52 中学二年夏・立村上総・中秋のうさぎ
中秋のうさぎ 2
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幕が開いては締まり締まっては開く。係の人が全部、舞台正面照明フロアでやってくれているらしい。袖から覗くと三百人の席はがら空きで、入れ替わり立ち代り、同じ柄の浴衣女性が入ってくる程度だった。ビデオが真っ正面で廻っているのは、正面奥で光っている赤いランプで確認取れた。上総のすることは、幕が閉まるや否や演目に合った背景の板を引っ張り出したりすることと、姉妹弟子の方に曲のテープを探して渡したりするくらいだった。腕力があれば問題なし。となりでテープを出し入れしている姉妹弟子の人に母は話しかけ、噂話に花を咲かせていた。踊り手が見える場所に立ち、先生はスリッパのまま「ここはこうで、ほら手は右で、足は左、首はこっちよ」とパントマイムで教えている。度忘れした人も多いだろう。いわゆる日舞版プロンプタというところだろうか。そういうのを観察のも面白かった。
「まあね、今回は十月の会に向けての下ざらいみたいなところがあるわよねえ」
先生には聞こえないように、小さな声でささやく母。上総にははっきり聞こえる。知らん振り。
「そうね、うちの先生も大きな会はひさしぶりだしね、初舞台の子が五人くらいいるし、ふたり名披露目もあるし。ものすごく忙しいってぼやいてたわ」
「あと二ヶ月でしょう? 言ったらなんだけど、間に合いそうなの? 他の人たち」
肩をすくめる。きびしいよ、ってことだろう。
「次が『幻お七』その次が、『玉兎』ね。テープ、どこいっちゃったのかしら」
清元「玉兎」、これはわかりやすい演目だ。側に小ぶりの杵と臼が用意されている。発泡スチロールでこしらえた上に茶色い紙を貼り付けて、いかにも木製です、という顔をしている。月から飛び出た兎さんがかちかち山のエピソードを交え笑いを取りつつ踊るものだ。背景は薄、山のもの。本式の舞台では使わないそうだが、まあ下ざらいだし、
「スポットライトで月を照らせばいいわよね」
と母も納得ずみだ。
「ないわよ、上総、あんたも探してくれる?」
「俺はテープなんて知らないけど」
文句は言っても探してみる。机の下にもぐりむが見当たらない。
「あら、藤野さんのお母さんから預からなかったの?」
「そうなのよ、どうしちゃったのかしら」
「詩子ちゃんが持っているんじゃなかったの?」
「いつもはお母さんが持ってきてくれてるんだけどねえ」
日舞の場合、大抵レコードの中身をテープに吹き込んで、それで稽古する。少しずつCDに切り替わったとはいえ、古い音はレコードものがほとんどだ。現在先生の使っているものもそうらしい。
「上総くん、いいわよ。たぶんまだ預かってなかったのよ」
ため息交じりに姉妹弟子の人は、プログラムにしるしをつけた。
「あと二番間に入るし。早いうちに気づいてよかったわ」
プログラムには、「一、玉兎 藤野詩子」と綴られていた。
間の二番は結構長かった。「あやめ浴衣」と「幻お七」。この季節感の差っていったいなんなんだ。夏かと思ったらいきなり冬。雪がふる演出ときた.しかも本当に上から紙の雪を降らせている。
「上総、あんた掃除お願いね。細かいごみで転んでしまったら大変だから」
仕方なくほうきを持参して待つ。
「変ね、詩子ちゃんも持ってないっていうのよ。ここにさっき置いたって」
「ええ? だったら私見ているはずよ。知らないわよ」
机を指差し、強く首を振る姉妹弟子さん。
「そうよね、変よね」
上総を見る。もう一度探せとの命令だ。しかたないので形だけ下にもぐって、ついでにほうきでわたぼこりをはく。
「ある? 落ちてない?」
「ないよ。全然」
真剣にふたりの女性、顔色が青ざめてきているようすだった。じっと見ているとさらに母が、もっと探せとばかりに手をぱたぱた振る。なにかしてないと文句を言われるだろう。しかたなくさらにもぐりこんだ。
──俺も、見てないけどなあ。変だ。
大抵カセットテープには演目が書かれていて、音担当の人は、プログラム通りにテープを並べている。落とすかなにかしなければ、なくするなんてことはまずないはずだ。上総が席についてから一時間近くたつが、「玉兎」と書かれたテープを見た記憶はない。
「どうしようか、困ったわねえ」
「『幻お七』は長いからまだ時間持たせられるけれども、上総、もう一回探して」
水面に浮かび上がることを許されない。上総はずっと四つんばいになり手のひらで床を撫でつづけた。「あやめ浴衣」が終わったらしい。かんざしとうちわを持って、「おつかれさまでした」「ありがとうございました」と挨拶する声がする。さっきの女子大生風の人だった。這いつくばっている上総を見下ろして、くすっと笑う声が聞こえた。
──俺だって好きでやってるわけじゃないってのに。
突如、下から臼と杵を持ち出す人の姿が見えた。顔をのぞかせてみた。
「詩子ちゃん、やっぱりないわ、本当にここに置いたの?」
背中で臼と杵が隠れている。こくっとうなづいてぶっきらぼうに立っているのは、さっきのチアガール少女だった。唇をきゅっとかみ締め、そっぽを向いていた。
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──何か、嫌なことあったのかな。
しばらくしゃがみこんで探すふりをしながら、様子をうかがった。
出入りの時からもそうだったけれど、かなり機嫌が悪かったのが印象に残っている。一度ではない、二回とも上総の目の前で母親と口論していた。気持ちはわかる。親にしつこくああだこうだ言われたらたまったものじゃないだろう。上総もその辺はわからないわけではない。経験的に。
たぶん、自分と同じくらいの年頃だろう。ちょっと濃い目に口紅を塗っている以外は汗でちょっとてかっている顔。くっきりしていて、たぶん大人っぽい部類には入るだろう。おすまししているが芯はありそう。気は強そう。上総の母と性格的にはほとんど変わらないのではないだろうか。自分から近寄りたくないタイプではある。
「だって、さっき、置きました」
ぼそっとつぶやき、手を後ろに回す。
「困ったわねえ。ないのよ。詩子ちゃん、本当にここに」
ばしんと、テーブルを叩く音。下に響く。
「置きました!」
藤野詩子という少女は口を尖らせたまま、言い張る。口紅が赤すぎるとキツネに見えるのかも、とぼんやり上総は眺めていた。
「詩子ちゃん、次の『幻お七』が終わるまで二十分くらいあるけど、それまでに見つからなかったらどうするの?」
母の声だ。何となく、険しい響きを感じる。嘘をついているのではと疑っているんではないか。なんとなく、直感だ。上総も似たことを感じていたから、親子の勘だ。
──母さん、やっぱりな。
「ないなら、踊りません」
「ふうん、それでいいの?」
落ち着いている。きっと聞いている側には冷静に感じられるのだろう。誰もおびえたように見えない。藤野詩子という子も受け答えは大人だった。
「だってないんですから、仕方ないです」
「せっかくあんなにお稽古してきたのに、もったいないでしょ」
姉妹弟子の方が間に入る。が、母の口調は険しいままだ。
「別にいいのよ、あなたが踊りたくないなら踊らなければ。でも、あとで公開するのは詩子ちゃん、あなたなのよ」
──そういうことか。
身体を小さくしてもう一度、上総はもぐりこんだ。目の前には今度、姉妹弟子の方のぞうりと、つま先だけ黒くなった足袋が見えた。
どういう理由かわからないが、あの藤野詩子という子は舞台にどうしても立ちたくないらしい。気分が悪くてどうしてもというわけではないらしいし、当日ここにきたのだから、踊る気は最初の段階であったのだろう。
しかし、テープがない。
確実に見当たらないということは、踊れない。流行歌と違い日舞の演目曲は代わりがなかなか見つからないものだ。本人の持参するテープがなければ、話にならないのだ。
テープを「なくされた」ということにすれば、踊る本人の責任にはならないし、むしろ担当者が悪いということになる。すなわち、姉妹弟子さんと上総の母親、もしかしたら側にいたということで上総にも責任がおおいかぶさってくるかもしれない。知ったことじゃないが、ただ、可能性としてはあるだろう。
母の声は落ち着いていた。
「それに、詩子ちゃん、十月の舞台はここよりもっと広いのよ。本衣装もつけて踊るのよ。初舞台なのに、いきなりそういう大きいところで踊って失敗したら、どうするの?」
責めだ。攻め立ててる。ようやく藤野詩子にも動揺の色が見え始めた。手を後ろでくねらせながら、背をぴったりと小道具を置いているテーブルにくっつけている。
「私がなくしたって言うんですか!」
強気の言い返し。
「そうは言ってないけれど、でも、それ以外考えられないわよ。今のところは」
──素直に認めたほうがいいのにな。この人には、生半可なやり方じゃかなわないよ。かわいそうに。
気持ちがわかりすぎるほど、わかる。上総は嵐が収まるのを待つことにした。そっと抜け出し、雪の背景を出すのを手伝った。先生が割り込まないと思って不思議だったのだが、どうやら別の先生がいらしたらしく、下手側でやたらと頭を下げつづけていた。母の気が立っているのも頷けた。
下手で待っていようかと思ったが、考え直して上手に戻った。
初めて藤野詩子が上総に気づいたようで、きっと見つめ、すぐに目をそらせた。
きっとほこりっぽい格好をしていたから見苦しかったのだろう。
「上総、悪いんだけど、ちょっと小道具の方見てもらえる?」
いきなり、母に命令された。小道具はちょうど、藤野詩子がもたれている机の上に並べられている。
「『お七』の羽子板、あるでしょ。それと草履」
黄色い藁草履と、男役者の押し絵がされている羽子板だ。
「あの人がきたら、そこで、渡してちょうだい」
「え? そこで?」
問い返した。藤野詩子も戸惑った様子。はっと上総を見つめ、最後に母に視線を向けた。
「いいの、上総、あんたそこにいなさい。テーブルの向こうから、渡しなさい」
「渡しなさい」のところだけを力こめていた。母には逆らえない。言われた通り藤野詩子の真後ろに、テーブルを挟む格好で立った。箱に入った羽子板と、和紙に包まれた藁草履を取り出した。ちょうど「幻お七」を踊る人が現われたので手渡した。やはり、女子大生風の人だった。
背中の金色の帯が手の届くところに位置している。背中がぴんと張っている。ポニーテールの長い髪が揺れている。が、良く見ると震えている。
──やはりそうか。
そっと、左脇の帯が四角く浮き上がっているところを見つけた。
袖と脇のあいたところに、カセットテープの大きさで線が出ていた。膨らんでいる。背中に近いところから、つまめるくらい顔を出しているのは、「玉」と書かれた文字だった。
──ここに隠してたのか。
ぴたっと脇を締め、後ろ手をもぞもぞさせながら、それでも顔をきっと見据えたままだった。母も微動だにせず視線を受け止めている。わがままは聞かないわよ、言いたげだった。彼女はわからないかもしれないが、上総にはよくお見通しだった。
──とぼけたって無理だって。あの人には勝ち目ないよ。
もし友だちだったら教えてやりたかった。
──たぶん、見抜いてるんだ。うちの母さん。絶対に、この人がテープを隠しているって。
改めて思う。あの人は怖い。
自分の位置関係を改めて見直し息が止まった。
──母さん、まさか。
客席方向が暗くなり、照明が薄暗い。「幻お七」の出、羽子板を抱えたお七が戸を開けるしぐさをしながら、ちょぼちょぼと雪の中を歩く場面だった。母の目だけが猫目のように光っている。見据えられてる藤野詩子の表情はわからない。ただ、震えているのがはっきりと映る。紙の雪が、少しだけ幕の外に漏れた。
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──あと十五分か。
動くな、と言われた以上、上総はテーブルの後ろで黙って立っているしかない。
母のことだ。上総がいることにより、目の前の藤野詩子を圧迫し、白状させようとしているのだろう。その辺の心理は大体想像がつく。なにせ十四年間もお付き合いしてきた相手だ。そのくらいのことはするだろう。
しかし、相手の彼女の方はどうだろう。
上総と彼女との間は約三十センチくらい。ちょうど細長い机を挟んだ分だ。暑いし汗の匂いもする。震えていると察するのは、髪の毛の揺れと手のひらだ。
──これは、逃げようたって、簡単に逃げられない。
もう一度母に視線を送る。光るまなざしから読み取れるのは、
「あんた嘘つくんじゃないわよ」
そのものだ。
もし自分がこの子の立場だとしたら、と上総はいつものように考えた。
──どういう理由があるにせよ、あの視線でにらみつけられたら逃れられないことは覚悟してるだろう。どうやって逃げ延びるか、もしくはごめんなさいと頭を下げるか。でもどちらもこの人はできないだろうな。
ぱっと舞台が明るく開けた。舞台が進んだ証拠だ。
──早くしないとまずいぞ、本当に。
幸いなのは、ここにいるのが上総と母、藤野詩子とテープ係の姉妹弟子の方だけだ。
台詞のある踊りなので、止めたり押したりしている。姉妹弟子の方はかまっている暇がないだろう。
この三人でかたをつけないとまずい。
四角いカセットテープが脇に挟まっている。取ろうと思ったら、上総が抜き取ることは可能だ。そして、「いま、小道具の中に落ちてるのが見つかりました」と言い訳して持っていけばいい。一番丸く収まりそうなのはそれだろう。
しかし、微妙な位置でもある。
夏休み直前、杉本梨南に「ごほうびをさしあげます」と言われていきなり胸を五秒間触らされたことがあるが、あれが生まれて初めて女子の身体を触った経験。向こうとしては握手のつもりで無邪気にしたことなのだろうが、上総にとっては三日間くらい寝られないくらいショックな経験だった。杉本の場合は特殊にしても、もし、同じくらいの女子の身体をへたして触ってしまおうもんなら、殴られるか怒鳴られるか痴漢行為ということで退学になるか、とにかく自分に火の粉がかかるのは避けられまい。
うまくひっぱり出せればいいのだが。
わきの下なんか触ってしまったら大変だ.
──でも、これしか方法ないよな。
段々照明が暗くなってきた。時間はない。お七を演じている人が、いきなり舞台に横たわった。別に暑くて倒れたのではない。雪の中で行き倒れたお七がしばらくこの格好で寝ているそれだけだ。確かこの後は「狂い」と呼ばれる振りとなる。よくわからないがクライマックスのはずだ。
「手を、前に、ひじ張って、組んで」
上総はささやいた。両腕をつき、藤野詩子の襟足に向かって声をかけた。びくっと肩が震える気配あり。聞いている。
「それから、脇を浮かせるようにして」
素直にやってくれるかどうか不安だったが、上総の指示どおり、藤野詩子はそっと肩を高く上げ、両手を組み合わせた。袖がちょうどだらんとさがり、カーテン代わりになる。
「抜くから、少しだけ、がまんしてください」
それだけつぶやき、即座に「玉」と書かれた部分を指でつまんだ。体温だけが伝わってくるが帯以外には触れずにすんだ。かなり身体が凍りついた気配あり。ひっこぬいた時、テープケースはかなり汗でしめっていた。
「そのまま手を後ろに下げて、組んだままにしてください」
早口で最後に指示した後、上総は右手でテープをズボンのポケットに入れた。一度しゃがみこみ床を撫でる振りをした後、急ぎ足母のもとに走った。
「あの、これ、今下の方見たら」
ここまで言いかけた。ポケットから素早く取り出す。
「見つかったから、これ」
「玉兎」と書かれたケースを渡そうとした。
とたん。
「上総、あんたってどうしようもないばかね! 最低だわ! 何考えてるのよ!」
いきなりほおをはたかれた。準備してなかったからしりもちをつくところだった。かろうじてこらえた。男の意地だ。
「何だよ、殴ることないだろ」
まだ舞台は続いている。狂いの最中だ。雪がまた降り始めている中、上総は響かぬ声で言い返した。
「あんたが落としたんでしょ。わかってるのよ。あんた、さっきからここの席に座ってたでしょ。たぶん、背景を引っ張り出す時に、間違ってポケットに入れるか何かして、落としたのに気づかなかったのよ。ほんっと、あんたみたいな馬鹿息子、むかつくとしかいいようないわ! ほら、そろそろ終りだから早くほうきではきに行ってらっしゃい! 詩子ちゃん、ごめんねえ、私の勘違いだったみたいだわ」
もう一度母に、頭をはたかれた。人前だけに手加減していることはわかる。しかし、殴られるほど悪いことをしたとは思えない。
「さ、じゃあ、早く臼と杵の準備して。巻き戻して、ないわね。すぐにやるから大丈夫よ」
打って変わってこの態度はなんなのだ。言い返したい。怒鳴りたい。許されるなら殴り返したい。
でも、出来なかった。
──しかたない。こういう世界なんだから。
ほうきをひったくり、幕が下がるや否や上総は舞台へ駆け上がり、ばさばさと四角い紙の雪をはきあつめた。半紙を碁盤の目に細かく切りこぼしたものだった。十月の本番ではちゃんと本物の大道具さんを頼むけれど、今回は手作りだったという。あちらこちらに四角い紙の雪がからまっていた。ほうきで上をはたきながら上手の袖を覗くと、むすっとした顔のまま藤野詩子が、足袋の裏をぬらすべく手ぬぐいの上で足踏みしていた。
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大騒ぎの事情はほとんどの人に気づかれることなく、無事に舞台は終了した。
上総の見た感じ、みなまだまだ完成してないどころか、振りもあやうい人が多い印象を受けた。もちろんど素人ゆえに勝手なものだが。ただ、やる気のある人とない人が露骨に分かれているのも確かだった。
例の藤野詩子の「玉兎」も、あれだけ騒いだ後だけあって、ほとんどやる気なしモードだった。
──ただ、気持ちはわからなくもない。
舞台端で母から離れて観ていて思った。
──日本舞踊というよりも、一種の演劇っぽい踊りだからな。たぬきになったり兎になったり、観るほうは楽しいと思うけど、踊る方としては、ちょっと抵抗あるかもな。
いわゆる「男踊り」だけれども、きりっとした男衆めいたところがない。動物、兎、いささか道化じみたところが強調された踊りに見えた。
一切上総、母の方を振り返らず、最後の一番が終わった後にすぐ母と帰ってしまったらしい。
もちろん本人の母親からはそれなりにわびが入ったらしいがそんなことはどうでもよかった。
──なんで俺がこんなに人前で怒鳴られなくちゃいけないんだよ!
別に藤野詩子に遺恨はない。ひとこと、「気持ちがわかりすぎる」。
文句を言いたいのは母ひとりだ。上総が気を遣ったことをあっさりとひっぺがえし、「馬鹿息子!」と怒鳴るのだけはやめてほしかった。いくら血の繋がった親子とはいえ、言っていいことと悪いことがある。
──もう二度とやらないさ。ああ、もう絶対やらないさ。こんなプライド傷つけられることされて、俺だって馬鹿にされるのはごめんさ。
他の出演者が着替えながら、軽くお茶で乾杯している間、上総はずっと板の取り外しにかかりきりだった。朝は平気だったのに、終りはかなりしんどくなっていた。
「腰、悪くするんじゃないよ。大人になったら、困るぞー」
からかう声が聞こえる。頭を下げて、何度か往復してしまいこんだ。帰り際に楽屋へ向かうと、浴衣を風呂敷に包み込んだお弟子さんたちが、
「本日はありがとうございました」
と頭を下げて出口に向かっていくのが見えた。もちろん、藤野詩子の姿はなかった。
「上総、ちょっといい?」
さっきの罵りまくり女の姿はかけらもない。すっかり片付いた和室にて、残りのペットボトルのお茶を勧められ、上総は正座して頭を下げた。もちろん母にではない。先生にだ。もう一人の姉妹弟子の方もいらした。
「本当に上総くん、おつかれさまでした。よくやってくれたわ」
いきなり頭を撫でられて硬直する。きっと上総が泣き虫だった頃の記憶をたどっているのだろう。
「ほんっと、今日は上総くんのおかげよね。ほっとしたわ。また十月もお願いね」
母の顔をそっと見上げた。あの事件で少々、口を利きたくない気分だった。
「あんた、なによその顔。せっかく誉めてやろうとおもったのに」
やっぱり母である。一切無視することに決めた。
「沙名子さん、でもさっきのことはあなたが悪いわよ。上総くんが一生懸命に」
姉妹弟子の方が間を取り持とうとする。
「これでも親子なんだから、大体私の考えてることはわかるでしょ。それを何よ、そんな反抗期そのものの顔でにらみつけられたら、私だってたまったもんじゃないわ」
──こっちの台詞だ。親子だからって簡単に考えてることが分かるほど甘くない。
先生からはお弁当と一緒に、ぽち袋に入った御礼を一枚いただいた。どのくらい入っているかはわからない。三千円くらいだろう。補填はできるだろう。少し、ありがたく思った。
しばらくつきあってから、母に促され上総は一礼し立ち上がった。
「上総くんみたいな頭のいい子はそうそういないわよ。沙名子さん、本当にいい息子さんを持ったわねえ」
「だからこの子は天才となんとかのすれすれなんですってば」
──なんとでも言えよ。
やたらと先生たちが上総を絶賛するのが気持ち悪い。早々に立ち去りたかった。
「あのね、上総。悪いんだけど荷物を持って家まできてもらえない?」
「車あるんだろ。自分で荷物持って帰れば」
「あんた、私から立替分のお金、返してほしくないの?」
──痛いところだ。
「だったら、車まで持っていきなさい。命令よ」
なくなく上総は藤の枝、ちょうちん、臼と杵、羽子板などを取りまとめてトランクに積まなくてはならなかった。先生のご自宅に小道具類を送り届けなくてはならないのだ。男手は最後の最後まで必要だってことである。
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もちろん残ったジュース類、紙コップは自分の足下に積み込んで助手席に座った。腰が落ちついたとたん、一気に疲れがうわっときた。目を閉じて少しだけ寝たかったが、
「ほら、シートベルト締めなさいよ」
と、また頭を叩かれる。
「うるさいな。やればいいだろ」
仕方ない。損失補てんのためだ。
「親に人前で口ごたえするのやめなさいよ。全くあんたはガキなんだから」
「人前で自分の息子をさんざん罵るのもやめろよな」
もうふたりきりで走っているから、遠慮はいらない。これでもかなりお互い、罵りあいを耐えていたのだろう。上総もかなりこらえていたものがある。一気にぶちかました。
「だいたいさっきのはなんだよ。見つかったから渡しただけであって、なんで俺が落としたことになるんだよ。小道具のところで見つかったから」
「何言ってるの。あんた、もっと早く気づかなかったのが悪いのよ。全く、あんたも少しはまともになったかと思ったけど、全然だめね」
「言ってる意味がわからない」
あの、藤野詩子のことだ。
母はかなりの確立で彼女がテープを隠していたことに気づいていたはずだ。直接奪い取ることも可能だったはずだ。それをなぜ、にらみ合うだけにとどめていたのか。結局上総が動かなければ、あのままだったかもしれない。上総からしたら、割増金として千円くらいはアップしてほしいところだが、母のことだ、期待はできないだろう。でも、請求だけはしておく。
「上総、あんた彼女と何ヶ月付き合ってるの」
いきなり別方向から攻められ、息を呑む。
もちろん無視だ。
「そんなの今の話と関係ないだろ」
「女の子のことなんだから、今から勉強しときなさい。和也くんのまねしたら大変なんだから」
──自分のもとだんなを「くん」付けで呼ぶってのも、すごいよな。
父の名前の「和也」と母の「沙名子」から音だけ取って付けられたのが自分の名だ。だから嫌いだ。上総という自分の名前、その響きがいやだった。
しばらく母との言い合いを続けたがあきらめざるを得なかった。上総が「玉兎事件」の理由を問い詰めると、母は上総の恋人についてしつこいくらい責めてくる。どちらも答えたくないということで、結局は黙りこくった。
師匠のお宅に到着して、上総は大急ぎ、トランクの中から小道具を運んだ。家の人がすぐに出てきて受け取ってくれたので玄関先で用は足りた。一礼してまた助手席に戻った。
「じゃあ当然、家に送ってくれるよな」
まさか母のアパートからまっすぐ歩いて帰れ、なんていわれないだろうか。言わないとも限らない。そういう人だ。
「当然、とは何よ。まあ、そのくらいはしてあげるけどね」
「人をこき使ったんだから、当然って言ってどこが悪いんだよ」
師匠や他のお弟子さんの前では穏やかに振舞っているが、車の中ではいつもこうだ。上総がこの二年間で母と戦うすべを身に付けてきたから同等の立場でしゃべることができるようになったけれどもだ。
少し、頭の中を整理してみたかった。目を閉じた。窓辺の繁華街、月の光る田んぼらしきところ、しだれ柳に囲まれた道、すうっと気持ちよく車は走っていった。
「十月の大きい舞台って、市民会館でやるの、母さん」
「そうよ。なかなか取れなかったんだけど、日曜の部が運良くね」
冷静に答える母の声。上総も荒れないように気をつけながらつなげていった。
「あの、藤野さんという人も、出るんだ」
「そうよ、『玉兎』でね」
「初舞台で?」
「そうよ」
意外だった。もうひとつ続けた。
「他の人、まだ初舞台やる人いるんだろ。五人くらいって聞いたけど」
「ほら、あの五歳のおちびちゃんでしょ、もうひとりが『手習子』、あとふたりが結構長く稽古してる子同士で『お染久松』やるのよ。この子は小学校四年生の仲良し同士」
母にひっぱられていやというほどおさらい会の演目を見ている上総には、だいたい見当がついた。
「あの藤野さんという人、長いの」
「中学に入ってから始めた子よ。まだ一年ちょっとじゃないかしら」
──だからか。
青潟市民会館の大きな舞台で、本衣装をつけて踊るというのは、なかなか簡単にできることではない。お金もかかるし、ある程度の踊りもできないとまずいだろう。白く顔を塗り鬘を被り、裾をずるずるに引きずって踊るのだ。体力だって相当いるだろう。少なくとも上総は御免こうむりたい。
「他に、中学生のお弟子さんっていないの」
「いるんだけどねえ、なかなか大きい舞台に出るだけの、あれがね、ないのよ」
──お金か。
「だから今回、藤野さんのお母さんに頼み込んでやっと出てもらえたんだけど、あんたも知ってるでしょう。女踊りの場合はやはり、ふつうのよりもかなりかかるのよ」
──ごもっとも。
「衣装もできるだけ簡素にして、鬘だけはやはりつけて、誰にでもわかるような演目にしようということでいろいろ考えて、あの子の技量に合ったものを選んだ、と先生はおっしゃってたんだけどねえ。大人がこう思っても、子どもはねえ」
──子どもだからわかるんだよ。そういうのは。
藤野詩子のほっそりした姿とえりあしと、きりりとした表情が目に浮かんだ。
「『玉兎』っていい踊りだと思うでしょう。上総も。上の先生たちもね、よく素踊りで組んで出したりしているのよ。ほら、うちの先生も、大きい会で……」
母は調子に乗ってべらべらとしゃべっている。この機会に、上総へ日舞のレクチャーをしようとたくらんでいるのだろう。もっというなら十月の会に手伝わせようと計算しているのかもしれない。
「わかった、もういい」
上総にはひととおり、図が見えた。
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いわゆる「初舞台」。純粋に「ゆかたざらい」や「初ざらい」の小さな会場で踊るのもそれだが、大抵の場合は「初めて本衣装を着けて舞台に立つ」経験が初めてのことをいう。上総もそのくらいは知っていた。母も「あの子は初舞台だから、きれいなもの踊りたいよねえ」とか「小さいから『子守』みたいな可愛い感じの方が、何しても可愛いものねえ」とか言っていた。初めて衣装を着けて華やかに踊るのだから、気持ちとしては見栄えのいいもの、イメージに合ったものをやりたいだろう。想像はつく。
小学生ふたりが「お染久松」を踊る。確かにかわいらしいだろう。恋人同士で心中の道行だ。だらりの帯にかんざしをたくさん挿した鬘、見るからにお人形のようだし、久松役も男役ということで、いかにも美少年風の若衆だ。華やかだろう。
「手習子」も、春ちょうちょの飛ぶ中、絵日傘を担いで長い袖と裾を引きずりながらお出かけする少女の姿を描いたものと聞く。何度か観たことがあるがこれも、ちょっとしたしぐさがめんこいと上総も思う。
──そりゃそうだよな。女子ならかわいらしいのがいいって思うよな。
瞬間、清坂美里の姿が思い浮かんだ。納得だ。
──衣装だって、華やかできれいな方がいいと、思うよな。
しかし、「玉兎」。
舞台の袖から振りだけ追った感じだと、あまりにも地味だ。
男踊りの場合は足を蟹股にしてしこを踏んだり……母にそういうと殴られるので言わないが……おおっぴらに広げたり、たまにはごろんとひっくりがえったりする振りが非常に多い。当然、裾もはだける。踊り方によっては生足が丸見えだ。舞踊だとわかりきっているから目をそらさないでいられるが、日常生活であれをやられたら、そりゃ退くだろう。
──初舞台で、あれは確かにきついよ。かわいそうだ。
──先生たちにはいろいろ考えがあるとは思うけど、俺があの子の立場だとしたら、そりゃあ、逃げたくなるよ。
さらに途中で「これはいさのよい」という掛け声めいた台詞まである。
もちろん台詞のある舞踊はたくさん存在するのはわかっている。「幻お七」だって
「おお、お前は吉さま」
とか横たわりながら叫んでいるし、「お染久松」だって、
「ヤアお染様、やっぱりあなたは山家屋へお帰りなされて下さりませ」
「わしや山家屋へ帰えるのはいやじゃわいな」
と掛け合いやっていたりする。
でもきちんと物語の台詞をしゃべっているように見えるし、棒読みであろうがなんであろうが、とりたてて違和感を感じたりはしない。衣装を着た人がふつうに話す台詞の類だ。
──足を蟹股にして、臼を担いで、ポーズつくって、掛け声か。
──絶対、これって辛いと思う。
そんなに詳しく見たわけではないにしても、大体同じくらいの年頃の少女が抵抗を感じないとは思えない。いつものくせで自分に置き換えてみて考える。いやだと思う。
たぶん先生たちは、「演目が合っている」とか「費用の問題」とかをかんがみて藤野詩子に「玉兎」をと、決めたのだろう。舞踊関係の理由なんて上総には一切見当がつかないことだ。でも、同じ初舞台の子たちが袖の長いだらりの帯を着せてもらえるのに、おそらく地味な衣装、しかも恥ずかしい格好をしなくてはならないこと。きっと、言葉には出せないものがあったに違いない。大人からするとたいしたことではないと見過された部分だろうが、藤野詩子にとっては唯一の抵抗だったのかもしれない。
──とすると、俺のしたことって、かえってまずかったのかもしれない。
──無理やり舞台に上げてしまったようなもんだもんな。
いつものことだ。上総は自分を責めてしまう、くせがある。
「上総、しかしあんたも、女心わかるようになったねえ」
──は?
目が覚めたが覚めない振りをした。窓から見えるのは少し光を跳ね返している川の流れ。品山が近づいてきた。
「そうとう、清坂さんってできる子みたいよねえ」
──関係ないだろ、そういうのは!
「その件についてはノーコメント」
「どうせ菱本先生にあとからたっぷり電話して聞くからいいわ」
寒気が走るが単なる疲れだと思いたい。
「ああいう時はね、女の子は面子を保ちたいものなのよ。同い年の男がいる前で恥はかきたくないものよ。全く詩子ちゃんもねえ、お年頃なんだから」
「よく言っている意味がわかんないんだけど」
いったんスピードを落とした。ゆるゆると川が瞬いた。家の灯りだ。
「ほら、さっきうちの先生からもらった袋、開けてみて」
父からもらった小さいバックに突っ込んでおいた。そうだ、中身を見ていなかったのだ。指先で取り出して、そっと口をめくった。一枚、か。引っ張り出してみる。
──五千円?
「どのくらい入ってた?」
「こんなに、もらっていいの?」
大抵二千円くらいもらえれば万々歳だと思っていた。想像以上だ。
「そういうことよ」
母はもう一度アクセルを踏み直し、ぶうんとスピードを上げた。警察に捕まったら絶対スピード違反だってことがばれるだろう。貴重な新札の五千円札を、きちんとしまいこんだ。母に取り上げられぬように。
12
誰も轢かないですんだ。毎回母の車に乗る時はシートベルトを欠かさないようにしている。家の前に車をつけ、ようかく下ろしてもらえた。忘れてはならない、損失補てんだ。
「母さん、あのさ、昼間の分のお金だけど」
「ああ、さっきあんた五千円もらったでしょ。あれでちゃらね」
「それはちょっと違うって!」
母はあっさりと上総をかわし、さっさと玄関に向かった。
「悪いけど、今日泊っていくから。車、車庫に入れていい?」
──そんなの聞いてないよ、父さん、断れよ。
冷や汗ものの理由はひとえに、
──今日、うちの掃除なんてしてないって。
玄関に灯がついた。父は戻ってきていたらしい。日曜でも出かけることが多い父なのに、緊急事態発生ということで息子の帰りを待っていたらしい。
「ああ、沙名子さん、連れてきてくれたか」
「今日は特別の大サービスよ。いつもだったらその場でほったらかしてくるところだけどね」
「なおらいもなかったのか」
「仕方ないでしょ、やることやってくれた以上は、タクシー代くらい持たないと」
──本当に親かよ。
後ろで立ち尽くす上総の、いつも思うことだった。
「上総、ほら、入りなさい。お前も疲れただろ」
「シャワー浴びて寝る」
すでに靴をそろえて上がっている母の脇に、靴を脱ぎ捨て、部屋に戻った。一刻も早く、眠りたい。父がすばやく側に近づいてきた。耳もとにささやいた。
「さっき、清坂さんから電話が入った。かけなくていいのか」
「あしたでいい!」
この神経の状態、この煮詰まった状態、誰が誰が分かるものか。
──だから要は父さんが手が空いてたらすべて丸く収まったんだよ。
──俺なんかが出て行かなくたって!
もらった弁当を部屋で一気に食べ終えた。散らし寿司風の小ぶりな入れ物だった。量は少ないが、おいしい。いくら、さけ、玉子。桜の花をかたちどったご飯に振り掛けられている。さっきまでいらいらしていたのは、きっと腹ごしらえができてなかったからだろう。丁寧なつくりの割り箸だけを保存しておくことにして、台所に立った。
「と、いうわけよ。上総もねえ」
また悪口言いふらしてるのか。たまったもんじゃない。こういう時は現場で見据えるのが大切だ。上総はためらうことなく居間に入った。風呂場に向かうつもりだったが、さんざん文句言われているようだったら抗議しなくてはならない。
「そうか、大変だな」
「だから十月の舞台も上総を借りたいってうちの先生が言うのよね。でも、学校があるでしょう。日曜なんだけどね」
「あいつも学校では、それなりの仕事しているようだしな」
この両親でよかった点。とにかく成績のことについては全く文句を言わないこと。赤点を取っても「しかたない」で済ませてくれるし、理数系で下から数える方が早い順位であっても、「いいじゃないの、文系できるんだから」で流してくれる。委員会活動についてはそりゃあもう、鷹揚だ。
「どう? 上総、あんた十月空いてる?」
「たぶん学校祭の準備があるから絶対無理」
「そこをなんとか、してもらえないかしら」
いきなり丁寧に迫るのはやめてほしい。ぷいっと横を向いた。
「冗談じゃない。もうやってもいないことでさんざん責められるのは嫌だよ」
「だからあれは」
言い訳しようとする母をぴしゃりと封じた。
「もちろん、母さんが何考えてたかは想像つくさ。けど、あの場でさんざん殴られたり罵られたり、人前でやられたらたまったもんじゃないよな」
「あれはあんたでないと出来ないことだって、私も思っていたから」
「じゃあもし、俺が全然気づかないで無視していたらどうしてたんだよ。たまたま見つけたから」
「上総、あんたがやってくれるって思ったから、私は小道具のテーブルに行くようにって言ったのよ。あんたしかいなかったのよ」
──この言い方で、母さん、あんたは父さんも口説いていたんだな。
冷静沈着、青大附中の次期評議委員長の顔に切り替え、上総は冷たく見返した。見抜いたか、母も泣き落とし作戦に出てきた。
「あの子が帯にテープを隠しているってことは、十分私も気づいてたわよ。でもね、あそこでもし私が、無理やり奪い取ったりしたらどうなると思うのよ。しこりが残るわよ。自分から白状してくれれば丸く収まったけれども、まあ難しいところだわね。あの子だって」
言葉を切った。
「あんたが同じくらいの年頃だってこと、気づいていただろうしね」
──やはり、気づいてたのかよ。
確かに、母は藤野詩子がテープを隠していたことに気づいていた。
「上総、あんたも彼女がいるならわかるでしょう。なかなか言い出せなくてって時には、男の方からリードしてあげることが大切だって」
隣りで父が目で合図している。黙って聞いとけってことだ。
「あの時に、詩子ちゃんがプライドを傷つけないで、落ち着いて踊ってくれて、テープも見つかる、そういうシナリオを作ってくれるのは上総しかいなかったのよ。だから、でしょう。抜いてくれたでしょう」
言葉が返せない。唇を思いっきり噛んだ。母の目が潤みがちだ。まずいこれは、落とされる。
「だから和也くん、上総は私にとって、かなり使える駒なのよ。うちの先生も詩子ちゃんがずっと『玉兎』のことですねてたのは気づいてたらしくて、困っていたようだけど。上総の働いてくれたおかげで丸く収まって、本当に助かったって言ってたわ。この世界は白黒はっきり形を出すことが、必ずしもいいことではないのよ。私の場合は割り切れないことが嫌いだからなかなか巧く行かないけど、上総が脇にいると本当に助かるのよ。あんたはそういう細かいところが女の子みたいに気が付く子だから、本当に」
──母さんそれって誉め言葉じゃないよ。女性蔑視もいいとこだぞ。
手にもっていた、先の丸い割り箸をもてあそび、気持ちを落ち着けた。
──日にちだけ、聞いてやるか。
「十月の会って、いつだよ」
「十月の五日、ちょうどお月見なんだけど」
しおらしく答える母。それにひっかかる自分に腹が立つ。でも吸引力は強烈だ。
「悪いけど、次の日たぶん、中間試験があると思う」
「試験だけ?」
完全にしくじった。判断ミスだ。上総が気づいた時は遅かった。
「それだったらいいのよ。学校祭とかだったら仕方ないと思うんだけど、試験だったらやり直しきくからいいわよね。上総、よかった。あんたが居てくれるとほんっと助かるのよ。ね、お願い。あんたは私の自慢の」
「うそつけ!」
聞いているとだんだん気がおさまらなくなってくる。なんでこうも神経逆なですることが得意なんだろう、この人は。タオルを棚からひったくり、上総はさっさと風呂場に向かった。頭を冷やしたい。
シャワーを浴びている間にまた電話がかかってきたらしく、父が取ってくれていた。やはりここは立村家なのであり、母のうちではなくなったと思う時だった。着替えて洗濯機を回した後、すぐに以前母が使っていた部屋にタオルケットを運んだ。まだふたりは居間で談笑している。こんな仲がいいのになぜ離婚したのか、両家では最大の謎とされている。上総も正確には理解できない。
「上総、ちょっとちょっと、電話あったわよ」
にやにやしながら母が手招きする。いやいや顔を出す。父がまた困った顔でこちらを見ている。あきらかに尻に敷かれている。
「誰から」
「さっきの、清坂さんからだ」
髪の毛のしずくがたらっと落ちるのが分かる。冷たい。
「あんたの彼女でしょ」
「そんなの関係ないだろ」
「用件聞かなくていいの?」
「どうせこっちからかける」
いつもだったらすぐに電話するのが礼儀だと思う。でもまさか、このふたりの目の前で、丁寧語使いまくっている自分を見られるのは最大の恥。
「上総、無理するな。一時間くらい前にもかかってきたんだ。かけてあげなさい」
父までが母に加担する。もちろん両親が席を離れる気配はない。最後まで聞いてやろうという魂胆だろう。みえみえだ。こういう時、自分専用の電話がほしいと強く思う。
「わかった、今かけるから」
吐き捨てるように答え、上総は背を向けた。別に聞かれて困るようなことはしていない。たぶん明日にずらした青潟市立美術館への待ち合わせだろう。
受話器を取った。ダイヤルを回した。
──あ、立村くん?
受話器を取るなり「清坂です」と答えたのは美里だった。心から安心して名乗り、まずは謝った。
「今日、電話くれたんだって?」
──うん、夜遅くごめんね。あのね、貴史とも話したんだけど。
美里の声は少しだけはねていた。待ってくれていたんだろう。ほのかに心、ふるえるものがある。
──いつも、立村くんが来てくれるのはまずいなあって思ったから、午前中は品山に行こうかって言ってたの。貴史は立村くんのうち、知ってるでしょ。私も自転車で行こうかなあって。
それはまずい。慌てて上総は遮った。
「いや、いいよ。俺の方が美術館に行く。大丈夫だよ。第一、品山は遠いからさ、この暑さだと日射病になるよ」
──でも、いつも立村くんひとりに負担かけてるみたいで、悪いもん。
清坂美里、青大附中二年D組の女子評議委員。はっきりしていて、いやみじゃない。上総には過ぎた彼女だと言う人も多い。自分が一番それを自覚している。上総の親友たる羽飛貴史とは幼なじみということで、いつもふたりして上総のことを気遣ってくれる。このふたりが上総にとって最強の守り神と言って差し支えない。今だって、きっと貧血でぶったおれることの多い上総を思いやってくれたゆえの、申し出だろう。ありがたい。ふつうだったら絶対にそうしてもらっている。しかし。
背中の目でびんびんと感じる。映る。四つの眼。
「ごめん。あの、俺もできれば品山から出て都会で遊びたいんだ。だから、あの、こっちから行くよ。いつものように美術館の前で待ち合わせで、朝十一時でいいかな」
──本当にいいの?
「いい、絶対それでいい! だから、羽飛にもそう伝えておいて、くれるか」
もうこれ以上、背中の好奇心溢れるまなざしには耐えられない。早く切りたい。
──それならいいんだけど。ね、立村くん今日、どうしてたの?
答えられるかこういうとこで。しどろもどろになっていく自分の舌がなさけない。
「いや、あした話すよ。ちょっと忙しかったんだ。いろいろと。だから、今日はもう遅いから、明日の十一時半に」
──違うよ、十一時よ。間違えちゃやあよ。
「そ、そうだったよな、俺が悪かった。十一時に、じゃあ」
受話器を置いたとたん、ふたりが笑いをかみ殺している姿が目に入った。たぶん呼吸ひとつせずに耳を傾けていたに違いない。息子がデートの約束……微妙に違うのだが……をしているところを聞いて、さぞやいろいろ想像しているに違いない。父も前から清坂美里の名前を記憶していたようだし、さぞや、さぞや。
「何がおかしいんだよ!」
一声が合図となり、母がけたたましく笑い転げた。父の肩を軽く叩きながら、のけぞり甲高く。
「上総あんたって、思いっきり尻に敷かれてるわねえ。ほんっと和也くんそっくりよ。血は争えないってこのことよねえ」
──言いかえせよ早く。
父に視線を向けるが、自分の方に火が飛んでくるのを恐れているのだろう。何も言わない。黙ってアイスティーをすすっている。
だから尻に敷かれているって言われるのだ。
これ以上両親の顔を眺めていてもむかつく一方なので部屋に駆け込んだ。いやみと思われようがガキと言われようが、思いっきり音を立ててドアを閉めた。なんとなく部屋を片付けておいたのは正解だった。机の上に重ねたプログラムを破り捨てようとして、ふとやめた。
──この演目で、十月か。
机に両手をついて、見下ろす感じで読みなおした。プログラムには、すべて「一、幻お七」「一、藤娘」「一、鷺娘」と連なっている。どうして続き番号にしないのか不思議だが、そういうしきたりなのだろう。
夏の月が藍色の空に浮かんでいる。まだ白っぽい。かすかに銀色の揺れが見える。月に兎が住んでいる、お月見の日には月で兎が餅をつく。お月見団子をこしらえて、薄と一緒に窓辺に置く。たぶん母はこの日、また泊りにきて上総と父を怒鳴りまくるだろう。
「一、玉兎」の文字をじっと見つめた。くるものが確かに、ある。
──十月五日か。
──お月見か
──そういうことか。
藤野詩子にあえて「玉兎」という演目を与えた理由。
もちろん母の言う通り技量の問題や費用のこともあったのだろう。しかし、「初舞台」というのは初めての舞台で、一生に一度。思い出に残るものにしたいだろう。長い袖やきらきらした鬘ではないもので。
先生たちはきっと頭をひねって考えたにちがいない。
舞台の当日が中秋の名月とすると、見えてくるものがたしかにある。当然日程は一年くらい前から決まっていただろうし、その頃には演目も決めなくてはならなかっただろう中秋の名月に初舞台を踏むのだったら、兎となって思いっきり兎のように跳ねればいい。
そう、先生たちが思い入れても不思議ではない。
父からもらった手帳を広げ、上総は十月五日に「予定あり」のしるしをつけた。夜の蝉が鳴きつづけている。秋に近づくのを耳で感じる。
──けど、これをあの子に気づけ、って言ったって、わからないと思うな。誰か教えてやれよ。
まだ気づいていないであろう藤野詩子という名の少女に届けばいい。上総は軽くうつむいて目を閉じた。月に祈った。
──終──




