みずイロ(7)
陽射しが強い。天気は快晴。風も穏やかで、出発には最適の日和だと思う。シュンヤは窓の向こうに広がる光景を眺めて、きゅっと目を細めた。
シュンヤたちの搭乗する飛行機は、丁度ウィングに接続したところだった。ここから十時間以上のフライトを経て、それからまた別の便に乗り換えて。現地からの情報によると、日本よりも数段暑いという話だ。気を引き締めておく必要がある。
「うん、大丈夫だから。気にしないで、そっちこそお大事にね」
すぐ近くのソファで、フユが携帯の通話を打ち切った。女子の会話というのは、いくつになっても長いものだ。それはフユであっても変わらない。
シュンヤに言わせれば、フユは自分で考えているほど特別な存在などではなかった。甘いものが好きだし、友達とのおしゃべりも好きだし。悲しければ涙を流して、嬉しければ笑う。そして何よりも――
「ごめんごめん、ヒナがどうしても見送りに来たかった、なんて言い出すからさ」
「無茶を言うなぁ、あいつも」
シュンヤのことを、こんなにも大切に想ってくれる。シュンヤはフユの隣に腰を下ろすと、ぐいっとその肩を引き寄せた。フユは少し驚いた様子だったが、黙ってシュンヤの好きにさせてくれた。読んでいる――訳ではなさそうだ。シュンヤに対してそれはしないと、以前した約束を頑なに守り続けていた。一途、とでも言って褒めてやれば良いのだろうか。
「二人目だし、そこまで心配することはないと思っているんだけど……アラタくんのことがあったからね」
「あれは滅茶苦茶だったからな」
シュンヤは思わず苦笑した。人類史上初、神に啖呵を切って平手打ちを喰らわせた女性だ。あの時はシュンヤの周りも、蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。一歩間違えば掛け値なしに、この世の終わり間違いなしだった。全く曙川ヒナには驚かされてばっかりだ。いや、今は朝倉ヒナか。どっちでも良い。旦那のハルは、自分が世界の命運を救ったことなんて、毛の先ほども勘付いてはいないのだから。
「ねぇ、シュンヤ?」
「ん?」
フユがシュンヤの顔をじっと見上げてきた。栄養の足りていなさそうなほっそりとした顔つきは、学生時代から相変わらずだった。とろんとした垂れ目に凝視されると、ちょっとだけ理性が飛びそうになる。判ってやっているのか、いないのか。天然の邪視だとでも思っておこう。
「やっぱり、そういう幸せも欲しかった?」
フユの掌が、そっと自身の下腹部に触れていた。そうか、まだ気にしているのか。シュンヤはフユの肩に置いた手に力を入れた。その答えは、もう何度となく口にしている。シュンヤの意思に、変わりはなかった。
「言ったはずだ。俺たちには、俺たちの幸せがあるって」
疑うのなら、心の中でも何でも覗いてみれば良い。シュンヤはフユをそうやって愛すると決めていた。
フユとヒナは違う。ハルたちが掴んだ幸せは、確かに世間一般では祝福される類のものだろう。籍を入れて、二人で助け合って生活して。子宝に恵まれて。そういう人生こそが、誰もが憧れる日向の世界だ。
「俺はちゃんと、フユを幸せにする。俺のやり方で、フユの望むような形で、な」
寒い季節に生まれた子供。その名前の意味を知った時、シュンヤは決意した。ならば、温かく迎えてやろうと。シュンヤにはフユを受け止められるような力は、何もない。宮屋敷の言うことに従うだけの、しがない下っ端の魔法使いだ。
でも、フユを抱き締めてやることはできる。傍にいてあげることはできる。あの口煩い宮屋敷の女当主に逆らってまで、『銀の鍵』を娶ると決めたのだ。その覚悟だけは、誰にも負けていないと断言しても良かった。
「ありがとう、シュンヤ」
フユの髪から、甘く良い香りがした。昔も、こうしてフユのことを抱き締めたかった。下心とか、生理的欲求とか。そういうものとはちょっと違う。フユはそうしていなければ、すぐにでも倒れて崩れてしまいそうだと。シュンヤには、そう感じられたからだ。
その印象は、『銀の鍵』であることを知った今も変わりはなかった。フユは特別な何かなどでは、決して有り得ない。
とても弱くて、泣き虫な――普通の女の子だ。
「さあ、行こう」
シュンヤは立ち上がると、手を差し伸べた。フユの左掌には、『銀の鍵』がある。だからなんだ。フユはシュンヤにとって、誰よりも大切な人だった。
約束した。必ず守り通すと。寄り添っている限り、二人は一つ。数多くの魔法使いたちによって愛されて、大事に育てられたこの女性を。
シュンヤは自らの、ただ一人の妻とした。
砕け散った封印の扉の向こうには、白い人影が立っていた。コートも、シャツも、スラックスも。全部、白。そうそう、こういう人だった。何ものにも染まらない、『白』の魔法使い。厳ついその顔つきからは想像もつかないくらいに、優しくて純粋な心を持った人だ。
天羽セイ。
思い出せる。フユは自分の中に浮かんだその名前を、何度となく口の中で繰り返した。もう二度と、忘れない。あの地獄から、フユを助けてくれた恩人だ。セイがいてくれたから、フユは今ここで生きていられる。懐かしい記憶が、次から次へとフユの中に戻ってきた。
「封印を、解いたのね」
セイの後ろから、もう一人の魔法使いが姿を現した。栗色の髪が揺れる。柔らかい笑顔を見て、フユは胸の中がいっぱいになった。良かった。ちゃんと思い出せた。セイと一緒に、フユに生きることの喜びを教えてくれた大切な人。
橘ユイ。
フユのかけがえのない、魔法使いさん。
「ユイ、私、もう大丈夫だよ」
苦しみも、悲しみも。何もかもを、フユは受け入れられる。どんなにつらくても、痛くても。フユがここにいることを望んでくれる人がいる。フユのことを、愛してくれる人がいる。抱きとめてくれる人がいるんだ。
未来へと繋がる潮流は、決まり切った道を示している訳ではない。これはあくまでも、可能性の一つにしか過ぎなかった。
でも、充分だ。和田シュンヤは、フユと共に生涯をかけて歩く道を選んでくれるかもしれない。この学校で見付けた、三人目の魔法使いの素質を持つ者。まさかこんな近くにいたなんて。フユは驚くのと同時に、とても嬉しくなった。
強い繋がり、絆を感じる。カマンタもうなずいた。因果が強い。そりゃあヒナとハルに比べれば、何だって大したことのないものにしか感じられないだろうけど。フユにとっては、最大級に太いパイプだった。
恐らくは今後フユの運命がどんな流れになったとしても、和田シュンヤとはほとんどの道のりで交差することになる。魔法使いと禁忌の『銀の鍵』として、二人は出会い、お互いを認め合う。和田シュンヤはフユを『銀の鍵』ではなくて、因幡フユという一人の女性として扱ってくれる。フユの中にある痛みも、肉体に刻まれた傷跡も。全てを認めた上で、愛してくれる。
「そんなことって、あるんだね」
「フユは自分で思っているよりは、魅力的な女の子だと思うよ?」
ユイの残留思念が、なかなかに恥ずかしい言葉を投げかけてきた。もしかして、フユが封印を解くのはこういう場合なのだと予想していたのではなかろうか。ユイも侮れない。ユイはくすり、と微笑むと隣に立つセイの腕をぎゅっと抱いた。そうそう、二人は恋仲だったんだっけ。
ユイの中にある気持ちを何の気なしに読んで、ぽろりと口に出したら随分と叱られたものだ。ユイもセイも、お互いについて思っていることを、少しも言葉にしようとはしなかった。なのに、ちゃんと判っているみたいなところもあって。実は二人は、『銀の鍵』なんじゃないかって考えたことすらあった。
「『銀の鍵』なんて、いらないんだよ?」
ヒナも似たようなことを言っていた。本当に伝えたいことは、目を見るだけで判るって。ああ、その通りだと思う。フユも和田シュンヤと視線を合わせただけで、何となく理解できた気になった。
不思議だ。今なら、全部を受け入れられるとすら思える。これは和田シュンヤのお陰。世界が反転する。ユイとセイが手を振っている。ばいばい、またね。思い出せたから、今度はきっと本人に会いにいけるよ。二人が幸せになれたかどうか、一度は確認しておかないとね。
現実の時間なら、一秒にも満たなかった。瞬きして、息を吐いて、その程度だ。その間に――和田シュンヤは、フユと共に同じ光景を見ていたはずだった。
図書室には、フユと和田シュンヤだけがいた。ハナが美作先生と結託して、何やら暗躍した結果らしい。図書室が使えなくて困った生徒もいただろうに。こういうのは「おせっかい」としては、やり過ぎの部類に入るんじゃないですかね? やれやれだ。
貸出カウンターを挟んで、フユは和田シュンヤの手を握っていた。体温と、鼓動を感じる。それから、魔力の流れも。うん、間違いない。今一時的に、和田シュンヤは通過儀礼を経て魔法使いになった。フユは魔法使いじゃないので、これはあくまで仮の物。フユが見ているもの、聞いているもの、感じているものを、和田シュンヤにも受け取ってもらいたかったから。
大丈夫だよ、シュンヤとこうして手を重ねているの、嫌じゃない。この前は、ちょっとびっくりしちゃっただけ。シュンヤの気持ちは、ちゃんと判ってる。それはついさっき、ここで見聞きした内容でもう理解できているよね?
「因幡、お前……」
「だから言ったでしょ? 私は和田君の考えているような、どんな女の子でもないって」
変なの。そんなフユのことを、シュンヤはまだ好きみたいだ。判っているのかな? 人の心を読む、化け物なんだよ?
フユは作られた『銀の鍵』なんだ。寒い季節に生まれたから、「フユ」。そんないい加減な名前だけを与えられて、他には何もなかった。空っぽだった。欲望を食い物にする『銀の鍵』を制御するためだけに、フユは悪い魔法使いたちの手によってそう造り上げられた。
実験の結果、不完全な『銀の鍵』を宿したフユを助けてくれたのが、天羽セイ。
フユを他の魔法使いたちからかくまって、育ててくれたのが、橘ユイ。
宮屋敷は、この国で一番大きな魔法使いの組織。『銀の鍵』であるフユは禁断の存在であって、魔法使いたちは宮屋敷によって極力直接の接触を避けるように命令されている。今の当主はその辺りの融通が利く人なので、ユイやセイのやっていることを大目に見てくれていたし、今もフユの生活を全面的にバックアップしてくれている。
とはいえ、怖い人たちであることには間違いがないんだ。シュンヤはそれに逆らってまで、フユと結婚するんだって。馬鹿だなぁ。宮屋敷に逆らう魔法使いなんて、フユはほとんど聞いたことがないよ。ありがとう。
「色々ありすぎて、良く判らないんだけどさ」
そうだね。情報量過多だよね。シュンヤはついさっきまで、普通の男の子だったんだから。魔法使いとか、『銀の鍵』とか。あと、何でヒナの名前が出てくるのか、とか。判らないことだらけだと思う。
「その、それはつまり、俺の気持ちとかは全部、因幡には判っちゃってるってことか?」
シュンヤは顔を赤面させてそう口にした。まさかの、そっちか。そんなのとっくだよ。フユは、化け物なんだよ? そんなのを好きになっちゃって、シュンヤも災難だね。
なのに、全然気持ちが変わらないっていうのもまた変だ。フユのこと、ちっとも怖がらないんだね。手も繋いだままだ。気持ちが流れ込んでくる。うん、素敵だ。ヒナの言葉を借りるなら、愛を感じるよ。
「俺にとっては、因幡は弱い女の子だ。さっきのを全部視ても、それは同じだ」
どこかの未来でも、シュンヤはそう言ってくれていたね。やっぱり、因果が強いんだ。フユとシュンヤは、そうなるように世界が望んでいる。
「心を読むとか、化け物とか。そんなのは関係ない。俺は……俺が、因幡を守るんだ!」
ありがとう。
シュンヤ、カッコいいよ。フユは本気で嬉しい。だけど、残念ながらその台詞はもう少しだけお預けにさせて欲しいの。
本来なら、シュンヤは誰か他の魔法使いに出会って、師事して、そしてフユともう一度出会う運命にあるのね。今のこれは、ちょっとフライング。ズルなんだ。フユはシュンヤと、正しく出会って、正しく恋に落ちて。
そして今度こそ、正しく告白されたい。『銀の鍵』なんか使わないで、一人の、普通の女の子として。
フユとシュンヤの絆は強いから、きっと平気。また会いましょう。それまでしばらくは、シュンヤの知らないフユでいさせてください。
そうそう。その時が来たら思い出せるように、これだけは伝えておくね。今と……そして未来のフユの気持ち。受け取ってください。
――好きです。
『銀の鍵』を使えば、どんな結末だって思い通り。それはそうなんだけどさ。フユはこんなので良かったのかな。
ジャガイモ2号とフユは、何事もなく仲直りして図書室から出てきた。フユはいつも通りニコニコしてるし、ジャガイモ2号はこっちも相変わらず「あうあうあー」な感じだし。なんかもうちょっとさぁ、ラブがあっても罰は当たらないと思うのよね。
「今は良いの、これで」
さいですか。ナシュトに言わせると、ジャガイモ2号とフユの間には既に切っても切れないくらいの縁が完成されているんだって。もうどう足掻いてもくっついちゃうくらいの。ヒナとハルは、どうなんですかね? あ、やっぱ言わないで良い。それ、聞いたらアカンやつや。ヒナは自分の力だけでハルと結ばれてみせます。フユだって、そういうことだよね?
「良いなぁ、因幡先輩にも春が来て」
ハナ、目ん玉かっぽじって良く見てみろよ。根菜だぜ? フユにとっては中身の方が大事なんだろうけどさ、そう簡単に妥協してしまっても面白くないじゃないか。仮に外見が根菜でも良いって言うのなら、ジャガイモ1号とかはどうよ? あ、いらない。そんなこと言ってさぁ、二人そろって売れ残ったらそれこそ笑いばな……
ぐっは、ハナさん、物理はやめよう、物理は。仮にも上級生相手ですよ。この子手が早いよね。ヒナなんか弱っちいから、そんなことされたら泣いちゃうかもしれない。ハルー、助けて―。
ふざけているヒナとハナを尻目に、フユは黙って和田君の背中を見送っていた。フユ曰く、当分の間、和田君の心は読まないのでおくのだそうだ。それはヒナも賛成だな。
恋に近道はない。きっとそうしていた方が、楽しい未来が待っている気がするよ。
「そういえばさ、未来の和田君は、結構カッコよかったよ?」
「マジですか。じゃあ、宮下先輩にもワンチャンありますかね?」
「いや、それはないだろう」
梅雨が明けて、夏が来る。フユの心も、綺麗に晴れ渡っていることだろう。
ヒナたちの青春は、いつだって澄み切った水色だ。
読了、ありがとうございました。
物語は「ハルを夢視ル銀の鍵」シリーズ「心をツカサドルもの」に続きます。
現在鋭意執筆中ですので、公開までしばらくお待ちください。