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47 中学二年四月・本条里希の評議委員会最初の顔あわせ3


 カーテン越しの朝日は、いつもうちで見る限りまぶしいもんだ。しっかし、早朝五時目を覚ましたとたん鶏が時の声を上げるっていうのは、何か違うんじゃねえだろうか。腕をのびのび伸ばしたまま目を覚ましたら、立村の姿はなく、俺ひとりで大股広げていたってわけだ。まだ目覚ましは鳴っていない。時刻的には寝てて全く問題ないだろうが、他人様のうちでひっくりがえっているのも気が引ける。

 ──まあいいや、目覚まし鳴ってから起きればいいや。客なんだ、客。

 俺はもう一度目を閉じた。

 気が付いたらまだ、シャンデリアの補助灯がみっつ、まだつきっぱなしだった。


 四時間くらい前、立村が口走った言葉と俺の推理を組み合わせると。

 相手が瞬時に消えたということなので、酒が見せた幻じゃねえか。また酔っ払ってふらふらの状態なのだからこけてしまうのも考えられないわけではない。しっかしだ。

 あそこまでおびえるもんだろうか。

 心霊現象にめちゃくちゃ弱いならともかく、知り合いの相手が襲ってきたならともかく。

 寝言まで言うくらい神経に響くもんだろうか。

 後ろめたいことがあるならばまだしもだが。どうも俺の勘だと、立村の奴はひたすら恐ろしい記憶を消したくてならなくて、追いかけられている、そんな気がする。問題ないことだったら、素直にしゃべっちまえばいいんだ。俺にあそこまで懐きまくっているんだから。それとも俺が、人の秘密を簡単にぺらぺらしゃべる奴だと勘違いしているんだろうか。

 わからん。わかるようで、わからん。

 

 ドアが静かに開いた。モーニングサービスよろしく籠にクロワッサンを山盛り、オレンジジュースのびん、グラスを対で運んできた。すでに立村は制服に着替えている。だいたい五時半になるかならないかって頃だ。学習机の上に音を立てず載せ、椅子に座り食べ始めた。全部食べるつもりらしい。

 目覚ましが鳴った。ちりん、ちりん、と鈴の音がいつのまにか金物をぶったたくうざったい音に、最後はがんがんと響く頭の痛いものに代わっていく。音色がクレッシェンドするというタイプの時計だろう。立村は止めようとしない。「起きろ」ってことだろう。

 ──しゃあねえなあ。

 両手を布団の外に突き上げた。海でぷかぷか浮かんでいる時のポーズだ。両足も浮かせ、尻を支点にして。横からみたらV字型だ。

「あ、ああ、良く寝たぜ」

 大うそつき。詐欺師になれる。

「おはようございます。本条先輩」

 泣きべそかいていたところなんて全く残っていない。ちぎっていたパンを備え付けの皿に置いたまま立ち上がった。

「お前ってこんなに早くいつも起きてたのか?」

「はい。朝七時に出ないと間に合わないから」

「そんなに遠くねえだろ? ここ」

 こいつを送ってきた時に、あのサイクリングロードを通って思ったのだが、もう少しゆっくりめに出発しても問題なさそうな気がする。確かに遠い。でもサイクリングロードを真っ直ぐこいでいけば、余裕を持って七時十五分。根性入れれば七時四十五分に出発しても八時半ぎりぎりに飛び込めそうだ。

 ──ちょっと早すぎるよなあ。

 第一、早く着きすぎたら学校、開いてないぞ。

「昨日通った道だと、結城先輩の家に寄って珈琲ご馳走になってからでも間に合うぜ」

「別の道通るから」

 早口に答え、目をふらつかせると立村は、

「あの、先輩の分の食べるもの、ありますから持ってきます。パンを温めます」

 返事したくないのだろう。俺の目を見ずに出て行った。

 ──やっぱりな。

 朝の光は脳を活性化させるとかなんとか聞いたことがある。まさにその通り。本条里希は名探偵にもなれるってわけだ。


 たぶん、俺がもっと露骨に「おい、白状しろよ。ほんとはあの道を通りたくないわけがあるんだろ? 言えよ、おい」と迫れば、立村も後輩として口を割るだろう。そのくらいのことなら俺もいつだってすることだ。でも、朝五時の目覚めで得た俺の英知では、やっぱり「まずい」と答えが出ている。

 ──あのままじゃあ、おびえてしまうだけだろ。

 冗談で済ませられる雰囲気ではない。一度間違った突っ込みをしてしまったら逃げられる。あいつの扱い方は、基本として犬と猫のような「ペット」と同じにせねばなるまい。うまくなだめてせめて、懐かせてやること。

 ──里理のやり方だよな。

 ──まずは腹ごしらえだな。


 やっぱし着替えないとまずいだろうってことで、えもんかけにぶら下げておいたワイシャツ、ズボン、ネクタイを全部身に付けた。しわなし汚れなし、朝帰りはめずらしくない。丁度ズボンをはいているところで立村が戻ってきた。同じくお盆にはスクランブルエッグにトマト、レタスの付け合せ。同じクロワッサンだがちゃんと熱い匂いがしている。腹の虫が鳴いた。

「ひゃあ、うまそうだなあ」

「うちにあるものだから」

 俺のうちなんて兄貴たちと食い物の争いだ。大抵うえの兄貴たちが全部平らげた後、里理があまりものを集めて俺と分け合って料理する。わびしい生活だ。ってことでいつも腹はすいているってわけだ。ひとりぶんゆったり食べられるっていうのは、しかも自分でこしらえなくてもいいっていうのは。

「ありがとよ。まずは食うか」

 ベットの足元に座って、俺はフォークを握り締めかきこんだ。おとなしくパンをちぎって山盛りのクロワッサンを食べている立村から、半分奪い取った。いやがらなかった。

「あのさ、立村」

 口にほおばったまま、俺の顔を見た。

「朝、七時に出るんだろ? だったら時間があるから結城先輩のところ寄っていこうぜ」

「でも、あの道は通らないんですが」

「お前、また化け物に襲われると思ってるのかよ? 朝七時台にひょろひょろ出てくる奴なんていやしねえよ。それともなにか?」

 クロワッサンをふたつわしづかみにして食う前に、一言つりあげた。

「立村、会いたくない奴が、いるのかよ」

 まだパンひとつ食べていない。手が震えていた。


 無理に白状させることもない。詳しい事情はどうせ中学生活三年あるんだ、ゆっくり聞きだせるだろう。まずは、釣り上げた魚をすぐに放つことにした。スクランブルエッグもあったかいクロワッサンも、俺の分のジュースも、しこたまいただいた。立村はうつむいたまま、パンの粉をひとつぶひとつぶつまんで口に運んでいた。食欲ないだろう。

「二日酔いか?」

「大丈夫です」

 ビールのおちょこで酔っ払うんだから、こいつは相当の下戸だ。固形物を食わない代わり、ジュースばかり飲んでいる。

「まあ、言いたくなければな、言わねえでもいいけどな。立村。ただ、遠回りするとなるとどのくらいかかるんだ?」

「……一時間くらいです」

 貴重な朝の通学時間を、なんともったいない。

「じゃあ雨の時はどうするんだよ」

「バスで行きます」

 そりゃそうだ。もうひとつ、ひっかかりのあるところをつっこんでみた。

「そういえばなあ、あのサイクリングロード真っ直ぐいくとな、本品山中学が見えるだろ。お前、もし青大附属落ちてたら、通ってた学校だろ。結構近いじゃねえか。そっちの方が楽だったんじゃねえの」

 答えないだろう。思った通りうつむいたところみると、俺の読みも当たっているってことだろう。

「中学の通学路って感じか。あの道は」

「すみません。あの」

「通学路だったら、いやおうなしに幼なじみの過去ある連中と会うわな。けどなあ、時間的に七時くらいは公立の奴あまり出かけてないんじゃねえか。俺の友だちも公立行ってるけどさ、八時二十分までに駆け込めばいいから八時過ぎにって奴がほとんどだぜ。別にお前、会いたくない奴に必ず会うってわけじゃねえだろ。時間ずらしたってさあ」

 立村は立ち上がった。ジュースを全部飲み干し、俺の食い終わった皿を盆にまとめ、両手を机についた。俺の方をやはり見なかった。

「夜、俺はそんなこと、言ってましたか」

「は?」

 まぬけな疑問符を発してしまったが、すぐにぴんときた。

 こいつきっと、自分がねごとで具体的地名人物名を口走ってしまったと思い込んでやがる。寝ぼけたことが相当多いんだな。


「ああ、なんかな、おびえてたぞ。小学校が、どうのこうのって」

 どっちとも取れる言葉である。立村の瞳を覗き込み、じっと捕らえた。嘘か誠かは瞳を見つめれば一発だ。結城先輩の教えである。

「すみません、先輩、これ以上、すみません」

 しっかとついた腕のカフスが揺れていた。

「謝るなよ。ただな」

 口を手の甲でぬぐい、もう一度窓の外を眺めた。完全に玉子の黄身が混じった日の光だ。朝は白身、昼は黄身、夜になったら目玉焼きってよくいうぜ。緑っぽい山が小さく覗いている。

「部活の、朝連に出かける連中の時間帯か? 野球部、サッカー部あたりならやりそうだ。青大附中は全くといっていいほど体育系の部活に情熱を燃やす奴がいないんだけどな。公立はそうでもないだろ。その辺の奴か?」

 しゃべっているうちに俺も気分は、取り調べしている刑事に重なってきた。責めてるんでなく、かつ丼を食べさせてる時のように。

「本条先輩、どうして、そこまでわかるんですか」

 かつ丼タイムだ。俺も立ち上がり、立村の両肩に手を当てた。垂直に力をいれて座らせた。素直に下がった。

「わかった。けどな、お前、ずっと遠回りするわけいかないだろ? 評議委員会は結構、朝早く出るように言われることもあるしさ、当然、朝七時半にサイクリングロード通らざるを得ない時もあるだろ。たまには別の時間帯に幽霊がうろつくことだってないとはいえないだろ?いつもいつも逃げたってしゃあねえじゃねえかよ」

 首を振っている。言葉が出ないらしい。もう少し両手に、指に力をこめた。

「とにかく、今日は俺のいう通り、あそこの川沿い、通ろうな。もし、何か言われたらそんときは俺も黙っちゃいないから安心しろ。結城先輩のうちにもどっちにせよ寄らねばならないんだからな」

 言葉はひかえめにした。でも語調は命令調。先輩にはさからえない青大附中評議委員会。今の俺はすべて本能に任せてしゃべっていた。天からシャーロック・ホームズかポワロかエラリー・クイーンが乗り移ったみたいだった。こいつのしなくちゃいけないこと、片付けなくてはいけないこと、みな、俺が面倒みてやらなくちゃいけないこと。こうやってすうっと見える瞬間があるもんだ。

 俺に対して里理がしてくれることにかなり似ているだろう。

 ──だから里理が俺の兄貴じゃなければ丸く収まったんだ。

 おかまなのかホモなのかそれとも別のなにかなのかわからんが、俺にとっては相性のめちゃくちゃ合う里理のことを思い出した。帰ったらたぶん上の兄貴ふたりにどやされるから、なんとか里理にとりなしてもらおう。


 身支度したり、全く関係のない話をしたりと、出発までの間それなりにしゃべってはいた。やはり俺の提案、というか命令に従うには抵抗があるらしく、立村の手つきはどことなくのろのろしていた。結城先輩のうちに電話をかけるのに七時過ぎの方がいいだろうということで、わざと時間を引き延ばしてやった。一刻も早くうちを出たいというのが見え見えだ。玄関で靴をやたらと並べなおしたりしている。

「まだ時間あるだろ」

「でも、早くいかないと」

「あせるな。そんなに俺が信頼できないか」

 立村は黙った。俺の言うことには逆らいたくないみたいだった。

「悪いが、結城先輩のうちに電話かけるからな」

「どうぞ」

 ぐっと息を飲み込みため息交じりに、答えが帰って来た。どうしたのかと見ると、向こうはしばらくしゃがみこんで、空を眺めていた。視線の先にはつぼみが赤らんだ桜の枝が、腕を伸ばしていた。品山の方は天気が違うと聞いていたけれど本当だ。もう学校では散っているのにまだ咲いていない。


「よう、ほんさと、はええなあ」

 この人は毎日何時でも連絡オッケーだ。真夜中であろうがかならずつないでもらえる。

「すんません。結城のだんな。そっちのねずみたちはどうしてますか」

「おお、相変わらず部屋でチーズをかじってるぜ。あと三十分くらいで出発だ」

「そうっすか。今俺も、一匹ねずみを連れて行きますんで合流しましょうか」

「わかった。ところでどうだった? ほんさと、どうだった?」

 決してこの人の言うのは、ああいう関係こう言う関係になったんでは、ということではない。野郎は野郎、女子は女子。

「まあ、それなりに楽しい一夜でしたね。その辺はまたあとでご報告します」

 立村がちろっと俺を見た。にらみつけたいんだが、露骨に出来ず唇を噛んでいる。

 受話器を置いた。

「じゃあいくぞ立村、自転車を準備しろ」

 外は風が冷たい。ほこりっぽい匂いがしたから漂う。天井のシャンデリアと静かな部屋を眺めやり、

 ──またここにくるんだろな。

 ふと、そんなことを思った。

「本条先輩。自転車の準備ができました」

「おうさ、じゃあお前、先頭立っていけ。いいな、あの道を通るんだぞ」

 念を押した。無表情で奴は頷いた。


 品山というと、うちの親たちの世代では「神隠し事件の現場」であり、ガキだった俺たちは「ひとりで遊びに行ってはいけないよ」と言い含められる場所でもあった。禁じられると行きたくなるのは世の習い、度胸試しで里理を引き連れて出かけたけれども、別になんでもなかった。立派な家も立ち並んでいるし、毛がつやっつやした番犬も座っていたりする。気温差が少々激しいかなという気もするので、ジャンバーは必需品だが、毎朝携帯用かさを持参すればすむことだ。親世代の偏見って意味不明だと俺は思う。

「寒くないですか」

「けっ、こんくらいで寒いようじゃあぶったおれるぜ」

 俺の愛車を地下の車庫……夜は気づかなかったが、半地下形式の車庫がどーんと設置されていた……から引き出してもらい、俺はかばんをくくりつけた。持ってない教科書や地図帳はまあ、他のクラスの連中から貸してもらえばいいだろう。

 立村が心持ちゆっくりとペダルに足をかけた。俺に振り返って、無表情のまま、

「いいですか」

「ああ、行けよ」

 観念したんだろう。首をこっくり下げ、襟筋を見せるような格好でサドルにまたがった。俺が予想していたよりもスピードを上げてこいでいる。立ちこぎってやつだろうか。最初様子をみるかのようにきょろきょろして、舗装された道路を突っ切っていった。

「おい、もう少しスピード落としてもいいだろ」

 声をかけるが届かない。何をあせってるんだか、エンジン全開で奴はペダルをこいでいる。幸い、この辺は思ったよりも勤め人が少ないらしく、出会い頭にごっつんこってことはなさそうだった。数人、学生服姿の連中が俺と立村をけげんそうに眺めていただけだ。青大附中の制服を着ていたら、一部の地区では尊敬のまなざしで見上げられることがある。その一種だろう。


「そんな焦って走らねえでもいいだろ」

「すみません」

 俺も必死に濃いで、五メートル以上は引き離されないようにしようと心がけてきた。となると、いつもの三倍はペダルを踏みまくらねばならない。ギアつき自転車、こいつと遊びに行く時には必需品だな、つくづく思う。

「立村、競輪の選手にでもなるつもりか」

「なんでですか」

「ふつう、あれだけスピード上げたらぶったおれるだろ」

 聞かれた意味がよくわからない、そんな顔をして立村はハンドルを見据えた。

「自転車はいつも乗っているから」

「いや、そういう問題じゃねえだろ」

 横断歩道の信号が緑に変わった。歩行者用の信号だが自転車でもオッケーだ。立村はふたたび立ちこぎ姿勢に入り、すらすうらと道路沿いを突き進んでいった。さすがに車道と重なる道だと、スピードを落とさざるを得ない。なんとか俺もついていけた。

 さて、問題の場所だ。さしかかった。


 十字路にぶちあたり、電信柱を横切り、立村がスピードを落としたのがわかる。磁石の対極からひきよせられるように、俺も左隣に進んだ。

「覚悟はいいな」

「どうしてもいかなくてはならないですか」

 右に流れるのは空の青をどんと受け止めた川だった。夕暮れではよく見えなかったけれど、川向こうには木造の民家がびっしりと立ち並んでいた。車も通勤時間帯だけあってびっしりと進んでいた。サイクリングロードのところだけが橙色に舗装されていて、見た目クッションっぽい感じだった。まじでこぐと気持ちいいだろう。景色がいまいちなのはノーコメントだが。

「ほら、行けよ」

 自転車を止めた。視線の先を追う。立村が肩をこわばらせたまま、真っ正面を見つめている。

「どうしたんだよ」

 大体どういうことなのか、俺にもつかめた。

 そういうことだ。まだ犬ころくらいにしか見えないけれども、青い服を来た集団がたむろっているのが見える。たぶん、学校指定のジャージだろう。十人くらいが少しずつ、接近している。

 腕時計を覗いた。「07:15」と、デジタル文字が浮かび上がっている。

 ──やっぱり、そうか。

 視線がかたまったまま動かない。

「あいつら、だな」

「分かりません」

「ずっと、逃げてきてたのかよお前。そんなに、生身の奴らを見るのが怖かったのかよ」

 答えないのはイエスのかわり。

 俺はたたみかけた。

「何したかされたか知らねえけどな。相手から逃げまくっている間は、奴らに負いまわされるぞ。俺がついてる。さっさと悪霊を退散させちまえ」

「先輩、先に行ってください」

 かぼそい声でつぶやいた。そんな甘いことを許しちゃいけない。

「けりをつけるのはお前だろう。後ろについているから、さっさと進め!」

 すでに青い軍団は顔形が特定できるくらい近づいてきている。俺たちに気づいたのか、「おい、おい」と指を指している。

「わかりました、あの、でも」

「いいか、何があっても、俺はお前の味方だ」

 軽く目を閉じた立村の横顔は今にも泣き出しそうだった。とたん、真っ正面を見据え、唇を尖らせ、最後にペダルを強く踏み出した。

 ──おい、こいつ、まじかよ。

 俺が油断したのもまずかった。あっという間に立村の自転車はずっと遠くへ進んでしまった。本気出してつっぱしっている。これは俺もエンジン全開で進まないと追いつけない。景色が風で吹き飛ばされそうだ。

 立村とすれ違った連中が、指を指している。

 ──立村だろ? あの泣き虫だろ?

 ささやきを耳にしたような気がする。

 もう一人、離れたところで歩いているジャージ服の奴が立ち止まっているのも見かけた。サッカーボールを肩からぶら下げていた。ずっと俺たちの方を眺めていた。


 ようやく追いついた。結城先輩の別宅前だった。別名「日本少女宮を崇める神殿」とも呼ぶ。だだっぴろい叢と、ちんまり並んでいる事務所風のバラックが見える。昨日はここで、へどあげて酔っ払っていたくせに、その跡はかけらもない。

 立村はうつむいてサドルに顔を押し付けていた。俺もかなりしんどかったが、最長三十メートルも引き離されてしまったのだから露骨に疲れた顔はできなかった。

「お前すごいじゃねえか。自転車捌きっていうのか? すげえスピードだったぞ」

「毎日だから、慣れてます」

 息絶え絶えの中答える立村の背中をさすってやった。

 小さな声で「すみません、すみません」と答えるのが妙に笑えた。

「どうだ。亡霊は襲ってこなかっただろ?」

 自転車を昨日と同じ場所につけ、俺は立村に話し掛けた。まだハンドルを握ったままだ。気になって近づいてみた。指が震えたまま、解けないようだった。

 こいつ、まだおびえてやがるよな。

 ちょっといじめすぎたか。

 俺は手首を握り締めてやり、一本一本指を離してやった。指の形にぴったりくる握り部分にこわばるように張り付いていた。

「あ、ありがとうございます」

「お前、よくやったな」

 首を小さく振り、ほどけた片手を覗き込んだ。何度か握っては開きをくりかえした。むすんでひらいての要領だ。

「みんなお前を見てたな」

「青大附中に受かったのはここ三年で俺しかいないから、この制服着ていたら一発でわかりますから」

「お前だと分かったらまずいのか」

 この辺に、言いたくないであろう答えが隠されているらしい。時間があれば俺はもっと追及しただろう。すでに、すれ違い際のジャージ集団がささやいた言葉を拾い上げていた。

「青大附中でハッピーライフを過ごしているってこと、あいつらに証明できたじゃねえか」

「え?」

 手をこわばらせたまま、立村が問い返した。

「俺みたいな友だちもいるってな。十分青大附中の青春を謳歌してるってことだろ?」

 ぽかんと口を開けたままの立村。首を少しずつ、クレッシェンドの要領で振り始めた。

「あ、俺の認識は違う。俺はお前のこと、弟だと思ってるからな。いつかその辺も訂正するシュチュエーション作らねばな」

 ほら、ともう片っ方の手もほぐしてやり、髪を軽くかき混ぜてやった。気持ち悪いくらいきれいに撫でつけていたから、俺としては見た目バランスが取れずいらいらしていたんだ。

「じゃあ、結城先輩を連れ出すか」

 ひじのところを引っつかみ、俺は「日本少女宮」のメッカ、結城先輩勉強部屋に向かった.


「ようようお待たせいたしやした。俺の弟分も連れてきました」

「立村、大変だったろう?」

 いきなり俺をすっとばして、立村を同情溢れるまなざしで見るのはやめろと言いたい。部屋にはすでに制服をしわくちゃのまま纏った一年連中ふたりが正座して待っていた。朝の礼拝というか勤行というか、「日本少女宮」テーマソングらしきものを歌い心を清めるのが、結城先輩の日課である。

「お前ら、歌わされたか? 五月五日発売ニューシングル『私と彼とのみことのり』を」

 質問してみる。にこやかにうんと頷く二人のねずみども。すっかり結城委員長の魅力にぞっこんらしい。いや、「日本少女宮」を代表とするアイドルマニアの道を突き進む覚悟ができたのか。やたら元気な奴が天羽、側で眼鏡面さらしてやるのが難波とか言ったな。

「ほんさと聞けよ。こいつらおもろいぞ。関西系ギャグマニアに、シャーロキアン。今までになかった人材だ。あと、ほら、お前の弟分……」

「一言では言えませんな。なにせ、こいつのうちではすんげえ歓迎うけましたから。な、立村」

 はにかむようにうつむいている。三人、一年同士で視線の挨拶を交わしている。「おはよう」と言えばいいのに、素直に口から出てこないらしい。

「ほら、一年坊主ども、お前らは早く学校に行っちまえ!ほらほら、ここにはこれからいやってほどお世話になるんだ。入り浸っているうちに、生身の女の子では感じなくなるのも時間の問題なんだからな」

 素直にこくんと頷き、正座したねずみ二匹は互いに顔を見合わせ、

「どうも、お世話になりました!」

と一礼した。立村にしっかり視線を合わせ、

「一緒に行こうな」

 笑顔で背中を押していった。どっちが関西ギャグマニアでどっちがシャーロキアンか聞き忘れたが、なかなか得がたい人材であることは間違いなかろう。あと一人、お泊りを許されなかった奴もいたらしいが、俺の見た限りトーンが違うとも思えない。

 ──立村を覗いては。


「ほんさと、お前はちょっと残ってろ。珈琲飲め」

 一年連中が自転車を置いてある叢に向かったのを、窓から確認して結城先輩は俺を手招きした。

「俺だって朝八時二十分までに到着しないと、違反切符切られまっせ」

「自転車ごと、車で運んでやる。トラックの恩恵を受けろ。なによりもまずだ」

 非常にラッキーである。正直俺も、体力的に自転車をこぐのは限界だった。潜在的自転車天才走者とのお付き合いはかなりしんどいぞ。はたして一年連中ふたりは立村についていけるのだろうか。


 珈琲といっても高級品ではない。ただのあっためた缶コーヒーだけだ。結城先輩はあぐらをかいて座った俺に、そのまんま缶を渡した。熱い。冷たいのを所望したかったのだが。

「結局立村とはどうだったんだ?」

「はあ、一緒のベットで寝ましたよ。女だったらそれなりの展開があったでしょうが、なにせお互いノーマルですからねえ、期待裏切って失礼しました」

 怖気奮うように肩をすくめた。結城先輩にもその気はないらしい。

「でも奴の家は、部屋の中シャンデリアがあるわ、やたらと部屋が広いわで、一種ラブホテル気分になりましたわな。俺もそんなに生のホテルは行ったことないですが。食事もまあ豪勢なものいただいたし、朝も腹いっぱい食べたしで、なかなか充実した一夜ではござんした」

「で、だなあ、ほんさと」

 また、「日本少女宮」等身大クッションにまたがり結城先輩は身をかがめた。

「全く、ほんさと。お前だけずるいなあ。欲しいものを全部手に入れてやがるんだ。ああ、世の中にはこういう奴もいるんだなあ」

 ──スケベなことができる女も、学年トップを取ることのできる頭も、それと、ほしくてならなかった弟も。

 たぶんそう言いたいのだろう。結城先輩は。

 一番目の「女」についてはほしくてならないものというわけではない。二番目の「頭」だって、たまたま繋がっていただけのことだ。ただ三番目の「弟」。

「なんかそればっか言ってたからなあ。結城の旦那。とにかく俺について来い!って怒鳴ることのできる相手が、やっと目の前にぶらさがってきたって感じですか。いやあめでたい」

 笑ってごまかした。結城先輩も唇を小さくゆがませて笑みをこしらえていた。何か含みのある笑いだった。

 ──結城さん、あんたはよーくご存知だ。

 ──俺が頭上がらないのは、親でも先公でも、上ふたりの兄貴でもない。

 ──俺の本性を見抜いた里理と、あんただけだって。


 初めて結城先輩の部屋に連れこまれた時のことはよく覚えている。いつも見下されている自分がむかついてならなかった。だから、ばかにされていると思ったらいつでも受けて立っていた。

 そんなことをする気なくなり、人に頭を下げて、とことんやりたいことだけに打ち込む。処世術を教えてくれたのは結城先輩だった。命令もしなければ、わざとらしい共感もしない。ただ、ノウハウをひとつずつ教えてくれた。アイドルマニアの顔の影でどうやって人の心を掴むか、どうやって味方をこさえていくか、みな実践で教えてくれた。

 小学校の頃、里理が俺のしでかしたことの後始末をしてくれた時と同じやり方だった。


 里理がホモかもしれないという疑惑が頭から離れない。あいつに裏切られた気持ちは消えていない。でも里理が年子の兄貴であることは戸籍上明白だし、肝心要のところでは押さえられているのだ。このふたりにはどうしても、「兄」であることを受け入れざるをえなかった。

 本当は里理の兄貴でいたかったのにと、いつもほぞをかむ。

 ──無理なこと言ってるよなあ。


「結城さん、あのさあ、俺思うんだけど、立村ってなんか、里理に似てるって気するんですよ。ほら、ほんとのオカマかもしれないっていう俺の兄貴。立村がその手かどうかは知らないですが、人の付き合い方とか、なつき方とか、何から何まで。俺、里理を見ていてほんっといらついてたんですよ。ほらお前何とかしろ、って言いたくなるんですよ。でも奴は兄貴だから、肝心要のところでは抑えが入る。となると俺は弟として頭を下げるしかないんです」

「ふんふん」

 面白そうにめがねの奥、瞳が動く。調子に乗ったふりをして俺は続けた。珈琲の酔いだろうか。

「だから、俺としては徹底的に立村をしごいてしごいてしごきまくって、こき使いたいんですよ。里理に言いたくてならなかったこととか、そのくせ里理に押し付けられた借り、とか」

 時計の針が八時を過ぎた。ほんとなら行かねばなんない時刻だが、俺は腰を上げなかった。結城先輩が動くまでは、ずっと根を張っていたかった。


 ──そういうのをぜーんぶ、立村にしてやりたいんですよ。俺の性格は兄貴分だから、こういうことでもなければたぶん、発散されないっしょ。だからですよ、俺は……。



──終──

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