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第7章 十七の夜に

●これまでのお話

やっと見つけた猫は、ふさふさな毛が生えているというだけで、ヴァイキングの王子に祭り上げられていた。猫を連れ出そうとしたエレンは、王子誘拐の罪で牢屋に入れられるがーー

 カビ臭い地下牢でエレンはぼんやりしていました。月の光も入らないこの空間には、どこかから漏れている水のぴちゃっぴちゃっという音以外何もありません。

 牢屋に入れられてすぐは泣いたり喚いたり、なんとか脱獄する方法はないかと牢屋の中を見てまわりました。しかしエレンの訴えを聞く看守も、助けてくれるような囚人仲間もいなければ、役に立ちそうな抜け穴も道具もないことだけが分かりました。そこでエレンは無駄な体力を使わないよう、じっとしていることにしました。もし食事が運んでこられるなら、食事を運んでくる人物を出し抜いて逃げることができるかもしれないからです。しかし夕食時になっても、食事は一向に運ばれてきません。


 エレンはふと、レネはどんなものを食べているのかしらと思いました。猫とはいえ、いまやレネは王子様です。きっと国で一番おいしいごちそうが、食べきれないくらいずらりと並べられているにちがいありません。温かいスープに、新鮮な魚料理。滴るような肉。焼きたてのパン。それにデザート。どの料理も腕利きの料理人が手間ひまかけて作ったものですから、おいしいに決まっています。しかしあの自由奔放なレネのことですから、それがどんなにありがたいことなのか知ろうともせず、気ままに口にしているに違いありません。

 エレンは急に腹が立ってきました。だってひどい話ではありませんか。エレンは危険を顧みず助けにきたのに、当の妹はお兄さんが大変な目に遭っても我関せずを決め込んで、食事の心配すらしてくれないのです。たしかにレネは同じ年頃の子どもたちに比べて、他人に対する興味があまりない子ではあります。けれどもそれにしたって薄情です。

 しかししばらくすると、それとはまったく逆の感情も芽生えてきました。もしかしたらレネはエレンのことを怒っていて、その仕返しにこんなことしているのかもしれない、と。別に減るものでもないのに、メンバーではないからとエレンはレネに優勝カップを持たせようとしませんでした。レネが優勝カップにゲロをしたのは、エレンのせいなのかもしれません。それなのにエレンは、レネの大切な人形を勝手に捨てました。決して取りにいけない崖の底に。もしかしたらレネは全部見ていて、エレンが牢に入れられてもおあいこだと思っているのかもしれません。エレンは情けなさに打ち拉がれました。



 空腹が進行しすぎて、ついにエレンは食べ物の匂いを現実的に感じはじめていました。人間の想像力の豊かさに驚きながらも、エレンはそれをより堪能するために目を閉じてみました。ニンニクと香草の入った魚のスープ。それにほんのりとしたパンの匂い。エレンは思わず唾をごくりと飲み込みました。

「やあやあ。遅くなってすまなかったの」

エレンが驚いて目を開けると、痩せた老ヴァイキングがちょうど牢の鍵を開けているところでした。

「見張りが寝てしまうのを待っていたんだが、いや、最近の若者というのは宵っ張りなんだなぁ。月がとっくに高くなっているのに全然寝ようとしないんだ。そのくせ朝は大欠伸ときたもんだからどうしようもないさね」

老人は鍵束を腰帯に引っ掛けると、床に置いていたお盆を持ちあげました。お盆には燭台とスープ皿とパンが載っていて、お盆を持ち上げた老人の顔を燭台がぼおっと照らしました。頭は禿げ上がり、目は落窪んでいましたが、沢山の笑い皺があり、人当たりの良さそうな人物です。

「あまり時間がないから食べながら聞きなさい」

エレンはこの人物なら出し抜けそうだと思いましたが、お腹が空いていたのでとりあえず食事を摂ることにしました。スープの味とおじいさんの話というのも気になりましたから。


「おやおや、よほど腹が減っていたようだな。まぁ育ち盛りだから当たり前か。わしはオーロフじゃ。お前さん、名前は」

「エレン」

ちょうどパンを噛んでいるときだったので、それはもごもごしたエレンになりました。

「エレン。わしはこれからお前さんを逃がす。その代わりにわしの頼みを聞いてくれんか。これはお前さんやお前さんの連れにとっても悪い話じゃない」

エレンは魚の骨を口の中で選り分けていたので、声は出さず、目で尋ねました。

「お前さんの連れが身代わりになっている王子を連れ戻してほしいんじゃ」

エレンは結局小骨をごっそり飲み込みました。

「王子様!? じゃあどうしてレネが後継者にされたの?」

「うむ。これはわしにも責任があっての」

老人は大きな溜息を一つすると、ぽつりぽつりと語り始めました。それはこんな話でした。



 この国には一人の王子様がいて、名前をリンと言いました。王子様は子どもに恵まれなかった王様の養子でしたが、まるで血のつながった親子のように王様に懐き、王様も世話係のオーロフも王子をたいそう可愛がりました。しかし王子様は将来、国を背負わなければなりません。王様もオーロフ翁も心を鬼にして、王子様に沢山勉強をさせ、何事にも厳しくしました。地理、航海術、外国語の勉強から、剣術、兵法、金の精錬術まで、ヴァイキングの王として必要なことならなんでも勉強させました。逆に友達と遊んだり、好きに過ごせる時間はまったく与えませんでしたが、王子様自身もそういう時間は無駄だからいらないと言うほど勉強家でした。なので王様もオーロフもどんどん難しいことを教え、できることを当たり前だと思うようになりました。

 けれども、あるときから王子はだんだん元気がなくなり、食事もあまりすすまなくなりました。子どもの頃は同じ年に生まれた誰よりも大きかったのに、十かそこらにはその恵まれた体格は見る影もないほど貧弱になりました。そしてまわりの男の子たちが声変わりをしたり、ひげが生えたりする頃になっても、王子には全然その兆候が現れませんでした。同い年の男の子たちからだいぶ遅れてやっと声変わりはしましたが、それでもひげは生えません。ひげはヴァイキングにとって一人前の男のしるしです。なのでひげの生えない王子は次第に自分の部屋に籠るようになってしまいました。しかし、王子にはいつまでもそうしていられない理由がありました。それはこの島の歴史に関係することで、起源はむかしむかしまだ世界がまだ洪に覆われていた頃にまで遡ります。



 その頃、大陸には三人の王子のある国がありました。王国は栄華を極め、領土も瞬く間に拡大しましたが、父王が死んで大きな地震が起こると、大地は割け、国は三つに分断されてしまいました。そこで王子たちはそれぞれ領土をとることにしました。一番上の王子は三人を育てた実り豊かな大地を、二番目の王子は貧しいけれど天然資源に恵まれた土地を、三番目の王子は最後に残った人の寄りつかない未開の島を治めることになりました。

 三番目の王子は父王の喪が明けるとすぐ、自分に与えられた島に向けて出発しました。しかし船が漕ぎ出してしばらくすると、急に雲行きがあやしくなって、海上を漂っていた海鳥はこう言いました。悪いことは言わないから早く大陸へお帰りなさい。ここはあなたの来るところではありません、と。けれども王子は櫂を掻き続けました。すると次第に海は荒れ模様になり、激しい波間から顔を出したトビウオたちは口々に言いました。悪いことは言わないから早く故郷へお帰りなさい。ここはあなたの来るところではありません、と。しかし王子は手をとめませんでした。すると海は大荒れに荒れて、船を飲み込んでしまうくらい大きな波が起きました。王子はこれが最期と覚悟を決めましたが、背中にフジツボが沢山ついたクジラが現れて言いました。悪いことは言わないから早く母なる大地へお帰りなさい。ここはあなたの来るところではありません、と。そこで王子はクジラに尋ねました。どうしてみんな私が自分の島へ行くのをとめるのか、と。しかしクジラはそれには答えず、こう言いました。私たちは三度忠告したのに、あなたは三度とも聞く耳を持たなかった。何があってもそれはあなたの招いたことだ、と。そういうと、クジラは深い水の底へ向かって潜っていってしまいました。


 さて王子はそのまま船を進め、ついに島を確認できるところまでやってきました。しかし潮の流れが激しく、接岸することができません。哀れな王子は十六の夜を、頼り無く漂っている船にしがみついて過ごしました。しかし十七日目の夜、どこからかここはお前の来るところではないという声がしました。王子が見上げると不死のドラゴンが彼を見下ろしていました。ここは大地が冷えて固まる前からドラゴンが治める領域だったのです。しかし王子には他に行くところがありません。王子はなんとか上陸させてもらえないか、懇願しました。するとドラゴンはこう言いました。

「ここはお前たちに駆逐されたドラゴンたちの最後の土地。三つの問に答えたら、上陸を許してもいいだろう。しかし失敗したらお前の命はない」

 ドラゴンの問いはどれも難しいものでしたが、王子は見事すべての問いに答え、ドラゴンを金のたまごに変えました。すると、あれほど激しかった嵐はやみ、雲の隙間から朝日が差し込みました。そして朝日が降り注いだ金のたまごから、若い金のドラゴンが孵り、瞬く間に天を駆け上りました。また櫂をなくした王子の船は、どこからか飛んできた二羽のカラスが風を起こして島まで運びました。それ以来この島はドラゴンと人間の島になり、この島で生まれた人間は、最初の王に倣って、十七の誕生日になると、カラスの導きの下、ドラゴンの試練を受けるようになりました。



 さて、このドラゴンの試練を受ける日が、リン王子にも近づいたある日のこと。王様はお祭りに出席するよう、王子様に命じました。人の目が気になるような小心者では、王子様が試練に耐えられないだろうと考えたのです。しかしこれはまったく逆の効果を発揮しました。ずっと人を避けてきたリン王子にとって、人々の好奇の目は耐えられないものだったのです。王子様というのはただでさえ注目の的ですが、リン王子の場合は一人前の証であるひげがないので、人々は様々な噂をしました。あんなに綺麗な顔をしているなんてお姫様に違いないとか、ドラゴンの呪いを受けていて試練に失敗する兆候だとか。噂はいずれにしても王子様に否定的なものばかりでした。ですからお祭りの朝、オーロフじいさんが訪ねると、王子様は家出していました。


 変な噂が広まって、王子様の将来に傷がつくことを嫌った王様は、ごく信頼できる家来だけの捜索隊を作り、リン王子がどうやら片方の森に行ったらしいということを突き止めました。片方の森というのは島の西のはずれにある深い森で、ドラゴンと争ってその地をぶんどった妖精の女王が棲むという気味の悪い場所です。そんな森を捜索隊は長い間探しましたが、王子様の足取りは分かりませんでした。それは森が毎日変わるからだとか、妖精の女王が迷う呪いをかけているせいだとか言われましたが、とにかく王子は見つかりませんでした。

 しかし捜索隊の打ち切りが検討されはじめた頃、妙な噂が流れはじめました。それは片方の森に、女のようにきれいな顔をした青年がいるというものでした。ある娘は黒ぶどう採りに夢中になって道に迷ってしまったら、またある娘は泉に耳飾りを落として困っていたらその青年が現れて、緑のマントか金の指輪をくれたらたすけてあげようと言われました。けれども森の奥でそんなものを用意できるはずがありません。どちらも持っていないと言うと、青年はひどく悲しそうな表情をして消えてしまいましたが、代わりに娘たちは帰り道が分かったり、耳飾りを取り戻したりしていました。

 娘たちがこの不思議な出来事を家で話すと、家族はいい妖精に会ったに違いない、これからいいことがある前触れかもしれないと喜びました。けれども娘たちはその日からだんだん食欲がなくなって、何をするにもぼおっとするようになり、ついには一日中ベッドで泣き暮らすものも現れました。家族は心配して理由を聞きましたが、娘たちは何も答えず、ただ臥せるばかり。そしてそのうちに、こんな噂が立つようになりました。娘たちは片方の森の騎士に心臓を食べられてしまったのではないか、と。



「もしかして森の騎士が王子様なの」

エレンが見つめると、白濁したオーロフじいさんの目が鈍く光りました。

「問題は変な尾ひれがついておることじゃ」

「王子様は本当に心臓を食べたりするの」

「そんなことがあってたまるか。はん!」

オーロフが語気を強めたので、牢内を唯一照らしているロウソクがぼおおんと身をよじりました。

「ただあの森にはドラゴンと張り合うた妖精の女王が棲んでおる。女王から色々吹き込まれていないといいんじゃが」

「おじいさん、僕はどうしたらいいの」 

「先ほど話した通り、王子を連れ戻すのじゃ。さすればおぬしの連れは解放される」

「でも捜索隊は一度も王子様を見つけられなかったんでしょう。どうやって見つけ出すの」

「お前さんは何を聞いていたのかな。森の騎士に出会ったのは誰だ?」

「誰って・・・娘たちだ。もしかして女の子の格好をしろって言うの」

この島の女の人たちが誰もズボンを履いていなかったことを、エレンは残念に思いました。

「格好は任せる。なんなら城には沢山ドレスがあるわい。しかし重要なのは騎士に会うつもりのない人物が出会っているという事実じゃ。王子は自分に興味を持っていなくて、なにか欠けている人に惹かれるようでの。そういう点ではお前さんは良い線をいっとる。王子のことはついさっきまで知りもしなかったし、おまけに連れを取り戻したくて困っておる。女の子だとよりよいが」

オーロフは茶目っ気たっぷりにウィンクをしました。



 オーロフについて、久しぶりに地上に出たエレンは、胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込みました。むせ返るような夏草のにおい。満天の星空。牢にいたのはたった数時間でしたが、自由というのは本当に幸せです。ただスカートというのは本当に着心地の悪い代物でした。歩く度に裾がひらひらと跳ね上がるし、一回り大きいサイズを着ているのも相まって、踏んづけないで螺旋階段を上るのは至難の業でした。

「エレン! 冒険はまだ始まってもいないぞ」

オーロフは元々しわしわの顔を綻ばせました。口の中は何本か歯が抜け、残っている歯も黄ばんでいます。

「そこの厩に馬が二頭おる。それからお前の友達のことじゃが」

おじいさんが話している途中で、聞いたことのある元気な声がエレンを呼びました。それはオレンジ色の豊かな髪に黄色いドレスを着たロロでした。少しも女の子らしからぬ豪快な走りでこちらにやってきます。

「ロロ! どうして!」

「勇者は冒険に行くものだよ。ドレスは嫌いだけど」

ロロは前歯を全部見せて、そばかすのある鼻に皺を寄せました。大きな前歯がいかにもいたずらそうです。

「エレン。オレグのこと、笑っちゃだめだよ。説得するの、すごく大変だったんだ」

ロロがこう囁いている最中に、オーロフじいさんにつつかれる形で、えらく不格好な女の子が入ってきました。凛々しい眉に、真一文字に結んだ口。それはおさげのカツラがなかったことになるくらい男らしいオレグでした。

「ほれ、いつまでもそんなにぶすっとしなさんな。エレン、オレグも一緒に行くそうじゃ」

「オレグ、君まで。僕、本当に・・・」

エレンはなんとも言えないおかしさを堪えて、お礼を言おうとしました。しかし笑ってはいけないとなると、どうしても笑いたくなるのが人間というものです。エレンは慌てて目をそらしました。けれども腹筋が勝手にぴくぴくしてしまいます。

「おい、エレン! 先に言っとくけどな。俺のことはオルヴォッキって呼べよな」

オレグが予想と真逆のことを言うので、みんな思わず吹き出してしまいました。まさかあんなに嫌そうな顔をしていたオレグが、女の子の名前を考えているとは思いもよらなかったのです。

「さて諸君。この先は成長の国。わしはここでお別れじゃ。わしがこれ以上成長したら大変なことになるのでな。それから期限は三日後の日没であるからして、くれぐれも遅れないように。式には三人とも達者で出席することを願っておる」


 おじいさんに別れを告げ、曳いてきた馬に飛び乗ると、三人はいよいよ夜の闇に飛び出しました。二頭の馬のうち一頭にはオレグ改めオルヴォッキ、もう一頭にはロロとエレンが乗ります。これはロロがどうしても御したいといったこと、またエレンに乗馬経験がなかったためでした。オレグとエレンが相乗りすることもできましたが、ロロをひとりにするのは心配だったので、こういう分け方になりました。エレンは最初、ロロの馬さばきが気になって、ずっとロロの手元ばかり見ていました。しかしこの小さな勇者に、思いのほか乗馬センスがあることが分かると、次第にまわりを見る余裕も出てきました。

 夜の森というのはなんとも魅せられるものがあり、余計な音や光がないせいか、普段は見過ごしてしまうものに気づきます。たとえば森のさざめきとか、星があんなに明るいとか。それに馬に乗っているのでいつもとは違う感覚です。視点はいつもよりぐっと高いし、いつもは聞こえない風と自分の頬の摩擦音が、耳元で生まれては後ろの方に遠のいていきます。それから独特のリズム。馬蹄が地面を蹴り上げると、ひと呼吸おいて身体が弾みます。馬の荒い息。地面を蹴る音。手綱が波打つ間隔。エレンはいま馬と一体になっていました。

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