序章
東の空には十六夜の月。
冷たい夜風がひゅうひゅうと肌をなでる。
月明かりが明るいせいで、晴れ渡っているにもかかわらず、星の光は控えめだ。
東雲誠治郎は、パチパチと燃えるかがり火のそばに立ち、拝殿の奥にそびえる山を見上げた。精悍な横顔だが、まだ、目元にあどけなさが残っている。
今日は、十年に一度の、霧氷山にある星山大社の大祭だ。
かつて、この蘇芳の国を恐怖で支配したという氷雪王を封じたと言われている霧氷山。数百年の時を経た今も、陽の光の護りが弱くなる冬になると、妖気を吐きだす、魔の山だ。星山大社は、国のかなめで、その大祭は、かなり重要なものだ。
東雲家は、代々、皇帝のそばで封魔衆として仕えていて、大祭での役目は重い。
とはいえ。それは父である源蔵の話で、まだ十六歳の誠治郎は見習いにすぎず、拝殿の外の境内で、ただ、立っているだけが『役目』である。
広い境内には、拝殿脇にかがり火がふたつ。パチパチと炎が音を立てて燃えている。
月明かりに照らされて、石造りの鳥居が黒く浮かび上がり、玉砂利にわずかな影を落としていた。
境内にいるのは、誠治郎の他、数名。
他のものは、鳥居の外にある下り階段の下で待つ決まりだ。
大祭といっても、儀礼が中心で、民が楽しむような華やかさはない。
冬の始まりの十六夜の月は、美しいが、愛でるのには寒すぎる。誠治郎も羽織を羽織ってはいるが、肌寒い。特に足の裏から冷たさが沁みてきて、立っている、という行為が実に苦痛だ。
「誠治郎」
不意に、儀式中の拝殿の戸がわずかに開いた。
隙間から、険しい顔の、父、源蔵が顔を出している。
「どうしました?」
「瑞花さまと紫檀さまの姿が見えない」
走り寄った誠治郎に、源蔵は小声で耳打ちした。瑞花は現皇帝、紅仁の妻、紫檀はその息子である。
「儀式のさなか、抜け出してしまわれたようだ。たぶん、拝殿の裏側の出口を使われたと思われるが、もう半刻(※約一時間)になる。さすがに何かあっては大変だ。お探し申せ」
「はい」
誠治郎は頷いた。大祭の儀式は長い。
皇族や、封魔衆とよばれる祀りに携わる人間は、日没から夜半過ぎまで、拝殿の中で儀礼をおこなうことになっているから、途中で抜け出ることも、ままあるらしい。しかし、何処に行くとも当てのない場所である。そのような長い時間、抜け出るのは、どう考えてもおかしい。
誠治郎は、提灯に明かりを灯すと、拝殿の裏側へと向かった。
星山大社は、山の中腹にあり、木々の少ない岩場にある。
拝殿の裏側近くは、大きな裂けめがあり、深い谷になっている。その向こうは、人を拒絶するかのような険しい山だ。
霧氷山は、既に雪の衣をまとっているため、月あかりを浴びて闇の中で白く浮かび上がっている。山から降ろす風は、刺すように冷たい。
拝殿の裏側に入ると、建物から漏れる明かりが消えた。あたりは月が照らしているだけだ。
おぼろげな光の中、誠治郎は、足元に気を付けながら歩いた。ゴツゴツした岩場で、歩きにくい。
「……これは?」
ちょうど、裂けめの前に何かが落ちていた。
「なんだ?」
誠治郎はそれを拾い上げようと手をのばした、その時──。
ぐらり。
突然、大地が揺れた。
霧氷山が禍々しい青白い光を放ちはじめる。
天に、赤く光る星がいくつも流れ、ごうごうと風がなった。
裂けめの下から妖気が吹き上げる。妖気は霧氷山の光と鳴動しているかのようだ。
その時、拝殿から大きく金色の光が山に向かって伸びた。
「あれは?」
金色の光は、山を焼くように広がり、そして、静かに消える。
やがて、大地の揺れがおさまると、霧氷山の光は消え、星も流れなくなった。
大気は、冷たい清浄なものに戻った。
誠治郎は、落ちていたものを拾い上げる。
檜扇だ。それも、一見して、高貴な人間が持つもの、と思われた。
『私は鬼を封じる』
開いた扇に、そう記されていた。
十年に一度の大祭の日に、大地が揺れ、赤い星が降り、人々は恐怖した。
その後、皇帝が急死し、その子が跡を継いだ。
そして。
十年の月日が、流れた。




