58 中学二年・四月 難波利武「せっけんの香りがする」
せっけんの香りがする
1
D組の南雲とすれ違った。ふっとため息をついた後、時計を覗き込み慌てておる。走りたいんだろう。呼び止めた。
「南雲、悪い、これから規律委員会か?」
「そ、いそがないとしばかれるしな」
長髪とはいえない狐みたいな髪型がぼわんと揺れた。仮にも規律委員が、違反まっしぐらの髪型で許されるのかお前、とつっこみたくなるのだが、女子には大人気だ。人気がすべてを決定する。
南雲はしぶしぶ立ち止まった。ごくろうにも俺のところに三歩、戻ってきてくれた。
悪いが呼び止めたからには長話させていただく。
ついさっきまで、D組の教室内にて、女子と話をしていたようすをたまたま俺は感付いてしまった。どういう会話なのかは知ったことじゃあない。ただし、南雲の学校内における立場および「学内アイドル」としての扱われ方を考えると、当然ふたりきりで話をする理由は一つしか思い当たらない。せっかくなんだからあったかく見守ってやれよ、とは大人のご意見だがそんなの俺は知らん。まずは証拠を集めて追求するのが俺の推理方法である。
「難波もこれから評議委員会か? うちの立村ならもう先に行ったけどな」
「先に本条先輩から呼び出されてるんだろ、あいつ同期よりも本条先輩命だもんな。俺たち愛されてねえよ」
ははっと南雲は声を立てて笑い、
「もっともだ」
と頷いた。
「じゃあ、悪いが先に行くわ、ちょっと時間食っちまったから」
「おいちょっと待った」
俺は後ろに回ってひょいと南雲の両肩を捕まえ、軽く締めた。本気なわけがない。笑いながら南雲もいやいやする。
「いきなりここでプロレス技はなしだぜ、難波」
「今、D組で誰かと話していたよな、しかも女子と。何かまた、いつものパターンか? 全く華々しいのう」
俺の方を振り返り、南雲はかすかに眉をしかめた。他人にはあまりつっこまれたくないことらしかった。言わなくても態度でわかる、このしぐさ。男前だ。ブレザーのポケットに手を突っ込み、つんつんとつま先で床を蹴る。
「俺が推理してやろうか?」
「いいよ、そんな関係ねえだろ、それより俺の規律委員としての命がかかっているんだわ、遅刻これ以上やらかしたら、思いっきり扱かれるしさ、悪いけど邪魔しないで先に行かせてくれよ」
「いそぐならてきぱきと白状しろよ、それとも俺の独断と偏見に満ちた推理を聞きたいか?」
「青大附中のシャーロック・ホームズ殿、その推理は悪いけど後でゆっくりとさ。ほら、もう先に立村が評議委員会の教室に」
言いかけた南雲の口を後ろからふさいだ。本気でいやいやする南雲。こうなったら逃がしはしない。めったに南雲に関するスクープをつかむことなんてないのだから、チャンスを逃しはしない。
「あのなあ、また女子を、泣かせたんだろ。お前も罪な奴だな」
まずはひとつ、ジャブを打つ。
「罪ったって、いや、その、別に」
照れくさいんだろうか。面倒くさそうに、「はあ」とため息を吐いた後、南雲は俺に向かい、ゆっくりとつぶやいた。
「難波、お前俺が女子に人気あると思い込んでいるだろ。誰でも手を出す変態だと思ってるだろ」
うんざりって顔だった。そう思われるだけの前科がこいつにはあるのだからしかたない。「そんなことない」と訴えたところで、南雲の現在の状況は否定が難しいだろう。第一、俺はB組だっていうのに、他クラスの南雲情報を入手しているってのが何よりもの証拠だ。D組とは合同授業がそうあるわけではない。D組評議の立村から噂を聞く程度だが、あいつも口の軽い方ではない。南雲が先月三年の女子と付き合っていて、最近別れて、ただいまフリーという情報だとか、告白されまくりの嵐だとか、女子でないと関心を持たないような内容を、俺はいつのまにか聞き知っている。何気なく耳を澄ませているだけで流れてくるこのニュース、なんとかならないものか。これも「火のないところに煙は立たない」って証明だろう。
きゃあきゃあ騒がれていながら、男子連中からやっかまれないのはこいつの性格にも理由があるのだろう。もともと男子との付き合いを最優先し、女子受けを無理にしようともしない。告白されて丁重にお断りしても、その女子たちのことを貶したり悪口言ったり決してしない。付き合い上男子同士の場では、自分の彼女についてかなり悪口言いまくるのがポーズなんだが、南雲はそういうことを決してしない。この辺もポイントアップの一因だろう。
「そうか、また女子に捕まっていたんだな。ご愁傷様」
図星。またまた困りきった顔で唇を尖らせる。当たりか外れかその辺も少し探って見たいものだ。
「お前、そういえば今、フリーの身だと噂に聞いたんだが、どうやら本当らしいな」
前髪を少しかきあげてみた。我が敬愛するシャーロック・ホームズ様はいつもパイプをくゆらせているのだが、そんなことしたら停学になっちまう。せめて頭脳だけでもあやかりたい。
「まあ、いろいろと、な」
「女子たちがわんさと詰め寄せて、お前の彼女に立候補しているってわけか」
これも外れていないだろう。実際、B組の女子たちがしょっちゅう噂しているのを耳にする。
──D組の南雲くん、今フリーだって。今がチャンスよね!
──うん、かっこいいもんねえ。完璧だもんね!
否定はできないのだが、男子は青大附中において南雲ひとりだけじゃないだろと言いたい。
どうせそんなこと言ったら女子どもに冷たく「もてないくせに」と笑われるのが定めだろう。
──そういう女子のみなさん、自分の顔を鏡で見てから考えろよな。つりあいってもんも大切だぞ、つりあいも。
修羅場をこさえたくない俺は、決して言いはしない。
南雲はさらに困りきった風にうつむいた。ギブアップだなこれは。
「で、お前はずっと女子を冷たく振りつづけていると。選び放題だもんなあこれは」
「選び放題ってそれは女子に失礼だけど。難波ホームズ君」
──「君」をつけるのは「ワトスン」だっての。
「いいかげん女子とのお付き合いに飽きたとか、そういうとこもあるのかなと俺としては推理したってわけだ。どうかな、南雲」
南雲はしばらく口をもごもごさせ、俺の手を払いのけた。首を思いっきり振って、天井を見上げた。俺の肩に手を置いて、片目だけ見つめるかっこうでささやいた。
「難波、お前、顔も名前も知らない女子からつきあいかけられて、素直にOKできると思うか?」
「へえ、そんな存在感薄い女子相手だったんだ。お前女子選び放題だもんな。好みじゃあなかったんだ?」 「とにかく知らない人に言われても普通困るだろう?」
「残念ながら俺には経験がないので、その辺推理でしか判断つかねえよ」
南雲は肩をすくめた。ははん、どうやらこいつ、好きでも嫌いでもない女子、顔も知らない女子にたった今、告白されたばっかりらしい。俺の推理が正しければの話だが、即刻お断りして、ダッシュで逃げ出そうとしたところらしい。もっと推理させていただければ、
「お前の顔の好みじゃあなかったんだな。残念」
かすかに表情がほころんだ。だろ、だろ? 共感を求めるその顔。
「俺、顔より心の人間だし」
「誰も信じねえよ」
──ルックス最優先主義じゃないかお前なんてさ。
突っ込みたかった。余所見した隙に南雲の奴、すったかたったったと駆け出して廊下を駆け下りようとしていた。俺も追いかける。あいつは結構足が速い。階段をからから降りた後、踊り場から思いっきり手を振り返し、
「難波、人生、本当に長いんだ。いつかお前もわかる日がくるぞ!」
意味不明な言葉を発し、また駆け下りていった。辛いのか、そんなにも。
2
──けど、誰だろうな、南雲に告白した相手。また、自分の顔を省みずにチャレンジした勇気ある奴は誰だろうな。
時計を見たところ、そろそろ評議委員会が始まる時刻だ。まだ四月に入ったばかりで、新入生たちも落ち着かない有様。とりあえずはなじんでいる二年評議連中と固まってしゃべることが多い。今年の一年評議は見た感じやる気のない奴ら中心で、今後の評議委員会に関しては暗雲立ち込めていると言ってよい。ただ幸いにして、俺たち二年連中は妙に男女関係なく団結力があるので、しばらくはこいつらと一緒の船に乗り、くだくだ言いながらがんばって大海原を進んでいこう。
リーダー格のA組評議・天羽が懸命に場を盛り上げようとしているし、年上の女子先輩たちにはC組評議・更科が小型犬風の笑みでもって人気を博している。三年の男子先輩たちにはD組評議の立村が真剣に教えを求めている。悪いが男子連中、誰も南雲みたいに華やかなお話なんてありゃあしない。そんなもの、全く求めちゃあいないだろう。俺も同じだ。なにせ我が敬愛するシャーロック・ホームズ様は一生独身だった。頼むから男色、すなわちワトスン君やモリアーティー教授との危険な関係を疑うのだけはやめてくれ、と訴えたい。
すぐに三年A組の評議委員会開催室へ向かってもいいのだが、少々忘れ物がなくもない。
中身はばれても没収されるものでは決してないのだが、うちのクラスで持っていることを見られたらばつが悪いのもまた確かだ。
──小学生用の算数参考書なんて、B組連中に見られたらしゃれにならねえよ。
自慢じゃないが俺は理系が得意だ。小学校時代はトップを外したことが一度もない、泣けそうなほどの優等生だった。残念ながら青大附中に入ってからは周りの連中が半端じゃなくできる奴ばかり、上の中レベルでふらふらしているのが情けない。いつかは狙いたい。狙えるだけの力をつけたいもんだ。まあいいか、評議委員会同学年の中では俺がトップであることが心の救いでもある。がしかし。ガリ勉野郎ばかりのクラスB組において、俺の地位が低いのもまた事実。悔しいが、努力あるのみだ。言っとくが、成績を良くして自慢したいってわけじゃあない。我が敬愛するシャーロック・ホームズさまに近づくためには、ありとあらゆる知識が必要なんだって、どうかわかってやってくれ!
うちのクラスの連中から、
「ああら、難波ってば、今だにこんなレベルの低い参考書使ってたってわけかよ、けっ」
馬鹿にされたくはない。人間としてむかつくガリ勉はいないB組だが、お笑いのネタにされちまうだろう。
──ったく、あいつにはこのレベルで十分なんだよ。ばーかが。
たまたま昨日、図書室で友だちとしゃべっていたら、A組とC組の女子評議が二人、顔をつき合わせて懸命に数学の問題集と格闘しているのを見かけた。いつもだったら「じゃあな」の一言で見逃すところなんだろうが、何となくそいつらの言動にびりりとくるものがあって、何気なく後ろの席に座って様子をうかがった。何事も自分の眼で見たもので確認しないとまずいだろう。
「来週ね、追試だから本気出してがんばらなくちゃ!」
大きく一つに束ねた髪を何度も縦に揺らしているのが、C組の霧島だった。
「この前の実力試験?」
「うん、毎日寝ないでがんばったんだけど、調子が出なかったみたいなんだ。クラスの平均点下げちゃったみたいで、みんなに申しわけないなって思って」
──当たり前だろうが。お前に数学の才能なんてもともとねえだろ!
「そうかあ。私でよかったら、わからないところ、教えたげられるよ。私もあまり数学得意じゃないんだけどなあ」
「ありがと、小春ちゃん。小春ちゃんどういう参考書使ってるの?」
体を斜にして、俺はA組女子評議の西月がかばんから取り出した、青い表紙の数学参考書を見て絶句した。
いや、大げさじゃあない。
──おまえ、何もなあ、「トップを狙うための参考書」をこいつに預ける気かよ!
うちの学校でお勧めの参考書は確かにそれだ。西月がそれを使っているのは理解できる。青い表紙の、「トップを狙うための参考書」と呼ばれる部類のものだ。俺もしっかり使用している。かなり難しい因数分解やら空間図形とか、へたしたら高校生レベルの数学問題まで含まれているのだ。もちろん青大附中に入るだけの実力を持つ奴ならば、このレベルの参考書を使わないとまずいのは理解できないわけではない。がしかしだ。
──霧島なんかに、これが理解できると思うのか?
激しく「無駄な抵抗はやめろよおい!」と制止したかった。断言するが、霧島の頭では青い表紙の参考書なんて理解できるわけがない。一年間俺が、霧島の様子を見て判断した結果だ。
「ゆいちゃん、ほら、このあたりの問題出るんじゃないかなあ?」
「なあにこれ、なんでXとYがこんなにたくさん並んでいるの?」
「それはねえ……」
西月の説明は決してわかりづらいものではない。小学生の家庭教師くらいならできるだろう。がしかしだ。
──わかるだろ、あいつが小学生以下の頭しかないってことくらいな。
「うーん、ごめんね、小春ちゃん、もっかい説明して。今度こそ、今度こそ覚えるから!」
「うん、何度でも大丈夫だよ、ゆいちゃんあのね……」
──いや、違うんだ、根本的になんかが違うんだ。
さすがに評議委員同士の人間関係を悪化させたくはないので、俺は黙って席を立った。通りすがりに軽く挨拶だけしておいた。
──こいつ、小学校からやり直す必要があるんじゃないのか? 足し算と引き算、割り算と掛け算、小数点と分数、ごっちゃにしながら解いていた。努力は認める。認めるがしかし。
──C組の先生連中は何も言わんのか? こいつの能力ではうちの学校の授業に着いていけるわけねえって。西月の友情溢れんばかりの努力は認めるが、来週だろ? 試験って。まずめちゃくちゃ初歩の初歩からやり直さないと、話にならねえだろ。
一度も追試なるものを経験したことのない俺が言うのもなんだが。追試とは一度試験で出した問題を繰り返し出すのが普通だと聞いている。前回の試験結果を頭にまず叩き込んで、あとは数字を入れ替えしてパターンを暗記する。これが数学の王道だ。
霧島にもっとわかりやすい参考書なりなんなりを渡してだな、せめて追試くらいは逃れさせてやるのが、親心てもんじゃないのだろうか。そういうことを、教師が放棄しているとしか俺には思えん。
だからしょうがないのだ。
教師が何にも気付こうとしないから、評議仲間の俺が、するだけなのだ。
問題はあいつが、まっとうに小学生用の参考書を読みこなせるかどうかだが……正直なところ、それもめちゃくちゃ怪しいと思う……仕方ない、こういうことは人間として、評議委員会の一員として、言い出しっぺの俺があいつの家庭教師代わりになるという、えらいしんどい役を引き受けなくちゃあいけないだろう。半端でなく気の強い霧島はさぞや文句言うだろう。「余計なお世話よ! 私だって青大附中に受かったんだから! やればできるのよ! 難波くん数学得意だからってまた私を馬鹿にしてるでしょ!」とかわめくだろう。
露骨に噛み付かれて怪我しそうな面倒事を引き受けられるのは俺しかいないだろう。
──今日の評議委員会でな、あいつが嫌がろうが明日、図書室で徹底してしごいてやんねえとあいつ、きっとすべるぞ追試に。追試すべったらどうするんだ、あいつ評議から下ろされるぞ。いきなり評議委員の面子が変わったら大変だろが。ったく手間の掛かる奴だぜ!
3
確かに顔を覚えていない女子に告白されても、どうしたらいいかわからないだろう。別の奴だったら「告白されただけでもラッキー、とにかく女子ならまずはもーらい!」としっかりいただく奴もいるだろうが、そこが俺の知っている南雲の男らしさなのかもしれない。
──存在感のない顔なんだろうなあ。けどいくら南雲でもな、すごい美人だったらまた代わるだろうなあ。ほら、「日本少女宮」レベルの顔だったらな。
あまり背は高くなくていい。髪の毛は長いほうがいい。ポニーテールも悪くはない。できればふわふわした古きよき時代のイングランド風ファッションがよい。「不思議の国のアリス」の、テニスン画アリス。もしそういう女子が存在したら多少気が強かろうが、多少口が悪かろうが気にしないだろう。これから俺がしつけりゃいいんだから。
──まあ、そういうタイプだったら南雲もあっさりOKしていただろうな。女子好みってのは、男子ともども似たようなもんだしな。けどどんな女子だろ。
やっぱり置き忘れていた紙袋をかばんに押し込み、さっそく三年の教室へ向かうことにした。階段を昇り、評議委員会開催中の三年A組教室に入ろうとした。と、反対側から女子らしい影がちらつくのが見えた。俺が上がってきたのはA組側、向こうから来たのはD組側の階段だった。人気もない。たぶんうろついているのは評議委員くらいだろう。少しうつむきかげんで、両手で顔を覆うようにしてとぼとぼ歩いている女子。小柄で、ポニーテール姿の女子。 ──あいつか?
髪の毛を頭のてっぺんに一つにまとめ、少し揺らすようにしてうつむき歩く女子。
真っ正面に立ちすくんでいる俺の視線に気付こうとしなかった。三年D組の斜め向かいに位置している水のみ場で足を留めた。
俺も足音を忍ばせて、ゆっくりとB組、C組の前を通り過ぎた。ふつうだったら気付くだろうに。その女子は目をこすりながら、一度鏡を正面から見据えた。俺が側にいることも意識していなかった様子だった。そのまま、片手で蛇口をひねり、水を一杯に流した。はね散らかす水で制服も袖口も、髪もみな、ぐしょぬれ、さかなっぽい顔に見えた。
三回、四回、五回。まだまだ水が冷たい時期だってのに、髪の毛と胸のあたりがびしょびしょになるくらい顔へ水をたたきつけた。俺は水のみ場の隣のとこでただ黙ってあいつを見つめていた。
──こいつなのかよ。
かばんの中に入っている紙包みが、重たかった。
「な、何見てるのよ! 難波くん、こ、これから評議でしょ!」 隣に立っても気付くのにかなり時間がかかった。鈍い霧島は水浸しの顔をぶるぶる振りながら叫んだ。廊下には俺と霧島しかいないし、しかも意味不明の洗顔に燃えていたあいつのことだ。どういう状況なのか理解していないのだろう。俺だってそうだ。推理はしているけれども、さて、なんと言えばいいんだかわからない。ホームズ様だったら果たしてこういう場合どういうのだろう。
「早く来いよ、評議委員会、始まってるぞ」
俺は背を向け、A組の教室へ向かおうとした。が、何か言い忘れてしまったような気がした。口の中が熱くなって、怖い。まさかさっき、俺が南雲としゃべっていたところなんて見ていないだろうな。まさか、俺が後をつけるような格好になったなんて気がついてねえだろうな。大丈夫だろう。こいつの頭はにわとり並だ。一本調子で一つの目標に対して燃え上がらせるのは得意らしいが、頭脳プレイについては全くのとんちんかん女。その辺はゆうゆうと推理済みだった。
「わかってる、ちょっと、先に行っててよ」
「なんで顔なんか洗っているんだよ」
はっとした表情で、霧島は自分の頬に手を当てた。目と唇に、慌ててこすりとるようなしぐさをした。かき、かきと頭の中で俺の推理が働いていくのを感じる。唇が妙に赤い。まぶたがかすかに桃色だった。爪の先がやたらとぴかぴかしているのは水に濡れたせいではないだろう。そして、動いた瞬間漂った香り。
「お前、まさか」
風呂場のせっけんの匂いだった。水のみ場の丸いレモン石鹸とは違う。お歳暮とかお中元で届く高級な石鹸のあまったるい香りだった。学校の中には存在しない成分だ。霧島しか、所有していないこの香り。
──化粧なんかしてたのかよ。
──南雲なんかのために。
「駒方先生がうるせえからしっかり落とせよ」
俺はそれだけ言い残し、霧島を置いてA組の教室へと入った。すでに評議委員会は始まっていた。女子評議の席は確かに、C組の場所だけ空いていた。
──あいつ、まともに頭はたらかねえくせに、勉強なんてろくすっぽ理解できないくせにさ。ただひとつのことしか熱中できない単細胞のくせにさ。
あいつがもし入ってきたら、きっと駒方先生もびっくりするだろう。女子の化粧なんてよくわからねえけど、良く見たら唇はまっピンク色だったし、目も何となくでかく見えたし、心なしか色も真っ白く見えた。いや、化粧なんかしなくたって変わらなかったんじゃないだろうかとも。ただ、明らかに自然じゃなかったのは香りだった。きっと南雲もあの匂いをかいだに違いない。ちっとも心動かされることなく、霧島を振ったに違いない。「顔に覚えがないから」という理由で。記憶に残すこともなく。
──南雲なんかのこと考えてる暇あったら、来週の追試の勉強しろよな。
「難波、どうした、顔色悪いなあ。失恋したのか?」
穏やかな調子で駒方先生が話し掛けてくる。違う、相手が違う。周りが妙に受けている中、俺は前髪を何度もかきあげながら扉の方を見つめ続けた。
──色気づきやがって、ちくしょう。




