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36 中学二年八月宿泊研修・バスの中・古川こずえの見た光景

その36 中学二年八月・宿泊研修二日目バスの中・古川こずえの見た光景


 夏だから暑い。暑いからのどがかわく。

 当たり前、だから、ジュースを飲む。

「それだけのことなのにさあ、なんか寒いよね、美里」

 隣でリップを塗りなおしている美里に私は話し掛けた。宿泊研修二日目、二年D組一同マイナス二人を乗せたバスの中。クーラーがやたら効き過ぎ。もう冷凍しそう。

「どこがよどこが! どこかの誰かみたいに、体温感覚勘違いしたこと言わないでよね! こずえってば」

「あんた、暑いと言いたいわけ? ああ、いたよね、夏の暑いさかりでも真っ白いジャケットが手放せない哀れな奴が約一名」

 美里のダーリンがバスに乗り込んでいないからって、私に八つ当たりするのはやめてほしい。でもほんと、寒すぎる。薄いキュロットとTシャツだけなんて、ちょっと私、エアコンを甘く見すぎていた。ほんと、しゃれでなく冷える。

「美里、ほんっとに悪いんだけどさ、窓際に替わってもらえる?」

「え? もしかして酔った?」

 美里はきょとんとした顔で私の顔をうかがった。まずいまずい。明るくしなくっちゃ。

「ううん、なんかね、ちょっと疲れちゃったみたい。おなかもぽんぽんだし、ほら、さっきのパフェとジュースがすっごい美味しくて、どうもおなかの調子がね」

 何言ってるんだろう、私。まったく意味不明。美里もわけのわからない顔をしていたけれども、こくっと頷き、

「じゃあそうだね、窓辺がいいよね。もし、具合悪かったら、言ってよね」

「エチケット袋用意してるからそっちは安心、まかせといて」

 酔っているわけではないんだけど、やはり、できれば今の私、目立たないところにいたい。ちょっとばかり、元気印で売っている私としても、力を抜きたいこともあるわけだ。


 昼ご飯を黄葉散策の後、たっぷり食べて、さてホテルに戻るぞと早めに出発したのが一時間くらい前。ところが、やたらと熱血およびやりたいこと一杯の菱本先生が、

「せっかくだからもう一山越えて、行ってみようか!」

 とよくわからない自然公園の名前を出したことから、予定と時間が思いっきり狂ってしまった。 もっとも私だって面白いこと、新しいことは大好き。羽飛も美里ものりのりだ。それならどんどん行きたいに決まってる。だから

「わあい、どんなとこどんなとこ?」

と、騒いでしまった。一部の不安げな分子を無視してしまったというわけ。

 責任は私にある。そうなのよ、責任取らなくちゃいけないわけ。

 食事の時に生イチゴジュースをたっぷり飲んで、プラスチョコレートパフェをしっかり平らげた後なんだから、しかたない。そう思うしか、ない。

 私はキュロットスカートの縫い目を軽くひっぱるようにして、奥まで手を入れた。ぼこっと膨らむのをポシェットで隠した。ちょっとお腹が痛いだけに見える。おなかさすっているだけ。せいぜい「生理中でおなかいたいの」程度でごまかしが効く。

 そう思わせておかなくちゃ。私だって恋する乙女。恥じらいはそれなりにある。こんな格好、男子に見せられるわけがないじゃないの。特に羽飛なんかには!


 先頭、通路ど真ん中に菱本先生がしっかり腰を下ろしている。男子列隣には羽飛が、窓際向こうには本来美里の「ダーリン」たる立村が座っているはずだった。

 菱本先生から聞いた情報によると、恋人清坂美里のもとへ夜這いしようとして、熱を出しぶったおれたというから大笑いだ。悪いけど私はそんな情報、ちっとも信じてはいない。当たり前、あんな弟分の立村に、そんな度胸あるわけないじゃない。ガセもいいとこ。でも笑える。隣の美里のことを考えるととてもそんなこと言えないけどね。

 

 さて、ほんとは私のダーリンであってほしい第一候補、羽飛はひたすら菱本先生と語り明かしている。もしかしたらクラス男子同士よりも熱いかもしれない。菱本先生の情熱的な熱さと、羽飛の元気で明るい太陽ののりとはちょっと違うような気がするけど、そんなのどうでもいい。だって私の座っている席からは全く声も聞こえないし、時折男子の周囲が盛り上がるのが空気で伝わるだけ。

 美里には聞こえているらしい。女子同士で話すのも退屈そうな顔していた。

「あんた混じりたいんだったら席替わってもらえば。羽飛もいいっていうんじゃないの」

「こずえもいっしょにくればいいじゃない。貴史と一緒だよ。あれ、どうしたのよこずえ。なんか具合悪そう」

 まずいまずい、ほんとに美里に見破られそう。でも酔ったわけじゃないし、空元気を出す。

「ってわけでもないよ、ただ、なんとなくおとなしーくなりたい、気分なのよ。お嬢さまの気分」

「もしかして、あれ?」

 小さい声で、美里が耳打ちする。私は首を振った。

「違う違う。それは先週終わっちゃったよ。美里はまだ?」

 大慌てで美里は首を振った。

「知ってるくせに、言わないでよ」

「ごめんごめん、まだなんだよね」

 思いっきりぱしっと肩を叩かれた。きゃあ、まずい。慌てて膝をくいっと締めた。

「それじゃ、気分良くなったら混じりにきなよ。私、貴史たちと話してくる」

 ──いつ気分良くなるかなんてわかんないよ。とにかく、ホテルにたどり着かない限り無理無理! 

 ほんとは私だって、ダーリン羽飛のところでエッチ話もちかけたいよ。

 当たり前じゃない。ここで顔出さないでどうするの。

 でも、こんなところ、どうして見せられるっていうの。隣には羽飛がいるってのに、こんな格好見せられるわけないよ、ほんっとに。

 ──羽飛ってば、一体なに考えてるんだろうな。私のことも美里のことも。

 ごくふつうの友達としてならば、羽飛はめちゃくちゃ楽しい奴だ。私も最初、ストレートに「私はあんたのことが好きよ」と言わなければよかったと後悔している。どうも羽飛の性格上、恋愛対象にならないのに告白されたら、相手のために遠ざけなくてはならないと思い込んでいるようだった。これは幼なじみたる美里からのご意見だ。悔しいけれど、あいつの性格のよさがわかってしまうのもまた確か。私は簡単にあきらめる性格じゃない。羽飛も災難だなあ、とは思うけれど、あいつの性格が良すぎるせいなのだから、しょうがないよね。

 今日は立村がいないから羽飛・清坂体制でのバス仕切りが行われている。私も手伝いたいところ。とにかく盛り上がることこの上なし。行きはカラオケ大会だったし、さっきまでは「古今東西」をやったり、伝言ゲームしたり。私だって、変なところの力が抜けてればもっと楽なのに。

 ──早く、私を「自然」から解放してよお。

 そう、私はただ今「自然」との激しい戦闘中なのだ。


 自然が私をさっきから、両手一杯に広げて、あの世へ連れて行こうとしている。まじで引き込まれたらどうしよう。ほんっと、バスの中で、まさかその場でジャーなんてことになったらどうするの。高速バスのように、トイレ付きならまだいいけれど、こんなところでなんて、考えることもできない。美里、菱本先生、羽飛にもろ見えだ。お金を取ってってことなら、「まあ少しは考えなくちゃ」とも思えるけど。いやいや、それでも絶対にいや!

 イチゴジュースたって、たったの一杯。チョコパフェったって、水分なんてほとんどなくて、ケーキとクリームとアイスクリームだけのはず。なんでこんなに水分がおなかに溜まっちゃうわけ? やばい、足が痺れてきた! 

「おーい」

 外に声をかけてみた。

「なに叫んでるのよ」

「呼んでみただけだって。なんとなくそういう気分なのよ、ああ」

 誰が自然を呼ぶかって。自然との戦いは、今のところ思いっきり、私が不利っぽい。

 左手で縫い目をさすりながら言い聞かせた。

 ──ちっ、騒ぐな! ホテルまでがまんしなさいってば!


 しばらく美里は羽飛と菱本先生を相手に馬鹿話をしてきたのだけど、別のところでうわうわうなる男子が現れ、しかたなく席に戻った。バス酔い犠牲者、一名なり。すぐに美里は彰子ちゃんからエチケット袋を受け取り、前の方に回した。そこだけ窓を開けたので匂いは篭らなかった。

「あれ、彰子ちゃんから、メモもらったの」

 美里は私の隣に戻り、紙を開いてささっと読んだ。すぐに振り向いて彰子ちゃんへ片手を振った。「読んだよ」の合図らしい。

 後ろの長い列に座っているのが奈良岡彰子ちゃんだ。ちょっとぽっちゃりしているけれども、笑顔がめちゃくちゃ可愛いのだ。女子から見ると彰子ちゃんの笑顔は百点満点、体重二十キロくらいどうでもよくなってしまう。そういう彰子ちゃんの価値を、最近気付いたのが現在規律委員やっている南雲秋世。ちなみにこいつは、一歩間違うと「青大附中の女ったらし二世」になるところだった。軽いシャギー髪の、アイドル系顔している。一度芸能事務所に写真を送りつけてやるのもいいかもしれない。そいつは本日、立村の面倒を見るために残っている。本当だったら彰子ちゃんと一緒にデート二日目楽しみたかったろうなあ。哀れなり腹下し。

 美里はもう一度メモを開き、首を傾げた。窓に差す夏日で、髪の毛がきらきら光っていた

「何、なんかあったの」

「菱本先生にトイレ休憩入れてほしいって頼んでほしいって」

 小さい声でささやいた。

 そうか、彰子ちゃんもそろそろやばい状態なのかな。お仲間かもしれない。別に連れション仲間が増えても楽になんてならないんだけど、このしんどさわかっていただけるのは嬉しい。

「彰子ちゃん、やばいみたい?」

「そうでもなかったけど詳しい話、聞いてくるね」

 すぐに彰子ちゃんと話がついたらしい。ずいぶん手っ取り早く戻ってきた。今度は少し真面目な顔をしている。

「どうだった?」

「時間かかりすぎだよね。渋滞に巻き込まれちゃったわけでもないのに」

 ひとりごとを言った後、美里は首を傾げた。

「やはり、一回止まれるようだったら止めてもらったほうがいいよね」

「トイレに?」

 神さまありがとう! 思わず拍手しかけたけど、次の言葉でがくっときた。

「でも、間に合わないかもしれないなあ」

「彰子ちゃん、そんなに限界状態なの?」

 いや、さっき振り返った時は笑顔だったし、そんな一刻を争う風には見えなかった。

「違うよ、別の人。ほんとにまずいかも」

 美里はさらりと答え、その場で菱本先生に大声で叫んだ。

「先生! 早く休憩入れてください! この辺で止まってもらえないんですか?」

「おいおいどうした」

 全然状況を把握していない先頭席の菱本先生と羽飛、それと男子集団がぎょろっとこっちを見た。美里もなんでそんなとこで叫んだんだろ。トイレ休憩なんだから、耳元にちょこっとささやくとかすればいいのに。

「美里、どうしたんだよ、さてはお前小便我慢できなくなったのか?」

 デリカシーのないお言葉。でも羽飛なら許す。たぶん羽飛も美里だからそう返せるんだろうな。ちょっとうらやましい。美里はそんなこと無視して言い返した。

「私じゃないわよ!」

 ──じゃないってことは、別の子ってことばらしてるようなもんじゃない。

 なんか、美里もずいぶん女子にデリカシーのないことやらかしてる。もともと最近の美里は、クラスの女子たち一部から少し「調子こいてるんじゃないの」っぽいこと言われているし私も「あんた少し気、つけなよ」って言ってやってる。でも全然気にしてないんだもの、しょうがない。ああ、あとでしっぺがえし食ったらどうするのって思うんだけどね。


 さすがに詳しいことは大声で話すのも気が引けたんだろう。美里は前の席まで行って、菱本先生たちと相談していた。どんな話かはわからないけれど、どうやら近いうちに渋滞しやすい道路とぶつかるらしく、止まるのもかなりきわどい状況らしい。運転手さんがそんなことを説明していた。

 私は指先のみで戦い続けた。

 ──やだよ、そんなの。渋滞に入る前に、けりつけようよ。それにしても、暴れすぎだよ、このおしっこ、黙れってばあ!

 

「あのね、こずえ」

 話し合いも埒があかず、戻ってきた美里は私にささやいた。

「後ろの方でやばい人ってね、誰だと思う?」

「彰子ちゃんじゃないんでしょう、じゃあ」

「杉浦さん、あと、ふたり、そのグループ」

 言葉を切った。因縁ある名前だった。

「加奈子ちゃん?」

「バス止めても、立てそうにないかも」

 どことなく美里の口調にはせりふ言っているような緊張が残っていた。

「まさか、もらしちゃったの!」

「ううん、まだ。でも」

 口を尖らせるように美里はつぼめた。

 杉浦加奈子ちゃんとは、一年の時同じ班だったこともあって、「加奈子ちゃん加奈子ちゃん」と仲良くおしゃべりした仲だった。ふわふわソパージュかけていて、最近はちょっぴり赤いリップを塗っている。この前の身体検査で見てびっくりしたのだけど、くっきりとくびれがあるのだ。なんでだろう。制服からだと、ずんどうすっとおん、って感じなのに。妙に色気がでてきている。私は嫌いな子じゃない。美里も去年の十二月くらいまではおしゃべりしていたのだけど、ひょんなきっかけがもとで一切口を利かない仲になってしまった。

 原因は、一時期立村が加奈子ちゃんを追い掛け回してつきあいをかけていたという噂が流れていたからだった。単純に恋敵と思い込んだ美里が叩きのめしただけのように、私には見える。ちなみに加奈子ちゃんは即刻、立村を振ったという。それも何度も。それでも追いかけつづけたらしい立村に問題があると私も思う。だけど美里からしたら、そのあたりにも複雑なものがあるらしい。今度ゆっくり、聞いてみよう。

 ああ、それにしても。

 加奈子ちゃんか。同じ連れション仲間は。

「美里、加奈子ちゃんそんなにやばそうって、なんでわかるわけ?」

 無言で美里は、両手をおなかの辺りで重ね合わせて、身をかがめてみせた。

「ダンスダンスダンスって感じ」

「別名、貧乏ゆすりね」

 笑わなかった。失礼だと思ってるんだろう。美里はその辺、言葉が少なかった。

 加奈子ちゃんの気持ちは今現在非常によくにわかる。私はもう一度おなかをさすった。夜店で買ったヨーヨーをいじるみたいにそおっとさわった。加奈子ちゃん、私も今の気持ち、よくよくわかるよ。水風船、割らないようにがんばろうね。私はこっそりエールを送った。

 けど、加奈子ちゃんほどダンスダンスダンスしているとは、自分でも思っていなかった。

 

 美里は何度か様子を見に彰子ちゃんの席へ向かい、その足ですぐ菱本先生の方に話し掛けていた。羽飛と菱本先生もちらちらとこちらを眺めていた。かなりでかい声で男子同士も話し出している。羽飛がちらっと声をかけた。

「おい、水口、お前は大丈夫かあ?」

 後ろ席の水口に声をかけた。賢い医者志望のお坊ちゃまなんだけど、見た目が小学校二年生。ちょっとしたことで泣きわめく困ったちゃんだ。通称、すい君。仲良しの少年画家・金沢と一緒に頷いていた。

「立村に言われたんだ、旅行の前」

「立村に?」

「バスにはペットボトル持っていけって。あとタオルも」

 男子連中がやたら大きい袋もってきたとは思った。にこにこしながら、空のペットボトルを取り出した。そういえばしおりにも「男子はペットボトルを持参」という意味不明な言葉があったっけ。それのことだろうか

「あいつ、しつこいくらい命令してたな」

 菱本先生がぼそっと合いの手を入れた。

「これをひろげて、チャック開けて、それから」

 おいおい、「ちゃっく」って、ズボンのチャックのことだろうか?

 思わず耳をそばだてた。

「こうやって、こうすると、こうなるって」

 あああ、ちょっとまずいよすい君。

 こんなところで公開放尿なんてやっちゃあ。

 いわゆるこれって、ショータイムじゃないんだから。

 女子には目の毒って奴よ。

 見てはいけないものを見せる気か!


 もっとも女子たちは加奈子ちゃんたちの様子が最優先で心配なので、すい君の怪しいショーを見る気はあまりなさそうだった。私だけがたまたま見えるから、覗き込んでいるだけだ。

 もちろんもろではない。ちゃんとすい君はひざにタオルを広げていた。モノは見えない。

「ちょっとやめなよ、ここ公衆の門前ってやつよ。一応女子だっているんだよ」

「だから隠せって立村が言ったんだ」 

 男子集団のみを観客に仕立て、すい君はタオルの下で何か手を動かした後、ほおっと大きなため息をついた。振動で音は聞こえない。

 羽飛が、

「おいおいおい、お前、まじでしちゃってるのかよ」

 あっけにとられている。菱本先生も止める間もなかったらしい。

「水口、おい、がまんできなかったのか?」

 すい君は、けろっとして答えた。

「ううん、こうするようにって言われたんだ。まずい時にはこうやってしのげって。立村って頭いいよね」

 持ち上げないで見せびらかさないで欲しい。検尿の入れ物じゃないんだから。六月くらいに毎年、試験管を渡される。持っていくと一週間くらいで結果が出る。女子はやたらと血尿が多くて、男子は淡白が多いのはなぜ? 再検査にひっかかった男子をからかうのもまた楽しい。立村に何度か「なんであんたはひっかからないの?」と尋ねたら、「裏技があるんだよ」と流された。本条先輩に教え込まれてるんだろう。最近私にずいぶん口答えするようになったのは、教育成果および、本条先輩のレクチャーにあるのだろう。

「俺思うけどなあ、羽飛」

「なんだよ先生」

「立村も、相当修羅場を乗り越えているようだなあ。普通こんなこと考えないぞ。ペットボトルに小便しろだなんてなあ。第一どうするんだ。うまく入るのか」

「俺も試したことねえし、こんなとこでやる度胸ねえなあ」

「車を運転している時はいいかもな」

 のどかな会話があまりにも間抜けだ。たぶん男子たち、加奈子ちゃんたちのピンチに関して、現実逃避したい気分なんじゃないだろうか。


 ああ、そんなことはどうでもいい。

 きらきら光るペットボトルを降ろすよう、羽飛が黙らせた。

 菱本先生はあきれたように笑っていた。もうこれはギャグ。

 でもね、先生。

 私にとってはとってもだけど、笑えないことだったりもするのだよ。

 男子は最悪の場合こうやって、乗り切ることもできるだろうけれど、ただでさえキュロットはいている私がそんな器用なことできるわけないじゃないの。私だって、ペットボトルで一発OKだったらすぐにやっちゃってるって。女子たちに全部提供してよって言いたい。

 なんか男子って、アホなのかもしれない。情けなくなってきた。


 いきなり美里が立ち上がり、先頭の運転手さん席まで走りだした。いったんふらっとしたけどすぐバランスを保った。アホ男子たちのショーにあきれ果てたのか、それとも加奈子ちゃんたちの状況がさらに悪化したのか、たぶんどちらもそうだろう。

 バスガイドさん用のマイクを握り締めスイッチを入れた。

 側のエンジンががあがあ騒いでいるのが響いた。きーんと耳がつぶれる音もした。

「みんな、聞いてほしいの。いいかな」

 美里は後ろの席に立ったまま、声を掛けた。

「この中で、トイレに行きたい、って人どのくらいいますか?」

 男子は起きている連中が全員手を挙げた。

 女子は誰も手を挙げなかった。私も一緒だ。

 だって加奈子ちゃんだって上げなかったんだから。

 私の戦いなんてまだ甘いってことだ。

「なら、みんな、協力してもらえますか?」

 急いで前に立った。羽飛が美里の顔を覗き込んだ。

「どうした美里」

「貴史、悪いけれど男子に協力してほしいんだ」

「協力って、外に出ることか?」

「もう無理」

美里も即答、首を振った。

「男子と女子の席を急いで入れ替えてほしいんだ」

「どういうことだよ?」

「時間ないよ。とにかく男子の後ろの人たち、申しわけないんだけど前四列の左側女子、みんな後ろに移動してもらえないですか。男子はその前に移ってもらえないかなあ」

「どういうことだ? 清坂?」

 菱本先生も、奇妙な顔をして問い詰める。

「一刻を争うんです。先生はそのまんま動かないでいいです。みんな、すぐに移動してください」

 その後、改めて話をしていた。さすがに菱本先生も大人で、うんと頷いている。

「清坂、さすがだな、よし、じゃあみんな、清坂の指示に従え! 急げよ」


 左側の女子たちはみな、荷物を持つと、後ろに移動しようとした。が狭い中でなかなか移動ができない。そりゃそうだ。一人ずつしか通れないバスの通路なんだから。男子が前に移動してきた間に私は荷物を後ろに移した。美里にも「早くして」とせかされた。私の荷物はポシェットとお土産袋だけだから、軽い。美里はちょっと大きめのトートバックだ。バケツ型の可愛い形の真っ赤な皮、おしゃれだ。

 まず、美里は最初に荷物を運んだ。それぞれの席に荷物を置いて、場所を確保した。

「私はどこに座るの?」

 尋ねると、美里は後ろから二番目の男子席を指差した。

「この辺がいいよ。できるだけ後ろの方がいいって」

。一番後ろには彰子ちゃんと女子が四人座っていた。 私たちと対称になる形で加奈子ちゃんだけがひとり席を与えられていた。しっかりと膝をくっつけ、バックを膝に置く格好でいた。一目で美里の言う、加奈子ちゃんの「やばい」状態が見て取れた。

 どうも席の選び方が怪しい。彰子ちゃんを除いて、みな顔がうつむき加減。膝をいじいじと触っている。たぶん美里の話した「加奈子ちゃんとあとふたり」じゃないだろうか。たぶんだけど、この子たちと美里とは、あまり雰囲気としてそりが合わないみたいだった。

 さっきまで座っていた男子の温もりが気持ち悪くぬくい。

「加奈子ちゃん、大丈夫?」

 横に向かって声をかけた。

 返事がない。

 一点だけ見つめ、なんどもブレイクダンスを踊るようにしているのは、私と同じ相手と戦ってるてことだから。動くのだってかなりこわごわだったんだから。ポシェットをずらさないようにして窓際に動いた。後ろを振り向くと、彰子ちゃんがにこにこしながら私の顔を見ていた。

「こずえちゃん、大丈夫?」

 顔に何か書いていたんだろか。

 美里も羽飛も全く、気付いてないっていうのに。

 私は思わず手を離した。無理に笑顔をこしらえた。

「うん、たぶん」

 

 前の席に向かった美里が、今度はいきなりマイクを握り締めた。電源は入っていない。生声で羽飛に話し掛けているのが聞こえた。

「おいおい、早く説明しろよ美里。状況がわからねえと、野郎連中だって納得できねえだろ。酔っ払ってる奴だっているんだぞ」

「羽飛、清坂の気持ちも汲んでやれ」

 菱本先生が間を取り持とうとする。無駄だって! あのふたりに割り込もうってのは!私だってできないんだからね。でも美里もあっさりと羽飛の要求を受け入れた。

「隠してもしょうがないもんね。簡単に言っちゃうとトイレに行きたいけど間に合わないって人が何人かいるってだけよ」

 いきなりマイクの音がハウリングしながらぴぴっと入った。誰がONにしちゃったんだろう。慌てて羽飛が引ったくった。

「このばか! んなことでかい音で聞かせるなっての」

 どっちもどっち。はっきり、バスの中いっぱいに響き渡った。おなかのちゃっぽんちゃっぽんした水にも、響いて揺れた。

 ──トイレに行きたいけど間に合わないって人が何人かいるってだけよ。

 間に合わない。間に合わない。間に合わない。ってどういうこと?

 ──間に合わなかったらどうなるってのよ! 美里!

全身がひくっとした。片手に力を入れた。でないと、押さえきれない。揺れを止められない。そっと横の加奈子ちゃんの方を見たら、やはり同じく膝を押さえ、スカートを押さえるようなしぐさをし続けていた。やはり、ダンスダンスダンス、はっきり腰を振っているのが見えた。ソパージュが揺れている。横顔は難しい問題を解いている時のように真面目だった。そう、真面目にならざるをえないんだ。私は男子の目がなくなったのを幸い、思いっきりひだに手を突っ込んだ。外でやったら、変態だと思われそうだ。

 

 菱本先生は運転手さんに、立ち上がっていろいろと話をしている様子だった。その間にも美里と羽飛は漫才めいたやりとりを続けていた。

「ちょっと、間に合わない、って断言するか、そこで」

「トイレに行けないもの、しょうがないじゃないの、そういうしか」

 すでに男子たちも「間に合わない人」が女子であることを察知した様子だった。きょろきょろ、露骨に後ろの席を覗き込もうとする奴がひとり、また気味悪げにひそひそ話す奴もいる。からかうように、

「おい、羽飛、俺たちもしょんべん行きたいんだけどなあ、止めてくれんの?」

 でかい声を張り上げる奴もいる。すぐに一喝された。羽飛にだ。

「じゃかっしい。もう少しだから黙ってろ」

 後ろの方では女子たちの声がみな、ぴたっと止まった。

 男子たちのざわめきとは別に、みなお通夜みたいに静まり返っている。

 唯一、彰子ちゃんが他の子たちに、

「大丈夫よ、美里ちゃんががんばってくれてるからね」

 励ましている。笑顔を絶やさずに、加奈子ちゃんにも、

「もう少しだからね、がんばれ」

 気を紛らわそうと何かを喋ろうとしていた。でもその言葉は耳に入っていないらしい。みな相変わらず、前かがみでかかとを鳴らしている。加奈子ちゃんはフレアスカートだけど、うしろのふたりはジーンズだ。どちらにしても、ピンチには違いない。


 突然、マイクがまたぴぴっと悲鳴をあげた。美里がバスガイドさんよろしく運転手席の脇に立ち、「あちらに見えますは富士山で」と言いたそうな格好で、片手を上げた。

「みんな、ちょっとだけ黙って! みんな聞いて!」

 美里ひとりでは黙らせることができず、羽飛が両手をぽんぽん打った。

「てめえら黙りやがれってんだ! おい、すい、そこで女子覗き込むんじゃねえ!」

 かっこいいけど、そう思ってられない自分が悲しい。

 菱本先生も美里に何か、二言三言話し掛けたけれど、美里は首を振った。ふうっと息を吸い込む音がマイクから響いてきた。

「今、話を聞いて分かると思うんですけど、ホテルまでは橋を降りてからあと三十分以上かかるそうです。いつ橋から降りられるかすらわからない状況です。途中休憩が入ったとしたらまだかかります。でも、女子の中には今、もうトイレが間に合わないって人が何人かいて困っているんです。降りて橋を降りることも考えたけど、それも駄目みたい。だから、はっきり言っちゃうけど。バスの中で、じゃあっと、しちゃう人が絶対いると思うんです」

 大きく息を吸いこみ、背を伸ばし、美里は唇を一文字にかみ締めた。

 ──言い切っちゃったよ、美里。そんなまずいよ!

 バスの中で、じゃあっと、しちゃう人が絶対いる。

 「絶対」その言葉が、またおなかをちゃぽちゃぽ言わせそう。誰も見ていないのを幸い、私も必死に椅子にお尻を擦り付けた。ダンスダンスダンスに、近い格好かもしれない。

 美里の演説はまだ続いた。

「私、五年の時に、間に合わなかったことがあって、教室でしちゃったことがあるの」

 一瞬、バスの中の空気が、ぴしっと締まった。


「うそお」

「清坂、おもらししたことあるのかよ!」

「うわーきったねえ」

「美里が、まさかよねえ」

 初めて聞いた。私も、驚いた。

 だってあの美里が!

 あの、やりたいことはきっちりやって、いいたいことはなんでもはっきり言う。そういう美里が、まさか、おもらししたことあるなんて、絶対に信じられない。恥ずかしがりやで、授業中立ち上がる勇気がなくて、とうとう間に合わない、そういう子じゃないだろう。私の知っている美里は、そんな子じゃない。それも、五年生の時になんて、よっぽどのことがないと考えられない。

 周囲の女子たちも、ひそひそと話をしている。

「五年の時に? うそお」

 びっくりしている間にも、美里の告白は続いた。

「嘘じゃないよ、貴史にきけばほんとだってわかるから」


 思わず羽飛の顔を覗き込んだ。否定も肯定もしてやしない。わからないんだきっと。

 後ろで菱本先生が美里に、首を振って何か言ったけれども、美里はあっさり無視した。男子たちの、「お前、まじで、やったことあんの?」冷やかしの声も跳ね返した。


「だから、私、今、トイレにいけなくて苦しい気持ち、すっごくわかるの。男子のみんなにさっきお願いした通り、これからホテルに到着するまでの間、後ろを誰も振り向かないことを約束してくれてるんです。帰るまでずっと。絶対約束って。言ってくれてます」

 そんなの何時決めたんだろう。私が気付かない間だろうか?

 現にすい君がちろちろ奈良岡彰子ちゃんに向かって「ピース」を繰り返しているあれはなに? でもそれ以外はみな、こちらを向こうとしていなかった。

 そうか、だからか。

 だから美里は前に男子たちを固めたんだ。

 女子だけにしたら、あとは万が一……。

 美里の考えたことがだんだん読めてきた。太ももを何度かさすりながら、私は美里の次の言葉を待った。

「だから、もう、もうだめって思ったら、その場でしいっとしちゃって、いいから!」

 男子たちの声が「まじかよ」「おいおい」あきれはてた風に聞こえてくる。

 美里は無視した。

「そして隣の子がそうなったら気付かない振りをしてあげてください。お願いします」

 前の方で、男子たちのざわめきが止まない。中にはまたちらっと振り向こうとした奴もいた。私も加奈子ちゃんとうしろの二人の様子を伺った。ショックを受けていないだろうか。美里の言葉には、もう、どうしようもないというあきらめが混じっている。すぐそこで止めてもらって、用をたすという可能性が全部カットされてしまっている。

 その場でしいっとしちゃうしか、もう私たちに残された方法はない。

 そんなの、絶対にいやだ。

 こんなところで、しいっとしちゃうなんて、いやに決まってる。

 「だって、あとでいわれちゃうのがなによりも辛いってわかってる。今はもう、緊急事態。二年D組の緊急事態はこういう形でしか、納められないのが悔しいけど、みんな、お願い、そうしてください」

 美里の顔は、クーラーがかかっているのに真っ赤だった。 

 マイクを握る手が震えていた。

 肩を叩く菱本先生が、

「清坂、よくがんばった、えらいぞ」

 小さな声でささやいていた。マイクが音を拾っていた。それでも美里はまだマイクを離さずにいた。硬直しているのか、それとも震えているのかわからない。今にも泣きそうな風に見えた。男子だけがざわめいている中で、女子たちが「美里、美里」と声をかけた。

 当たり前。美里は今、絶対に隠しておきたい秘密を口にしたんだから。

小学校五年の時の、それも教室で、授業中のおもらし。どんな騒ぎになったのだろう。

 羽飛もそれを見ている。

 そんな、思い出したくもないこと、美里は二年D組全員マイナス二人の前で、告白した。

 ──美里も、きっと、今の私や加奈子ちゃんと同じ思いしたことあるんだ。

 静まり返った車内。女子の声で「みさと、みさと」と呼ぶ声がする。

 そのまま立ち尽くしている美里の手、そこからマイクを取り上げたのは羽飛だった。美里にしか向けられてない、ささやき声を拾った。

「お前も席に戻れ。あとは任せろ。絶対、見ないから安心しろ」

 菱本先生は腕を組んでなにやら頷いていた。

「と、いうことでわかったか。今、立村がいない状況だから俺たちD組男子はこれ以上酔わないように、後ろなんか見ないでも済むように、みんなで歌を歌うことにしようか。しおり、出せよ。歌謡曲を一気に行くぜ」


「こずえちゃん、もうちょっとだよ」

 彰子ちゃんに気付かれている理由がわかった.

 ──私って、やだあ。

 ポシェットをはずしたまま私は、もろ露骨に、左手でキュロットの真中をにぎりしめてたんだから! もう、スカートだったらよかったのに。最悪。もう、「そうしないと破裂しますよ」ってのがばればれだった。

 こんなとこで、どんなことあってももらすわけにはいかない。

 最後の時が来て間に合わなかった時でもスカートなら持ち上げられる。最悪、スカートをぬらさないですむはず。でも、キュロットやジーンズだと隠しようがない。それは私だけではなく後ろのふたりも同じはずだ。だから、美里の「しいっと」発言にみな、体がこわばったはずだ。

 できるわけ、ないじゃない。

 死んでも、ホテルまで、持たせなくちゃ。

 何度かお尻をシートにこすりつけてみた。猫がトイレ後するように。こまかく、円を書いてみた。息をすいなおし、腰を突き出してみた。少し、休戦したのかもしれない。ほっとするのもつかぬま、今度は足の裏がじんわりしびれてきた。両膝から虫が張ってくるようだ。一度握り締めた左手が離せない。

 男子がいきなり鈴蘭優のデビューシングル「風の鼓動」を合唱し始めた。羽飛の趣味だ。あいつは一年の頃から鈴蘭優の熱狂的なファンで、写真集は全部揃えているって言っていた。私の路線じゃないのが残念だ。

 ポシェットをほおりだした。左手の力がだんだん入らなくなり、お腹が痛い。変なとこがじんじん痛くなる。しびれは止まらない。暴れているお相撲さんがどすこいどすこいと押し寄せているようだ。

 ──こんなとこで、誰がするって! 頼むから黙って!

 ──しいっとだなんて、じゃあっとだなんて、言わないでよ!

 ──絶対我慢できないなんて、言わないでよ!

 美里の断言口調が耳からこびりついて離れない。一瞬のうちに私は限界すれすれまで運び出されていた。もう、加奈子ちゃんとダンスダンスダンスのデュエット状態だ。

 もどってきた美里が、息を呑んだ。

 私を呆然と、見つめていた。

「こずえ、あんたまさか」

 かすかな声で、呟いた。

「あんたも、がまんしてたの?」


 ばれた以上はしかたない。私はほっぺたの一部に力をこめて、片えくぼをこしらえてみた

「ごめーん、実はね、さっきから、かなりぎりぎりだったんだ、やだよねえ私って。やっぱしさっきの、イチゴジュースとチョコパフェがかなりおなかに来ちゃったみたいでさ。あ、大丈夫だよ。大じゃないから。けど、やっぱりちっちゃいい方も、かなりきてるよね。うわあ、まじでほんっと、ごめんなさいかも! いやあんって感じ。私、もう、本当に駄目かもしれないわあ、ねえ」

 半分やけっぱちで笑いながら答える私に、

「こずえちゃん、がまん、できる?」

 後ろの彰子ちゃんが心配そうに声をかけてくれた。

 彰子ちゃんは大変だ。隣りの二人にも、加奈子ちゃんにも、そして私にも。

 美里が戻ってきてささやく。

「こずえ、私」

「そう、ごめん。この辺のみなさまに水害及ぼしてしまうかもしれないけど、その辺、許して。あ、そうそう、危険物は網棚に避難させたほういいよ。ほら、美里のバック、ぬらしちゃまずいしさ。ね、ほら、早く」

 意味がわかってるかどうかわかんない。声がぐらぐら揺れている。おなかの水も思いっきり波が荒れている。もう、津波で一気に押し流されるのも時間の問題。私は半ば涙目ででも言うしかなかった。

 もう、たぶん、私は。

「美里の言う通り、絶対、しいってやっちゃうかも、しれないんだわ。その時はごめん」


──だから、もう、もうだめって思ったら、その場でしいっとしちゃって、いいから!

 もうだめだ。本当にだめだ。私はもう、そうするしかなくなっている。

 だって、それ以外どうすればいいんだろう。もし、ここでしちゃったら私はどうやってバスを降りればいいんだろう。キュロットはぐっちょぐちょ、足元は水溜り、匂いはアンモニア。

 いや、それだけじゃない。

 もしここで私が水害を引き起こしてしまったら最後、二学期以降、クラスの連中はどんな目で私を見るだろう?

 もちろんいい奴ばかりだとは思っている。けど、十四才にもなって、トイレの訓練もできてないのかって思われて、おむつが必要なじゃないかって言われるんじゃないだろうか。

 女子はまだいい、男子たちの視線は?

 羽飛はなんと思うだろう?

 美里がおもらししてしまった時、羽飛はどんな風にかばったんだろう?

 あいつが男子同士で美里をいじめるとは考えにくい。でも、美里ががまんできなくなってその場でしてしまった時、あいつはどう思ったんだろう? 美里だから、かまわないって思ったんだろうか。美里だから、気にならなかったんだろうか。でも、他の女子にも同じように思ってくれるだろうか? 羽飛は、美里以外の女子にも、トイレを我慢できなかった情けない女子としてのイメージを貼り付けないでくれるだろうか。私を馬鹿にしないで今まで通り接してくれるだろうか?

 ──わからないよ、そんな保証、あるわけないじゃん。羽飛は美里だから、おもらししても許せたんだよ。けど、私だったら? どうなる? 軽蔑されたら終わりじゃん!

 頭の中にうごめくのは考えたくもない妄想ばかり。涙が出そうだった。

 美里が間違ったことを言ったわけじゃないのに、でも責めたい。

 何事にもまっすぐ。間違っていることは間違ってるとはっきり言う、その性格は大好きだ。でも、分かっていない。 美里が口にした「じゃあっと、しちゃう人が絶対いる」という言葉で、最後の希望も全部、奪われちゃったってことを。じゃあっとなんて、絶対したくないのに!

 

 もう加奈子ちゃんは恥も外聞もないくらい、スカートの中心を両手で握り締めていた。

 声は聞こえない。鈴蘭優の曲に消されている。

 美里の目が加奈子ちゃんをちらりと見た。一瞥だった。その後すぐ私の耳元にささやいた。

「こずえ、私ね、もしそうなっても」

 ゆっくりとつなげた。

「あんたのこと、絶対に軽蔑なんてしない」

「わかってるよ、けど」

美里は首を振り、両手を握り締めたままバスの手すりにしがみついた。

「本当。私、五年の時、教室で、したことあるって言ったでしょ。本当だよ。あんとき、朝から五時間目までずっとがまんして、しちゃったの。すっごい音して、もうみんな友だちいなくなっちゃうって思ったの」

「五時間も……なんで?」

 理由を尋ねる余裕が私にはなかった。美里ひとりでしゃべってくれた。

「あんときは隣の席に貴史がいたからばれなかったの。水、こぼして隠してくれたんだ」

「美里、けど」

 もうこぼしようがない。何しても、もう無駄なのだ。美里の「じゃあっと」という声がまだ耳から離れない。私は首を振り、両手をキュロットに挟み込み、椅子を揺らした。

「私、もしあんたがやっちゃっても絶対友達でいるってことしか、今言えない、ごめんね」

 泣きそうな顔で美里は私をじいっと見上げた。もう一度、

「ごめんね、こずえ、ごめんね」

 何度もあやまり、目をこすった。


 ──美里、ごめん。

 ──頭の中にすっかり加奈子ちゃんのブレイクダンスが映ってるよ。

 

 相変わらず合唱で、野郎連中は後ろを振り向かないでくれた。たまになぜか忘れてるすい君が手を振るが、彰子ちゃんになだめられてすぐ回れ右してしまった。見られてたとしてもどうしようもなかっただろう。加奈子ちゃんはとうとう腰を浮かせて頭を隠し、何度も跳ねるようなしぐさをしたし、うしろの二人も手がジーンズの前にぴったり重ねて、泣き顔を見せている。

 私も足の感覚がすっかり麻痺していた。もうだめもうだめとお腹の中の相撲部屋が稽古をはじめているのだから。痺れは体中に回っていた。腰を何度もシートに打ち付けている自分。手を離せず、「じゃあっ」と頭によぎった。もう、時間の問題だった。気が遠くなりそうだった。側で「こずえちゃん、もうちょっとだよ、がんばれ」彰子ちゃんの声が響いているのがむなしかった。


 いきなり美里がバックをひっくり返して中のものを振り出した。

 おさいふ、ハンカチ、ティッシュ、生徒手帳、お土産、いくつかが入っていた。

 自分の席に放り出し、口を広げ、私に差し出した。

「こずえ、これ使って!」

 使うって、意味がわからなかった。

「使う、って?」

 両手を太ももに挟み込んだまま私は首だけそれに向けた。

「しゃがんでこれの中にして!」

「美里それできないよ!」

 何を言われたか理解した瞬間、私は激しく首を振った。

 そんなこと、できるわけないじゃないのよ! だってそのバック、美里のお気に入りなのに。バケツ型のバックだし、皮製だし、簡易トイレになるかもしれない。でも、そんなこと、できるわけがない! 使い物にならなくなるに決まってる。全身で拒絶した。

 美里は引き下がらなかった。何度も私の足元に置くようなしぐさをした。

「このままだと、こずえ絶対、ちびっちゃうよ! しちゃったらおしまいだよ。バスから降りられなくなっちゃうよ! 男子に見られたらもうばれちゃうよ! 中学生のくせに洩らすなんてって馬鹿にされたらどうするの? 私だって言われたんだよ、あの後! 五年のくせにおもらしするなんて、赤ちゃんみたいだって言われたんだよ!」

 美里の方が泣きそうだった。

「でも、私キュロットだし……」

「今男子こっち向いてないし、席も離れてるから大丈夫だよ。貴史も見てない。だから早く。私が隠してあげる!」

 ──羽飛に軽蔑だけはされたくない!


 頭の一部が麻痺した瞬間、ぐわあっとおなかの中で大津波が押し寄せた。

 ──やばい! もう、だめ!

 あふれる寸前とうとう、バックに手を伸ばしてしまった。美里も何も言わずすぐに足元にバックの口を広げ、手渡してくれた。私はすぐにキュロットを下ろし、椅子の陰にしゃがみこんだ。がたごとと揺れているバスの中でバックを当てるのに手間取ったけれど、その後はあっという間に事が進んだ。鈴蘭優の新譜をネバーエンディングで合唱する男子たちののがなり声で、音は全く洩れなかった。聞こえていたのは私の耳元だけだった。

 終わるまでの間美里は膝を曲げて、オレンジのジャンバースカートをふんわりと広げ、隠してくれた。すべてが終わるまで、ずっと、美里は後ろで立っていてくれた。

 

 美里のバックに、あやまりたかった。

 ポケットから美里はティッシュを取り出し、そのまま後ろ向きで差し出してくれた。男子の合唱が続く中、私は素早くキュロットをはきなおした。中腰で着替えるのはやりづらかったけれど仕方ない。キュートなお尻丸出しにはしたくない。素早く身を整えた。足元には、水浸しのトートバックがそのままにしてあった。振動で中のおしっこががちゃぽちゃぽ揺れている。イチゴジュースとパフェだけでこんなに溜まるもんだろうか。信じられないくらいの量だった。

 ──ごめんね。私が。

「こずえ、どうしたん?」

「美里。私もうとんでもないことしちゃった。ごめん」

 なんか、無理に笑いながら泣けてきた。トートバックを足元に置いて、そのままにした。椅子に座りなおし、おなかだけはすっきししたままうつむいた。さっきまでのずんどこ節がなくなった代わり、真っ赤なバックだけが知らん顔している。美里だってお気に入りだっただろう。まさかトイレ代わりにされるなんて、バックだって本望ではなかったろうに。

 美里はきょとんとした顔で、「ああよかった」と笑顔を見せた。

「こずえ。ほら後ろ見なよ」

 美里はにっこり笑っていた。彰子ちゃんたちの方を指差した。

「彰子ちゃんね、後ろの二人に自分のピーチバックを使わせてたよ」

 明らかに「しいっと」しざるを得ない二人組がそれぞれ、中腰になってジーンズのボタンをかけていた。ちょうど終わったところらしかった。ふたりともさっきまでの苦しそうな表情はしていない代わり、やはり唇をかみ締めていた。小声で彰子ちゃんに「許して」とささやいていた。彰子ちゃんの方はというと、そのピーチバックを抱えてすぐ加奈子ちゃんに渡そうとしていた。さっき美里がしたように通路側に立ちスカートを広げ、

「加奈子ちゃん、ほら、すぐ使ったほうがいいよ」

 そう勧めていた。本当だったら一番最初に使うべき人なのに。彰子ちゃんの身体はカーテン代わりだった。口のつぼまったピーチバックを渡しているが、中にはすでに黄色い液体が溜まりまくっていた。たぶん、二人分なのだろう。加奈子ちゃんは最初首を振っていたがとうとう、スカートをめくりあげ彰子ちゃんの影に隠れた。

 美里と私は顔を見合わせた。

 きっと私と同じことしている。

 ふと男子たちの合唱が途切れた。同時に、静かな細い音が、ちろちろと聞こえてきた。すぐに曲が始まった。水は流れてこなかった。


「あのバックね、彰子ちゃん、南雲くんからプレゼントされたんだって。昨日聞いたんだ」

 初めて聞いた。あのふたりが付き合いはじめていたことは知っていたけれど、プレゼントを交換するだけの仲だとは。

「彰子ちゃん、本当は大切にとっておきたかったはずだよ」

 あたりまえ。私は頷いた

「でもね、さっき彰子ちゃんなんのためらいもなく、取り出してうしろの二人に使うように、て言ってたんだよ。笑顔のまんま」

 恋人からもらったプレゼントを簡単に、よりによってトイレ代わりに使えだなんて、ふつうはいえないはずだ。

「美里、だから?」

「私は自分のものだから、別にどうでもいいんだけど」

 もし立村からもらったバックだったら、どうしてただろう。

「ね、来年の誕生日に、弁償してもらうから、いいでしょ!」

 いたずらっぽく美里はほっぺたにえくぼをこしらえた。

「もちろんそうする! ありがとうね、美里」

 私はふと、気になったことを尋ねた。

「あんたも同じくらい水分取ったのに、なんで平気でいられるわけ、おしっこ近くないの?」

「平気、うん、まあね」

 美里は言葉を濁した。ちらりと加奈子ちゃんたちの方を眺め、

「ばれなくてよかったわ、とりあえず」

 また能面のように呟いた。

 うしろの方で私がキュロットを脱いでお尻丸出しでものすごい音を立てていたことも、もしかしたら気付かれているのかもしれない。ストリップしているわけではない。

「でもね、彰子ちゃんがいくらしてもふたり、嫌がってたんだよ。こずえが、してるのに気付いてやっと覚悟を決めたみたいなの。あのままだったらもっと大変なことになってたかもしれないのに。こずえ、あんた、偉いよ」

「私限界だったものねえ。あと一分遅かったら青潟水害警報発令ぴぴぴって奴?」

「杉浦さんだって、すごくいやがってたくせにとうとう」

 美里はちっと音を立ててつばを飲み込んだ。

「よかった。何もなくって」

 美里好みのバックを選ぶたけしばらく真剣に考えよう、そう思った

 その後、美里は言葉少なく、ぼんやりと隣の席に座っていた。たぶん、疲れてしまったんだろうと思っていた。

「着いたら、立村くんに、お土産渡すんだ」

 膝にまとめた紙包みを、ちらっと見せた。バスに乗り込む前におそろいで買ったタータンチェックのキーホルダーのはずだった。

「ペア?」

「うん。初めてのおそろい」

 美里はため息を大きく吐いたあと、袋を握り締めそれ以上何も言わなかった。

 男子たちの合唱が続く中、女子たちはみな、しんと黙りこくっていた。目を閉じる女子もいた。私も、一緒に目を閉じた。

加奈子ちゃんが一段落してからというのはどんどんすんなり進んでいった。二年D組の男子たちは「紳士であれ」の校訓を守ってくれる稀有な連中だ。みな、何も言わなかった。気付いていてもいないふりをしてくれた。


 三十分後、ようやくホテルに到着した。そこで初めて気付いたのだけど、他の女子たちも多かれ少なかれ、トイレに行きたいのを我慢していたようだった。到着して初めてそのことに気がついた。というのも、みな一目散にホテルに駆け込んでいき、みなホテルのロビートイレに列をなしていたからだった。

 急を要しなければ、無理に一階の共同トイレを使わなくたっていいのだ。

 だって部屋にみんな、トイレが備え付けられてるんだからそれを使えばいいのだ。

 そうするのもしんどかったということは、みな似たりよったりの状態だったとと考えてよい。ほんと、しんどいバス旅行だった。来年の修学旅行ではこのことをしっかり教訓にして、それこそこっそりペットボトルでも持ち込むしかないんじゃないか。そんな気がしてきた。

 私はまず、バックをなんとかしたかった。美里の真っ赤なバックを抱え、声をかけてみた。

「どうする、美里」

「私、立村くんに会ってくる」

「なんで」

「渡したいもの。やっぱり」

 ああ、例のタータンチェックのキーホルダーか。

「じゃあ、もっていこうか? 荷物一式」

「うん、お願い」

 私の無事な方のバックに全部美里の荷物を放り込み、先に部屋へ戻ることにした。

 

 ホテルに戻って、私はバックごと部屋に持ち込み、トイレに流した。一応洗った。私が責任を持って使わなくては。ビニール袋にしまいこんだ。忘れちゃいけない。

 ──けど、美里、なんかあれまずいよね。

 タオルで拭き取りながら、私はぼんやりと美里の様子を思い浮かべた。

 ──なんか変だよね。なんで男子たちにもろ、トイレ行きたいことがばれるようなこと、言っちゃうんだろう? まあ結果がオーライだったからよかったけど、あれ、女子からしたら死ぬほど恥ずかしいことじゃないのかなあ。

 どうも、私にはひっかかるものが残っている。

 というか、いつもの美里だったら絶対に言わないようなことを、バス内で繰り返している。

 私の知っている限り、美里は決して、人の秘密を暴露したり、いやがるようなことを意識してやるような子じゃない。言いたいことは言うしそれで傷つけてしまうことはないわけじゃない。もちろんそれで傷ついて、女子たちから反感買っているとこもある。

 でも、私は今までそんな美里にいやあな気持ちを感じたことはなかった。

 こんな気持ち、初めてだ。

 いつもの美里だったらきっと、菱本先生あたりにだけこっそり打ち明けて、バスを止める場所探しに専念していたんじゃないだろうか。もちろんあの二人および加奈子ちゃんが破裂寸前だったのはわかっていても、他の男子たちに気付かれないようにこっそり処理できるように相談したんじゃないだろうか。いや、同じことをもしかしたら、彰子ちゃんと相談して男子たちにはばれないように処理したかもしれない。どちらにしても、美里のあの大演説を行う必要があったのか、私にはわからない。

 ただ、美里のおかげで無事、女子は恥をかかずにすんだ。これも事実だ。

 目を瞑ってていいんだろうきっと。

 なんでこんなに、変にからまってくるんだろう。私もやっぱり、変だ。


 いや、まてよ。

 私にぴんと、何かくるものがあった。

 ──加奈子ちゃんだ。


 美里が加奈子ちゃんのことでいらいらしていた時期があったのは知っている。

 立村がらみの一件だ。

 そのことで加奈子ちゃんに対していろいろと言い合いをしていたこともちらっと聞いている。詳しいことは教えてもらえなかったけれどもだ。

 ただ、その時以来加奈子ちゃんと絶交していた美里。

 その関係はまだ、復旧していない。

 そんな加奈子ちゃんがもし、大ピンチだったとしたら、クラスの評議委員として美里はどう振舞っただろう。私に対して泣き顔で、「絶対友だちでいるから!」と訴えたりしなかったに違いない。ごく普通の態度で処理しようとしたに違いない。

 ──いや、でも違う。

 もしおもらし寸前だったのが私だったと最初から気付いていたら、あんな露骨な訴え方、はたしてしただろうか? 絶対それはない。だって、私が嫌がることだから。女子なら絶対に、トイレに行きたいとこを見られたくないだろうし、ましてやもれそうだなんてこと、死んだって気付かれたくないに決まっている。

 でも、もしそれが、対して気にならない子だったとしたら?

 気になる。どうしても、はっきり聞いておかないと気がすまない。

 でないと私は、美里と友だちでいられないかもしれない。

 私と美里が友だちでいるのは、はっきり互いの考え方を指摘できる点だと思っている。間違っていたら間違っていると、強く言えるとこだろう。けんかになることもしょっちゅうだけど、でも、美里ならばわかってくれるっていう安心感もある。

 もし美里が本当に、加奈子ちゃんに対してのいやがらせをしていたとしたら、私は目を瞑るわけには絶対にいかない。だって加奈子ちゃんも私の友だちだし、個人いじめをするのはどんな形だって許されないことだ。立村と加奈子ちゃんのことで何があったかはわからないけれども、少なくとも美里がそのことを理由に、加奈子ちゃんを雪隠攻めにする正当性なんてないわけだもの。

 私はもう一度頭を振り手を洗い、タオルかけに鞄をひっくり返して干した。その時だった。

 

「こずえ、こずえ、早く開けて!」

 いきなり響いた声に、驚いてドアを開けると美里が身体で押し開け靴のままユニットバスに飛び込んだ。その格好、もろにジャンバースカートの真中を押さえつけていた。そう、バスの中で私がしていたポーズとそっくりだった。

「美里、どうしたのよ、いったいなんつうかっこうしてるのよ!」

 答えず美里はいちもくさんにユニットバスへ飛び込んだ。ドアは開けっ放し、そのまますごい「自然の音」を響かせた。この部屋は防音があまり聞いてない。水音がびんびんに聞こえた。

「美里、おしっこ、丸聞こえだよ。そんなにがまんしてたの」

「さっき降りるまで。ずっと動いてたからわかんなかったの! 」

「先にトイレに行ってくればよかったのにねえ」

「たった今がまんできなくなっただけ!」

 美里はそれ以上答えなかった。代わりに、

「ほんっとに、馬鹿よ。あいつ! 熱出したまま一日中うなされてるといいんだわ。だいっきらい!」

 トイレの中で絶叫した。これは戸を閉めているのでくぐもって聞こえる。

 そうか、最初に立村の部屋に行ったんだよね。そうかそうか。さては痴話げんかしちゃったかな。

 開けっ放しの戸の前に私は立った。なんで戸を閉めようとしないのかわからないけど、美里はそのままスカートをふわっとあけたままトイレに腰掛けていた。全力を使い果たしたって感じのおまぬけな表情だった。

「あいつって、立村のところに行ってたわけ? 奴に襲われたりなんかしたの?」

「変なこと言い出すからおっぽいてドアを閉めたの。そしたら」

 美里は言わず、私を手でおっぱらった。改めて開いたままの戸を閉めた。一泣きしたいんだろう。悔しかったんだろう。いったい、あの昼あんどんは美里に何をしでかしたんだろう。美里がさっきまで忘れていた、自然の呼び声を一気に思い出させるくらいの衝撃って。

「どうでもいいけどさ、美里。すごい音だったよ。あんなの立村に聞かせられないよね」

「そんなのどうでもいいじゃない!」

 私はドア越しに話しかけた。

「それにもうひとつ聞きたいんだけど、美里さっき、『絶対、じゃあっとしてしまう女子が出てしまう』って言ってたよね。それ、どうしてそんなこと言ったのかなあ。気になるなあ。私あれで、がまんできそうなものが、できなくなっちゃったんだからね。責任とってよ」

 美里は答えなかった。急にしゃくりあげる声だけが響いた。全くこのホテルのバスルーム、防音が効いていない。


 杉浦加奈子ちゃんとの戦いが終わっていないのは知っている。最初、彰子ちゃんに呼び出されてバスの後方座席に行った時、美里は加奈子ちゃんが危機一髪状態だってことに気付いたのだろう。

 もちろん青大附中2年D組の女子評議としての義務を果たそうとは思っていただろう。美里は責任感ある子だし、立村がいない以上自分で指揮をとらなくちゃと、焦っていたはずだ。

 でも、それ以上に何かがあったのでは。

 私から見ても、あと五分でも遅かったら加奈子ちゃんはスカートをずぶぬれにしていただろうと思う。少なくとも、ホテルまでは持たなかっただろう。「じゃあっとしちゃう人が絶対、いるんです」という美里の言葉は有る意味正しかっただろう。でも、それだったらふつう、「がまんしてね」とか「もう少しだから」と励まさないだろうか。

 美里はあえて、「その場でしちゃっていい」と言った。

 そのことで頭が一杯な時、私なら必死に別のことを考えるだろう。少しでも自然のことを忘れるために。

 私なら絶対、言わない。

 私はトイレの前に立って、もう一度声をかけた。

「杉浦さんに、じゃあっとさせたたんじゃないの、美里。あんたが気付いてないってこと、ないよね。もしそうだとしたら、人間として、最低だよ」

 

 美里はトイレから出てきた。少し落ち着いたようだった。手を洗い、私の方を真っ正面から見つめて、いきなり抱きついた。涙で顔が汚れていた。

「こずえ、ごめん、本当にごめんね。私、私、私」

 私の想像は当たっていただろう。

「まさか、こずえが、したかったなんて思ってなかったの。だから、だから」

 もう声はくぐもって聞き取れなかった。私は何度か美里の方を抱いて座らせた。美里とは二年間の付き合いだけど、想像以上に泣き虫だった。一年の時、立村と加奈子ちゃんが付き合っているらしいという噂を聞いた時も、激しく大泣きしたのを見たことがある

「いいよ。私は美里のバックを犠牲にしちゃった奴だもんねえ。内緒にしとくよ」

 けどね、と付け加えた。

「あんたが今飛び込んできた時の顔、さっきおしっこ出そうになって腰振ってた加奈子ちゃんと同じだったんだからね。どんな理由があったってさ、あんなあてつけがましいことしたら、あとで絶対に、罰当たるよ。あんたもいつ、似たようなことになるかわからないんだからさ。反省しなよ」

「罰、当たってる、わかってる」

 涙ぐみながら美里は呟いた。まだしゃくりあげている。

「まあいいよ、どうせ他の子、気付いてないんだし。もし同じことまたやったら、その時は私も友だちやめるからね。それだけ言っとくよ」

 これ以上は何も言わないでおいた。私の友だちでいる美里なら、きっとこれ以上のこと言わなくても、わかってくれると思う。

 

 じゃあっと来る寸前に、どういう言葉をぶつけられると辛いかは、美里も五年生のおもらし経験もあって想像ついたんじゃないだろうか。たまたま加奈子ちゃんが同じ状況で四面楚歌だった以上、美里は親切な評議委員の振りをして、加奈子ちゃんに残酷な言葉をぶつけつづけた。がまん限界に達している人にとっては一切耳をふさぎたい言葉を。 

 そこまで言いたくなった理由というのが私には想像つかない。たぶん立村がらみなのだろうとは思う。加奈子ちゃんに致命的な恥をかかせてやりたい、それだけだったのかもしれない。実際、美里が発した「じゃあっと」という言葉で、私を含めてみな、パニック状態に陥ったはずだ。加奈子ちゃんもがまんの猶予時間を半分に削られてしまったはず。言葉で親切な振りをして、じわっと締め付けるやり方。絶対に知られたくないトイレ我慢を男子の前で暴露され、最後に「してしまう」予告までされたら、加奈子ちゃんはもう、袋のねずみだ。女子にとっては最悪の恥をかかせられ、三年間「宿泊研修のバスの中で、中学二年にもなっておもらしした杉浦さん」とささやかれるはめとなる。

 これこそ、美里の狙っていたことではないだろうか。

 けどどんな理由があっても、それは許されない。いじめだと思う。

 ただ美里にとって誤算だったのは、私も同じくトイレパニック寸前だったことだろう。

 美里は何度も、私に「ごめんね、ごめんね」を繰り返していた。

 あの時泣きそうになりながら、私にバックを差し出そうとした気持ちは本物だったと私も思う。あの時懸命に、「私、絶対友だちでいるから」と伝えようとした眼差しに嘘はなかったはずだ。そんな美里だったら、きっと加奈子ちゃんにしてしまったことの重大さに気付く。私はこれ以上何も言わなくたって、わかってくれるはず。

 

「美里、もういいよ」

 泣きじゃくりつづける美里をベットに転がして、私は、鳴りだした電話を取った。

 立村の声だった。美里を出すよう哀願していた。なさけない男だ。全く。

「美里、どうする? 立村からだけど」

 美里は首を振っていた。涙がまだ納まらないらしかった。

「じゃあ、私が相手しとくから、涙ふいてさ」

 私は受話器を持ったまま、美里にティッシュを渡して軽く、頭に手を当てた。

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