みずイロ(1)
ごうごうと、轟音があちこちから聞こえてくる。音と共に、ありとあらゆる感覚がぐるぐると回っていた。上も下も、前も、後ろも。何も判らない。判りたくない。
フユは、このまま消えてしまいたかった。
知らないのなら、それが一番だ。理解できないという程に、幸せなことはない。そんなのは、随分と昔に思い知らされていた。血の海の真ん中で目覚めた時から、ちゃんと――
ずきん、とフユの胸の奥が痛んだ。ああ、まただ。どうして。フユには、心と身体がある。この小さなフユという存在は、世界という広大な空間の中ではたった一握りの肉塊にしか過ぎないのに。
心だけは、どこまでも伸びていって。見も知らない誰かの内側を、フユの目の前に見せつけてくる。
その理由は、はっきりとしていた。人の欲望を叶えて、破滅へと追いやる魔性の呪具。『銀の鍵』だ。
邪な魔法使いたちが、その力を我が物にしようとして人の道に外れた実験をおこなった。『銀の鍵』を持つ者が、自らの欲望によって滅びるというのなら。欲望どころか、心もない者が持てばどうなるのか。その力を自由に使役させることの出来る、生きた機械のような存在を作り出せるのではないか。
結果は簡単だった。『銀の鍵』は、持ち主にその場にいる全て人々の心の内側を映し出す。何もない、空っぽだったフユの中身は――その場にいる魔法使いたちのどす黒い欲望によって、瞬時に満たされてしまった。
何故、生きているんだろう?
人は誰しも、己の存在に対して疑問を抱きながら生きている。そこにいることに、明確な理由なんてない。そんなものはなくても、朝になれば目を覚ますし、お腹が減ればご飯を食べる。生きようとする。
でもフユには……それすらなかった。
フユは、作られた器だった。『銀の鍵』の力を使うためだけに、準備された肉体。人造人間では、『銀の鍵』は反応しなかった。『銀の鍵』の使い手は、あくまで人間である必要がある。
空っぽで、何もない。
心を持たない、人間。
それが――フユだ。
こんなフユを、助けてくれた人がいる。真っ白い魔法使い。白い魔法使いは、フユを血溜まりの中から連れ出した。悪い魔法使いたちの手の届かぬ場所へと、導いてくれた。沢山の愛情を与えてくれた。
そしてもう一人、女の魔法使いがいた。栗色の柔らかい髪が、きらきらと光っている。その人はいつだって、フユの傍にいてくれた。フユのことを、「大好き」だって想ってくれた。フユを抱き締めて、「大切だよ」って言って笑ってくれた。
でも、フユは。
フユは。
……フユは、生きていてはいけないんだ!
「フユ!」
叫びが聞こえた。同時に、ぐいっと腕が引っ張られる。手首が痛い。誰かが、フユの手を掴んで引っ張っていた。
途端に、肉体の感覚が戻ってきた。冷たい。苦しい。轟音が響き渡っている。目が開けられない。ただはっきりとしているのは。
フユと繋がっているあの人の掌の熱い感触だけは、確かに感じられた。
「榊田君、ここよ! お願い!」
ああ、やっぱりだ。
やっぱり、助けてくれた。この人なら、そうしてくれると思っていた。判っていた。判っていたのに、フユは自分を止めることができなかった。ごめんなさい。
虹色の光が、フユの周りを取り囲んだ。もう痛みも、何も感じない。強い魔法の力で取り囲まれている。『銀の鍵』に比べれば大したことはないけれど、人が持つには充分過ぎるくらいのものだ。ふわり、と身体が持ち上がる。温かくて、心地よい。
「フユ、フユ!」
沢山名前を呼ばれて、一杯抱き締められた。何回「ごめんなさい」を繰り返したのか、覚えていない。色々な人がフユの周りに集まってきて、心配してくれているのが判った。
みんなフユに、生きていてほしいと願っていた。
そう、あの日からずっと――
フユは、生きている。
フユの心の中には、荒野が広がっている。灰色の雲で埋め尽くされた空の下に、赤茶けたごつごつした地面。ヒナはナシュトの視せる霧の湖があまりお気に入りではない様子だが、これに比べれば全然マシだろうに。心象風景は本人の心持ちひとつで、いかようにでも変えられる。ただその本質、土台となる部分に関してだけはいかんともしがたかった。
同じ『銀の鍵』を持つ者なのに、ヒナはフユとは全然違っていた。そもそも『銀の鍵』をどうやって手に入れたのか、というところからしておかしい。父親の出張土産の中に紛れていた、とか言うのだ。どんな偶然だって、そんな奇跡を産み出すなんてあり得るはずがない。どうせナシュト辺りの計画した、人間の想像を超えた遠大な目論見でも関係しているのだろう。それをフユやヒナが気にしたところで、恐らくは何の意味も持たなかった。
ナシュトとはここではない夢の地球、幻夢境カダスに住まう神々に仕える神官であり、自らも魔術の神である高次存在のことである。ナシュトは『銀の鍵』の守護者となって、その持ち主の導き手となる使命を帯びている。それを半裸の変質者と言ってのけるヒナは、やはり只者ではない。何しろ普通の人間でありながら、万能の願望器たる『銀の鍵』の誘惑に打ち勝ってみせたのだ。
あまねく人の心を読み、自由に操作する力を持つ『銀の鍵』。それを使えば、世界なんて思いのままだ。ヒナにだって、人並みの欲求くらいはある。叶えたい願いだって、ない訳ではない。
「間に合ってます」
それが、このたった一言でオシマイだった。カダスの神々も玉座の上ですっ転げたことだろう。フユもその話を最初に聞いた時は、呆気にとられてしまった。そして、涙を流して大笑いした。すごい。この世界には、こんな娘がいるんだ。フユの不幸話なんて、吹っ飛んでしまうくらいの馬鹿馬鹿しさだった。
ヒナには、好きな男の子がいた。幼馴染のハルだ。二人の馴れ初めについては、もう耳にタコが出来るくらい聞かされたのでどうでも良い。ヒナの心の中を覗くと、九割はハルのことで埋め尽くされている。こういうのを「恋愛脳」というのだそうだ。悩みが少なそうで何よりだ。残りの一割の中に自分の姿があるのを発見して、フユはほっとした。友達のことも、一応は意識の中に置いてくれてはいるらしい。ヒナは良い子。ちょっとハルのことが好きすぎるだけ。
『銀の鍵』なんて使ってハルの気持ちを自分に向かせるのは、インチキだ、ズルだ、チートだ。こっちは真剣に恋愛してるんだ、神様風情が舐めてんじゃねーゾ!
……確かそんなような啖呵を切って、ヒナは『銀の鍵』との契約を断った。ところが『銀の鍵』の約定には、「拒絶」という選択肢が存在していなかった。普通の人間なら、自らの欲望を叶えてくれる願望器なんてホイホイ飛びつくものだからね。
フユの場合は、願望を持たぬ者との契約で『銀の鍵』は暴走した。
ヒナの場合は、願望を自らの意思のみで解決する者として『銀の鍵』は暴走した。
並べてみれば良く判る。ヒナこそが正当なる『銀の鍵』の所有者であり、カダスへと至る道を示される選ばれし者なのだ。
もっとも、当の本人にはそんなつもりはさらさらないらしい。高校入学後、目出度くハルから告白されて交際をスタートさせて、高校二年生の現在はラブラブの真っ最中だ。ハルからは一足早いプロポーズまで受けて、ヒナは毎日浮かれ気味に過ごしている。クラスメイトの男子たちの脳内の言葉を借りるなら、「もげろ」といったところか。
そんなヒナとは、フユは一番の友達でいる。『銀の鍵』が複数並び立つのは、極めて珍しいことなのだそうだ。まあ、当人たちからすればそんな話は知ったことではない。フユもヒナも、望まないままに『銀の鍵』の力を得るに至った。これは一種の、「被害者の会」だと思ってもらえれば良い。
フユは、ヒナが羨ましい。『銀の鍵』なんてものともせずに、恋する女子高生として何事もなく生活している。フユにはできないと思っていたそれを、難なくやってのけていた。
その上、フユにも手を差し伸べてくれた。きっと、同じになれるよ、って。嬉しかった。ヒナの友達も、良い人たちばかりだ。フユとも、分け隔てなく仲良くしてくれる。宮屋敷の仲介でこの学校に来て、本当に良かったと思えた。後は――
「封印を、解くのですか?」
フユの隣に、カマンタが立った。燃えるような赤い髪に、紺碧の瞳が輝く白い肌の女性の姿。カマンタもまた、ナシュトと同じ『銀の鍵』を守護する神様だ。カマンタはいつだってフユの隣にいてくれる。『銀の鍵』がフユの左掌にある限り、フユとカマンタの絆は決してなくならない。ヒナはナシュトとトレードしたいみたいだけど、残念ながらこればっかりはお断りだった。
「どうかな。まだ早い、と思ってる」
心象世界の荒れ地の真ん中には、巨大な金属の扉が屹立していた。高さは、五階建てのビルくらいはあるか。心の中の世界だから、スケールにはあまり意味はない。見た目のゴツさも、頑丈さと比例している訳ではなかった。
この封印の扉を作ったのは、魔法使いだ。戒めという名目で、フユの中にあるいくつかの記憶をここに閉じ込めた。それがどんなものなのかは、実際に開けてみなければ判らない。
封印を解くこと自体は、フユには何ら難しくはなかった。所詮は人間の、魔法使いが作り出した代物に過ぎない。『銀の鍵』は究極の魔術触媒でもある。フユの気が向きさえすれば、破壊はいつでも可能だった。
今の今までそれをしていないのは――フユが望まなかったから、に他ならなかった。
「魔法使いさんとの、約束だからね」
フユの命の恩人であるその人の名前は、この物々しい封印の向こう側にあった。『おせっかい』なんて二つ名を持つ、心根の優しい美しい魔女だ。フユが一人で暮らすことが決まった際に、魔法使いの総元締めである宮屋敷は魔法使いさんと『銀の鍵』の関係に清算を求めてきた。
本来、魔法使いにとって『銀の鍵』は禁忌の品である。それは宮屋敷であっても変わらない。魔法使いさんは特例として。フユの身の回りの面倒を見ることを許可されていただけだった。
フユが魔法使いさんの手を離れるなら、二度とその接点がなくなるようにしなければならない。そのための手段は、お互いに記憶を操作して、具体的な情報を意図的に忘却する、というものだった。
とはいえ、それは儀式的な建前にしかならなかった。何しろフユは『銀の鍵』だ。人間の魔法使い風情の記憶操作魔術など、屁でもない。せいぜい「やりましたよ」というポーズを、他の魔法使いたちに対して示すという程度の話だった。
「でもね、フユ、約束して」
記憶の封印を施し終えた後で、魔法使いさんはフユを抱き締めてそう語りかけてきた。目の前にいるとても大切な人の名前が思い出せなくて、フユはとにかく苦しかった。こんな封印なんて、すぐにでも破壊してやりたいくらいだ。涙を流すフユの髪を、魔法使いさんは愛おしそうな手つきで撫でてくれた。
「フユが一人の人間として、しっかりと生きられるって。そう思える時まで、この封印は解かないでおいてね」
その言葉にどんな意味があるのか、フユには判らなかった。でも、血の通ったとても大事な約束であるとは感じられた。答えはきっと、封印の扉の向こうにある。それを見ることが出来るのは――少なくとも、今ではなかった。
「時が来るまで、私は待つよ。魔法使いさん」
フユはもう、昔のフユではない。ヒナがいて、学校の友達がいて。何も寂しくはないし、つらくない。
この封印だって、きっとその存在ですら忘れてしまえる時が来るのだろう。そうなれば、封印自体がその意味を失うことになる。
魔法使いさんは、そんな未来を望んでいる。フユには、そう思えてならなかった。