第6章 王様になった猫
●これまでのお話
ヴァイキングの島にやってきたエレンは、はぐれた猫を探す途中、思いがけないことを耳にする。
なんとこの島にはドラゴンとの契約があり、それが破綻の危機に瀕しているというーー
夏の終わりの空に棚引く雲に向かうように、三人は城へ続く丘陵をすすみました。しかし城というのは、遠くから見るのと、近くで見るのでは、こんなにも違うものなのでしょうか。エレンは島に着いて最初にお城を見たとき、子どもが石で作るおもちゃのお城のようだと思いました。けれどもこうして一歩ずつ近づくにつれて、お城の大きさと歴史を感じさせる佇まいに圧倒されていました。お城を構成している石の一つでさえ大の男五人くらいの大きさですし、荒々しいこの地域の風雨に耐えてきたその渋い表情からは、静かなる威嚇さえ感じられます。こんな堅牢なお城の主はきっとものすごく威圧的な人物に違いありません。エレンはなんだか緊張してきました。
見た目こそ怖そうな衛兵の手短な検査を受けて、三人は晴れて城壁内に入りました。外壁から想像していたのとは対照的に、敷地内は活気があり、なんとも楽しそうな雰囲気です。三日後の戴冠式に備えて飾り付けをする人や、食料やお酒の搬入に勤しむ人、催し物の練習をする人に、広場を駆け回る子どもたち。お城には無数の入り口や階段があって、そこかしこから人が出たり入ったりしています。オレグたちが練習の間、エレンは城の中を見て回ることにしました。
まずエレンが入ったのは、大きな骨付き肉を担いだ男たちが入っていった台所。ここは井戸のある中庭と繋がっていて、戴冠式の下ごしらえをしているのか、いいにおいのする部屋の中を、沢山の女の人たちが忙しそうに立ち回っています。しかしここを束ねているのは小太りなすました男で、出来上がったものの味見をしたり、どんどん運び込まれてくる食品の品定めをしたりしていました。
続いて、外から聞こえる金属的な音に導かれて中庭を抜けると、衛兵たちの鍛錬所らしきところに出ました。ちょうど若い兵士がベテランの兵士に稽古をつけてもらっているところで、若い兵士は野心的に派手な技を繰り出します。しかしどれもベテラン兵に読まれていて、軽く止められてしまいます。若い兵士はめげずに情熱的に剣を揮い続けましたが、やがてスタミナが尽きて大きく肩で息をすることしかできなくなりました。
敷地内の外れには家畜小屋と薪小屋、それに粗末な鍛冶小屋がありました。藁葺き屋根と柱だけでできた鍛冶小屋では、上半身裸の二人組の男が真っ赤に燃えた剣を鍛えています。剣はキンキンと小気味よいリズムで叩かれるたびにオレンジ色の火花を散らし、水にジュっと晒されるともうもうと蒸気を上げます。エレンは寡黙な職人たちの仕事ぶりにいたく感銘を受けて、時間が経つのも忘れてしばらく見入ってしまいました。しかし途中で、野太い男の声が上がるという邪魔が入りました。
「こら!」
声のした方を見ると、なにやら薄茶色の物体がさっと目の前を通り過ぎました。そして少し遅れて前掛けをした小太りな男が、大きなスプーンを持って駆け込んできました。それは台所を取り仕切っていたあの嫌味な男でした。
「大切な魚を盗みやがって。あいつめ! ただじゃおかないぞ!」
男は大きなスプーンで茂みや物陰をつつき始めました。しかし「あいつ」が一向に見つからないので、やがてスプーンを放り投げると、一言二言わめき散らしてどこかへ行ってしまいました。
エレンがちょっといい気味だとほくそ笑んでいると、今度は上の方から何かが割れる音と人間の悲鳴、それにボヨーンとかタンタタタンといった音がしました。見れば、三階の小窓から靴が片方飛び出し、遅れて飛んできたもう片方をかわすように躍り出てくるものがあります。もっさりとした毛にピンと立ったしっぽ。あれはレネです!
「あ!」
やっぱりレネはこの島にいたんだ! エレンが呆気にとられていると、先ほど靴が飛んで来た小窓から生っ白い男が顔を出して叫びました。
「いたぞ! こっちだ!」
しかし男が仲間を呼んでいる間に、レネは屋根をつたって隣の塔の小窓に消えました。
衣装を持ってのんびりと歩く女たちの間を縫うように階段を駆け上ると、先ほどレネがいたと思われる部屋に出ました。楽師たちが練習をする部屋らしく、弦を張ったギターのような楽器や太鼓、様々な長さの笛が置いてあります。先ほどレネを発見した男は、武装した兵士たちに、窓の外を指してなにやら説明していましたが、男の話を聞かずとも、ここで何があったかは想像できます。弦の切れた男の楽器、割れた花瓶と、それに生けてあったであろう花を片付けている人たち。戴冠式に向けて楽器の練習をしていたところにレネが入ってきて、花瓶を落とし、楽士たちを驚かせたのです。エレンはレネに代わってみなさんにお詫びをしようかとも思いましたが、衛兵たちの手に槍が握られているのを見て、何も言えなくなってしまいました。そこでなるべく平静を装って塔へ続く回廊へ、足早に向かいました。
回廊を抜けて、レネが入った塔に続く細い階段を上がると、そんなに広くはないけれど調度の整った心地の良い部屋に出ました。小さな暖炉に、文様の彫られたどっしりとした椅子。ふっくらした枕と布団のあるベッド。レネはというと―いました、いました。南からの光の入る出窓でのんきに毛繕いをしています。
「レネ! お前がひどいことをするから、ここの人たちが探しているの、知っているの」
エレンが必死に話しているのに、レネはまったく気がついていない風です。
「とにかく見つからないうちに逃げなきゃ。僕の言っていること、聞いているの?」
こう言い終わるか終わらないうちに、レネが伸びと欠伸をし始めたので、エレンはがっくりきました。けれどもレネの意志を確認している暇はありません。
エレンは腹を決めて、レネをぐいと抱きかかえました。するとさすがのレネも驚いて、薄いブルーの二つの目でエレンを見返しました。なにするの、とでも言いたげです。しかしエレンはレネの訴えを無視して、近くにあった木箱に押し込みました。この部屋の持ち主が宝を持ち帰るのに使ったのか、きちんと蓋がついている箱です。これなら通りすがりの人にレネを見られる心配もありません。しかし当のレネが這い出ようと暴れるので、蓋は中身を隠すという役目を果たせそうにありません。
「レネ、頼むからじっとして! レネのためだから」
しかしレネは一向に言うことを聞かず、抑えても抑えても出てこようとします。と、突然背後で低い、よく響く声がしました。
「ここで何をしている」
がちゃがちゃと金属のぶつかる音をさせながら近づいてくる足音がします。エレンは恐る恐る後ろを振り返りました。
太くてどっしりした二本の足が最初に視界に入りましたが、すぐに髪の毛とひげの区別がつかないくらい、毛で覆われている顔しか見えなくなりました。というのも、片方こそ眼帯をしていますが、もう一方のギラギラした目玉が、エレンをじっと覗き込んだのです。エレンは頭が真っ白になってしまいました。と、その隙に宝箱からレネが飛び出しました。
「あ」
しまったと思ったときには時すでに遅く、レネは大男の前に躍り出ていました。しかし男はあろうことか、びっくりするような甘い声でこう言ったのです。
「エームンド!」
エレンはぽかんと口を開けました。この男はレネを知っているようです。しかも料理長や楽士と違って、まるで敵意はありません。
「可哀想に。怖かっただろう。怪我はないか?」
体に似合わない猫なで声を大男が出すので、エレンは少しおかしくなってしまいました。もしかしてレネを匿ってくれたいい人なのでしょうか。しかしエレンが気を緩めたその瞬間、男は今までとは打って変わってどすの聞いた声でこう叫びました。
「侵入者だ! 捕まえろ!」
男の声が部屋に響き渡ってまもなく、どたどたと階段を駆け上がる音がして、エレンはたちまち数人の衛兵たちに縄で縛られました。
「エームンドが危うく誘拐されるところだった。子どもとはいえ、油断ならん。ただちに地下牢へ連れて行け」
衛兵たちはエレンを歩かせるために縄をぐっと持ち上げました。縄から飛び出した繊維が腕をチクチク刺します。
「ちょ、ちょっと待って! 僕は自分のものを取りにきただけなんです」
エレンはこのまま連行されては大変と、慌てて弁解しました。
「自分のものだと。はははははは!」
眼帯の王様が後ろに大きくのけぞりながら笑ったので、鎧がしなってミシミシ言います。
「エームンドは次期国王だぞ。それを自分のものだと思い込んでさらおうとするなど不届き千万」
「次期国王だって? まさか! だってこれは僕の猫だ」
「ねこ? なんだ、それは」
王様は本当に分からないという表情です。
「なんだって言われても。そうだなぁ。猫というのは人間とは別の種類の生き物で・・・人間と一緒に暮らしても王様には向きません。だいたいこれは雌の猫ですよ。だからエームンドなんて男の名前をつけること自体おかしいんだ」
王様は怪訝そうにエレンを見ました。
「ふん。なにを言っておる。この立派なひげを見ろ。これこそまさに男の中の男。ヴァイキングの王たる威厳に満ちあふれているではないか」
「えぇ? 違います! これはひげじゃなくて毛。猫っていうのはみんなこういう毛をまとった生き物なんです。雄でも雌でも」
「いや、こんな類い稀なるひげは王にしか生えん。わしもひげが生え揃った頃は美しいと評判だったが、エームンドほどではなかった。こやつはわしを上回る大王になるかもしれん」
「どうしたら分かってくれるんです。とにかくこの猫は僕のものなんです。お願いだから返してください」
エレンは半べそをかきながら懇願しました。しかし王様は聞く耳を持ちません。そこでエレンは最後の希望を持ってレネに訴えかけました。
「レネ、お前だけでも逃げるんだ。王様になんかなりたくないだろう」
しかしレネは素知らぬ顔で王様の腕の中でまどろんでいます。
「レネ! レネったら! 僕のこと、分からないの?」
「こやつは頭がおかしい。とっとと牢へぶち込んでしまえ!」
兵士たちは王命に従って、すぐさまエレンを連行しました。地下牢に引きずられていくエレンの悲痛な声は、螺旋階段をつたって残響をどんどん生みます。しかしやがてそのこだまも地下牢へ吸い込まれてしまうのでした。