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12 修学旅行後二週間後の日曜日 菱本守の記憶 

12 修学旅行後二週間後の日曜日 菱本守の記憶


 修学旅行後ぐらいは休ませてくれよな、と俺が言い張ったこともあって、二週間後の日曜夕方に待ち合わせることで話はついた。あの果てしなくエネルギーを暴走させる我が三年D組の連中をある時は怒鳴り、ある時ははたき、ある時は抱きしめる教師という仕事がどれだけしんどいか、きっと彼女には理解できないのだろう。口では

「わかってるわよ、守は一つのことしか集中できないのよね。教師の時間は生徒のことしか頭にないんだから、わかってるわよ!」

と泣かせることを言ってくれたものの、帰ってきたらいきなり留守電の嵐ときた。付き合い長いし、こういう時は何も考えずに放置してくれるのが本当の「愛情」ってものじゃないかと俺は思う。正直言って、しゃべるのもしんどい。

 教師という仕事は口が利けねば何もできない。

 だから一日中唇を筋肉痛になるくらい動かしている。

 せめて休みくらい、黙らせてくれってのが俺の本音でもある。


 まずは予定を立てた。夕食をその辺のファミリーレストランで片付けた後、久々に俺のアパートで少し休むか、という話となった。それがいつものパターンだったからだ。

「先週はどうしたのよ」

「ああ、生徒の家に不幸があった関係でいろいろとあったんだ」

 あまり暗い話をするのもなんだが、事実なのだからしかたない。

 窓辺にはまだ白い三日月が浮かんでいた。彼女は車から手を伸ばすと、

「あの月、きれいよね。白くて」

 男の俺には理解できない言葉をつぶやいた。何を言いたいのだかわからない。

「私、あの月がほしいな」

 ますます理解できない。

「とにかく、いつものところで食うか、それでいいな」

 ロマンチックを求める彼女には悪いが、俺にはそんな余裕がない。とにかく腹ごしらえして、ある程度時間を取ったら今夜は早めに帰すつもりでいた。自宅で暮らしていることは最初から頭にあったし、嫁入り前の娘さんをそうそう男の部屋に泊めるわけにもいかないだろう。


 ──守、今後のことなんだけど、どうするつもりなの。

 ちょうど修学旅行直前の日、彼女からいきなり電話がかかってきた。くそ忙しい時に何時間を取らせるんだろうと、いささかむっとしながら、

「今後って何をだよ」

 と答えた。これ以上何を望めというのだろう。今の俺はそんな色恋沙汰に現を抜かしているひまなんてない。むしろ生徒たちのやらかすあれやこれやのはなはだしいラブ・アフェアに振り回されている。あいつらはまさに「愛」だぜ、と思うようなことを平気でやらかす。そんな純真さと裏腹のスケベ心の共存が許されている、不思議なものだ。

 ──今のままでいいのか、って聞いてるの。

 ──別にいいんじゃないか。

 ──あっそう。

 単純明快。まずは現在受け持っている連中を無事に高校まで送り届けなくてはならない。そういう仕事を背負っている俺が、それ以外のこと考えていられるか。

 これ以上悪さをやらかして首切られる寸前の奴もいれば、うっかりぽきっと折れそうな女子もいる。少しアンバランスな力関係が生徒間に観られる三年D組だが、俺にとっては今一番大切な塊だ。悪いが、彼女のことを考えているほど、ひまではない。


 空の月を助手席から眺めたまま、彼女はもう一度車窓から指を出すようにして、

「ほんと、あれがほしいんだけどな」

「何がほしいんだよ」

 しつこく繰り返した。

「それよりもこれから何食いたいか考えておけよ」

「守は私といる時、しゃべらないよね」

「今さら何話すことがあるんだ」

 俺ももし仕事のことについて聞かれたとしたら……修学旅行中、クラスの評議委員が計画したというとんでもない計画のことだとか、純愛カップルの涙涙の物語だとか、第二次性徴でパニックになる男女たちとか、いろいろ語るべきことはある。そうだ、教師・菱本守としてならいくらでもある。でもそんなのを彼女は聞きたくないのだそうだ。ただ一方的に、語りたいこと……仕事場でお局様まらいやみを言われたなど、また同僚が結婚したとか、どうしておごってくれないのだとか、今度立派なホテルに連れて行けだの、そういうつまらん会話ばかりだ。理由はわからないが、どうしようもなくいらいらしてきて、途中、

「悪いがそれはお前も悪いんじゃないのか? 人を変えようとするよりも、お前の態度をきちんとしろよ」

 ときっぱり答えを出したくなる。いや、出してしまう。すると彼女はふくれて、たた食うだけの一本槍だ。仕方ないので、俺としては、

「じゃあ、今夜、うちに泊まっていくか」

 と声をかける。部屋には入るが、必ず二十一時にはアパートから出て行く。一夜を明かしたりはしない。それが無言のルールだった。

「守、私が本当にほしいもの、どうして気付かないの?」

 アクセルを踏みなおし、俺は目線を真正面のライトに向けたまま生返事を返した。

「ほしいものって、あの月か」

「月に似ているものって、あるでしょ、ほら」

 指先で何度も窓ガラスを叩く。全くわからない。

「爪きりか」

「ばか!」

「静かにしろ」

 だんだん会話が息苦しくなってきた。どうしてだろうか。生徒たちを相手にしている時とは違う、この黒い空気がもこもこ煙突の煙のように詰まってくる。

「そんなにいやだったら今日はやめるか」

 突然、おとなしくなる。これも魔法の言葉だった。彼女が訳のわからない言葉を言い出したときには、必ず伝えておく。

「何でそんなこと言うのよ、私はただ」

「楽しい時を過ごしたいのに、俺が楽しくさせてやれないんだったら、意味ないからな」

 彼女は黙った。やっぱり、予定通りだった。

「わからずや」

 とか言いながら、彼女はそれきりおとなしく項垂れていた。いつものファミリーレストランに到着したところで彼女は車から降りた。もう一度空を見上げると、わざとらしく薬指を天に指差すような風にして、

「あれよ、そんなにあれってわからない?」

 ひとりで呟いていた。


 空から細く消えかけている三日月と一緒に、俺たちの時ももうすぐ終わるのだろうか。

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