57 中学二年クリスマス後・南雲秋世のインストロメンタル
南雲秋世のインストロメンタル
1
「……だから、やっぱり俺の感じ方は変なんだろうな」
りっちゃん……本名は立村上総という……と話をすると、いつもこのフレーズが出てくる。そうだよなあ、と思う時もあれば、いやいやりっちゃん考えすぎだよ、と言ってやる時もある。実際俺が返事をするのは後者のことが多い。もしりっちゃんの感じることがおかしいんだったら、俺は毎日変人扱いされてなくてはならないと思う。
「いや、そうは思わないけどよ。りっちゃん、たださ」
俺はいつも「たださ」「けどさ」とつなげる。
「感じることはおんなじだけど、きっとりっちゃんはそれを深く考えすぎるだけなんだって思うんだ。俺がふうんって思えることを、りっちゃんはそのことについてずっと考えつづけて、それで、いつもの口癖になるんじゃないかってさ」
「いつもの口癖ってなんだよ」
布団の中で口を尖らせた風につぶやくりっちゃん。ちょっとむかついているに違いない。
「感じ方が変だってこと。大丈夫だよ。たぶん、俺もりっちゃんとおなじだと思うから」
俺は自分のベットに足を突っ込んだまま、テレビのリモコンを探した。枕の側にある。
「じゃあ、これからゆっくり観ようよ。りっちゃん」
答えないりっちゃんは、俺の顔を見上げて笑わず、こくっと頷いた。
ビデオはすでに投入口にセット済み。『組紐のごとく』
いったいなんつうビデオなんだか。
俺が手に入れたのはたまたま、小学校時代の友だちが、
「間違って中古ビデオ屋で買ったんだ。けど、こんなのうちに置けねえよ」
ということで、隠しやすい俺の家に引き取られたというわけだ。題名だけ黒くぬったくられていて、箱もなにも着いていない。どういう内容だか友だちに聞いたのだが、
「見ればわかるって。俺が手放した理由」
としか答えが返ってこなかった。そうとう、際どい内容なんだろう。
「りっちゃん、こういうビデオって見たことある?」
「本条先輩と一回だけ」
「そっか。おもしろかったか?」
「本条先輩のレクチャーはよかったけど、画面は見る余裕なかった」
本条先輩とは、りっちゃんが一番慕っている三年の先輩だ。評議委員長・学年トップ。これだけ観れば優等生そのものなんだが、本性は女ふたりを股にかけて遊び呆けている「青大附中開闢以来の女ったらし」。俺にとっても先輩としては大尊敬してしまうのだが、女性関係については少々疑問を感じたりもする。俺は一筋主義だから。
「御託並べてないでまずは集中集中」
ふたりで腹ばいになり、電気を消した。
「いざとなったら、ティッシュあるから言ってくれよ」
「こんなところでそんなの使うかよ」
ため息交じりのりっちゃんが、頬杖つくようなポーズで画面を見つめていた。俺も嫌いなものじゃなし、ゆっくりと動けるよう、うつぶせになり布団にもぐりこんだ。暗い中浮かんできたのは赤っぽい画面だった。思ったよりも画像がきれいだった。テレビドラマみたいだった。
「本当に裏なのかなあ」
「第一、これって、いわゆる、そういうビデオじゃないのかもしれないし」
「期待裏切ったらごめんな」
言葉はこれで途切れた。やっぱり、そういうビデオだった。
ただ、そういうビデオにはいろいろあることもよくわかった。三十分間。
灯りをつけるにも、やはり枕もとだけでいいだろう。俺はビデオを巻き戻しリモコンを枕もとに置いた。今回に関しては一切ティッシュの必要性を感じない。全く身体はなだらかそのもの。いわゆるそういうビデオを見た後の「なんとかしてくれ」的叫びは全く感じない。
「りっちゃん、一言感想を」
「あいつら人間じゃないよ。許せないってこのことだよな」
ぐいっと俺の方をにらみつけるようにして見つめかえしてきた。りっちゃんの目は近くで見ると大きい。いつも泣いた後のうるんだ瞳で、ちょっと子どもっぽくみえる。もともと身体つきも他の顔パーツも、小ぶりな印象が強いのだけれども、瞳のらんらんとしたところだけが妙に印象深い顔だった。俺はビデオの処分についてしばし考えた。
──あれは実用ビデオにならないしなあ。
「りっちゃん、あれ、やるって言ってもいらないだろ」
「あんなの燃やすべきだよ。それ以前に警察に送りつけてなんとかしろって訴える方が先じゃないかって思うんだ。大人ならまあ、その、それでいいと思うよ。そういうこと仕事だってわかってるからさ、けど、あの中にいた人、みな俺とかと同じくらいの人だろ。それもみな、盗み撮りされているようなもんだろ? かわいそうだよ」
どうやらりっちゃんも、実用性を感じなかったらしい。
「そうだよな。俺も、そう思うな。明日の夜に、写真集ですっきりさせないとこの怒りは収まらないよな」
たぶん演出もされているんだろうとは思う。でもあれはいくらなんでもひどい。りっちゃんが憤るのも無理はない。
「組紐のごとく」
演じている人もいるんだろうが、なぜかみな中学生だった。中学生も実はこういうアダルトビデオの撮影だということを聞かされていなかったらしい。アダルトビデオの場合、最初にお姉さんたちのごあいさつがあるのだが、「組紐のごとく」はまず、中学生たちに監督らしき男性が「学園ドラマの撮影をする。エキストラとして出てほしい」という説明をしている。四人の中学二年という女の子が話を聞いて頷いている。ただ四人だけでそういう状態というのもおかしいとは思うのだが。演出だろう。
いきなり監督が他の男性に目配せして、彼女たちの両手を後ろに組ませて縛り上げる。時代劇で「お縄にする」という感じだ。お仕置きの場面だと説明しているが、なぜかその子たちは反応をしない。たぶん何も疑っていないに違いない。そのままひとりずつ抱っこして教壇の上に並べられ……。
りっちゃんが目をまんまるくしたまま見入っているので俺も付き合った。
「どういうことだよ、これ」
「まさか、そういうものか」
その後のシーンは見るに耐えなかった。俺も決して女子のそういうスケベな部分を見るのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。大好きだ。水着ぽろりとか、スカートがめくれたりとか、裸とか、そういうのを見せてもらえるならもうそりゃあ舞い上がる。しかしこの子たちは違う。あきらかに騙されて、連れて来られているというのが見え見えだ。りっちゃんも途中から目をそらしているのが伺えた。それでもストップボタンを押さないのが俺のスケベな本性ってとこかもしれない。もし、俺の知り合いか誰かがこういうところに連れてこられてたら、と、めったに考えないことまで考えてしまう。なにやら独り言言っているりっちゃんに向い尋ねてみた。
「これ、観て興奮する奴っているのかよ」
「いるんだろう。だから売れているんだよ」
りっちゃんが冷たい声でつぶやいた。
こういうビデオを見た後は、友だちと申し合わせてトイレに駆け込み五分くらいひとりになるのが常だった。でもりっちゃんも俺もそういう気分にはなれなかった。りっちゃんはショックで動けないくらいだったらしい。小さな声で、
「最低だよ、あんなの許せないよ」
つぶやいていた。
「同じことするなら、ちゃんと大人の人で仕事だって人を使えばいいんだ。騙すことなんてないだろう? 本人たちはみな、ふつうのテレビドラマだと思ってきたのに、こんな恥ずかしいことになってしまうなんて思ってないんだろうな」
俺は台所に下りて飲み物をもらってきた。冷蔵庫に入ったままのジンジャエールを一本。ふたりで分け合って飲もう。ついでにコップも持っていった。
「少し毒気を抜こうか」
「うん、そうだね」
ちょこんと布団の真ん中に座り、りっちゃんは俺の注ぐままカップを見つめていた。
──いい奴だよな。りっちゃんは。
二年に上がってからふたつの目標をクリアした俺。
ひとつは好きな女の子を口説くこと。
ひとつは友だちになりたかった男の子を口説くこと。
口説く、たって俺は別にホモとかそういうわけではない。
ただ一年の頃から気になっていたものを、全部二年の一学期で処理しただけのことだ。
俺は自分の分、手酌で注いだ後、りっちゃんの向かいに座った。
2
りっちゃんをまだ「立村、あのさあ」と声かけていた頃。
青大附属に入学してから間もなく、一年の新歓合宿というのがあって、たまたま同じ部屋に泊まることとなった。
俺は人見知りする方でなかったし、すでに仲間内で気の合う奴も見つけていたから退屈することはなかった。まだ、野郎同士の派閥みたいなのもなかった。ただ、雰囲気的にちょっと違うな、という連中はいないこともなく、りっちゃんも最初はその類だった。
いや、見た印象は悪くなかった。おとなしそうな奴だという程度。
目立たないように振舞っているというのがよくわかった。すでに別の仲間グループと仲良くしゃべっていたので個人的にどうのってのはなかった。たまたま同じ部屋だったから俺もふつうに声をかけたつもりだった。
りっちゃんはそうでないようだった。
なんとなく、避けられているんじゃないか、そんな感じを持っていた。
俺がなにげなく、
「小学校の時、運動部とかに入ってたのか?」
「修学旅行どこ行った?」
「やっぱり山登り遠足って疲れるよなあ」
と、いささかアウトドアな話題を振ると、
「あまり、遠足とか旅行に参加できなかったんだ。身体が弱かったから」
と小さな声で答える程度だった。たぶん、ふれられたくない話題だったんだろう。俺もその辺はすぐに察して別の話に差し替えた。無理に聞き出すなんて最低だし、誰にだって知られたくないことがある。俺にもアキレス腱がある。
そうだった。りっちゃんはあの時、ほとんどしゃべらなかった。
俺は小学校時代の修学旅行と同じ感覚で別の奴と、「どういう女子が可愛いと思うか」「スケベな本とかをどこで手に入れるか」「初めてつきあったのはいつなのか」「どういう音楽が好きなのか」を怒涛のごとしゃべっていた。みな、青大附属に入学する前からそれなりにお盛んだったようだった。今思えばりっちゃんくらいだったろう。そういう話題から浮いていたのは。でも、おとなしく俺たちの顔を見ながら輪に入っていたところを見ると、嫌いでもなかったんだとは思う。
すでに俺も、小学校五年の時から「おつきあい」する機会があったし、その子とは卒業前にはじめてのいわゆる、その、キスとかなんとかもした。もっと言うなら、ちょっとだけさわらせてもらったりもした。その子とは自然消滅してしまったようなもんだけど、それはそれでいい思い出だ。
要はみんなに自慢して、自分がこれだけすごいんだぞ、ってことをひけらかしたかっただけなんだと思う。
俺もあの頃はずいぶん無理していたっけ。父さんから卒業式後、部屋に呼び出されてコンドームを一パック渡されたときはさすがに照れたけど。
「男として自然な感情なんだからそれはそれでいい。だが、相手を傷つけるようなことはするなよ」
意味がよくわからなかった。
宿泊研修の夜のことだった。
旅館の風呂場は大浴場になっていて、みんなすっぱだかで飛び込んだり泳いだりできる広さだった。俺も当然出かけたわけなんだが、りっちゃんだけはなにか理由をつけて一番最後に入りにいったらしい。なんのことはない。りっちゃん以外にもそういう奴はいたらしい。あまり他人と風呂に入ったことのない奴ってのが。だから珍しいこともなかった。
先に上がった俺とあと数人が部屋の中、こっそり煙草を吸ってみようとたくらんだのがまずかった。たまたま同じ部屋で実験対象になった国枝という奴が、一気に五本煙草をくわえてみたのだが、胃にものがたんまり入っていたのがまずかった。むせると同時に一気に吐き出してししまったじゃないか。
──どうするんだよ、これ。
当然、煙草なんて持ち込み禁止だなんて野暮なことは言わないでほしい。
部屋の中はただでさえ煙草くさくて死にそうなのに、だ。
──入学後すぐに退学かよ。
俺の頭にまず浮かんだのはこの辺だった。そりゃそうだろう。まだ入学して一週間くらいしか経っていないのに、停学・退学だなんてどう言い訳すりゃいいんだろうか。一応青大附中は青潟市のエリート中学らしい。「らしい」ってとこが「うそだろ」の反語なんだけど。吐いたものの匂いで俺の方がおかしくなりそうだった。
本当に悔しいんだけど、俺はその時なんにもできなかった。
国枝の口を拭いてやろうとタオルを持ってきてなんとかせねば、と思ったのが関の山。
動くことができなかった。たぶん一緒にいた連中も同じだった。
「南雲、お前どうする?」
「どうするったって、先生のとこに行くしかないだろ」
行ったらどれだけの大目玉が待っているかわからないわけじゃなかった。
ちょうどその時、りっちゃんが髪をぬらした格好で帰って来た。戸を開けたとたん、すさまじき惨状に凍りついたのは当然だった。小さい声で、
「国枝、大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろ」
誰かが怒鳴っていた。俺は何を言ったのか覚えていないのだけど、
「やばいよ、どうする」
と何度も繰り返していたらしい。りっちゃんが一年後に話してくれた。
「たばこ、か?」
「俺んじゃねえよ」
お互い責任をなすりつけていたことを、俺は白状する。断じて俺が持ってきたもんじゃないんだけど、でも、国枝にくわえさせていたのを煽り立てていたのは確かだから。
次の瞬間。りっちゃんは国枝を抱え込み、素早くトイレに連れ込んだ。当時から細いマッチ棒状の身体つきだとは思っていたけれど、実に手早かった。まだ口からだらだら流してあえいでいる国枝をまずトイレに押し込み、戸を閉めた。そして、
「ここにいたらまずいから、お前ら別の部屋に行ってろ。あとは俺が何とかするから。それと南雲、戸だけを開けたままにしてもらえないか」
驚くほどしっかりした口調だった。か細い声でおどおど話していた時とは違う。
──こいつ、何考えてるんだろう。
けど俺は逃げ出したかった。とにかくこの臭い、煙草と吐いたもののすっぱい匂いで一杯の部屋から飛び出したかった。
「先生には言わなくていいのか」
「まだ言わなくていい。とにかく早く行け」
トイレの戸を少しだけ開けていた。国枝がまだあえいでいる声と一緒に、りっちゃんがきつい声で俺たちに命令しているのが聞こえた。
俺はその後、別の連中とふたりで隣りの部屋に避難した。りっちゃんが「絶対言うな」、と命令したことを隠れ蓑に、トランプに混ぜてもらったりもしていた。
だが、当時からりっちゃんと行動をともにすることの多かった羽飛貴史がぴんときたらしく、あの部屋に向かってしまった。この時、俺は停学・退学を覚悟して、公立に行った友達へどうやって言い訳するかを考えていたわけだ。
「お前ら、最低だな」
部屋の中でうなだれていた俺たちを、やがてもどってきた羽飛は吐き捨てるように罵った。
「今、国枝を病院に連れてったみたいだ。菱本先生が」
だいたい三十分くらい経った頃だったと思う。
「お前らみんな立村に押し付けてたのかよ」
「連れてったって、けど、あの部屋」
別の奴がおどおどと羽飛に質問を投げかけていた。あの部屋には煙草がまだ数本残っていたはずだ。発見されたら一貫の終りだ。羽飛は浴衣の袖を黄色く染みつけたまま、俺たちをにらみつけた。
「煙草とかやばいものは全部、立村がトイレに流した。あと、へどあげた布団とかも立村と俺が全部洗ったりなんかしてごまかした」
「じゃあ、ばれてないんだ」
「ばかやろう!」
何様のつもりなんだか、羽飛は俺たち四人を見据え、足踏みをしやがった。もともと羽飛にはあまり、いい感情を当時から持っていなかったので、俺は当然見返した。目が合い思わず俺と羽飛のけずりあいになった。
「理由も言わんで俺たちを罵るってなんか違うんでないか?」
「黙れ、おい南雲。なんでお前ら部屋を出てきたんだよ。なんで国枝がひとりでげえげえ苦しんでるとこを見捨ててきたんだよ。今、立村がひとりで菱本先生に呼び出されて、すげえ怒鳴られてるって知らねえだろ!」
「立村が?」
羽飛の説明によると、りっちゃんは一生懸命国枝の世話をしていたらしい。だいぶ落ち着いた頃に羽飛が到着し、新しい浴衣を女子の部屋から調達したり、洗濯を手伝ったりいろいろしてごまかしたらしい。ある程度の処理が終わった段階で菱本先生に知らせたはいいが、相当苦しんでいた状態だったので病院に運び、
「なんでもっと早く教えなかったんだ」
と菱本先生に吊るし上げられたという。
俺VS羽飛、りっちゃんVS菱本先生、初めての対決だった。
まだかすかに匂いの残る自分らの部屋に戻り、俺たちは絞られて帰って来たりっちゃんを迎えた。すでに羽飛に対する不快感は俺の腹の中で満杯だった。他の奴らも相当だったようだ。国枝に煙草をすわせたのは俺たちだから言い返せない。けど、あんな高飛車に言われる筋合いもないと思った。俺だって退学は覚悟していたんだから。
いわば「羽飛グループ」だったりっちゃんにどう接していいかわからず、あやまることもできなかった。相当菱本先生に叱られて落ち込んでいる様子で、唇を噛んでいたけれども、なぜか俺たちの顔を見るやほっとした風に笑みを浮かべた。
「立村、あのさ」
とにかく、俺なりにけじめをつけようと思った。
「あ、大丈夫だよ。今の話だとたぶん、国枝が言わなければ、煙草のこととかはわからないと思うんだ。悪いんだけど全部煙草っぽいものはトイレに流した。それと、菱本先生が入ってきた時にはだいぶ煙草の匂いも消えてたと思うんだ。だから、原因はわかんないよ。食べ物に当たったとかなんとか言ってごまかしておいたけど、たぶんばれないと思うんだ」
「ばれないって、おい」
真新しい浴衣を抱えてきたりっちゃんは、戸惑うような目でちらちら俺たちを見つめていた。視線を合わせられないらしく、いづらそうに、
「じゃあ、もういちど、風呂に入ってくるから。あと、布団、新しいのを入れてくれてるって」
やはり目を合わせるのがしんどそうだった。俺も、他の奴も「あ、ああ」とだけ答え、りっちゃんがいなくなるのを見守った。たぶんその時は話す言葉が見つからなかったのだと思うし、俺がガキだったからだろう。
結局国枝は夜中、自宅から迎えが来て、連れて行かれたらしい。これまたりっちゃんが全部荷物をまとめて、菱本先生に渡していた。そういうことはお手の物らしい。同じ部屋で本当だったら、俺も手伝うべきだっただろう。けど、そこが情けないくらい俺のガキっぽいところで、寝たふりしかできなかった。
なんというか羽飛に言われた言葉がまだ、心の中に響いていたからかもしれない。
次の日、バスの中でりっちゃんは羽飛の隣席で目を閉じていた。
あれだけ駆けずり回ったのだから疲れて当然だろうし、さらに乗り際にも、
「だから立村、お前いったいどうして先生に報告しなかったんだ!」
と怒鳴られる始末。しょんぼりうなだれていたけれども、羽飛に肩を叩かれてとぼとぼ乗り込んでいった姿。俺は後ろの席で眺めていた。
結局何もその時、りっちゃんに話し掛けられなかった。羽飛とはこれから先長いにらみ合いになるだろうと予想できていたし、俺は俺で別の連中と音楽ネタで盛り上がっていた。しばらくは国境線を越えられないような付き合いが続くのを予感していた。
ただ何かの拍子で仲間のひとりがちらっと、
「けどさ、立村ってすげえ奴だよな」
「本当だ、俺もそう思う」
話題を出したように思う。
俺はその時、ためらうことなく大きく頷いた。本人はたぶん聞こえていなかっただろう。静かなバスの中で、すかすか寝息を立てていたみたいだったから。
3
たぶんその頃から、俺はりっちゃんに興味を持っていたのだと思う。
野郎グループが新歓合宿以降見事に三分割されてしまったこともあり、何かの拍子で無駄話をする程度にしかりっちゃんと接することはできなかった。その一方でクラス内における羽飛VS俺との対立も激しくなっていった。つっかかってくる羽飛をいなすのも簡単ではなかった。俺の本能に火がつくんでないか、と思う時もしょっちゅうだった。
「なんだよ、女ったらしのくせにお前」
「女ったらしとは失礼だな」
「関心もねえくせに、さんざんもてあそんでやがるんだもんな。相手のことも考えねえで」
「そんなんは俺の勝手だろ。羽飛、お前に文句言われる筋合いはない」
「けっ。規律委員のくせに女子傷つけて悪いと思ってねえのかよ」
「俺は傷つけてなんていないけどな」
今のは、一年時のこと。危うく殴りあいに発展する寸前の会話だ。
たまたま俺が一年上の先輩に告白されて、なんとなく付き合うことになった時のことだった。
付き合うったってそんなすごいことをするわけではなかった。キスをしようと誘われるのがせいぜいだった。小学校の時に済ませていたから、抵抗はなかった。
ただ、その現場を羽飛に見られたのがまずかったらしい。
うらやんでいるのかそれとも、相当むかっ腹立っていたのか。
もてあそんでいるなんてことは言われたくなかった。俺はそれなりに、相手の人が喜んでくれることをするのが一番だと思っていた。小学校の頃付き合っていた子とは自然消滅したけれども、会ったら会ったでそれなりに付き合いができると思う。キスくらいはできるかもしれない。でも、傷つけるような付き合いは一切してないつもりだ。 また外で会って、「やあ、元気?」と挨拶できるような、そんなお付きあいだ。
さて一発やるか、と身構えた時。
「羽飛、やめろよ。南雲だって悪いことしているわけじゃないんだからさ。それよりあのさ」
羽飛の側で肩を軽く叩く奴がいた。まだ同じくらいの背丈だったりっちゃんだった。俺の方に軽く目を合わせて、
「俺は南雲のこと、うらやましいと思うよ。そういう風に普通に人と話ができるっていいなって思うんだ」
やはりすぐに逸らせて、うつむいた。
だいたいりっちゃんが俺と羽飛の間を取り持つのはこんなパターンがほとんどだった。俺もそうだが羽飛も、りっちゃんの前ではなあなあに終わらせるのが普通だった。無理に殴り合いやって菱本先生に怒鳴られるのもいやだし、相手の腕力がまだ把握できない状態で一戦かますのもなんだかなって感じだった。
それに、俺にも羽飛へ言い返せないところがあったりもしたわけであり。
──女ったらしかもな。
言われる通り、相手の子が喜んでくれればそれでいいという気持ちで、いろいろと付き合ってきたけれども、どうも自分の中でしっくりこなくなると俺の方から終るようにしていた。相手だってそうした方が本当の恋人を探しやすいだろう。別れを切り出すのはいつも俺の方だったから、大抵は泣かれてしまったけれども、話せばなんとかわかってもらえた。中には、二年上の先輩で、「じゃあ、あれを上げる」という言葉で、いわゆる、その、なにを誘われたりもしたけれども、すぐに断った。
責任取る自信、なかったからな。
すべてが反対側に動きはじめたのは二年に入ってからだ。
クラスの班構成を今までは、委員会の男女を代表としてまとめていた。評議委員同士、規律委員同士、保健委員同士、学習委員同士、放送委員同士。
でも、そのやり方だと毎回同じ顔を合わせる奴が決まってしまう。誰とは言わないがたまたま仲が最悪の男女委員がいたらしく、菱本先生のもとへ直訴したらしい。二年に上がってからは純粋なるくじ引きで席を決めることになった。今までのパターンだったら評議のりっちゃんと規律委員の俺がくっつくなんてこと、まずないはずだった。運のいいことに、その班には羽飛もいなかった。まあ俺としてはもうひとつ期待していたパターンがあったのだけど、それはこれからの努力あるのみだと思っていたからしかたない。
「立村って結構洋楽詳しいよな」
「うん、うちの親がインストロメンタル系とか、歌詞のないレコードとかたくさん持ってるから、それ聞いて知ってるんだ」
もともと英語がべらぼうに出来て、二年からは大学の語学授業を取るというりっちゃん。うちの学校は、希望すれば高校、大学の授業に出席させてもらえるシステムがあった。もちろんついていけない奴が行ってもしょうがないので前もって試験があるけど。りっちゃんは一年の春休みに、英語の認定試験を受けて見事合格。放課後を使って英語とドイツ語の特別授業を受けてもいいというお許しを得た。学年で英語関係の合格者はりっちゃんだけのはずだ。
やっぱり英語がらみでネタを探そう、と俺は思った。もともと「全米ヒットチャートトップ100」とか、英語圏のマイナーな歌詞を訳してほしいと思っていた俺としては、いいきっかけだった。
たまたまかばんにつっこんでいた輸入盤のライナーノートをまとめて渡し、
「悪いんだけどさ、立村。来週までにこれ訳してもらえないかなあ。今度小学校時代の野郎連中と、ライブごっこやるんだ」
本当のことだった。急ぎではなかったけれど、なんとなくためしてやりたかった。首をちょこなんとかしげて眺めていたりっちゃんだが、受け取りぱらりとめくった後、
「ちょっとだけ待ってもらっていいかな」
かなりの量だった。自信ないのかなと思っていた。
立ち上がって一回教室を出て行った。五分後に戻ってきた時は大きな英英辞書を抱えていた。図書館に寄って注文してきたらしい。早い。
「どしたの、これ」
「うん、ちょっとだけ確かめたいとこあったんだ」
ちょっとだけというのが、りっちゃんにとってはどのくらいのことなのか、俺は初めて思い知らされた。約五分後。
「これでいいかな。間違ってたらごめん」
すべてのライナーノートに、りっちゃんは数回英英辞書をめくり、さらさらと訳をノートに書き込んでいった。。今思えばその歌詞にはスラングもたくさん入っていた。俺の持っている英和辞書では見当のつかない訳になっていたと思う。とにかく、普通の日本語として意味の通じる訳。唄。そのまま口づさんでオッケーという代物だった・ 。
「りっちゃん、これ本当に」
「間違ってた、かなあ」
不安そうに見上げるりっちゃん。とんでもない、と感謝の意で手を合わせた。
こいつの頭は本物だ。
たとえ数学の授業中真剣に指を使って計算していても。 足し算引き算する時にいつも数直線を引いていたとしても。
それ以来俺とりっちゃんとは、音楽関係のネタで毎日話をするようになった。隣りの席っていうのは非常に楽だ。最初りっちゃんも俺にどういう話をしていいかわからなかったみたいで、びくついていたみたいだけど。俺の方から古い洋楽のダビングテープを押し付けたり、ライナーの訳を子とあるごとにお願いしたりしていくうちに慣れてくれたようだった。どうして俺と目が合うたび、びくっと肩を振るわせるのか、理由はわからなかったけれども。
でも、その時は音楽の話題オンリーだった。一番俺の興味津々たる、あのことは一言も出なかった。
俺が何気なく、
「立村ってさ、女子に関心ないのかよ」
とつっこむと、きょとんとした顔で俺を見つめて、
「やっぱり、それっておかしいかな。ないんだ」
とつぶやく。あわてて真っ赤になるとか、戸惑ったりするとかだったら俺もつっこみようがあるけれども、不安げにうなだれるのを見ると、それ以上何も言えない。
「いや、だったらどうしてここまですごい歌詞、訳せるのかなあって思ったんだ。洋楽の歌詞って真っ正面から読むと結構、これ発禁って言いたくなることあるだろ。立村の訳には全部、そういうやらしいとこも書いてあるから、そういう本とか読んで勉強してるのかなとか思ったんだ」
「そんなこと、してないよ。ただなんとなく勘でわかるから。やっぱり、俺は変だよな」
ごまかしつづけていたのが、だいたい五月くらいのことだった。
4
「りっちゃん、どうした」
しばらく膝の頂点にジュースを乗っけたまま、りっちゃんがほうけていた。
悪夢のビデオ鑑賞会、あの衝撃がまだ抜けていないんだろうか。
「いや、たいしたことないんだけど。お前、こういうのって、友だちと観ること多いのか」
「そりゃあまあ。お笑いネタにもなるしさ。でも今回が初めてだな」
「なにをさ」
やはりきょとなんとした顔でもって、俺の方を見るりっちゃん。つくづく、本条先輩じゃないけれど、
「立村は俺の弟分だからなあ」
というのがわかる。
「アダルトビデオ観て、いきなり怒り出したのって、りっちゃんが初めてだ」
「だってそう思うだろ?」
まだ向きになっているりっちゃんがいる。俺はまあまあと黙らせて、もう一杯ジンジャエールを注いだ。
「するならふつうのことすればいいんだ」
「ふつうのことって、何」
やっぱり思ったとおりだ。りっちゃんは黙り込みじっとグラスの中の泡を見つめつづけて、話をごまかそうとしている。大抵他の奴だと、
「おいおいごまかすなよ」
とか
「お前の方で振っておいてなあに真っ赤になってるんだよ」
とか言うんだろうが、りっちゃんにそれは通じない。一緒にビデオを観ようと誘って、頷かれた段階で、りっちゃんは何かを言いたかったはずだと、俺は思ってる。そういう方面のことについて、俺と話をしたかったはずだと、かなりの確率で信じている。ただ、他の奴と違うのは、切り出すのにかなり勇気がいるらしいということ。バカ話でごまかせそうなことを、りっちゃんに限りかなり、真面目な顔で受け取らないとまずいらしいということ。
「やっぱり、こういう感じかたって変だよな。やはり」
いつもの口癖を二回繰り返し、猫が皿をなめるような感じでグラスの中をすすっている。
最後に、グラスを下ろし、ぎゅっと胸で膝を二山抱え込んだ。
「なぐちゃん、奈良岡さん見てて、ああいうことしたいとか思ったこと、あるか?」
──あたりまえだよなあ。
言葉で返す野暮なことはしない。俺は正面から笑顔で答えることにした。幸い、りっちゃんは言葉以外のボディーランゲージをすぐに読み取ってくれる。嫌われるんでないかどうしようか、ときょときょとしていた視線が俺の顔で落ち着いた。ほんのわずか、唇が開いた。
いつか話すこともあると思うけれども、五月、俺はどうしようもなくひとりの女子を追いかけつづけていた。過去形じゃない。今でも同じく走りつづけているって感じだ。
奈良岡彰子。
俺の中で追いかけたい。そう思えた女子は初めてだった。
周りからは、
「お前、もう少し選びようあるだろ」
とか、
「そりゃあねーさんはいい奴だと思うけどなあ、でも、ルックス考えたことあるのかよ」
とか突っ込まれた。言いたいことはわかる。要するに俺の今まで付き合ってきた女子とは違うって言いたいんだろう。気まぐれじゃねえかって言いたいんだろう。
でも、俺が彰子さんに惚れたのはそんなもんじゃない。
入学式にすれ違った時からの一目ぼれだ。
なんで一年の段階で告白しなかったのか、なんで別の女子と付き合ってしまったのか。いろいろ彰子さんがらみの出来事が起こった後、仲間に突っ込まれた。
「だってさ、彰子さんにはすでに小学校時代から彼氏がいたって聞いたもんでさ」
本当のことである。たまたま、彰子さんと同じ小学校出身の先輩と話をすることがあって、
「あの奈良岡さんって子な、外見に似合わず、めちゃくちゃもててるんだぜ」
と笑い話のように教えてもらったからだった。本気だった俺はすぐに確かめるべく、直接町まで行って確認した。たいしたことじゃない。彰子さんが通ったであろう中学の通学路に立ってみて、小学校時代の友だちを誘い女子をナンパしてみただけだ。いろいろ聞いてみただけ。幸い、そのナンパ相手と俺の友だちは巧くいったみたいで罪悪感はかかえないですんだ。そのカップルから情報をいろいろ仕入れていくうちに、俺には望み薄だということが判明した。
かなり一年時は落ち込んだ。ガキだったから、奪えばいいという発想まで行かなかった。
羽飛の言うとおり、俺は一年のとき、女ったらしだった。
好きな子をあきらめて、忘れるために付き合っていたのだといわれても言い返せない。
俺の憶測が全くのでたらめであり、彰子さんがフリーだということが判明したのが五月の中頃だった。
なんのことはない。彰子さん本人が堂々とクラス中に言い切ってくれたのだ。
それなりに彼女という存在を持っていた俺としては、かなり悩んだ。今までのように、「やはり本気になれない。ごめん」という振り方じゃないのだから。本気で付き合いたい子が出来てしまった。だから別れる。それってかなり尾を引きそうだった。しかも俺はその後間をおかず彰子さんに打ち明けるつもりでいた。当たり前じゃないか。いつ取られるかわからない。あのもてもて伝説を一年間、いろいろ聞かされてきた俺としては。青大附属ではそんな事実がないような扱いをされてきていたけれども、俺にとっては好都合だった。だって、そういう噂が流れたら、「じゃあ俺も」って手を挙げる奴が出ないとも限らない。
今だから言えるが、俺の架空ライバルは、水口要坊やだった。
──なあにが、「鯖の解剖」をするっていうんだ!
──俺だって料理のひとつや二つぐらいできるってのに!
真面目に、寝られない日々が続いていた。
その後いろいろあって、なんとか彰子さんとは「お付きあい」というところまで進んだ。なにせ小学校時代のファンから熱烈に愛されている彰子さんのことだ。いつ誰が手を出すとも限らない。俺としては精一杯の誠意をぶつけたつもりだったけれども、やはりかつての「南雲秋世女ったらし伝説」が轟いていて、彰子さんはかなり傷ついたと思う。それでも、俺のことを
「あきよくん、っていい人だね」
と笑顔で誉めてくれると、全て許されたような気になる。なんというか、甘えるということをしないのだ。女子って付き合いはじめると、あれしてほしい、これしてほしいというのが普通だと思っていたんだけど、彰子さんは違う。いつも俺が迎えに行くたびに、
「あきよくん、ありがと。いつもごめんね」
と微笑んでくれる。毎回だ。この人はいつも「ありがとう」「うれしい」その言葉をどのくらい繰り返しているんだろう。俺だけじゃない、他の奴にもそう言っているとわかっているけれども、それだけで俺は完全にくらくらしてしまう。
りっちゃんが言う通り、いつかは、「そういうこと」をしてみたいという気持ちはある。そりゃあある。まだキスすらしていない。今までの付き合い相手と違って彰子さんとは、俺のばあちゃん、父さん母さんすべてに紹介済みだし、すでに家族でのお食事会なんかもやっちゃっている。ひとりっ子……厳密には違うのだが……同士で、たまにはこういうのもいいだろうということで、中華料理屋でパクパク食いまくった。食べ物は食べるが、肝心要の彼女は食べない。不条理だが、しょうがない。俺が決めたんだから。
りっちゃんはまた同じ言葉を繰り返した。
「やっぱり、付き合っていると、そう思うよな」
何かを言いたくてならないのに、口に出せないで迷っている。要は俺にきっかけを作ってほしいみたいだ。なんか俺はりっちゃんの考えていることが手に取るようによくわかる。
「清坂さんとそうしたい、って思わないのか? りっちゃんは」
あごをちょこんと膝に乗せ、グラスを弾いた。鈍い音が小さく聞こえた。
「この前、うちに来てもらったんだ」
いきなり話が飛んだ。りっちゃんのくせ、その二だ。俺は相槌代わりに頷いて呼吸を合わせてみた。
「いつ?」
「終業式が終わってから、その、いろいろあって、約束してたから」
十二月二十四日が青大附属の終業式だった。まごうことなきクリスマスイブだ。俺もこの日は彰子さんを誘って俺なりのデートコースを用意したかったのだが、残念ながら向こう側の奴に先手を取られてしまった。いろいろあるのだ。とりあえずお正月の初詣については予定をいれておいたのだが。くやしいぞ。
一応りっちゃんが、六月から同じD組の清坂美里さんと付き合っているのは知っていた。なんとなくだけどりっちゃんを後押ししたのが、二年D組の男子連中だってこともある。俺としては当時、当然だと思ってしたことだったけれども、最近はどうも首をひねる時がある。ほんとによかったんだろうか、りっちゃん、と呼びかけたくなることがある。人の色恋沙汰に手を突っ込むのはどうかと思うけれど。
男としての建前上、りっちゃんがずっと好きだった清坂さんにつきあいをかけた、というのが定説になっている。けど、二学期に入ってからちょっと気になることがあって俺はりっちゃんに確かめた。はっきり答えなかったけれども、やっぱり清坂さんに押し切られたというのが本当のところだったらしい。結構女子って強いし怖い。
それはそれでいいと思う。それでふたりともうまく行っているんだったら。
りっちゃんなりに一生懸命清坂さんに話をしたり、一緒に帰ったりしているみたいだし。
ただ、なんとなく気に入らなかったのは、挟まる羽飛の立場だった。俺が考えすぎなのかもしれないけれども、ふたりの間を取り持とうとする振りして実は清坂さんとべったりしようとたくらんでいるとこが、なんとなく気持ち悪かった。
俺がりっちゃんの立場だったら、まず一言二言文句言うだろうな。
二学期に入ってから、たまたまりっちゃんと、羽飛、清坂さんとの間が険悪になった時期があり、俺も規律委員の立場としてちょこちょこ様子を見ていた。評議委員がクラスの統括を担当するとしたら、規律委員はファッション流行チェック……じゃなくて、細かい人間関係とかいやがらせとか、そういうので問題がないかどうかを確認する。表向きはスカートの裾だとかネクタイがゆるんでないかとか、その程度のチェックにすぎないけれども、結構裏ではいろいろやることが多いのだ。
実際、りっちゃんが夏休みの宿泊研修中にやらかした事件が、おふたりさんとの間でなにやら尾を引きずっているのは確かだった。俺も詳しいことはあえて聞かなかった。後で本条先輩から全部教えてもらった程度の情報しかない。でも、もし彰子さんが清坂さんの立場だったら、きっとぽこんと頭を叩いて「もう、いざとなったら相談してね」とにっこり笑って終りだろう。そういうお方だ。我が花散里の君。
残念ながら清坂さんは花散里ではなくて、巴御前だったらしい。
羽飛と連合して、教室の片隅でりっちゃんを追い詰め、罵りつづける姿を見たら、たぶん俺以外の男みな恐怖すると思う。おそるおそる、「あの三人には一切、口を出さない方がお互いの身の為だ」とおふれを出したのも当然だ。規律委員としてではなく、人間関係を保つ上での、保身だ。
りっちゃんがその後何日か学校を休み、羽飛と清坂さんがなにやら相談し、次の週でまたもとのさやに収まったのはまずめでたいことだと思う。少なくともりっちゃんにとっては、すっぱりと縁を切られるよりはよかったんだろう。俺もよけいなこととは思ったけれども、羽飛にちらっとかまをかけてみたりもした。
──りっちゃんでなくておとなりさんってことだよな。
瞬間沸騰しそうになっていたところをみると、図星だろう。
この辺は、俺の個人的むかつきなので、あまりりっちゃんには話したくない。
いろんなことを考えながら、俺はりっちゃんに話を促した。
「クリスマスイブじゃん。どこかデートに連れてったんか」
「うん、うちに連れてった」
「うちって、りっちゃんの?」
「うん、家に誰もいなかったから」
そこまでりっちゃんははにかみもせず、素直に答えていた。「誰もいなかったから」とあっさり流してしまえるところがなにか、ひっかかる。それでそれでと、さらに糸をひっぱってみた。
「で、何した?」
ジンジャエールを舌先でちょこちょこなめながら、りっちゃんは片方の手でひとつひとつ数え始めた。
「前の日から来てくれるってわかってたから、ケーキとか用意したし。でもケーキだけだったら体によくないから、ちゃんと食事も用意したし。サラダとスープとパンプティングと、あとロースとビーフと、ジュースっぽいシャンペンと」
──俺も行きたかったなあ。
よだれが出そうだ。今のは全部手作りのはずだ。りっちゃんは料理がうまい。美味しいものを作ることができる。それは男女合同の家庭科の授業で前から知っている。
でも、なにかりっちゃんの口調には、クリスマスらしくない冷めた感じが残っている。
「ただ食ってただけか?」
「食べてから、テレビみたり、プレゼント交換したり」
「おお、クリスマスパーティーの定番だ」
あえて。何をもらったか、何をプレゼントしたかは突っ込まずにおいた。
「それから?」
「それだけだよ!」
突然、りっちゃんはグラスを両手で握り締め、唇をかみ締めた。何か気持ちが高ぶりそうになると、いつもこんな顔でこらえるのがりっちゃんのくせだ。普通に見せようとするんだろうけれども、うまくいってない。隠しているつもりなんだろうとは思う。必死にポーカーフェイスを通そうとしているんだろうとは思う。ただ、周りの奴には丸見えなんだ。気付かないふりをしてくれていることを、りっちゃんは知らないのかもしれない。
「ごめん、いやな。俺がもし彰子さんとふたりで、りっちゃんと同じシュチュエーションだったとしたら、どうしたかなあって思っただけなんだ。俺、ご存知の通りスケベだから、押さえてられたかなあとか、思ったりしてさ」
笑い話でごまかしたかった。そしてついでにため息もついた。全く、小学時代からのマドンナを恋人に持つと、独り占めできないのが悔しいのだ。
「じゃあ、何すればよかったんだよ。なぐちゃん。俺は何もしてないのにさ、なんであんなこと言われなくちゃいけないんだよ。ちゃんと、向こうが喜んでくれるようにって、ずっと今までひどいことしてたからせめてなんかしようって、思ってただけなのにさ」
「誰に言われたんか」
目が大きく潤んでいる。泣きたいのをかなり無理にこらえているみたいだ。顔を見ずに、俺は例の裏ビデオを拾って本棚にしまおうと立ち上がった。
「うちの、親にさ」
短く言葉を区切り、茶色くともった灯りの中、りっちゃんは膝を抱えてうずくまった。
今は十二月二十五日の夜。あと五分でクリスマスは終わる。
たまたま昼、くさった気分で小学校時代の連中とゲーセンをうろついていたら、ひとりぼっちでうろついているりっちゃんを見かけた。焦げ茶のピーコートに共布のハンチング帽を被っていた。ゲーセンで遊ぶ格好ではなかった。目がうつろですぐに出て行こうとしていたのを、俺がひとりで追いかけたというだけのことだ。
うちに泊りに来る? と誘ったら頷いた。うちにはばあちゃんしかいないし、いつも友だちを連れ帰っては泊めてたりするので、なんの気遣いもいらない。りっちゃんもその後、自分の家に留守番電話へメッセージを入れていたようだから、たぶん家出したわけではなさそうだった。
5
きりのいいことで、隣りの門前でぴかぴか光っていた豆電球のぐるぐる巻きが一瞬で消えた。裸の幹にぐるっとまきつけて、クリスマス期間中ツリーに見立てて飾るってことをいつもしているお隣さんだ。ちゃんと消す時刻も毎年こだわっている。クリスマスイブ、クリスマスが終わったらすぐに消す。おかげでこっちも、日付が変わったことに気付いたってわけだ。
りっちゃんは窓に目を向けて、まばたきを数回した。猫みたいだった。もう一度グラスの中を眺めてから、一気に飲み干し、むせていた。
「気管に入った?」
「だ、だいじょうぶ」
ちっとも大丈夫じゃない顔でずっと咳き込みつづけているので、俺としてもほっとくわけにはいかない。背中をさすってやった。よくうちのばあちゃんが喘息の軽い発作を起こした時には、こうやって一晩中撫でてあげたり背中を叩いたりするのが常だった。
「けど、大変だったよなあ。りっちゃん、疲れたろ」
「なんかな」
俺が黙って背骨を指でなぞってやると背をよじられて逃げられた。
「なぐちゃん変なさわり方するよな」
向かい合っていたのが今度は隣同士。はっきりしないのも落ち着かないので、俺はりっちゃんの座っている布団にそのまま座らせてもらった。誰にも聞かれてないってわかっていても小声でしゃべりたいだろう。りっちゃんは。
「俺も今考えれば非常識だったと思う。別の誰か、もうひとりかふたり、呼べばよかったと思うさ。女子をひとりだけ呼ぶっていうのがやはりいろいろ、まずいってのは、後で気付いたさ。けど、なんであんな言い方するんだよ。関係ないだろ」
独り言と文句のあいのこみたいなしゃべり方で、りっちゃんが説明したことによるとだ。
ふたりっきりで清坂さんと楽しいクリスマスイブのひと時を過ごしていたのを、たまたま帰って来た父上に見られてしまったという。本人は「何もしてない」と強く言うのだから、たぶん「何も」してなかったんだろう。その辺は信じよう。 お父上もさすがに清坂さんの前では何も言わずにもてなしてくれたらしい。息子の顔を立ててやったってことだろう。男としての義務でちゃんと清坂さんを近くのバス停まで送り届け、戻ってきたところから修羅場が始まったとか。
とてもだが、俺もその辺は人のこと言えない。
「親、うるさいもんなあ」
「別にいいさ。それはそれで。けど、あんなこと言うことないだろ」
どうやらりっちゃんにとってのアキレス腱を露骨に切られてしまったらしい。
「あんなことって」
言っても言わなくてもどっちでもいいよ、という風につぶやいてみた。
こうするとりっちゃんは、安心して続きを話してくれるのだ。
「なぐちゃんずっと前、お父さんから、あれを一ダース渡されたって、言ってたよな」
「持ってるよ。まだほとんど手付かずで」
すみません。枕もとに隠してます。
「使う時にはそりゃ買うよ。俺だってそのくらいのことは分かる。けど」
いや、いつ使うかわかりませんよ。りっちゃん。男には本能ってもんがありますから。緊急事態ってものもありますから。経験者じゃないから説得力ないけれど。
返す言葉を飲み込んで、頷きつづける俺。りっちゃんは軽く目やにを取るように、手の甲で目尻をこすった。
「いきなり父さん、仕事部屋に俺をひっぱってってさ、『ここにあるからな』って、あれを見せるんだよ。そんなのがあることなんて知らなかったし、知らなくたっていいことじゃないか。なのに、あれ、ふたが開いてて、だいぶ減ってて、つまり、そういうものが二パック置いてたのをさ、いきなり見せてさ。『いざという時は覚えておけよ』ってさ。なんだよ。まるで俺が女子を連れ込んで、いわゆる、そういうこと、しようとしてたみたいに決め付ける言い方することないよな。そして最後にさ」
がまんできなかったのだろ。思いっきりうつむいて軽く体を震わせて、
「なんで『お前もそういうところは、大人になったな』って笑うんだよ。薄笑いっていうんか、とにかくにやにやしたまま俺を見るんだよ。何が言いたいんだよ。なんで俺のことを勝手にそんな目で見るんだよ。なんもしてないし、ただ招待しただけじゃないか。なんでそんなこと」
以下、繰り返しだった。俺が何度かジンジャエールを注ぎ、別の話を引っ張り出すのにかなり時間がかかった。危うく泣くんじゃないかと思った。
──うちと同じじゃん。
悪いけど俺の本音。
話の内容を把握して思ったことだった。
うちの親はたぶんりっちゃんの両親……お父さんだけらしいけど……よりも年寄りだろう。けど、そういう男女交際とか、エッチなこととか、それこそ避妊についてとか、気軽に話をすることが多かった。俺が小学校の頃から遊びまわってたっていうのもあったろうけど。だから小学校卒業の時にコンドーム一ダース渡されても、今のりっちゃんみたくパニックになったりはしなかった。今でも彰子さんのこととかは気軽に報告している。どうせ父さん母さんだって、彰子さんのご両親と友だちになれたことで喜んでいるみたいだし。見張られてる分はめは外せないけれども、それはそれなりにってことだ。俺だってその辺はしっかり計算している。
たぶん俺がりっちゃんの立場だったら、まずはおちゃらけるしかないと思う。
下心がないならなおのこと。
すいません、こういうところだけ大人になりました、とへらへらしてるだろう。だってそうだもん。それしか言いようないもん。
「それで、ゲームセンターにいたんだ」
一応学校の校則で出入り禁止になっているゲームセンターに、なぜりっちゃんが油売っていたんだろう。気になっていたけれど聞いてなかった。原因が判明した。
りっちゃんは唇を、歯の跡つきそうなほどかみ締めて、頷いた。
「今日、っていうか、昨日の朝か? 目が覚めたら父さんが枕もとに立ってて、『どうだ、可愛い彼女の夢見てたのか』とか言うんだ。そんなわけないよな。なんでそんなあとをひっぱることばかり言うんだよ。もう、俺も寝ぼけてたのかもしれないけど、なんかかっとなっちゃってさ」
「もういいよ」
つまるところ、りっちゃんが本当の修羅場を繰り広げたのは二十五日の朝。本来ならばサンタクロースがプレゼントを置いてくれる時間帯に、目が覚めたらお父上からの暖かいお言葉を賜ったとのことだ。その言葉があまりにもりっちゃんの気持ちを逆なでするものだったので、しっぽを踏まれた猫のごとくわめきちらしたと。
目の前で膝を抱えているりっちゃんを見ていると想像つかないけれども、言う時はかなりきついことでも平気でぶちかます性格だと思う。
たぶんお父上はあっさりと遠ざけるか薄笑いで対処し、りっちゃんをさらに激昂させたのだろう。
勢い余って家を飛び出し、ふらついているところを、俺に拾われたと。
なんか、ゲームの爆音に包まれているなかひとりふら付いているりっちゃんを見ていてほっとけなくなったというのが、正直なところだった。びくびくしたまま、食われるんじゃないかと恐れをなしているような、そんな感じ。一年生の頃、新歓合宿の部屋で話し掛けていた時と同じ目をしていたっけ。
俺は灯りを消そうと思って立ち上がった。これ以上の話は、窓から差し込む月明かりすら邪魔だろう。雪が半分窓に張り付き、氷の膜が窓から浮き上がっている。しっかりと閉ざした。
「けどいいなあ。俺うらやましいよ。だって俺、彰子さんとクリスマスデートできなかったんだぜ。理由知ってるだろ? ほら、小学校時代のファンクラブ会長が指揮してパーティーの真っ最中だって。りっちゃん、偉いよ。ちゃんと自分で企画して、清坂さんをおもてなししたんだろ?」
「一年間、いろいろあったから」
短く答えた。ほんと、りっちゃん、いろいろあったな。
「やっぱり付き合っている以上、クリスマスとかには何かしなくちゃいけないのかなって思ったから聞いてみたんだ。そうしたら『品山のうちに行きたい』って言われたから」
清坂さん、あなたは勇気ある人だ。もし俺がりっちゃんの立場だったら、清坂さん、どうなってたか保証できないぞ。 俺だったらそう思う。彰子さんと、まあその、ちゅっとひとつくらいはしてみたい。
「もともとあれだろ、りっちゃん、おととい家に誰もいないってこと、話してたんだろ」
「もちろんだよ。それでもいいか、って聞いたら、いいって言われたから」
大丈夫。りっちゃん、あんたに罪はない。
俺は軽く頭を撫でてやった。闇の中だけど、ちゃんと髪の毛の生えている頭の場所は体温だけで分かる。軽く振られた。触られたくないらしい。
「けど、本当にそれだけだったんだ。なぐちゃん、あのさ」
呼吸する拍子に、しゅうしゅうと息の洩れる音が聞こえる。空気が乾燥しているらしい。
「なぐちゃんは、一日何回くらい、写真集とか見たりする?」
──やっぱり、聞きたかったんだな。
回りくどい言い方だけど、りっちゃんはそういうところがうまく言えない奴だ。
「三回、くらいかな。まあ体力が持つ時はもっとかな」
本条先輩の五回連続には負けるけど。ちょっとオーバーに言ってやる。
「そういう時って、やっぱり、あの、人のこととか、考えるんか」
よくわかるよりっちゃん。そりゃあ、写真集の時は別だけど、いつもはいわゆる彰子さんのことを考えたりして、ってこともある。内緒だそれは。たぶんりっちゃん以外の野郎連中と話す時とは別の言葉を使って答えた。
「たまに。な」
「そうか。なぐちゃんもそうなんだ」
また黙り込んだ。口癖みたく、同じこと言うだろう。想像して俺はにやけていた。
「やっぱり俺の感じ方って、変なのかな」
黙って俺はりっちゃんの肩を叩いた。
「俺もたぶん、なぐちゃんと変わらないことしてると思うけど、でも、ぜんぜんそんな気持ちにならなかったんだ。やっぱり、俺は変なのかもしれない」
りっちゃんがいわゆるふつうの猥談についてくるのは、めずらしいことだけど今日が初めてではなかった。今年の夏あたりから何度かその手の質問をされている。露骨に話すわけではないけれど、聞きたいことはたくさんあったんだろう。俺の猥談レベルからすると小学校五年時に卒業したような質問をかましてくれた。
夜中に変な夢を見るのは異常なのかとか、りっちゃんの名誉のため具体例は出さないけれど授業中に妄想が浮かんだ場合どうやって乗り切るのかとか。女子の肌に触れたとたん反応してしまうのはなぜなんだろうとか。大抵は俺とふたりっきりの時だった。
その手の話については、プロフェッショナルの本条先輩に聞けばいいのに、と振ったら、
「何言われるかわかんないよ。『お前本当にガキだな』の一言だって」
とのこと。頷ける。
俺があっさりと通り過ぎてきたところで、りっちゃんは今立ち止まり悩んでいるところらしい。砂利道をさくさく歩いていくだけのことなのに、ちょっととんがった石を踏みつけただけで立ち止まり、拾って虫眼鏡で観察。そんな感じだ。 まあ、本条先輩に相談したら全く別のことをアドバイスされるだろうけど。
──どうしてこういうチャンスを逃したんだ、ばかやろう!とか、言われそうだよな。
「この前うちの父さんが買ってきたインストロメンタル、かけようか」
枕もとの灯りをもういちどスイッチ入れて、俺はラジカセにテープをはめ込んだ。すでにダビングずみだった。レコードの針を無駄にはできないし。
クラシックのアレンジものだろうか。チェンバロの演奏でところどころフルートの音色が差し込まれている。題名がどんなもんだか俺は知らない。唄も入っていない。音もかなりでかくしないとメロディーが聞き取れない。けど、お互いの吐息が聞こえる部屋の中では中くらいのボリュームでも大きすぎるくらいだった。雑音がちゃらちゃら入ってくる。ぎりぎりのラインまで音を下げてみた。
「たぶん俺が彰子さんと一緒に過ごすってことになったら、こういう感じでBGM流すと思うなあ。レコードでムードを高めるといいかもしれないよ。曲とかかけたの」
「そのつもりだった。けど、まずいかなって思って」
りっちゃんはそれ以上答えなかった。
膝を抱えてじっと空を見据えていた。クラシックではバロックが好きだと話していたりっちゃんのことだ。今流れている曲は、きっと好みの世界だったんだと思う。ちょっと響きの薄いきらきらした音色のチェンバロ。今の時代はマイナー扱いされている楽器。今時じゃない、メロディ。
「けど、清坂さんは喜んで帰ったんだろ」
「だったらいいな」
「それでいいじゃん」
──たださ、相手が今時だったら辛いよな。
なんとなく、この曲は清坂さんあまり好きでなさそうな気がしていた。
本当だったら俺なりの憶測を話したかった。秋に羽飛とやりあったきっかけの会話を。ずっと二学期から考えていた俺なりの推理を。できればりっちゃんが今まで気付いてなかった感情への答えを。
けど、そんなのを他人から訳知り顔で唱えられたってむかつくだけだろう。俺だったら絶対にいやだ。だから、俺は黙ってりっちゃんの話を聞くことに専念した。できれば、こうすればいいのにという本音を隠したままで。いつか助言してほしい、みたいなことを言われたらその時には全部吐き出すけれども、今はまだだめだ。
──まだ、付き合うつもりはあるみたいだしな。
クリスマスの献立やプレゼントやら、りっちゃんは一切照れもせずはにかみもせず俺に話してくれていた。仮にも自分の彼女についてだったら、多少なりのどきどき感覚は持っていたはずだ。でも俺の感受性が鈍いのか、どうも評議委員会の企画準備をしているのとおんなじ風にしか聞こえなかった。次期評議委員長としての義務を必死に果たしているりっちゃん。清坂さんに対しても、羽飛に対しても、もしかしたら俺に対しても。好かれるための「義務」を果たすため必死に身をすり減らしている、そんな感じがした。嫌われないように、ああすればいいこうすればいいと、マニュアルを集めてその上で行動しているような。
──俺にはそんなことしなくたっていいよ。
口に出してしまえればいいのだけど、たぶんりっちゃんは絶対に違うと言い張るだろう。
ライナーノートの訳を無理にこしらえなくたっていい。今このひと時だけで俺はりっちゃんを友だちだと思っている。いつか気付けば十分だ。




