第2章 消えたものと現れたもの
●これまでのお話
ノルウェーのベルゲンに住むエレンは、妹が友達の前で優勝杯に吐くという最悪な11歳の誕生日を迎える。
草花のフレーム越しに、エレンは流れる雲を眺めていました。かれこれ二時間、庭から続く草原に寝転んでこうしています。
あのあとーレネが優勝杯にゲロを吐くという事件のあとー、エレンはすぐにでも学校を飛び出したいと思いました。しかし、レネのことで悩む両親に、自分まで心配をかけてはいけないのだと歯を食いしばり、すべてが通り過ぎるのをただただじっと待ちました。
すると、驚いたことに、花火をぐるぐる回したときの残像みたいに、みんな現れては過ぎていきました。だからエレンは自分が意外と傷ついていないし、タフにできていると思ったほどでした。
けれどもそれはまったくの勘違いでした。なるほどエレンは家に帰るまでは、いえ、正確には自分の部屋に入る直前までは、本当に平然を装えていました。しかし無造作に置かれたレネのリュックを見た途端、胃の中のどんよりしたものがエレンを飲み込みました。
リュックから耳だけ覗かせていたフラッフィを乱暴に引きずり出すと、エレンはあっという間に庭へ飛び出しました。そして庭との境界線が曖昧な草原を突っ切って、その終わりまでずんずん進むと、力一杯フラッフィを投げました。
ふ、わ・・・。
綿しか入っていないフラッフィは、きれいな弧を描いて舞い上がりました。アイボリー色の身体が夏の終わりの夕空に映えます。
しかし時間と重力は残酷にも、フラッフィの足を引っ張らずにはいられない性分でした。ですからまもなく彼は、崖の下の黒い森に向かって落ちはじめました。
視界から消える直前、フラッフィと目が合って、エレンは急にこわくなりました。いつも同じ顔しかできない人形なのに、なにか訴えているような・・・
「・・・レネなんかいなくなっちゃえば、いいん、だ」
口をついたことばが予想よりずっと震えながら耳に入ってくると、目頭が熱くなって、エレンは声を上げて泣きました。
レネが僕の妹じゃなかったら。レネがあんなことをしなかったら。どうしてレネは、他の同い年の子たちと同じように振る舞えないのでしょう。
レネの場合、ヒステリーが最高潮に達すると、身体に溜まった毒を出すように吐くのです。さっき食べたごはんも、何も食べていないときも、嗚咽しながら戻しました。
あるときは壊れたCDプレイヤーのように、ブルーペンギンズの応援歌を繰り返し歌うのをお父さんに注意されて、またあるときは友達が器用に作れる花輪が自分では作れなくて、レネは泣きじゃくり、嘔吐きました。
しかし両親は慣れたもので、そのことでレネを怒ったりしません。レネが出すものを出してしまうと、顔色一つ変えず、家や車や鞄に常備してあるお掃除セットで、レネの吐いたものを手早く掃除しました。そして反省するでもなく、ぼおっとしているレネの頭を、石けんの匂いのする手で撫でると、ぎゅっと抱きしめるのでした。
しかしレネが小学校に入ることになって、事情は変わりました。おばあちゃんは「この子は親に甘えているだけ。自分だけになったら意外にしゃんとして癖もなくなっちゃうわよ」と言いましたが、エレンはそうは思えませんでした。
いつからか冷ややかに観察するようになったエレンの結論では、レネの「リバース」はいつでもどこでも、誰といても起こるのです。そしてそのことは両親にもよく分かっていました。だからこそ両親は、エレンに学校での後見人を頼んだのです。エレンは初日にして失格になってしまいましたが。
夕暮れ時の風に乗った気の早いトンボが目の前に飛び込んできて、エレンは我に返りました。日はとっぷり暮れています。
太陽と同じくらい赤くなった鼻をエレンはすすりました。涙の流れるままにしていたので、涙の跡が水気を失って頬が突っ張ります。
エレンが頬を手で拭っていると、家の方からブロロロという車のエンジンをかける音がしました。
お母さんが何度もごめんなさいと言いながら、ヤンセン先生を見送る様が想像できます。エレンはやおら立ち上がりました。
ピンクとオレンジと薄むらさきのグラデーションの空に紺色が混ざり、港には観光客向けにライトアップされたブリッゲンや街の明かりがぽつりぽつりと見えます。
エレンは鼻をすんとすすると、土手をのぼりはじめました。つまりがとれて、むせるような夏草の匂いが鼻を通り抜けます。
その夜の食事はあまり味がしませんでした。それは冷凍のグリーンピースを食べたせいかもしれないし、レネのいない食卓で会話があまりなかったせいかもしれません。あるいはただ単にエレンの舌がおかしくなったのかもしれませんが、とにかく噛んだということしか記憶に残らない食事でした。
夕食後、エレンはいつも見ているアニメを見て、いつもの時間に歯磨きをして、いつもの時間にベッドに入りました。何もかもびっくりするくらいいつも通りでした。けれどエレンはなかなか寝付けません。
なんて長い一日なのでしょう。ベッドに入るまでに沢山のできごとがあったのに、まだ一日が終わってくれないなんて!
エレンはふと今朝のことを思い出しました。十一歳と新学年のはじまり、そして―。
あんなことがあったので、今週末に予定していたエレンの誕生パーティは絶望的でした。考えてみたら、誕生日当日の今日もお祝いしませんでしたっけ。その分週末のパーティに期待したいところでしたが、友達とはできるだけ会いたくありませんし、なにより自分が楽しめないであろうことは想像に難くありません。
そういえば、お父さんが約束してくれたマウンテンバイクはもう買ってあるのでしょうか。エレンは去年の誕生日に欲しかったのですが、もう一年したら少し大きいけれど、大人用のきちんとしたものを買ってあげよう、そうしたらずっと使えるから、と一年お預けになっていたのです。
そうこうしているうちに、エレンは眠り込んで夢を見ました。最初はお父さんとマウンテンバイクでツーリングしている夢です。しかし途中からとても変な夢に変わりました。
それは、自分の手も見えない暗い部屋にエレンと何者かがいて、その連中がエレンを食べるというものでした。しかしエレンの身体はゼリーのようなものでできていて、痛くもなければ血も出ません。けれど誰かに身体を食べられているのは分かるのです。
エレンはやめてほしいと伝えようとしましたが、声も出なければ身体を動かすこともできません。エレンがなんとか目で訴えようと真っ暗闇を見つめると、きらっと光った目がいやらしく笑います。
胸がむかむかして目を覚ますと、青く澄んだアーモンド型の二つの目が、エレンを見下ろしているところでした。
「猫?」
エレンはそいつにお構いなく、身体を起こしました。すると猫はすとっとタンスの上に飛び移り、ぴんとしっぽを伸ばすと、エレンを見つめ返しました。
月明かりに照らされた、所々黒い模様の入ったグレーとベージュのふわふわの毛。それにアイスブルーのつぶらな瞳。エレンはこの猫がノルウェージャンフォレストキャットだと分かりました。猫好きなお母さんと図書館で図鑑を借りたことがあったのです。
それにしてもつんとした耳がくるくると動いて、いかにもいたずらそうな子猫です。首輪をつけていないので飼い猫ではなさそうですが、野良にしてはとても美しい猫です。一体どこから入ってきたのでしょう。
「こっちにおいで」
エレンは手を差し出しました。しかし猫は堂々と無視して、毛繕いを始めました。
なんてふてぶてしいのでしょう。エレンはふうっと溜息をつくと、ベッドを出て窓を開けました。
「早く出て行ってよ。僕は疲れているんだ」
猫は顔を上げると、意外だ、とでも言いたげに目を丸くしました。しかしエレンが痺れを切らして近づくと、ぱっと廊下へ飛び出しました。
「あ! そっちじゃないってば」
廊下に出ると、細く開いたドアの向こうに、猫のしっぽがちょうど消えていくところでした。エレンは慌ててドアノブに手をかけました。早く猫を連れ出さないと、怯えたレネがお布団にすっぽりくるまって立てこもることになってしまいますから。
しかしベッドには、エレンが想像していた潜伏小山はありません。ペールブルーに染まった部屋には、捲られたふとんの向こうに猫がいるだけです。
レネはどこに行ったのかしら。部屋を見回してすぐ、エレンはピンときました。クローゼットの扉が少し開いています。
「おーい、レネ。大丈夫だから出ておいで」
昼間のことがあったので、エレンは変に優しい、気を遣った声で話しかけました。しかし返事はありません。まだかくれんぼを続けたいのかしら。いや、もしかするとレネは猫からではなく、自分から逃げているのかもしれません。
エレンは小さく溜息をつくと、クローゼットに向かって再び話しかけました。
「お兄ちゃんは猫を捕まえて出て行くから。そうしたらベッドに戻るんだよ」
エレンは宣言通り、えいやっと猫に掴みかかりました。しかしエレンの腕は空をつかんだだけで、猫はあろうことかクローゼットに逃げ込みました。
「あ、こら! だめだってば」
エレンは慌ててクローゼットを開けました。しかし中にあるのは、ハンガーに吊るされたレネの服と、その下の猫だけ。
「レネが・・・いない」
エレンは頭が真っ白になりました。一体いつからレネはいないのでしょう。ヤンセン先生の車で一緒に帰宅して以来レネのことは見ていませんが、お母さんが寝かしつけたのは間違いありません。
エレンは猫をつかまえると、赤ちゃんをあやすようにぶんぶん揺らしました。
「おい、猫。レネをおどかして、どこに行かせたんだ」
猫はにゃーと鳴きましたが、まんざらでもないようです。しかしふと目を白黒させると、鳴き声とは言い難い奇妙な音を出しました。それは恐竜が喉を鳴らすような、低く、腹の底から出るげっぷでした。
うっとりと余韻を楽しむ猫を見て、エレンはおかしくなってしまいました。そういえばこの猫のお腹はでっぷりと出ています。それでエレンの上に乗ったときも、あんなに重く感じられたのでしょう。
「おい、猫。お前、何を食べたんだ! この食いしん坊? もしかしてレネを食べたんじゃないだろうな?」
鼻をフンと鳴らすと、そんなわけないじゃないという風に猫は顔をぐしゃっとしました。
「そうだよな。お前はレネを食べるには小さすぎるもの。でもそうだとしたら、レネはどこに行っちゃったんだろう」
エレンは泣きたくなってきました。たしかにレネは手のかかる子です。レネなんかいなければいいのに、と思ったこともあるし、今日なんて本当に言ってしまいました。しかし本当にいなくなってしまうなんて!
エレンは途方にくれました。もう考えつくのは、レネが家出したか、ふとんの中でいじけているうちに猫になってしまった、というばからしい考えくらいなのですが・・・
「あ!」
ロイヤルブルーのリボン。レネの薄い黄色の髪に似合うから、とお母さんが買ったリボン。それをこの猫はしっぽにつけています。
レネはこのリボンがお気に入りで、トレードマークのようにいつも身につけていました。レネがそのへんに放っておくということはまずないし、猫に結んであげるのはもっとありえません。エレンはことばを失いました。
レネが猫に? そんなこと、ありえません。しかしレネはいなくて、猫がいて、しかもその猫はレネのリボンをつけているのです。
「そいつをこっちへよこしな、坊や!」
威圧的な男の声が、突然響き渡りました。
お父さんではない声。エレンはおそるおそる振り返りました。