第3章 夜の街を駆け抜けて
●これまでのお話
妹が優勝杯に吐いて、そのぬいぐるみを捨ててしまったエレン。
するとその夜、妹は猫になり、怪しい二人組が現れる。
風になびくカーテンの間から姿を現したのは、奇妙な二人組。ひょろりとした口ひげの男と、ずんぐりした小男で、子ども部屋には似つかわしくない黒いスーツを二人とも着ています。
「おい、坊や。我々の言ったことが聞こえなかったか? そいつをこっちへ渡すんだ!」
すましたつば折り帽子を直すと、ひょろりがベテラン俳優みたいに言いました。すると、待ってましたとばかりに、小男が肉付きのいい指の準備運動をはじめます。
「さもないと痛い目に遭うぜ」
「そいつって何のこと? 僕、おじさんたちが欲しがるようなものは持っていないんだけど」
エレンは猫をクローゼットの奥に押し込みました。
「隠したって無駄さ。そこにいるのは分かっているんだ」
小男がげしげし笑うので、蝶ネクタイとサスペンダーが窮屈そうに伸び縮みします。
「なんで猫なんか欲しいの。この猫、とっても質が悪いのに」
エレンがこう言うと、のっぽは同情するように、あご髭を撫でました。
「ははぁ。坊やもやられたのか」
「え? えぇ、そう。だから渡すわけにはいかないんだ」
「それなら心配無用。我々が取り返してやるから猫を渡しなさい」
ひょろりは至極ジェントルに手を差し出しました。しかしエレンは一歩後ずさり。
「取り返すってどうやるの」
「どうやるか、だって? やり方なんてどうにでもなるさ。毒を盛って吐かせてもいいし、そいつのお腹を切ってもいい」
小男がぺらぺらしゃべるので、ひょろりは相棒を思いっきりげんこつで殴りました(かわいそうに小男は舌を噛みました)。そして仕切り直しに咳払いをすると、のっぽはナルシストっぽく、こう言いました。
「その猫を渡してくれないかね。そうすれば君には手を出さない」
「嫌だって言ったら?」
「我々だっていたずらに罪を増やしたくはない。しかし協力しないとなると、痛い目を見てもらわなければならない。我々はその手のことに長けているのでね」
帽子の奥の男の目が細くなったとき、エレンはまずいと思いました。敵は大人二人で、エレンは子どもです。普通に考えれば勝ち目はまずありません。
ここは一発逆転を狙うしかありません。エレンは聞き分けのいい子どものふりをしました。
「絶対に傷つけないって約束してくれる?」
「約束しよう。さぁケージを」
小男がケージを持ってくる間、エレンは気が逸り、猫を抱いている自分の身体が、それに追いつかないように思えました。
しかし小男がケージの扉を開けようとした瞬間、エレンはケージを思いっきり蹴っ飛ばしました。小男の豚鼻がさらに上向きになるくらい。
「この悪童が」
のっぽがエレンを捕まえようとすることは想定の範囲内でした。しかしいざ手が迫ってくると、足がすくんで動けません。間抜け面の小男と違って、ひょろりに立ち向かうだけの勇気を、エレンは持ち合わせていなかったのです。
エレンは思わず目をつむりました。しかし次の瞬間、ひょろりの悲鳴が上がったではありませんか。
「ぎゃっ!」
見れば、猫がひょろりの顔を引っ掻いています。エレンは呆気にとられました。
しかし猫の方はどうってことないといった雰囲気で、エレンをちらっと見ると、のっぽに後ろ足キックをお見舞いして、華麗に部屋を飛び出しました。まるで今のうちだから遅れないでよ、とでも言うかのように。
「お父さーん、お母さーん!」
猫のおかげで冷静さを取り戻したエレンは、階段を駆け下りながら、ありったけの力を込めて叫びました。
危険な二人組が迫ってきているとはいえ、お父さんが駆けつけさえすればこちらのものです。お父さんはエレンを守ってくれるでしょうし、お母さんが警察を呼ぶに決まっています。しかし両親の反応はまったくありません。家の中でこんなことが起きているのに!
「ははは! そんなことをしても無駄だ。大人は疲れているからな」
ひょろりが高笑いをしながら近づいてきます。
エレンは変な汗が背中をつたうのを感じながら、震える手でなんとか玄関の鍵を開けました。
すると、幸運にも目の前に自転車があります。それもマウンテンバイクです。お父さんが買ってきたものの、プレゼントするタイミングを逃してしまったのしょうか。
サドルを調整していないので万全とはいえませんが、この際贅沢は言っていられません。エレンはひらりと跨がると、全速力で夜の町に飛び出しました。
夜のベルゲンは、ライトアップされている世界遺産・ブリッゲンを除くと、所々にある街灯しか明かりが点いていません。エレンは家の前の下り坂を最大限に利用して、その街灯たちの間を風のように走り抜けました。
耳元で夜がひゅうと鳴り、かごに入った猫の耳がはためいています。しかしこんなに速く走っているのに、あの二人組の乗った車はいつまでたっても器用についてきます。
エレンは生まれたときからこの町に住んでいるので、かなりマニアックな横道に入ったりもしました。けれどその横道が終わったあたりで二人組が待ち伏せしているという具合に、巻ききることができません。
おまけに向こうは車に乗っかっているだけですが、エレンときたら動力源はエレンなのです。最初は坂道でついたスピードの貯金がありましたが、ずいぶん前にすっかりなくなって、息がだいぶ上がってきています。このままレースを続けたら、エレンに勝機はありません。
大学前のやりかけ線路に差しかかったとき、エレンはへとへとに疲れていました。本当はもっと平坦な道に逃げたかったのですが、二人組が先回りしていて、大学へ続く上り坂を行くしかなかったのです。
エレンは泣く泣く、立ち漕ぎに切り替えました。しかしタイヤはどこかでパンクしてしまって、全然スピードが出ません。ハンドルが右に左にふらふらして、歩いているのと変わらないくらいしか進まないのです。
「パンクしているじゃないか」
車から出てきたひょろりが、わざとらしく言いました。小男も応戦します。
「歩いた方が速そうだぜ」
悔しいけれど、二人組の言う通りです。もう自転車では埒があきません。エレンは諦めて自転車を下りました。猫も倣ってカゴから飛び降ります。
「最初からおとなしく渡せばよかったものを」
刑事ドラマの種明かしみたいに、勝利を確信して追いつめていくやり方でひょろりが近づいてきます。エレンはひょろりから視線を外さないまま、手探りで猫を抱き寄せました。
「そうすれば坊やは痛い目に遭わずにすんだのになぁ」
ひょろりはさも不本意だとでも言いたげな猫なで声を出しました。しかし次の瞬間、男は豹変しました。
「さぁ遊びは終わりだ。猫を渡せ!」
男の長い指がぬっと伸びてきます。
エレンは頭をフル回転させました。しかし冷静にならなければ、と焦れば焦るほど逆効果です。いくら回してもどこへも行けないハムスターの回し車をエレンは思い出しました。
だめだ、もう捕まる―エレンがそう思った瞬間、どこからかチン、チンという音がしました。
それはやりかけ線路をやってくる黄色いトラムでした。顔は最近よくある鼻面の長いのとは正反対で、少し幅の広い電話ボックスといったところ。全体的に細身で頼りなく、カタカタいう音といい、まるで遊園地のおもちゃのようです。
「兄貴、なんか来ますぜ。このままだと轢かれたりして」
車の中の小男は不安を漏らしました。車はやりかけ線路上に止まっているのです。
「ええい、自分でなんとかしろ! 廃車になったら給料から天引きだ!」
部下のSOSを受け流すと、ひょろりは再び、苛々と手を伸ばしてきました。けれどエレンたちの方が一枚上手でした。
ひょろりの手が届く直前に、カーリングのように思いっきり勢いをつけた自転車を、エレンはお見舞いしたのです。パンクしていたので、敵を倒すほどのパワーはありませんでしたし、むしろパタンと倒れただけでしたが、まさかそんなカードがあると想定していなかったひょろりは十分怯みました。
「何をする! あ! こら、待て!」
すかさず逃げ出した猫を見て、ひょろりは反射的に走り出しました。しかしエレンがその行く手に足をぐっと突き出したので、男はほんの一瞬無様に空を泳ぐと、まもなくびたんと倒れました。
他方小男はというと、エレンを勇気づけたトラムの音にたいそう怯えていました。しかしいよいよあと数メートルでぶつかるというところで、男は車を急発進させました。ところがその進んだ方向というのがよくありませんでした。エレンに転ばされて膝を打ちつけた相方が、傷口をふうふうしているところに、あわや突っ込みそうになったのです。
ひょろりは身軽だったのでなんとか無事でしたが、街路樹に突っ込んで車を停止させた小男は、こっぴどくののしられました。
「このとんま! 俺を殺す気か! 一体どこに目をつけてやがる!」
さて二人組がとんだ喜劇を演じている間に、あの陽気なトラムは二人組を追い越して、エレンの少し先を走っていました。猫は余裕たっぷりにトラムと並走していて、しっぽの青いリボンがはらはら翻っています。
「このあとどうしよう? 家に帰る?」
猫は流し目でエレンを見ると、ゆっくり一回瞬きをしました。しかしふいにスピードを上げると、すっと黄色いトラムに飛び乗りました。
「これに乗るの? でもこのスピードじゃすぐに追いつかれちゃうよ」
ようやく二人組が車に乗り込んだのを、エレンは目撃していました。しかし猫はいいから乗ってよ、とでも言うようにあごでしゃくります。
他に方法があるわけでもありません。エレンは徐に取手に手を伸ばしました。
片手で握っただけでもリズムが狂って足がもつれます。きちんとトラムの呼吸に合わせないと乗り損ねるだけでなく、大怪我をしそうです。
エレンは少し時間をとって、足の回転を立て直しました。例の二人組の車が背後に迫っていますが、不思議と焦りはありません。
落ち着いて呼吸を三つで整えると、エレンは踏み切りました。一瞬身体がふわっと浮いて、続いてぶわっと後方へ飛ばされるような感覚。しかし腕にぐっと力を入れると、足はもうステップに乗っていました。
「大人をからかうのもいい加減にしろ!」
いつのまにかトラムのすぐ横にいた車から、ひょろりが身を乗り出します。しかし次の瞬間、驚くべきことが起こりました。
「な、なんだ。これは」
まるでこの絶妙な間合いを待っていたかのように、トラムが浮き始めたので、ひょろりはすっとんきょうな声を上げました。
「すげぇ・・・」
空を掴んでばったり倒れかかってきたひょろりの下で、小男が声を漏らします。
しかしその間にもトラムは上昇して、口をあんぐり開けた二人はみるみる小さくなっていきます。エレンはさっきから掴んでいた取手を無意識に握り直しました。
まるで風船のようにふわりと浮いたトラムは、まもなく木の高さを越え、やがて家々や教会の屋根もはるか下に見下ろすまでになりました。こちらを見上げていた間抜けな二人組の顔はもう見えず、車がかろうじて見えるだけです。
エレンは目をごしごし擦って見直しましたが、目の前の景色が変わらないことが分かると、思わずその場にぺたんと座り込みました。