月巫女
鏡子の手が前に突き出されると、大きな氷柱が誠治郎たちに向けて飛び出した。
「鏡子殿!」
その攻撃を避けつつ、誠治郎は叫ぶ。
「誠治郎さま! 下がってください!」
実成が松明を構えたまま、ゆっくりと後ずさる。
「東雲の男よ。わざわざ、出迎えとは律儀だな」
鏡子の腰をひきよせ、紫檀はふっと笑みを浮かべた。
「照魔鏡は持っていないようだが、約束が違うのではないか?」
紫檀が笏を振る。
洞の中が、一瞬にして凍り付いていく。
誠治郎は、刀を抜いた。
暗闇の中で、わずかに光を放つ紫檀と鏡子は、なんの苦も感じていないようだが、松明の灯があるとはいえ、足元が悪い。
踏みしめた足は、氷で滑り、体勢を保つのがやっとだ。
「まあいい。我が弟は、昔から生真面目すぎるやつであった。大方、自分のことより、我を封じることを優先しろと、命じたのであろう」
くっくっと、紫檀は笑った。
「命を惜しまぬ、阿呆なヤツめ」
言うなり。
猛烈な吹雪が、巻き起こった。
誠治郎も、実成も立っていることが出来ずに、思わず、地べたに這いつくばるように姿勢を低くし、懸命にこらえる。
風はごうごうとなり、目を開けていられないほどの雪が吹き付けるように舞う。
「行くぞ」
紫檀は鏡子を抱きよせたまま、吹雪の中を歩く。鏡子は、表情を変えることなく紫檀に寄り添う。その虚ろな目を除けば、すべてを紫檀にゆだね、任せきっているように見える。
唇は、淫らに赤く艶やかだ。吹雪の中を歩くには、寒そうなほどに、大きくあいた襟もとに、青白く発光する肌がのぞく。
誠治郎は抜き身の刀を握り締め、二人の進路をふさいだ。
シャリン
鏡子の神楽鈴が赤色に輝き、禍々しき気弾を放つ。
気弾は、渦を巻き、誠治郎の右肩に当たった。
「ぐっ」
「鏡子!」
実成の声に応えるかのように、さらに、鏡子は鈴を振り、実成の腹に気弾を命中させた。
「どうだね。素晴らしい月巫女だろう? 我が妻に、ふさわしい」
紫檀は楽しそうに笑い、誠治郎と実成を無視をするかのように、二人の横を通り過ぎていく。
「鏡子殿!」
痛みをこらえ、誠治郎は刀を振り上げた。
「日輪よ」
「させぬよ」
振り返りざま、紫檀は、吹雪を今度は、逆向きに放つ。誠治郎の作った光が、吹雪を受け止めて、二つの力が消滅する。しかし、天井が、大きな力のぶつかり合いに堪え切れずに、バラバラと音を立てて崩れ始めた。
誠治郎の目の前に、大岩が崩れた。
「誠治郎さま!」
実成が叫ぶ。
誠治郎は、二人を追うことを、あきらめ、洞の奥へと実成と避難した。
吹き荒れる嵐がおさまり、天井の崩れがおさまった時には、紫檀と鏡子の姿は消えていた。
崩れ落ちたがれきのせいで、洞の入り口への道は、人が這いつくばらなければならないほどになっていた。
「妖気は、消えましたな」
実成が呟いた。幸い、松明の灯はなんとか維持できている。
「行こう」
誠治郎と実成は、這うように、慎重に外へと向かった。
這うといっても、単純に平らな場所を這うのとは勝手が違う。
それにしても。
鏡子が放ったのは、禍々しき気弾。月の巫女の力を使っているようでありながら、あきらかに妖気を帯びていた。
鏡子の目は、虚ろで、何も映してはいなかったけれど、あれはいったいどういう意味なのだろうか。
──鏡子殿。
もはや、誠治郎のよく知る鏡子を取り戻すことはかなわないのだろうか。
今まで、当たり前のように感じていたものが、特別であったことに誠治郎はようやくに気が付いた。
とはいえ。
なんとしても、氷雪王の復活は避けねばならない。
紫檀が、鏡子を生かしていたというのであれば、茂綱が語ったように、『照魔鏡』を新たに作ろうとしている可能性がある。
紫檀にとって、魂結びをほどくことこそ、力を得る最短の道なのだ。
もっとも、星山神社には、既に緋鋭が一日早く儀式の準備を整えて待っている。
理想を言えばきりがないが、魂結びをほどかれるようなことになれば、有無を言わさず儀式に入ることは打ち合わせ済みだ。
とはいえ。紫檀は、既に『空間』を渡ってくるほどの力を見せた。人としてのつながりを捨てたら、どれほどの力になるのか。通常の儀式で封印できるものなのかは、誰にもわからない。
ふたりが、ようやく落盤箇所を抜け、慌てて洞の外に出たころには、太陽は地平のかなたに沈み、夜の帳が降り始めていた。
星がまたたき始めている。
風の音が止まらない。刺すような、敵意に満ちた風だ。
洞を出て、辺りを見回すと、暗闇の向こうに、ぼんやりと何かが光っている。
誠治郎と実成は、吸い寄せられるかのように、その灯の方へと向かった。
枯れ木の向こうに、ぽっかりと空いた空間。そこだけ雪がなくなっていて、てらてらと光っている。
おそらく池のあったあたりだ。
硬く氷が張っているのだろうか。それとも、水面がきらめいているのだろうか。
不思議なほど、なめらかに、池は鈍い光を放つ。
シャリン
神楽鈴の音が鳴り響いた。
てらてらと光る池の中ほどで、女が舞を舞っている。
楽の音はない。どうやら、ひゅるひゅるとなる風にあわせているようだ。
鏡子だった。
もっとも、夜神楽の時の舞とは違う。
どこか淫猥で、淫らな香りがする舞だ。男を、そして、魔を誘うように流れる艶やかな髪。
その鏡子を上から見下ろすかのように、宙に浮いている紫檀の姿。
辺りには、妖気が漂い、どんどん濃度を増していく。
満月だというのに、随分と空が暗い。
誠治郎は、嫌な予感を抱きながら、走った。
「誠治郎さま! 月が」
ゆっくりと十五日目の月が顔を出す。
それは、常ならぬ赤い光を放つ月であった。