男は、不機嫌に、鏡子をにらんだ。
「尊き血をひく我を、穢れと言うたな、女」
「私は、穢れを祓っただけ。それ以上でも、それ以下でもない」
鏡子は神楽鈴を構えたまま、男をにらむ。
「ほほう。我を見ても、臆することもない。面白い女よ」
男はにやにやと笑みを浮かべた。
「その度胸、気に入った。よく見れば、美しい。我が妻にならぬか?」
「何を……」
男の手が、鏡子に伸びる。
「させるか!」
誠治郎は、足を踏み込み、男に向かって、気合いとともに剣を滑らせた。
「くぅっ」
男の右肩から、血ではなく、闇が噴き出した。
間髪を入れずに、とびかかった誠治郎を、男はさらに宙へと飛んでかわし、笏をふるう。
鑿のような氷柱が数十本、誠治郎に向かって飛び出した。
誠治郎は、横跳びにとんで、それをかわした。
「はなしてっ」
鏡子の声に、振り向くと、いつの間にか、男が鏡子の身体を捕らえていた。
男の肩から噴き出した闇が、鏡子の身体を縛り上げていく。
「鏡子殿!」
誠治郎は、刀をかまえ、跳躍したが、男は更に、上へと逃れる。
「鏡子殿!」
大地の上で、歯噛みする誠治郎を男はにやりと嗤った。
「この女が、大切か? 東雲の男よ」
暗闇が鏡子の身体を覆い隠していく。
「取引をしよう。この女が欲しければ、大祭の前日の満月に、大社の裏に照魔鏡を持ってこい」
「何?」
「聞いてはダメ! 魔に耳を貸してはいけません!」
「賢げな口をきくな」
パチリと、男が指を鳴らすと、鏡子の全身が闇に包まれた。
「何がしたい?」
誠治郎はゆっくりと問う。男の目的がわからない。
「見よ」
男は嗤いながら、ついっと、笏を緋鋭に向けた。誠治郎は男を睨みながら、横目でそちらに視線を送った。
「ぐっ」
緋鋭が肩口をおさえている。衣服に赤い血がにじみはじめた。
「我と、緋鋭には、母の呪いがかかっている。それを解くためには照魔鏡がいるのだ」
「呪い?」
誠治郎の疑念には答えず、男は大きな笑い声を残し、来た時と同じように強い風が吹く。
「待て!」
誠治郎の制止を聞かず、男は鏡子と共に姿を消した。
風がやみ、静寂がもどる。
緋鋭が、肩を押さえながら、膝をついた。
「陛下!」
あわただしく、人が動き出す。
いびつな形をした寝待月が、こうこうと闇を照らしながら、昇り始めた。
幸い、皇帝、緋鋭の負傷は大事に至らなかった。
あの時。
紫檀も、誰も、皇帝を傷つけてはいない。ということは、誠治郎が紫檀を切ったゆえの、傷なのだろうか。
傷口は、完全な『刀傷』。紫檀とは逆の肩だ。
医師が呼ばれ、皇帝の手当てがはじまると、誠治郎は、実成とともに、賢所の現場を調べ始めた。
鏡子の捜索に出かけたいところだが、どこにいくべきか、あてがない。言いようもない焦燥感を感じながらも、やれることからやらなければならないことを、誠治郎と実成はよく知っている。
まふたつに割れた木造の舞台。鏡子が清めたおかげで、妖気は、わずかにしか残っていない。
「賢所の結界が崩されていたわけではなさそうです」
実成が建物の柱にほどこされている封魔の紋章を手元の明かりで確かめた。
「強力な力の持ち主でしたから……突き破ってくることができないわけではないと思いますが、それにしても破られたわけでは無いとは」
実成がため息をつく。
「それならば呪術結界を張る意味はなくなります」
それは、あの男に対して、封魔衆としてやれることがない、ということに近い。
「あれが、本当に紫檀さまであるなら、結界は意味がないかもしれぬ」
誠治郎は肩をすくめた。
「この宮殿は、建国の始祖白檀様の名において、その子孫への加護が働くように結界が張られている。紫檀さまであれば、皇家の直系。宮殿の結界は、彼を護りこそすれ、弾くことはないのかもしれない」
「でも、あれはどうみても、妖魔です」
月明りにぼんやりと破壊された舞台が浮かび上がっていた。
人間は宙に現れたり、消えたりはしない。
実成の言うとおりだ。紫檀のまとっていたのは、明らかな妖気。それも、圧倒的な力だった。
とても勝てるとは思えぬ、力の差があった。
「鏡子をどうするつもりでしょう?」
実成はポツリと呟く。
照魔鏡は国宝である。家臣である鏡子を救うために、魔に差し出すべきものではない。
それは、実成や誠治郎が、いかに重臣であり、鏡子を大切にしていたところで曲げることのできないことだ。あの男が、紫檀というなら、それくらいのことは百も承知のはずだ。
鏡子が『人質』にならないことは、明らかなのに、なぜ、連れ去ったのか。
「妻にすると言っていたな」
口にして、誠治郎は腹が煮えるような怒りを感じた。
あの男の指が、鏡子に触れると考えただけで、じっとしていられない。
誠治郎の肩が震える。
「……贄にでもするつもりでしょうかね」
実成の声が震える。
妖魔が、力ある人をさらうのは、さらなる力を得るためだともいう。
力あるひとの肉は、妖魔に絶大な力を与えると言われているのだ。
「なんとしても、救う。絶対に」
誠治郎は、自分に言い聞かせるように口を開く。
形のいびつな月を見上げ、呼吸を整える。焦っても何も見つからない。
「鏡子のことは別として。なぜ、陛下が傷つくことになったのでしょう」
実成が首を傾げた。
「いくら、双子と言えど、このような話、聞いたことがございません」
「そうだな」
誠治郎は頷いた。
「何より不思議なのは、その結びつきを、紫檀さまの方が、切りたがっているように思えることですな」
「確かに、あのように陛下と結びついている今は、陛下を人質に取っているも同然で、都合が良さそうに見えるな」
紫檀を切ると、緋鋭が傷つく。とあれば、誠治郎たちは、紫檀を倒すことはできない。
実際の感情はともかくとして、役目的には、鏡子を人質にされるより、そちらの方が問題だ。
そして、むやみに傷つけることができないというなら、鏡子を助けることも難しい。
「瑞花さまの呪い、と言っておりましたな」
実成が眉をよせる。
「全ては、十年前にさかのぼる、ということでしょうか」
「……やっかいなことだ」
誠治郎は、唇を噛む。
「東雲さま、月上さま。陛下がお呼びです」
「……わかった」
考えていても答えは出ない。夜空には寝待月がこうこうと輝いていた。