31 中学三年・十一月中旬 清坂美里の苛立ちとため息
その31 中学三年・十一月中旬 清坂美里の苛立ちとため息
「あれ? 新井林くん、今日は練習ないの?」
──いつもの彼女とも一緒でないの?
新井林くんがネクタイを少したるんとさせ、ジャージの前を開けたまま体育館から出てきた。なんだか変。何時か確認してみたけど、まだ四時になってない。いつもだったら新井林くんは、バスケ部キャプテンとしてメンバーとシュート練習かなにかしているはずだ。ついでに、誰かの視線もしっかり受け止めて。
私を見つけると、なぜか走って近づいてきた。びっくり。
「今日は人数があつまらねえから、です。それよか清坂先輩、これからどこいくんですか」
誰と、とは聞かれなかった。
誰かさんよりずっとかしこい。
「うちに帰ろうかなとか、それかどっかによっていこうかなとか、どうせ今日、ひとりだしね」
こずえにはさっき「一緒に帰る? それとも図書館寄ってく?」って誘われたけど、なんかそんな気持ちになれなかった。もう評議委員長選挙も終わり、本当だったら立村くんの手伝いをもっとしなちゃって心積もりしていたのに、全部予定が狂ってしまったなんて、まかりまちがっても新井林くんには言えない。青大附属では、どの委員長の彼女になっても、こき使われるのが宿命だって先輩たちにも言われていた。だから、ちゃんと覚悟していたのに。うちの親たちにも、「三年後期は、委員会、すっごく忙しいんだから、帰り遅くなるんだからね!」ってちゃんと説明しておいたのに。なんでこんなことになっちゃうんだろう。ため息出てきてしまう。
「なんか、いきなり、ひまになっちゃったから、することなくって」
評議委員長の彼女ではなくなり、単なる評議委員。もちろん手伝うことがないわけじゃない。けど、いつのまにか琴音ちゃんが片付けてしまっている。もっとも新・評議委員長の天羽くんはちっとも近江さんに命令しようとはしていない。近江さんも「まあね、勝手にすればって感じ。清坂さん、さっさとどっかいきましょ」ってクールなまんま。偉いなって思う。
新井林くんは少し反り返った風に私を見つめていた。にこっともしない。そっか、一応先輩だもんね。私のことを「先輩」って呼んでくれてるって、それもすごいことかもしれない。いきなり顎で玄関を指すようなそぶりをした。
「これからどっか行きませんか」
「どこって?」
「あの、その辺」
あれ? 新井林くん妙に歯切れ悪い言い方するんだけど。なんか感じが変。
「いいけど、彼女は? 今日はひとりなの?」
「あいつは生徒会室にこもりきりだし、しゃあねえし」
ああそうか。佐賀さんは生徒会長なんだもんね。私とは反対の立場か。
「次期評議委員長」というのは、まだただの「評議委員」と変わらないけど、彼女が生徒会長になっちゃった以上「生徒会長の彼氏」って言われるのは、新井林くんの性格を考えるとちょっと、いやよね。
立場、立場、立場。なんか、わかんない。
「じゃあ、どっかに」
私は無理やりにっこりして、勢い良く生徒玄関へ向かった。自転車で待ち合わせ、黙って新井林くんの後ろについていった。すれ違った三年の女子たちがかなりいたので、もしかしたら立村くんに言いつける人いるかもしれない。いいんだ。言いつければ。どうせ立村くんは私とつきあいやめたがってるんだもんね。勝手にするもんね。
新井林くんが連れて行ってくれたのは、市民体育館隣の公園だった。新井林くんらしいな、って思った。
「しょっちゅう、来てるんでしょ」
「今の時期だと、練習試合がしょっちゅうなんです」
レモンサイダーの缶を一本持ってきてくれた。指先がだいぶかさついているんだなって、受けとった時に気がついた。ばりばり指の皮がむけてきそう。缶を握り締めたまま、「ありがと」とまずはお礼を伝えておいた。
きっとあの彼女にも、同じようにしているんだろうな。新井林くん。
そっと新井林くんの様子を伺った。いかにも男子っぽい感じの濃い匂いがする。むかむかくるほどではない。隣り合ったことなんてあまりなかったからかな、ぐんと私よりも頭ひとつくらい背が伸びているんじゃないだろうか。貴史くらいだろうか。運動部に入っているとやっぱり違うのかな。さっき教室で「じゃあ、また後で作戦会議だな」て言い残して帰っていった貴史のことを思い出した。新井林くんだってことをつい忘れてしまったのはそのせいだ。
「これから、どうするかってことよね、どうしようか」
身体から発する熱気が、貴史とは全然違うって気が付いたのは言った後だった。
後輩に、しかも男子に、思いっきり普段っぽいこと呟いてしまった。
新井林くんは全然気が付かないようすで、あっさりと返してきた。
「評議委員会のことっすか」
それしかないじゃない。私と新井林くんとの会話。私はすぐに合わせた。もう面倒なので、先輩っぽく振舞うのはやめた。それのほうが、新井林くんと喋る時は楽かもしれない。
「もう、男子たちに全部お任せって感じよね」
「けど、天羽先輩だったら」
現評議委員長の天羽くんには抵抗なく「先輩」をつけるくせに、立村くんには「さん」付けするのが新井林くん流だ。このあたりからして違う。
「そうね、あの昼行灯に比べたら、ずっとましよね」
「俺はやりづらいです」
「あっそっか」
思わず吹き出しそうになる。そうなのだ。天羽くんは見た目おちゃらけ野郎に見えるけど、言う時は遠慮なく言う。男子たちの実質的リーダーは天羽くんだと、私も思っていたし、この前の評議委員長選挙で他の人たちもそう信じていたってことが証明されてしまっている。ただ、次期評議委員長として立村くんに指名されていた新井林くんにとっては、やりづらいだろう。もともと迫力がぜんぜん違うもの。この調子だと喧嘩、たくさんしそう。
「立村さんは、今どうしてるんですか」
いきなり聞かれたくないことを聞かれてしまった。
「さあ。英語科進学するにあたって、前もって出されている難しい英語の授業受けてるみたいよ。あの人の英語能力ならね、黙ってても推薦で英語科に進学するでしょ。ついでに大学の講義も受けちゃってるでしょ。別の世界にいるみたい。あ、でもね、ちゃんとやることはやってるし」
「やることですか」
いきなり新井林くんの目が光ったような気がした。
「そ、クラスをまとめたり、いろいろと書類作ったりとかね。でも、今は実質的にどうなのかなあ。私がやっちゃってるかなあ、あと貴史と」
新井林くんはすねた風に私を見つめた。
なんだかこういう瞬間、貴史にそっくりだなって思う。
評議委員長選挙が終わり、立村くんが平に戻ってからというもの、向こうからの会話はまったくといっていいほどなくなった。あえていえば私が無理やり捕まえて、貴史を側に置く形でもって「ちょっと立村くん、話あるんだけど、ちょっと聞いて」と一方的に喋ることしかできない。立村くんも露骨に逃げたりはしないのだけど、口癖みたいに、
「いいよ、これは清坂氏がやれば。あと羽飛と相談してさ」
の一言で終わらせてしまう。あまり突っ込むと「だから俺は別れようっていっただろ!」って怒りかねないし、私も貴史と組むのだったら楽だしということでなあなあにしている。どうせ卒業までの間、まだ時間あるし、その間になんとかチャンスをつかめばいいって思っている。どうせ立村くん、いくらE組で二年の杉本さん参りを続けてったって、相手にしてもらえないのは見え見えなんだもの。生徒会選挙前にしでかしたとんでもない騒ぎがきっかけで、とうとう嫌われたまんま。一切、口を利いてもらえていないらしい。杉本さんも私に言ってたもの、
「清坂先輩、いろいろとご迷惑をおかけしますが、誤解を招くようなことはございません。ご安心ください。私が命を賭けてお守りする方はひとりだけです」
って。 いつものようにしゃちほこばった口調で伝えられたら、いいこいいこしてあげるしかない。
だから、立村くんの要求する、
「つきあいを解消したい」
はまだ、宙に浮いたままだった。杉本さん本人が、やだって私に言ってきてるんだもの。無理に決まってるじゃない。 杉本さんの一途な性格がいいんだったら、いいかげん応援してあげるとかなんとかして、もっと彼女が喜んでくれそうなこと、しなさいって言いたい。
「清坂先輩、聞いていいっすか」
「なあに」
手持ちぶたさで、私がレモンサイダーを口にした時、いきなり新井林くんが私の顔を見降ろした。
「なんで、立村さんと付き合おうなんて思ったんですか」
ああ、みんなおんなじことを聞くのね。そう、誰もが。
「なんとなく、なりゆき」
「なんで羽飛先輩じゃあ」
怒ったような口調。ちょっとびっくり。でも、そうか。新井林くんって、貴史をバスケ部に入れたくてならなかったんだよね。だからなんとしても引っ張り出したかったんだよね。そっかそっか。
「貴史はね、親友であって彼氏じゃないよね」
あっさりと答えると、腑に落ちない顔をした新井林くんは首をひねった。
「親友、彼氏、ってなんっすか」
「たとえば、ねえ、こんな風にジュースとか飲んでてしゃべってるとこ、もし貴史に観られても困らないよね。立村くんだとやっぱり面倒だけど」
わかりづらいたとえかな。さらに混沌としちゃったみたい。新井林くんは黙った。
「立村くんとだと、いろいろと気遣うよ。変なこと言って傷ついちゃったんじゃないかとか。評議委員長から落とされて、まだ立ち直ってないんじゃないかとかね。でも貴史にだったらそんなこと考えないよ。まあ、そんなもんかってね」
「それ、わるいけど、立場反対なんじゃないっすか」
「なんで?」
浅黒い頬を軽くつねりながら新井林くんは缶を脇に置いた。
「俺からしたら絶対変です。気を遣わねえですむのが、本来の付き合いじゃあねえっすか」
「そうかもね」
わかってる、そうなのだ。本当だったら、そうなのだ。
「それ、わかっててなんで、いまだにつきあったりなんてしてるんですか。俺にはまったく何がなんだか、わからねえって感じで」
「そうよね、わからないよね」
私だってわかんない。
他の人たちには言ってないけど、私がとっくの昔に三行半突きつけられたことがすべての答えだ。
立村くんは本当だったら、さっさと私と付き合いやめて杉本さんに走りたいんだろう。
たまたま杉本さんは最初から立村くんのことアウトオブ眼中だから進展がないだけ。
ふられた彼女として、私も潔くしなさいって感じなんだよね。
だけどそんなの、無理。
今の立村くんからもし、私が離れたらどういうことになるか、誰も想像していないんだもの。
「あのね、新井林くん、よっく考えてみてよ」
一応、先輩らしく言ってみた。足元からひやっとした風が吹いてきた。
「もしよ、私が今の立村くんから離れたとしたら、一種のいじめになっちゃうわよ。三年D組で孤立させちゃいけないわけよ」
「孤立、って」
「知ってるでしょ。立村くんのいろんな事情のこと」
知らないわけがない。新井林くんは目をそらし頷いた。
「隠していたあいつがほんとはとことんばっかみたい、なんだけど、もうこういうことになっちゃった以上、友だちとしてこれ以上状況を悪化させたくないの。これ、貴史も私も同じ考え。それに高校、私たちみな持ち上がりになるんだもん。しょうがないよね。だから私としては三年D組の評議委員として、気持ちよく進学させるための努力をする必要があるってわけ」
「けど、それと付き合うってこととは違うんじゃないっすか」
食い下がる新井林くん。わかってもらえないかな。
「好きでもない奴とずっと付き合って、それで清坂さんは時間無駄にしてるとか思わないんですか」
「思わないよ。だって嫌いじゃないもん」
──嫌いじゃない。
立村くんが私に向かって、いつも言ってくれた言葉。
「惚れてねえってことですか」
「ないよ、きっと。だって立村くんが本当に好きなのは、ね」
それ以上口に出せず、私は唇をかんだ。後輩の前で、しかも男子の前で、泣いたらまずい。
「今、私が立村くんと別れるわけにはいかないの。つきあいっていうよりも、評議委員として」
舌打ちした新井林くんは、ふと空を見上げたまま、青空につぶやいた。
「もし、俺と清坂先輩がおなじ学年だったら、そんなこともたぶんなかった、そう思います」
男子ってわけのわからないことをいつも言う。私もつられてしまった。
「それか、立村くんだけ一学年下だったら、きっとうまく行ってたよね」
新井林くんは口をぽかんと開けていたけど、すぐに頷いた。
「清坂先輩の言いてえこと、俺、すっごく、わかります」
──わかんないのは、立村くんだけよ。
私は新井林くんの握り締めている缶に、自分の持っている缶を軽く打ち付けて、もう一度こくっとのみ込んだ。立村くんといっしょに、こうやって、ごくっと飲み込んでしまえたらいいのに。みんな、その通りだって風に、流してしまえたらいいのに。