みずイロ(2)
賑やかなのは、正直に言って好きじゃない。誰かがしゃべっている声が聞こえてくると、どうにも落ち着かないからだ。昼飯を食べている時もそう。宮下はまあ、ラジオが鳴っているとでも思っておけば別にどうでも良い。朝倉ぐらいが丁度良いんじゃないかな。ただ朝倉の場合は、隣りにいる曙川が四倍くらい口を開いているから結果的にバランスが悪い感じはするが。
高橋は最近、普通に付き合いが悪くなった。二年生になって吹奏楽部に途中入部した、というだけでも驚きなのに。目当てが女子だというのだから更に、だ。あいつ、そんなに森下チサトのことが好きだったんだな。一人の女子にそれだけの情熱を捧げられることを、むしろ羨ましいとすら思った。
そういう時は、笑顔で送り出してやるっていうのが友達ってものだ。
振られたら盛大に残念会してやろうぜ。
……宮下は大体一言多い。それのせいで女子人気が下がっていることを、自覚しているのかいないのか。これだけ自分に正直に生きられるというのは、それはそれでいっそ清々しいくらいに感じられる。まあだからこそこうして、つるんでいられる訳だが。
その宮下に連れられて、昼食は集団でわいわいと摂ることになっていた。食事なんて、栄養が身体に入ればそれで構わない。宮下曰く、曙川が朝倉のために手作り弁当を作ってくるのが癪で、そのおこぼれに預かるのだとかなんとか。ちょっと何を言っているのか判らない。宮下は競馬とかはやらない方が良い。今後の人生、なるべく馬関係からは距離を取って生きていくことをお薦めする。蹴られて死ぬ可能性は、低く保っておくに越したことはない。
流されるままにその集団に加わってしまったことで、シュンヤも『朝倉の恋路を邪魔し隊』といういかにも残念なグループの一員とされてしまった。曙川は文句を言いながらも、毎日しっかりとみんなで取り分けられる料理を一品作ってきてくれた。朝倉は本当に、良い彼女を持ったと思う。逆に、宮下は一生独身であるべきだ。
高橋は高橋で、曙川の作るおかずに期待して弁当箱に白飯だけ突っ込んでくる始末だった。シュンヤにはそこまでの神経の図太さはない。ある意味尊敬できる奴だと感心した。もっとも、今は友達以上彼女未満の森下チサトと二人で、この集団からは離脱していってしまった。先に一人で、大人の階段を昇ってしまうのか。寂しいぞ、サトイモ。同じ根菜仲間じゃないか。
朝倉以外の男子には一切興味のない曙川は、未だにシュンヤの名前すらロクに覚えていなかった。朝倉が教えてくれたところによると、宮下はジャガイモ1号、高橋はサトイモ――で、シュンヤがジャガイモ2号なのだそうだ。別にそこまで外観がジャガイモに似ているとは思わないのだが。恐らくは人間でなければ、何でも良いのだろう。昼におかずを恵んでもらっている身分だし、その点に関しては取り立てて文句を言うつもりはなかった。
曙川がシュンヤのことをどう思って、どう評価しているかなんて毛の先ほども興味はない。どうせ朝倉しか見てないのだから、気にすること自体に意味がなかった。曙川は確かにそこそこ可愛いし、世話焼きで料理上手な素敵な彼女だとは思う。でも絶対に欲しいかと問われれば、別にそうでもなかった。曙川は独占欲が強くてヤキモチ焼きっぽいし、何よりシュンヤはもっとスレンダーな女性の方が好みだった。
まあはっきり言ってしまえば、曙川の友人であるところの因幡フユ――彼女の方が、シュンヤにとっては格段に魅力的に感じられた。
因幡は一年の三学期に転校してきた、何だか色々とワケありの女子だ。触れただけで折れてしまいそうな手足に、黒くて長い髪。優しくてとろんとした垂れ目の似合う、物静かな美人だった。
最初にその姿を見た時、シュンヤは思わず呆然として見惚れてしまった。心の深いところを、掌でそっと撫でられた感じがした。周りの男子はほとんど気にも留めていない様子だったが、シュンヤは一瞬で因幡という女子の虜にされてしまっていた。
それから、無意識のうちに因幡の姿を目で追う毎日が始まった。
因幡の一番の友だちは、曙川だ。出席番号が近いというのもある。曙川が朝倉と一緒にいない時は、ほとんどの場合因幡と話をしていた。曙川では物静かな因幡とは性格が真逆な気もするが、それゆえに意気投合したりもするのだろうか。その辺りは、シュンヤには良く判らなかった。
しかしそのお陰もあって、因幡は曙川を中心としたグループ――即ちシュンヤと同じ交友関係の輪の中にいてくれた。お昼もまとまって食べることができる。こればかりは、曙川と宮下にグッジョブと伝えたい。『いいね』なら一千回以上連打してやる所存だ。
一年生のバレンタインデーの時には、曙川のせいで家庭科部の手伝いに駆り出される羽目になった。シュンヤもチョコレートの配給係を任命された。男子諸兄には微妙な表情をされたが、それはそっくりそのままシュンヤだって同じことだった。
二月十四日は、因幡の誕生日でもある。サプライズパーティーをするという話だったので、そんな馬鹿なイベントにも参加したのだ。因幡はとても喜んでくれた。シュンヤも嬉しかった。その時、シュンヤは初めて因幡が心から笑う顔を見た気がした。それが驚くくらいに印象的で、眩しくて。心の中にずっと居座って、いつまでも消えてくれなくて。
……有り体に言ってしまえば、シュンヤはすっかり恋に落ちてしまった。
因幡は身体が丈夫ではない。体育の授業は見学ばかりだった。ジャージを着ている事自体が珍しい。
因幡は勉強はそこそこに出来る。転校してきて最初の定期テストでは、学年の上位三分の一に含まれていた。シュンヤよりも順位が上だったので、これには本気でびっくりした。
因幡は曙川を中心にして、誰とでも仲良くなれた。おっとりとしていて人当たりが良く、あまり敵を作らない性格が人気の秘訣だ。曙川辺りは、是非見習うべきだろう。
それから、因幡は本を読むのが好きだった。二年生になって最初の役割決めで、シュンヤは去年から続けて図書委員に立候補した。その後最初の委員会の会合で因幡に挨拶されて、思わずのけぞってしまうくらいの衝撃を受けた。
「よろしくね、和田君」
クラスが分かれて、因幡との接点は昼休みに限定されるのかと少々寂しく思っていた矢先の出来事だった。その時は、特に意識して図書委員になった訳ではない。それだけに、シュンヤは動揺を隠しきれなかった。
「あ、うん」
挙動不審丸出しでなんとかそう応えたシュンヤに、因幡は笑いかけてくれた。不思議と、胸の奥が暖かくなって。
同時に、きりきりと痛みだした。
図書室では静かに、なんていうのは建前だ。せいぜいばたばたと走り回ったり、大口を開けて笑う奴がいないという程度のことでしかない。この高校の図書室は、それでもかなり静かな部類に入る。みんな勉強熱心――という学生らしい理由は存在しなくて、単に利用する生徒の絶対数が少ないという、実に情けない話だった。
今日の図書当番はサボり、というか、真面目に来ている図書委員の方が珍しい。そんな状態なので、シュンヤは最初に司書のおばさん先生に顔を覚えられてしまった。特に仕事熱心なつもりはない。単純に、この図書室の空気とか雰囲気が好きなだけだった。
そこに一年の三学期から、因幡フユが加わった。優秀な人材のオンパレードだ。おばさん先生は因幡のことをいたく気に入って、司書室で一緒になってお茶を飲むくらいの関係にまでなっていた。
それを羨んだり妬んだり、ということはない。素直に、因幡が自分の居場所を増やすことが出来てシュンヤは嬉しく思った。当番の日に貸出カウンターに立っていると、ひょっこりと顔を出して手伝ってくれたりもする。因幡のそういったさりげない優しさが、シュンヤにはとても嬉しく感じられるのと同時に。
酷く、心苦しかった。
シュンヤの初恋は、小学校の頃だった。華奢で身体の弱いシュンヤは、休み時間はいつも教室の窓から校庭を見下ろしていた。その中で、一際眩しく輝いて見える女子がいた。
自分に無いものを持っているその子に対する感情は、一種の憧れだったのかもしれない。シュンヤはその子に夢中になった。ドッジボールが強くて、徒競走でも男子に負けないくらい速くて。すらりと背が高く、きりりと引き締まった表情が素敵だった。
シュンヤ自身にも、その想いがどうしようもないものだとは理解出来ていた。どんなに好きになっても、報われるはずはない。その子とシュンヤでは、住んでいる世界があまりにも違いすぎた。シュンヤはドッジボールでは開始と同時に外野だし、走れば学年でも最下位を争うくらいでしかない。その分勉強を頑張っているつもりだったが、そっちだっておよそデキるとは言い難いレベルの成績でしかなかった。
誇れるものがない。シュンヤの毎日は、ただ惨めなだけだった。だから、力強いその子の姿を遠巻きに眺めることで、自らの心を慰めていた。
「和田シュンヤ? ああ、なんかいつも見てるよね。ちょっとキモチワルイ」
その言葉を耳にしたのは、本当に偶然だった。誰もいないと思っていた放課後の教室に、その子はクラスの中でも格好良いと評判の男子と二人でいた。付き合っているとか、そういう概念はシュンヤの中ではまだ曖昧だった。それでも、二人が何か特別な関係にあるということだけは何となく察していた。
判りきっていた事実を突き付けられて、シュンヤの恋は終わった。シュンヤは全てにおいて中途半端だ。女の子にモテる要素なんて、一つも持ち合わせていない。
運動は出来ない。勉強は人並み。ロクに面白い話も出来ない。外見なんてジャガイモだ。
それから、シュンヤは女子との関係を極力断つようになった。近くにいたって、お互いに良いことなんて何もない。自分の勘違いで相手を傷付けるくらいなら、最初から好きになんかならなければ良いのだ。
「和田君」
突然声をかけられて、口から心臓が飛び出るかと思った。ああそうか、司書室にいたんだっけか。慌てて振り返ると、因幡が立っていた。細くて、白くて。そのままポキリと折れてしまいそうに思われて、ちょっと心配になる。でも不思議と因幡の中には、強い芯みたいなものが一本通っていると感じ取れた。
「待ち合わせ?」
「ああ、うん。そう」
大体いつも、こんなはっきりとしない応答を返すことになる。後で自己嫌悪に陥るのは必至だ。ドギマギとした態度を、おかしく思われたりはしないだろうか。シュンヤはただでさえ自分の内面を表現するのが下手くそだった。周囲にあらぬ誤解を与えないようにするだけで、精一杯だ。
「ふーん。そういえばヒナも、ハンド部が終わるの待ってるって言ってたっけ」
曙川ヒナの彼氏であるところの朝倉ハルと、シュンヤが今待っている宮下は同じハンドボール部に所属していた。インターハイ予選がおこなわれるこの時期は、本来なら曙川も水泳部で忙しいはずなのだが。選手枠とは関係ないお遊び部員なので、逆にヒマヒマであるなどと昼休みに話していた。
「和田君は、部活とかやらないの?」
「あんまり、考えてないかな」
多人数のグループで活動するのは、シュンヤの好みではなかった。一応入学した最初の頃は、文芸部を覗いたりもしてみた。静かでひっそりとした雰囲気を期待していたら、そこは女子部員たちのお茶会の集まりとなっていた。シュンヤでは場違いも甚だしい。気が付いたら同じ帰宅部の朝倉や高橋とつるんでいて、ほとんど活動していないハンドボール部の宮下が加わった。
……それが今や、シュンヤだけが純粋な帰宅部員となっている。酷い裏切りだとは思わないか?
「みんなそれぞれ、やりたいことが違うから仕方がないよね」
因幡はそう言うと、くすりと笑った。不思議だ。まるでシュンヤが何を考えていたのか、一瞬で悟ってしまったみたいに感じられる。因幡と会話をしていると、たまにこんなことがあった。だから落ち着くのかもしれない。シュンヤは物事を言葉にして伝えるのが苦手だった。因幡はそれを先回りして、何事もなかったかのようにして言葉を繋いでくれる。
「そういえば、これ。和田君が来たら渡そうと思ってて」
差し出されたのは、新書サイズの小説本だった。昔から人気のある、長いシリーズだ。シュンヤもこの図書室で借りて読み始めていたが、三巻がなかなか返却されずにやきもきとしていた。いい加減そろそろ諦めて、古本屋で購入してしまおうかと思案していたところだ。
「お取り置きしておきました」
「ありがとう」
こうやって、因幡はシュンヤの望むことをしてくれる。それは本当に、心の底から嬉しいと感じられた。
でもそれは、シュンヤの胸の奥で小さな痛みを生じさせる行為だった。
これでまた一つ、因幡のことを好きになってしまう。優しくされるだけで、気持ちが大きく傾いた。我ながら、安いしチョロいと情けなくなる。シュンヤは因幡のことなんて、何も解っていない。解った気になっているだけだ。
本を受け取ると、シュンヤはうつむいた。親切にしてもらうと、そのせいで自分が嫌になった。こんな感情を抱いてしまうのが、気持ち悪くてどうしようもなかった。
……因幡はどうして、シュンヤをかまってくれるのか。
声に出して訊けるはずのない問いかけだ。その答えが何であれ、シュンヤには受け止める自信がなかった。気にすること自体に、意味がないと思った。
「和田君」
因幡の声は、ゆっくりとしていて耳に心地よい。何かに例えるのはとても難しいが、敢えて言うならプールの中で吐いた息が泡となって浮かんでいく音に似ている。しんとした静寂の中で、ゆらゆらと、地上からの光を浴びて漂っていく泡沫。そのまま呼吸することを忘れて、目を閉じて微睡んでしまいそうになる。
「私は多分、和田君が考えているようなどんな女の子でもないから」
……えっ。
シュンヤが息を呑んだ次の瞬間には、因幡の姿は消えていた。司書室に続く扉の向こうから、話し声が聞こえる。曙川と、それからハンドボール部のマネージャーをしている一年生の山嵜だったか。
それから、因幡もいる。
カウンターの裏にある椅子に、シュンヤは腰を落とした。今の言葉は、何だったのだろう。頭の中を、因幡の顔がぐるぐると回っていた。白くて細い指が、シュンヤの心に触れていった。そんな感覚が、いつまでも離れてくれなかった。




