第12章 ドラゴンの試練
●これまでのお話
ヴァイキングの王子にされた猫を救うため、本当の王子・リンを連れ戻したエレン。猫とリンを入替え、ドラゴンの試練は本来の通りリンが受けるはずだったがーー
生暖かく湿った洞窟を滑り落ちたエレンは、岩壁にぶつかってやっと止まりました。おかげでエレンを悩ませていた重い兜は脱げ、鈍い音を立てた装身具は留め具が狂ってしまったのか、身体を起こすとすぐに剥がれ落ちました。
まだ目眩がしましたが、忌々しい猿ぐつわをほどくと、エレンは自分が落ちてきた入り口の方を見ました。夜なので光は差し込みませんが、遠くの方でこことは違う風の音がしています。エレンはなんとか這いもどろうとしましたが、岩壁は予想以上に勾配がきつく、おまけにぬらぬらした苔が生えていて、とても登ることはできません。エレンは途方に暮れました。すると、どこかからにゃーと鳴く声がしました。
見れば、脱げて飛んでいった兜の中から、青い目をしたレネが覗いているではありませんか。妙に兜が重いとは思っていましたが、まさかレネが入っていたなんて!
「僕の頭の上にずっと乗っていたの!」
レネをぐるぐる巻きにしていた布を取り払うと、エレンは小さくなった妹を抱き上げました。温かな心臓の音が感じられます。どんな姿でも、レネにまた会えたことをエレンは嬉しく思いました。しかしレネの方は特に何も感じていないようで、つと耳を動かしたかと思うと、洞窟の奥へ走っていってしまいました。あまり気が進みませんでしたが、エレンは再び妹との追いかけっこに復帰することにしました。
洞窟はとても広く、自然の作った迷路のようになっていました。エレンは途中で蹴飛ばした木切れに火をつけた松明で、あちこち照らしながら進みました。出口のないプラットホームで拾ったマッチを奇跡的になくしていなかったのです。
エレンは分かれ道にぶつかるたびに、レネの名前を呼びました。大概は、洞窟に反響した何重ものエレンがレネを呼ぶ声が返ってくるだけでしたが、ある角に来たとき、エレンは呼びかけに反応するレネの影を見た気がしました。
レネの影を追って迷い込んだのは、洞窟の中で見たどこよりも広い空間。石器の小刀のような、切っ先の鋭いつららのある天井は高く、点在する水たまりの他には石しかない冷え冷えとした場所です。
背中をぞくりとさせるものをふと感じて、エレンは小さくレネを呼びました。すると何かがキラリと光ました。エレンはすぐに駆け寄ろうとしましたが、慌てて一歩後じさりしました。
取り落とした松明の明かりを映すそれは、たしかに二つの目でした。しかしレネの青い目ではありません。赤黒く、レネの何十倍もある切れ長の目。冷酷な笑みを浮かべるその目は、エレンが岩壁だと思っていたものについていました。
一塊だと思われたその岩は地鳴りをさせながら、丸めていた身体を起こしました。鋼鉄の鱗に覆われた身軀が黒光りして、長い首と尾は厳かにしなります。どんな物語に出てくるものよりも荘厳で、畏敬の念を抱かずにはいられないドラゴンの姿がすぐ目の前にあります。
「お前は何者だ」
ドラゴンは口を開かず、エレンに呼びかけました。空気を振動させず、直にエレンの心に語りかけているのです。エレンは何と答えてよいかわかりませんでした。するとドラゴンは目を細めて言いました。
「これが試練のひとつだと思っているのなら安心するがいい。これは三つの問には含まれない」
三つの問。やはりここにいるのは、ヴァイキングの伝説に出てくるドラゴンなのです。エレンは改めて鳥肌が立つのを感じました。
「お前は来るべきものではない。来るべきものはどうした」
「リンは・・・今日来るはずの人は・・・逃げました」
そんな気はなかったのに、エレンの声は震えていました。
「逃げた? とうとう人間め、しっぽを出しおった。こうなれば契約は破綻だ。信用ならない島の人間どもを滅ぼすまで」
瞬きしないドラゴンの目が、獲物を見つけた猛獣のように輝きました。
「ちょ、ちょっと待って! そんなことしないで! これまでに一人ぐらいは臆病者がいたでしょう、いくら勇敢なヴァイキングでも?」
エレンは咄嗟にこう言うと、心当たりがあるのか、ドラゴンは雄々しいしっぽを気ぜわしく動かしました。そして、自分を見て驚いた拍子に足を怪我して、のちに切った者はいたが、それでもこの洞窟には来た、と言いました。エレンにはその足を失ったのが、オレグたちの父、エドヴァルドだとすぐに分かりました。そしておじさんが、ドラゴンは頭が良すぎるから、理屈に合わないことはできないと言っていたことも思い出しました。
「そりゃあその人は来たでしょうよ。だって契約では十七になる日に試練を受けることになっているんですから。でも、今日来るべきだった人が十七歳になってなかったらどうです?」
エレンは一か八かの賭けに出ていました。するとドラゴンは見事に罠に引っかかりました。
「もちろん受ける必要はない。そんなことが万に一つあれば、だが」
ドラゴンはほくそ笑みました。
そこでエレンはこれまでの経緯をおっかなびっくり話してやりました。ひげが生えないために自信を持てないリンが、ドラゴンの試練に失敗するのではないかと怯え、片方の森で薔薇の花を摘んで時を止めてしまったこと。しかし薔薇の種を妖精の女王から取り戻し、再び時を刻もうとしていることを。
「たしかにあの人は臆病者です。時を取り戻す決意をしたはずなのに、試練が迫ったらおそろしくなって僕を身代わりにしました。僕だって腹が立っています。でも変わろうともがいている最中なんです。いますぐは無理だけど、再び時を刻みはじめたら、十七になる日にきっと僕が試練を受けさせます。だからこの島の人たちを滅ぼさないでください!」
話を聞き終えると、ドラゴンは熱い煙の鼻息をふうっと吹き出しました。
「それが本当なら、たしかにその者が来ないことで滅ぼすことはできん。契約では十七になる者に試練を課すことになっているのだから。それにしても妖精の女王はいつも私の邪魔をする。まったく目障りな女だ」
エレンはドラゴンを説得できて、飛び上がるほど嬉しくなりました。しかしドラゴンはそんなエレンの気持ちをぶち壊しました。
「しかしお前の話は嘘かもしれない。本当だと信じる証拠はあるのか」
エレンは狼狽えました。リンのことは嘘ではありません。しかしそれをいま証明することはできません。
「嘘じゃないけど、証明はできません。もし証明できなかったら僕はどうなるんですか。もしかして・・・食べられてしまうんですか」
エレンが本当に不安そうなので、ドラゴンはいじわるく翼を羽ばたせました。
「まさか。私は自分の血を薄めるようなことはしない。けれどお前はここから出ることができないだろう。この洞窟に入った者は試練に打ち勝つまで出ることができないのだ。しかしお前は問いを投げかけるほど成熟していない」
「そんな! ここで死ぬのを待てって言うの。そんなの嫌だ! せめて試練を受けさせて」
エレンは懇願しましたが、ドラゴンは赤い目を少し細めただけでした。
絶望のあまり、エレンの目には涙がこみ上げてきました。泣いてドラゴンが同情するとは思えませんでしたが、思いが涙となってこみ上げてくるのです。本当ならリンが受けるべき試練なのに、資格もないエレンを暗闇に突き落としてこんな目に遭わせるなんて!
悲しさと悔しさと切なさがないまぜになったものにエレンが覆われていると、何か小さくて温かいものが縋ってきました。顔をあげてびっくり。レネがエレンの手をぺろぺろ舐めています。さすがに哀れに思ったのでしょうか。
「いつの間に来たの?」
エレンはレネの喉をかいてやりました。すると不思議なことに、気が楽になっていきます。
落ち着きを取り戻し、もしかしたらいい考えが浮かびそうな気がしてきた頃、エレンはふと悪寒を感じました。ついさっきドラゴンは、試練を受ける年齢に達していないからエレンはここから出られないと言いました。ということは、エレンより年下のレネも当然ここから出られないのです。
考えてみればレネも可哀想です。ドラゴンの試練があるこの世界にやってきたのは、レネ猫の被害者という二人から逃れるためでしたが、いくら悪さをして猫になって分からないとしても、わずか六歳で死ななくてはなりません。エレンと足したって、二人で十七歳。リン一人分・・・エレンははっとしました。こちらの世界で何日も過ごしてはいますが、これがエレンの夢か、こちらでの数日間が元の世界の数時間に値するとすれば、今日はまだエレンの誕生日です!
「なんてことだ! 今日は僕の誕生日だったんだ!」
エレンがつと立ち上がると、ドラゴンは、それは気の毒だと言いました。
「僕にも試練を受ける資格があるんです。だって今日は僕の誕生日だし、僕はレネと足したら十七歳になるんですもの」
「またそんなことを。それが真実だとどうして分かる」
「それは証明できません。でも試練を出してくれたら僕たちはきっと全部こたえてみせます。そうすれば、僕たちが信頼するに足る証明に十分なるでしょう」
ドラゴンは初めて口元を歪めました。かすかに火花が散って、身体の中で唯一白い牙が見えます。
「半人前二人で一人前だと? あぁ、いいだろう。試練を課してやる。しかしこたえられなければ、お前たちはここから出られず、やがてその亡骸がこの洞窟に加えられるだろう」
「試練を受けなくてもどうせここから出られないんだ。喜んで受けてやる」
エレンが息巻いていうと、ドラゴンは早速第一の試練を出しました。
「では最初の問いだ。目に見えず、触ることもできず、匂いもしない。それでもあることが分かり、巣くわれたり、救われたりする。これは何か」
存在はするけれど、実態のないもの。オバケや幽霊は見える人もいるし、空気には匂いがあります。それにドラゴンは何かがそれに巣くったり、それを救ったりすると言いました。ということは何か作用を及ぼすことができるもの。エレンはドラゴンが巣くうこの洞窟のことではないかと思いました。しかし洞窟は触ることができます。エレンはもう一度最初から考え直すことにしました。
「私には永遠の時があるからいいが、そろそろ答えてはどうか」
ドラゴンは目をギラギラさせましたが、エレンは怯みません。
「それは心だ。心は目に見えないし、触ることもできないし、匂いもしない。だけど心があることはみんな分かっている。それにときには悪いものが住み着いて、誰かがそれから助けてくれるんだ」
ドラゴンが爪を立てたので、足元からは崩れた岩がぼろぼろ転がり出ました。
「そうだ。その通りだ。しかし次の問題は分かるまい。さぁ半人前の人間、答えてみろ。それがなければ在ることはできないのに尽きてしまい、尽きたのにまた在ることができるもの。それは何か」
それがあってこそ存在できるのになくなってしまい、なくなったのにまた存在できるもの。なんて難解ななぞなぞなのでしょう。
エレンは学校で勉強しても、それだけではまったく十分でないのだなぁと感じました。しかしこれは授業と違って、分かりませんでは済まされません。なにしろ今後のエレンたちの人生がかかっているのです。エレンは全力で考えました。答えは在ったり尽きたりするもの。ということは先ほどの心とは違い、物質です。しかし物質はなくなればそれきりです。滅びない物質なら原子や分子ですが、この答えは尽きもするのです。なくなっても再生するもの。金属や粘度などの加工できる物質で作られたものなら壊れてもまた作り替えることはできますが、ゼロになることはありません。それにこの答えの大前提は、それがないと存在できないことです。エレンは何か閃いてもすぐにそれが矛盾するので頭がどんどん疲れていくのを感じました。
「これだけ待っても分からないのならば、いくら考えても同じだ。さぁ早く降参しろ」
ドラゴンが鞭のようなひげで空気を震わせたとき、エレンは叫びました。
「命だ。生き物はみな命がなければ存在できない。だけど命には限りがある」
「しかし尽きたのにまた存在するという点は、どう説明する」
ドラゴンがその長い鼻面をぐっと近づけてきたので、エレンの横にいたレネは岩陰に隠れました。
「それはこうだ。たしかに僕たちひとりひとりの命には限りがあって身体が滅ぶ。しかしその子どもや孫が生きて、また命を育む。そうやって命は繋がれていくんだ」
エレンが答えると、ドラゴンは大きく身体うねらせました。
「その通り、答えは命だ。しかし最後の問題は今までのようにはいくまい。せいぜい耳を攲てるがいい。朝は何よりも大切だが、昼は敵対し、夜には縋り付いてくる。それは何か」
ドラゴン秘蔵というだけあって、とても抽象的ななぞなぞです。朝と昼と夜で態度の変わるもの。普通に考えればひどく気の変わりやすいものです。しかし今までの難題が心や命に関するものだったこと、それにこの試練の意義を考えると、ある答えが「僕だ、僕だ!」と挙手してやみません。しかしここで間違えればすべてが終わりです。エレンは頬を叩いてもう一度慎重に考えることにしました。しかしドラゴンがこう嘲ったとき、エレンはそれをやめました。
「どうした、半人前。やはり子どものお前には難しすぎたか。潔く降参したらどうだ」
あぁこれで間違いない。エレンは確信しました。
「それは僕のセリフだ。僕はあなたに負けを認めさせる」
ドラゴンは獰猛な赤い目をかっと開きましたが、エレンはたじろぐことなくこたえました。
「ドラゴンの性分なのか、あなたはずっと人間についての問いを出してきた。それに、そもそもこれは大人になるために受ける試練。では大人と子どもの違いは何か。それは自分だけでやっていけるか、なんだ」
エレンがこう言うと、ドラゴンは最後の悪あがきか、両翼を広げて洞窟の中を飛び回り始めました。
「だから答えは親だ。親がいなくても生きられるようになったとき、人は一人前になる」
「仮に答えが合っているとして、朝昼夜の件はどう説明する? そこまで正解しないとここからは出られないぞ!」
ドラゴンは尖った口を目一杯開けて、轟々と炎を吐き出します。エレンは前髪が焦げているのが分かりました。
「朝昼夜は人の一生。朝に例えられる赤ちゃんにとって、親は自分を守ってくれる何よりも大切な存在だ。だって赤ちゃんはか弱くて、泣くことしかできないから。しかし成長して自由に行動できるようになると、昼に例えられる青年は親に反抗し、ときには対立する。けれど晩年になると対立していた親は老い、子どもの助けなくしては生きていけなくなる。だから答えは親だ」
エレンがすべての謎を解いてしまうと、ドラゴンは雄叫びを上げて、白い光に包まれました。エレンはあまりの眩さに目を閉じました。しかしまもなくまぶたを通して感じる光が落ち着いたので、エレンはそっと目を開けてみました。するとそこには噂に聞いていた、例の金色のたまごがありました。エレンはついにドラゴンに勝ったのです。エレンは岩陰で震えていたレネを抱き上げると、二人で金のたまごを見に行きました。
「この美しいたまごがあの恐ろしいドラゴンだったなんて」
レネの背中を撫でながら、エレンはドラゴンに思いを馳せました。こんなちっぽけなたまごになってしまいましたが、この中には巨大で冷酷なドラゴンが入っているのです。しかしドラゴンというのは、こうやって生き続けるのだとしたらなんて淋しい生き物でしょう。大地が冷えて固まる前から生きているというのに、親もないのです。それに尽きるべき命や通わせることのできる心も。ドラゴンは人間とは真逆なのです。
エレンがそんなことを考えていると、レネはエレンの腕から抜け出して、しきりにたまごのまわりを歩き回りました。あのドラゴンがこのたまごに収まってしまったことが信じられないのでしょうか。
「僕だって信じられないよ。でもこれは伝承の通りなんだ。さぁたまごを持って外へ出よう」
エレンがたまごに手を伸ばした瞬間、思わぬことが起こりました。なんと自分の胴くらいもあるたまごをレネが丸呑みにしたのです!
「なんてことするんだ! レネ、それはドラゴンのたまごなんだよ! 太陽の光にかざして天に昇らせないといけなかったのに!」
たまごを吐き出させようと必死にレネのお腹を押していると、聞き覚えのある声がエレンを呼びました。それは懐かしいオーロフじいさんに、オレグとロロのものでした。
声を頼りに洞窟の出口までたどり着いたエレンは、最後の力を振り絞ってなんとか外に出ました。そしてオーロフとオレグにしなだれ掛かるようにその場に倒れ込みました。あたりはもうすぐ夜明けです。
「エレン、お前はよくやった! すごいよ!」
オレグは若くして試練をくぐり抜けたエレンを、英雄を見るような憧れの眼差しで見つめました。しかしオーロフがエレンを称えながらリンの裏切りを詫びると、エレンはしくしく泣き始めました。
「どうしたんじゃ。いまになって怖さを思い出したかの」
おろおろするオーロフにエレンは首を横に振りました。
「そうじゃない。そうじゃないんだ。ただ金のたまごが」
エレンがこう言うと、レネを抱っこしていたロロも、そういえばたまごはどこ、と聞きました。
「そうじゃ。ドラゴンのたまごを朝日にかざさにゃいかん。どこにあるかの」
オーロフに聞かれるままに、エレンは生気なくレネを指さしました。
「食べちゃったんだ。レネがドラゴンのたまごを」
その場にいた誰もが驚きを隠しませんでした。
「た、食べちゃって。おじいさん、どうしよう。ドラゴンが天に戻らないとどうなっちゃうの。この島は滅ぼされちゃうの」
オレグがこう言うと、小さいロロは怖くなったのか、レネを半ば投げるように下ろしました。
「そんなことにはならないはずじゃが・・・なにせこんなことは今までなかったからのう。わしにもどうなるか分からんわい」
エレンは自分を慰めるために、わざと明るくこう言いました。
「もしかしたらこのままレネの栄養になるかもしれないよ。君たちもたまごは食べるだろう」
「でも相手はドラゴンのたまごだよ? そう簡単に消化されないと思うけど」
オレグがここまでで口をつぐんだのに、そばかすのあるロロは自分の不安を口に出さずにはいられませんでした。
「もしかしたらドラゴンの方が猫を食べちゃうかもしれない。身体の中から!」
ロロは自分で言ったことばを聞いてこわくなったのか、オーロフの服の袖にしがみつきました。
「そ、そ、そ、そんなことあるわけなかろう・・・しかしいずれにしてもリンには責任がある。リンはどこだ」
このときになってようやくエレンはリンがいないことに気がつきました。
「そうだ! 僕、リンさんを一発殴ってやらないといけないんだった。どこにいるの」
しかしさっきまでここにいたはずのリンの行方を誰も知りませんでした。
一同があたりを見回していると、ロロが海を指差して声を上げました。見れば、まだ潮が引ききっていない砂州をリンがずんずん進んでいきます。行く先に見える大陸に逃げようというのでしょう。
「リンのやつ、逃げるもりだ! 早く捕まえないと」
オレグが腕まくりをすると、オーロフはその腕を掴みました。生々しい傷からは膿が出ています。
「この傷はどうした」
「あぁ片方の森で熊にやられたんだ。でも大したことないんだ」
オレグは空元気で腕をぶんぶん振り回してみせました。しかし激痛が走ったのか、苦悶の表情が浮かんでいます。
「そんな傷で行かせるわけにはいかん。もちろん小さいロロもだ。しかしエレン、おぬしは大陸に行かねばならん。このちっぽけな島にはないような解決策を大陸で探すのだ。すまないが、わしはついていくことができん。この非常事態を国王陛下にお知らせし、方策を練らればならないからな」
ここまで言うと、オーロフはエレンの手を堅く握って膝間づきました。
「それからなんとしてもリンに追いついてほしい。殴る蹴るもおぬしの自由じゃが、昨晩はおぬしに悪いことをしたと泣いていた。ひどい問題児ではあるが、根っからの悪人ではない。許してくれとはとても言えぬが、せめて利用してほしい。そして万が一にでも機があれば、あの子のこともたすけてやってもらえないだろうか。こんな目に遭わせたリンのことを頼むのは至極気が引けるが、老いぼれ老人の戯言だと思ってどうか」
オーロフの濁った目に光るものがあったので、エレンは握られていなかった方の手をオーロフの手に添えました。
「レネをたすけるまで絶対に逃がしたりしませんから」
エレンがこう言うと、オーロフはエレンの手を額にあてて何度も何度も頷きました。
「大変だ! あれを見て!」
オレグに言われて、一同は海の方へ視線を移しました。見れば、先ほどリンが歩いていた砂州をレネがひょこひょこ歩いています。
「なんてことだ! あの子はここで預かろうと思っていたのに。これでは大陸へ行くほかないの」
オーロフが頭を掻きかき、本当に間延びした声を出したので、一同は思わず吹き出しました。大陸の方から太陽がのぼり、海の道も、岬もうっすら眩しそう。また新しい一日がはじまろうとしていました。




