みずイロ(4)
入口の方からわいわいと話し声が聞こえてきたので、視線を向けて確認した。やっぱり、曙川だ。朝倉も一緒にいるので、賑やかさが五割増しといったところか。あれだけ健気に好きになってもらえるなんて、なかなかないことだろう。
その周りをちょろちょろとしているのは、山嵜か。確か、宮下が入れ込んでいる一年生の子だ。まあ確かに可愛いとは思うが、シュンヤの好みではなかった。
大体あの子は、朝倉に一目惚れしてハンドボール部にマネージャー志望で入ってきた、とか言ってなかっただろうか。宮下に勝ち目なんてあるはずがなかった。朝倉には曙川という彼女がいるが、だからといって宮下がそのおこぼれに預かれるという理屈はどっこにも見当たらない。いや、あってたまるか。
それでも自分の感情に正直になって、真っ直ぐに突っ走れる宮下のことはちょっとすごいと思った。シュンヤなら一人にフられたらそれだけで、高校生活の三年間を暗黒の中で過ごせる自信がある。何故負けると判っている戦いに挑んで、予想通りに玉砕して。そこで諦めれば良いのに、また繰り返しアタック出来るのか。
メンタルが鈍感……と言ってしまえばそれまでだ。宮下の女子に対する考え方は、同性のシュンヤからしてもあまり褒められたものではなかった。何のために彼女が欲しいのか。朝倉に自慢したいとか、なんかこうエッチなことをしてイチャイチャしたいとか。宮下の発想はある意味健全であり、そしてゲス極まりない無意味なものでもあった。
――何のために、か。
視界の隅に、因幡が映った。因幡は不思議だ。一度もシュンヤの方を見ていなくても、ちゃんとここにシュンヤがいることを把握している。その証拠に、今手元にあるこの本を持って立ち上がれば、サッとシュンヤの貸出カードを準備して待っていたりする。それを考えただけなのに、因幡は一瞬カウンターにあるカードボックスの方に手を伸ばしたように思えた。いやいや、それは流石に考えすぎだ。因幡のことになると、シュンヤはちょっとおかしくなる。
シュンヤは因幡と、どうなりたいのだろう。ふしだらな考えが脳裏をよぎる。こんなことを因幡に知られたら、軽蔑されて、嫌われてしまうに違いなかった。
図書室の書架の陰で、細くて折れてしまうそうな因幡の手を握って、シュンヤの方に引き寄せる。本の匂いに囲まれながら、そっと因幡に顔を近付ける。
それから……
そうだ。結局シュンヤは、因幡をどうしたいのだろうか。異性として、因幡のことを好きなのは自分でも自覚している。問題はその先だ。
宮下辺りなら、身勝手な妄想を垂れ流すだけで小一時間は費やしてくれるだろう。よくもまあ、それだけいやらしくもくだらないことばかり考えられるものだと、感心させられるくらいだ。
高橋はその手の話題にはあまり乗ってこなかった。最近頑張ってアプローチしている森下とは、今のところ音楽仲間で優しい関係であるとのことだった。とはいえ、そういうことに興味がない訳ではないらしい。「付き合えるなら、付き合いたいよ」ともコメントしていた。向こうもまんざらではない様子だし、余程のヘマを打たない限りはそうなるものだと思われる。
朝倉を相手にこの手の話題は――ご法度だ。曙川とのことをちょっとでも茶化そうものなら、割とマジなパンチが飛んでくる未来が訪れる。曙川でそういった不埒な想像をされること自体が嫌なのだという。それはまた、随分と入れ込んでいることで。曙川みたいに判りやすい好き好きオーラを発したりはしていないが、実際には朝倉の方も大概に曙川にぞっこんだった。
それでいて、あの二人は学校では変にベタベタせずに『清い』男女交際を貫こうとしていた。学校公認とか言われちゃっている以上、そうそうただれた関係にはなれないとか。曙川の方が積極的に迫っている印象だが、シュンヤに言わせれば朝倉だって相当に欲求不満を溜め込んでいるに違いなかった。
朝倉と、曙川。あの二人みたいな関係は、確かに楽しそうに思える。ただ、シュンヤが望んでいるものとは少々異なっているようにも感じられた。
別におっぱいがどうとかキスがどうとかには、そこまでの興味はなかった。当然、全くないとも言わないが。でもそれがメインでないことは確かだった。
だって因幡だ。細くて白くて。そんなことしたら、きっと壊してしまう。触れる時には、細心の注意を払わなければいけない。
シュンヤは因幡と、この本の森で静かにしていられればそれで幸せだった。お互いに好きな本を持ち寄って、二人でページを繰って。そこに書かれた物語について語り合えれば、それで満足してしまいそうだ。
人を好きになるって、こういうことで良いのだろうか?
因幡とは、恐らく友人関係でいるのだと思う。学校にいる異性の中で、一番言葉を交わす相手であるのは間違いない。因幡の、まるでシュンヤの心を読んでいるかのような不思議な行動に。
シュンヤはもう、すっかり虜にされていた。
判っている。それは単純に、シュンヤが『判りやすい』というだけのことだ。きっと因幡でなくても、シュンヤのやることなんて何もかもお見通しなのだろう。それが曙川だろうが誰だろうが、得られる結果は同じだ。図書室で本を読んで、ぼそぼそと二言三言口を開くだけのシュンヤなんて、人間としては簡単極まりない。
こんな面白くもなんともないシュンヤが、誰かに好きになってもらえるなんて到底思えなかった。ただここにいて、因幡の姿を遠目に眺めて。身勝手な妄想に浸っているのが、関の山だ。
シュンヤは因幡フユと、どうなりたいのだろうか?
その答えは、何度となくシュンヤの中で繰り返されている。別に、どうなりたいとも思わない。和田シュンヤは、因幡フユとどうなることだってできない。だからここでこうして、因幡フユと同じ場所で、同じ時間を過ごせることだけを喜ぼう。
そんな『キモチワルイ』男子が、和田シュンヤだ。シュンヤは小さく溜め息を一つ吐くと、本のページをめくった。
和田シュンヤ? 誰だっけ?
「曙川先輩言うところの、ジャガイモ2号ですよ」
ああー、ジャガイモか。ジャガイモはジャガイモって言ってくれないと判らないや。ヒナはジャガイモをジャガイモとして認識しているからね。で、2号だからアレだ。うるさくない方のジャガイモだ。うるさい方のジャガイモは、即座に死ぬべき。あいつ昨日、ヒナが作ってきた八宝菜にケチ付けやがった。しかもハルの目の前で。百万回殺しても飽き足らないね。
「宮下君はヤングコーンが嫌いなんだって」
知らんがな。好き嫌いせずに何でも食べやがれってんだ。そんなんだから彼女どころか、女子全員から総スカン喰らったりするんだよ。ハルから聞いたけど、あいつクラスの女子から完全無視されてるんだってよ? で、寂しいからってうちのクラスにまで来て、ヒナとかユマとかと話してるんだって。バッカじゃねぇの?
「宮下先輩は、歩くセクハラ広告塔ですからね。どうしようもないです」
ハナにまでそんな評価を下されてしまうジャガイモ1号に、ソラニンの恵みあれ。せめて苦しまずに死ねよ。
……じゃなくって。
えーっと、2号の方だよね。和田君。うん、印象が薄すぎて、ヒナは今の今まで存在を忘れていたよ。きっと忍者とかが向いているよね。忍法空気人間、みたいな。ダメか。
「その和田君なんだけどね……」
フユが珍しく、言いにくそうにもごもごと口ごもった。ん? 何でしょう、その反応。ヒナのセンサーがビビビッと感知してしまいましたよ。え、まさかですか? まさかなんですか?
――マジか。
へぇー、そうだったんだ。ごめん、ヒナ、根菜のことは根菜としか見ていなかったからさ。感情なんてものが存在したこと自体が驚きだわ。などと失礼なことを口にしてみる。そういやサトイモも頑張ってチサトにアプローチしてるんだよね。結構仲良くやってるみたいだよ、あの二人。
「和田先輩ですか。あまり詳しくないですね」
ちらり、とハナが図書室の奥の方に目を向けた。うん、いるね。貸出カウンターから見える位置に腰かけて、じっと本に読み耽っている。ジャガイモ2号って、あんな感じだったっけ? ハナの言う通り、あまり目立たない印象ではあるかな。一応昼休みには一緒にお弁当を食べてるけど、特におしゃべりとかをした記憶がない。物静かで、正直いてもいなくても同じというか。
「和田君は、話すと色々面白いことも言ってくれるよ。その、口下手なだけだと思う」
コミュ障って奴ですかね。フユはヒナと違って、他人の心を読む行為にそれほど抵抗がない。ジャガイモ2号の気持ちだって、それで知ったのだろう。人から好かれるのは悪いことではないけれど、問題は相手だよね。フユ的にはどうなんだろうか。
「あのね」
おう、そこは包み隠さずガッツリと言ってしまってくれたまえ。イヤならイヤで仕方がない。ハルの友達だからそこまで強くは出れないけど、上手く距離を作ってやることぐらいはできるでしょう。それとなく諦めさせるとか、何か手はないかな。こういうのにあんまり魔術的な手段は使いたくないから、ナシュトとかカマンタには引っ込んでおいてもらわないと。
さぁ、忙しくなってきたぞう。ヒナはこういう話が大好物だ。っていうか女子は普通、みんな恋バナが大好きだよね。それも相手がフユだっていうんだから、格別だ。
「……判らないの」
ん?
どうしたんだろう。フユはうつむくと、それっきり黙りこくってしまった。初めて見る顔だ。まるで、今にも泣き出しそう。ヒナは慌ててフユの肩を掴んで抱き寄せた。心なんか読まなくても、どうすれば良いのかなんてすぐに判る。ハナが無言で司書室への扉を開けてくれた。司書の先生は、本日は出張中。うん、ジャガイモ2号には見られたくないよね。フユを連れて、そそくさと三人で奥に退散した。
「ヒナ……私初めて、人の心を読んで後悔した」
そうか。フユはジャガイモ2号――もとい、和田君の気持ちを知ってしまって、つらかったんだ。
「和田君はね、私のことを普通の女の子だと思ってるの」
フユは普通の女の子だ。それはヒナも、ハナもそう思っている。『銀の鍵』なんて関係ない。フユは、フユだ。ヒナはフユの身体をぎゅうっと抱き締めた。ヒナと同じ力を持って、同じ苦しみを持つ女の子。もう一人の私。ヒナとフユで、違うところなんて何もない。ヒナがハルと幸せになれるのなら、きっとフユだって誰かと結ばれることができる。
「すごく……すごく大切に想ってくれているの」
そうなんだ。ジャガイモ1号は少しは和田君を見習うべきだね。あいつ、女子ならホント誰でも良いって感じでさ。油断したらヒナだって何かされそうで、ちょっと怖いよ。ハルがいなけりゃ、あんな馬鹿にお昼ご飯なんて絶対に作ってやらないんだから。ハルももうちょっと友達は選んだ方が良い。根菜同盟はいかがなものかと思う。
「ヒナ、私は、どうしたら良いんだろう?」
「落ち着いて、フユ。大丈夫だから」
フユは他人からダイレクトに好意を向けられたことがなかったのだそうだ。まあ、確かにフユは美人ではあるけど、男性からそういう目で見られるタイプの女子ではない。細くて、押せば簡単に倒れてしまいそうで。ジャガイモ1号言うところの「そそる」部分がないという感じか。ヒナなんて「マニアック」とか随分と酷い言われ様だよ。失礼しちゃう。これでもハルのために、色々と頑張ってるんだからね。
「和田先輩は、自分の気持ちが知られているとは気付いていないんですよね?」
「それは、そうだと思う。元々口数の少ない人だし、私の方もそれなりに気を付けているから」
知られたくはないだろうなぁ。さっきも普通に平静を装って本を読んでたし。急にこっちが司書室に引っ込んじゃったから、そこはかとなく怪しいとは感じただろうけど。でもその後の密談の内容がこれであるとは、まず考えつかないだろうね。
「だったら、因幡先輩の自由で良いと思いますよ? 相手の気持ちが判ってるんなら、どっちに転がすも楽勝じゃないですか」
ヒナの眼から黒目が消えて、背景に稲光が走った。ハナ、恐ろしい子。あんたなんてこと言うのよ。その通りだけどさ。
フユには『銀の鍵』がある。だから和田君の好意に応えるのも、そつなくかわすのも思いのままだ。嫌われない程度に立ち回るなんて、朝飯前だろう。
でも――
「それができないから、困ってるんだよね?」
こくり、とフユはうなずいた。だよね。フユは初めて男の子から好意を向けられて、それをどう扱って良いか判らなくなってしまったんだ。
そうだね、まずはフユの気持ちをしっかりと固めてみようか。フユは和田君のことを、どう思っているのか。恋愛とは切り離して、好きか嫌いか。嫌いじゃないのなら、どういう関係でいたいのか。まだ告白された訳でもないし、落ち着いてゆっくりと自分の気持ちを紐解いていきましょう。
「曙川先輩、恋愛相談とか乗れるんですね」
悪かったな。それ、以前にも誰かから言われたような気がするよ。失礼極まりないったらありゃしない。
ほら、ハナも相手がハル以外ならどぉーんと相談に乗ってやるから、さっさと誰かに恋しちゃいなさい。ん、なんでそんな嫌そうな顔をするの? ほらほら、ジャガイモ1号とか売れ残っててお得だよ。あのバカも、自分の女が出来れば少しは大人しくなるでしょう。さあさあ覚悟を決めて、世のため人のために人身御供になりなさいってば!