1 中学三年・七月末 西月小春の記憶
1 中学三年・七月末 西月小春の記憶
車のライトが炎に見えた。数限りなく、ひとつ、ふたつ、みっつと燃えて、最後には道路いっぱいに広がりそうだった。
こんな時間に一人で歩いていたら、きっとお母さんに叱られるだろう。どうしてそんなところへ出かけたの、としつこく聞かれるかもしえない。ただそういう時に私の口は開かないことを知っている。自分の意志でも開かないのだから、しょうがない。誰も責めないだろう。私の心はしっかりと、うっかりしたことでも開かないように作られていた。
誰か、拾ってくれないかな、とか思ったりもする。
誰か、悪いことをしてもいいよって、教えてくれないかなとも思う。
それができないのは、私がいい子だからではない。
そうしたって、どうしようもないことが見えているから。
何をしたって、ほしいものを望んだって、無駄なんだとわかっているから。
また黒いつややかな車が私の目の前を過ぎた。
一度Uターンして、タクシーみたいに反対車線を横切った。危ないことするな、と思いながら見ていると、今度は十字路でもう一度曲がった。私の立っているガード下へ、つうっと止まった。
運転席から身を乗り出すような格好で、黒いめがねの男性が、助手席の車窓を開けた。私と目が合うと、にやんと笑った。
「小春ちゃん、だよなあ、よかったよかった。さ、早く乗った乗った」
知らない人の車に乗ってはいけません、というには複雑な関係だった。この人、知っている。私を「小春ちゃん」と呼んでも不思議はない人なんだって知っている。だけど、安心して助手席に座り、どこに連れて行かれるかを考えると、そのあたりさっぱりわからない。よい子の私なら「知らない人の車に乗るなんて狼に襲われるようなものなのよ」と思うだろう。
私は首をかしげてみた。どうすればいいか、答えてくれるのはきっと向こうの人だ。言葉が出ないので相手任せですむ。
「いやさ、さっきお母さんから電話があったんだよな。俺も今から司を迎えに行くところだったしさ。そうだそうだ。小春ちゃん、ちょっとこれから、司を迎えに塾の前で待っている予定なんでさ、いっしょに話し相手になってもらえないかなあ」
話し相手?
できるわけがない。だって私は話せない。べったりした髪の毛をかきながら、その人はさらに続けた。
「ほら、すぐに帰ったら、小春ちゃんお母さんに叱られるだろ。司と俺と偶然会って、お茶を飲んで話をしてたってことにすればいいだろう? いや本当にそうしてもいいけどなあ。なんか、食べたいものある?」
首を振った。どこかで私は計算していた。そうだ、片岡くんといっしょに大人の人がいて、いっしょにどこかに行ったんだ、ということにすれば、誰もが納得してくれる。たぶん、お母さんにも叱られない。たぶん、お兄ちゃんも、おじいちゃんも、お父さんも文句言わない。みな安心してくれる。
私は開きかけた助手席のドアを静かに引いて、一礼し、それからゆっくり座り込んだ。車の中にはちゃんと、自動車電話が備え付けられていた。桂さんは受話器みたいな自動車電話からボタンをひとつ押し、
「西月さまのお宅でしょうか、先ほどご連絡をいただきました桂と申します」
丁寧に、かつ穏やかに、私が無事であることを話し始めた。
2
片岡くんのおうちが青潟では知らない人のいないくらいお金持ちだってことは、誰もが知っていることだと思う。私も片岡くんとこうやってお付き合いをするようになるまではそれ以上のことを知ろうとも思わなかった。ただ、クラスで「誤解」されたままでかわいそうだなって思ったことと、同じクラスでありながら犯罪者を抱えているなんてやだなって感じたことだけは覚えている。
結果、私が思っていたこととはまったく正反対の答えが出てきて、今にいたる。私が本当は、片岡くんをクラスの中になじませてあげるきっかけをほかの男子と一緒につくり、卒業時にはクラス全員で「いいクラスだったね!」って笑いあいたい。そういう気持ちだけがあふれていたのに。私のしたことといえば、片岡くんに口にすることも許しがたい罪を認めさせただけだった。
あんなことなんて、知らない方が、本当はよかった。
知らないまま、同じクラスで、終わっていればよかった。
私のしたことは、誰のためにもならなかったのだって、また思い知らされた。一生懸命やればやるほど、自分の見たいものが浮かび上がってこなくって、代わりに見たくないものばっかりが近寄ってくる、それが、十五歳の私だった。
車はそのまま、暗がりに入り、自転車がたくさん並んでいるちっちゃな家の前で止まった。ガラス戸から黄色い光が洩れている以外は、ふつうのおうちに見えた。暗がりでよく見えないけれども、たぶん家からはかなり遠いんじゃないかなってことは、電信柱の住所表示を見てだいたい見当ついた。塾、って桂さんは言っていたけど、こんな遠いところまでどうしてなんだろう。それに塾? なんで塾に通う必要あるんだろう。だって桂さんは、片岡くんの家庭教師なのに。
「あ、小春ちゃん、なんでって顔してるなあ」
桂さんはそばの自動販売機でオレンジジュースを買ってきてくれた。冷たくて指先が気持ちよかった。お礼代わりに頭を下げてから飲んだ。甘かった。私の好きなタイプだった。
「司さ、あいつ英語だけ得意だろ? ほかの科目もなあもっとがんばってくれればなあいいんだけど、な。司の勉強は今まで俺が全部見てきたけどな、やっぱり俺も最近、記憶力の低下が著しくてさ、どうも最近の内容にはついていけねえ。奴も生言っちゃってな」
くっくと笑いながら、桂さんは手の甲で口をぬぐい、缶コーヒーを飲んだ。たぶん、私のもらったオレンジジュースよりも背の低い缶だからきっとそうだ。
「『英語だけは絶対一番になるんだから、塾に行くんだ!』とか言い出してな。英語なんてテレビとかラジオで十分だろがって俺も思ったんだけどなあ、本人のやる気がもうマックスだからさ。やらせねえわけにはいかねえよ」
プライド傷つけられてもいいはずなのに、桂さんの笑顔はまったく変わらなかった。どうしてだろう。男の人なのに裏表なく見える。
「これもな、本当はみんな、小春ちゃんのおかげなんだよ」
桂さんは、どうして私のおかげなのか、ってことを説明してくれなかった。
英語が得意なのは、小テストの全クラス成績優秀者発表を聞いていたので知っていた。だって、D組の立村くんの次なんだもの。語学の天才と言われている立村くんの次、ということは普通の人として最高順位だってこと。前からよかったのかもしれないけど、確か私が口きけなくなってからずっと二番を守っている。
それを言ってるのかな、桂さんは。
私なんて、どんなに役立とうとしても嫌われてしまうのに。
片岡くんにだけは、どうして役立ってしまうんだろう。
3
甘い光がすうっと戸口から広がった。自転車がたくさん並んでいるのだから、きっと塾の生徒もたくさんいるんだろうと思っていたけれど、そうでもなかったみたいだ。高校生っぽい感じの、ひげを生やした男子生徒とか、おばさんっぽい感じの人とか、年齢層の高めな人が多かった。本当に塾だったんだろうか。
一番後から、半そでのワイシャツをふわっと膨らませた感じの男子生徒がこくっと頭を下げて、出てきた。たぶんそうだ。
「ははん、残され坊主だったなあいつ」
桂さんが鼻毛をつまむようにしてつぶやいた。
「ご近所迷惑だし、クラクションは鳴らせねえな」
暗闇だけど、車をつけているのは一台だけだし、気づかないことはないと思う。すぐ斜め左にいるのに、片岡くんはこっちをきょろ、あっちをきょろと何度も首を回している。かなりの方向音痴なのかもしれない。
「しゃあねえなあ、小春ちゃんちょっと待ってな。あいつ捕獲してくるからさ」
言った後で大きく肩をすくめ、桂さんは車から降りた。エンジンはふかさないで、きちんと止めたあとでだった。
さすがに片岡くんも桂さんが肩をたたくと、気づいてくれたらしい。耳もとでなにかささやいている桂さん、きっと私がいるってことを話しているんだろう。片岡くんがこちらを見て、ぱたっと動かなくなった。きっと、びっくりしたんだろう。片岡くんは私がいても、「あっちにいけ」とか「半径五メートル以内に近づくな!」なんてことは言わないから怒らないだろう。でも、迷惑だとは思っているんじゃないだろうか。私も、本当だったら来る気なかった。ひとりで学校帰りふらふら繁華街を歩いていて、補導員につかまる前に桂さんに保護されたなんて。あまり聞かれたいことではない。
唯一救いなのは、たとえ片岡くんに嫌われても、私がこれ以上孤独になるなんてこと、ないってことだろうか。もう、ゼロ以下の場所なんてないと、知っている。
ふたりが私に背を向けた。ふと、片岡くんの頭が桂さんに向けてまたこっくりした。駆け出したのに、桂さんは追わなかった。桂さんもそのまま立ったままでいる。塾らしい家の脇にいきなりしゃがみこみ、指差した。きょろきょろすると同時に、いきなり手を伸ばそうとした。すぐに桂さんが片岡くんに近づいていって、思いっきり頭をはたいた。少し話をした後、片岡くんだけがもう一度塾の玄関に入っていき、すぐに戻ってきた。片手になにか光るものを持っていた。同じ場所にしゃがみこみ、何かをしていた。桂さんがじっとそのまま、待っていた。立ち上がると同時に何かを持って、車のそばに走ってきた。私の座っている助手席まで近づいてきた。
灯りがぼやけていて片岡くんの顔が読み取れなかった。
窓ガラスをとんとんたたいた。
私は車窓を開けるためのレバーをくるくる回した。
「今、これ、取ったから、あげる」
私の鼻先に差し出されたのは、土がついたままの小さな薔薇の花だった。もう咲ききっていて、あとは散るのを待っているようなさびしい花びらがひざに落ちた。
受け取るしか、私にはできなかった。同じようにこっくりとうなづくことしか、私にはできることがなかった。