鏡に映るは、赤い月
いつもより暗い赤い月が、夜の闇に光る。
どこからか、不気味な調べが、流れ始めた。
世界に妖気があふれ、この世ならざるモノどもが、月巫女の舞に合わせ踊り始める。
てらてらとした池の光が、さらに激しく光る。
「蝕だ。魔界の門が開いている」
誠治郎は目を見開く。世界が赤銅色に染まって、禍々しい楽を奏でる。
「ご歓迎のようですね」
二人に気が付いた、魔物どもが、敵意を隠しもせず、こちらにやってくる。
空中で眺めていた紫檀が、袂から短刀を取りだし、白銀の刃がギラリと光った。
「ここは私が」
実成は、誠治郎に頷き、魔物たちを引き受ける。
「たのむ」
誠治郎は、鏡子のもとへと走った。
池の水面は、かなり分厚い氷だが、氷というよりは金属のような硬さがあった。鈍く反射し、姿が映るさまは、まさに鏡だ。
鏡子は、一心不乱に踊り続ける。
振り上げた紫檀の刃が、鏡子へと振りおろされようとしていた。
「鏡子殿!」
誠治郎は、鏡子を突き飛ばし、抜刀した刃で、紫檀の剣を受ける。
「邪魔をするな」
紫檀の目が、赤い光を帯びた。
突然、誠治郎の身体が拘束される。
鏡子だ。
後ろから脇下から肩に手をかけ、動かぬように締め付ける。
「ぐっ」
ほどこうと思えばほどけなくもないが、紫檀の剣を受けたままでは厳しい。
実成は、異界のモノに阻まれているらしく、そばに来ることが叶わないようだ。
誠治郎は、左ひじを鏡子に向かって振り下ろしながら、紫檀の剣を振り払う。
鏡子は、体勢を崩したが、そのまま、誠治郎の左足の袴を手で引いた。
倒れるほどの力ではない──が、一瞬、気がそれた。
紫檀の剣が誠治郎の肩口に突き立てられた。
「──ッ」
誠治郎の肩口から、飛び散った血が、鏡子の顔と髪を濡らす。
白く光っていた鏡子の体の光が失われていき、そのまま倒れた。
誠治郎の血が、鏡子の髪を伝い、そのまま赤く光る氷へと滴っていく。
じゅわり。
赤銅色の氷に血が広がる。
そして、紫檀の姿を映した。
暗闇に、提灯の灯がひとつある。
静けさの中で、ひとり、女が舞を舞っていた。
女に向かって歩く、紫檀の身体は淡く光っている。
顔は、苦しげだ。喘ぐように息をしている。
「やめろ」
紫檀は女に声をかける。
女はやめない。苦し気な紫檀の姿をみとめているのに、それでも、ひたすらに舞い続ける。
「やめてくれ、母上」
紫檀は、女に再度訴える。
発光する体が、ガクガクと震えている。
紫檀は頭を抱えた。その体の中で、何かがせめぎあっているようだ。
やがて。
紫檀の身体が、赤い光を放ち始めた。
「無駄だ。母上。あなたの力で、この力は祓うことはできない」
「紫檀……」
女は、舞を止めた。
「私では、助けられないということね」
女の目に涙が浮かぶ。
「それならば」
言うなり、女は、突然、紫檀の身体に抱き着き、そのまま崖の下へと身を投げた。
「今のは……」
肩を押さえながら、誠治郎は紫檀に目をやる。
「面白いか? 十年前、母に殺されたときのことよ」
くすり、と紫檀は笑う。
紫檀は血だまりに自分の手を映しこむ。
その腕に、細い金の糸が絡まり、伸びている。
「肉親に殺されるというのは、なかなかに不愉快なことであった。まあ、おかげで、母の肉を喰うことで、ひとであることを完全に捨てられることができたが」
ニヤリ、と紫檀は嗤う。
「とはいえ、完全に傷が癒えるのに十年もかかった。このような糸がつながっているせいで、随分遠回りをする羽目になったものよ」
紫檀は、刃を振り上げ、血だまりに映る金の糸に突き立てた。
「氷雪王よ。ようやくに、一つになる時が来た。我に、応えよ!」
ぐらり。
大地が鳴動する。山が、呼応するように、震えた。
紫檀は目を閉じて宙に浮かぶ。力が、紫檀のもとへと流れ込んでいるのが見て取れた。
風が吹き荒れる。かなり大粒の氷の塊が、バラバラと大地に降り注ぐ。
「誠治郎さま!」
実成が、揺れる大地の上を駆け寄ってきた。
「お怪我は?」
「大事ない」
言いながら、誠治郎は鏡子を抱き起こした。
「鏡子殿」
「……誠治郎さま?」
氷が降りしきる中、鏡子は、目を開ける。
「どうします?」
実成が体を低くしつつ、空を見上げている。
晴れ渡った闇空の中、氷が降り続ける、不思議な光景だ。
血濡れた誠治郎の肩に気が付いたらしく、鏡子は目を見開いた。
「誠治郎さま、お手当てを」
「あとだ」
誠治郎は、肩にのびてきた鏡子の手を制した。
「照魔鏡を使う」
誠治郎は、血だまりを指さした。
赤い月を後ろに、宙に浮かぶ紫檀を映し続けている。
「実成は、楽を。鏡子殿は、舞を奉じろ」
誠治郎は、ゆっくりと立ち上がった。
「儀礼は、既に陛下が」
実成の言葉に、星山大社の方角を指さした。
大社の方角に金の光が見える。
「わかっている。儀礼のためにも、紫檀を倒す。結界の外に依り代がいるからこそ、氷雪王の結界がゆらぐ。紫檀を倒せば、結界は強固に作用するはずだ」
蝕の月は、魔の味方。儀礼だけで封印できる保証はない。できなければ、氷雪王は復活してしまうのだ。できることは、すべてするべきだ。
誠治郎は、懐から木箱を取り出し、鏡子に渡した。
「使え」
「これは?」
「瑞花さまが術で使った、紫檀のへその緒だ」
「お救いするのは、不可能でしょうが、力を切り離すのには使えるはずです」
実成はふたりに頷くと、龍笛に唇を当てた。
「舞えるか?」
「大丈夫です」
鏡子が箱をうけとって頷くのを確認し、誠治郎は、立ち上がる。
美しい調べに乗り、鏡子が舞い始めた。
誠治郎は目を閉じ、手にした刀に力をこめる。
「日輪よ、我に、力を!」
誠治郎は、走り飛んで、紫檀の胸に剣を突き立てた。
刀身が、昼間のようなまばゆい陽光を放つ。
「くっ」
紫檀がうめく。突き立てられた刀をその場で抜いて、放り投げる。
傷口から闇がこぼれていく。
「ひとの子のくせに、生意気な」
紫檀は苦しげに、笏を誠治郎に向けた。
「あなたも、ひとの子だったはずだ」
誠治郎は、脇差を抜き、紫檀の力を受け、こらえる。
禍々しき調べと、龍笛の音、赤銅色の光と、陽光の輝きが、せめぎあう。
「鏡子殿!」
誠治郎の言葉に応え、鏡子はへその緒を血だまりの鏡の中に投げ入れた。
「月影よ、我に力を!」
鏡子はとりだした檜扇を、鏡の中に突き立てる。
まばゆい銀の光が生まれ、紫檀の断末魔の叫びがとどろいた。
やがて。
弓なりの銀の月が現れ、静かに闇を照らしはじめた。
形のいびつな月が、こうこうと闇を照らしている。
あれから、五日。氷雪王の復活は阻止され、結界はゆるぎないものになった。
念のため、つぎの大祭は、十年を待たずに来年、行われることが決定している。
誠治郎の負傷は、本人が思っていたより大きなもので、緋鋭と医者から、休養を言い渡された。
とはいえ、都に帰ることも止められており、星村家に居候している状態だ。もっとも、それは誠治郎一人ではなく、月上兄妹、さらには、星山大社で儀式の後始末をしている父源蔵も同じなのではあるが。
更待月、とはいったもので、辺りはすでに寝静まっている。
冬の夜は静かだ。
「誠治郎さま、お加減はいかがですか?」
ふすまの向こうから、鏡子の声がする。
「大丈夫だ」
誠治郎が答えると、ふすまがするりと開いた。
「まあ、この寒いのに、なにをしていらっしゃるのです?」
戸を開き、えんがわに腰を下ろしていた誠治郎を、鏡子は呆れたようにたしなめた。
鏡子は、男物の小袖に羽織を着ているが、長い髪はおろしたままだ。盆に湯飲みをのせているところをみると、薬湯を持ってきたのであろう。
「薬湯なら、そこに置いてくれ」
誠治郎は、自分は動かずに、縁側のそばに火鉢を抱くようにして座ったまま、のべられた床のそばの行灯のあたりを指をさす。
「長くはダメですよ。お怪我だけでなく、風邪をひいてしまいます」
鏡子は、すこしだけ目を吊り上げて、薬湯を指示された場所に置いた。
「ああ」
誠治郎は答えながらも、月を見上げる。
「鏡子殿、ともに月を見ないか?」
「え? は、はい」
突然の誘いに、鏡子は驚いたようだったが、拒否をせず誠治郎の横に座る。
「更待月ですね」
鏡子が呟く。火鉢をはさむとはいえ、距離が近い。
薄明りの中、誠治郎は、身体に触れるほどの近さに何の躊躇もない鏡子に思わず苦笑する。
今までこの距離を気が付かなかったのは、誠治郎の方であった、と思う。
「鏡子殿。これからも、月をともに見る気はないか?」
「誠治郎さま?」
言いながら、鏡子の身体を引き寄せる。体がぴくんと震えた。
「……このような時刻に、ほかの男の部屋を訪れてはだめだ。たとえ看護のためであっても」
「はい」
鏡子は誠治郎の胸にそのまま身を預ける。
「ふたりだけの、夜を語ろう」
白銀の月が、二人を照らしていた。
了
お読みいただき、ありがとうございました。