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*一歩目*
マモルは困っていた。
少女は一週間前にフラウエン教会から引き取られ、“セビリア”という姓を持つ少年の養子になった…のだという。
引き取られると決まったその日に荷物をまとめられ、少年…レジナルドの乗ってきた豪奢な馬車で引越しを開始。休暇中なんだと呑気に笑うレジナルドによって、あちらこちらの大きな街に寄り道をしながら、本来は馬車でゆっくり進んでも三日もあれば到着するという彼の家へと連れてこられた。
彼の家だという、この邸に着いたのは昨日の夜。ここ一週間連れまわされ、たった十年とは言えど、マモルの今まで食べてきた物すべてを合わせても足りないほどの量を与えられ、お腹が驚きぐったりしていたマモルは、気付いたら大きな寝台に寝かせられており、びっくりして飛び起き寝台から転げ落ちた所である。
結構な高さから転げ落ちたというのに、マモルに痛みはなかった。何せ寝台の横に敷かれている絨毯がふかふかなのだ。マモルの軽い体がバウンドするくらいには厚みがあった。
-…夢ではないようだ。
あまりにも痛みがないので、自分の頬をつねってみたマモルは、正常な痛みが襲ってくるのを確認する。
部屋は、端的に言うとナニコレというように広かった。
マモルは十歳になったばかりの子共で、世の中のことなんて“優しくない”ということしか知らなかった。
マモルは教会にいたことから分かるように、両親がいない。約1年前くらい前に終わったという“戦争”中に住んでいた所が焼かれて二人ともその時に死んだ。
両親が文字通りいなくなった時から、教会に引き取られるまでの間はマモルにとって地獄だった。行き倒れていた所を教会のシスターに拾われてからは、餓死、凍死、誘拐からの危機からは脱したが、正直教会という場はマモルには合わなかった。
しかし見ず知らずの少年から引き取られてからというもの、合う合わないの問題ではなく、一体全体何が何やら分からなかった。
温かいご飯を与えられる、上等の絹で作られたマモルの体型にぴったりの服を与えられる、毎日お風呂に入る、毎日ふかふかの寝台で寝かされる、そして…-笑顔を向けられるのだ。
マモルは笑っていない。一方的に向けられる好意に、警戒し、困惑するだけで、誰に話しかけられても相槌くらいしか打たない。それなのに、だ。
本当はこの訳の分からない状況について、誰かに聞けば良いのかもしれない。だが、対話力の欠片も持っていないマモルには、ただ向けられる笑顔から目を逸らし、身を守る為に周囲を警戒することしか出来ないのだ。
…と、寝台から転げ落ちた状態のまま、部屋をきょろきょろと見まわしていると、控えめだがしっかりと、扉からノックが聞こえてきた。
「フラウ様、セドリックです。お起きでいらっしゃいますか」
セドリック……誰だかマモルには分からない。しかも男の声なので、マモルは無言で立ち上がり、裸足のまま大きな寝台の陰に隠れた。
「フラウ様?」
そして“フラウ”とは、マモルの新しい名前、らしい。義父になったという、少年レジナルドが言うには、フラウは古語で“花”を意味する言葉だそうだ。名前には別にこだわりはないし…というか、両親にもらったはずの名前は二人が亡くなってから忘れてしまった…ので、どんなものでも構いはしない。
しかし、一週間前からマモルを呼ぶ際に、レジナルド以外は“様”をつけるようになったのが問題だった。マモルには不気味としか思えない。
「なにしてるんだ、セドリック」
「レジナルド様?貴方こそ何を?」
扉の外の声が増えた。もう一週間馬車の中で聞き続けてきた声だったからすぐに分かる。
マモルの義父になったレジナルドだ。
「僕は式典の打合せが終わったから」
「まさか陛下に挨拶もせずに帰ってこられたのですか」
「マモルに会いたくてね」
「…まさかそのままをおっしゃって来た、なんてことは」
「いや、そりゃあ言うでしょう。それぐらいの礼儀は持ってるよ」
「言わせて頂きますが、それは礼儀ではありません。どうしてそうやって敵を作るようなことを平然となさるのですか」
「陛下は面白がるだけだろ?」
「陛下のことを言っているのではありません!またオースティン様に何を吹聴されるか!」
「ああ、叔父様か。彼のことは構わなくて良い。というか怒鳴るなセドリック」
「これが怒鳴らずにいられますか!そもそもベルが鳴っていませんでした。また騎馬でご帰宅されたんですか、それがサウスセビリアの領主のやることですか!」
「セドリック。だからうるさい。マモルが起きちゃうだろ?」
口論のようなものは扉の向こう側で続けられている。というかマモルはそもそも起きていたし、あれだけ騒いでいれば誰でも起きる。
「-…もう、起き、てる」
「!マモル」
ぽそり、とつぶやくとどれだけ耳が良いのかレジナルドが気づいた。次の瞬間、レジナルド様お止め下さいという声を無視して、扉が開けられた。
「おはようマモル。良く眠れたかい?」
現れたのは、義父なんていう言葉はどう考えても似合わない、すらりとした少年だった。
本当に外出先から帰宅したばかりらしく、サーコートも脱いでいない。
彼はマモルが生きてきた中で出会った人間のうち、一番きらきらしている。その顔立ちは端正で、髪の毛は滑らかな金色。前髪以外はゆったりと横に一つにまとめている。本人曰く“軍人だから”ということもあって、皮膚は少し焼けているが小麦色までは濃くなく健康的に見えた。
印象深いのは目だった。今は分からないが、馬車などに乗った際至近距離から見ると、レジナルドの黒目は両目で色が少し違う。左目が若干薄めで、視力も悪いそうだ。しかし、その色味の違う両目は常に穏やかに輝いていて、人の目を奪う。いっそ神秘的とすら言えた。
「どうしたのマモル、そんな所で小さくなっちゃって」
レジナルドの笑顔は、マモルでさえ毒気を抜かれるモノだった。出会った頃など噛みついたことさえあるのに、彼はマモルに語りかけるときは常にこの笑顔なのである。
彼は笑みを崩さずマモルの傍に膝をつくと、寝台に隠れるようにうずくまっている彼女と目を合わせた。
「おや、裸足じゃないか。隠れるのは良いけれど、暖かくしないと駄目だよ」
そう言うと、レジナルドは徐にマモルを両手で引き寄せ、何の重さも感じないかのようにひょいと抱き上げ立ち上がる。
「!??」
「あはは。暴れてもお花さんが風にそよいでるくらいにしか感じないよ」
「!」
「おや、お花さんが赤く染まった」
この一週間というもの、レジナルドのマモルに対する言動は砂糖の上から蜂蜜を掛けたように甘い。その度にマモルは引っ叩いたり、蹴ったり噛みついたりしたのだが、レジナルドはマモルが反応を返すだけで嬉しそうにほほ笑むものだから始末に負えなかった。
かくいう今も、マモルはほっそりして見えるのに揺るぎないレジナルドの腕の中でじたばたと暴れ、小さな拳で彼の鎖骨辺りをぽかぽか叩いている。しかし彼は声を上げてくすぐったいと笑うだけで、マモルの小さな体を温めるのみ。
ふわりと柑橘系の香りがして、それがレジナルドから発していることに気付くと、マモルは顔を赤く染めて更に暴れ出した。
そんな微笑ましいような呆れるようなやり取りを繰り広げていると、冷ややかな声がレジナルドの背後から聞こえてくる。
「フラウ様、主に手を上げるとは何事ですか。レジナルド様、ひとまず彼女に身支度をさせて下さい」
声の厳しさに、マモルはぴたりと動きを止めたが、レジナルドは全く意にかえさない。そろりとレジナルドの肩越しに視線を向けると、そこには漆黒の燕尾服を着た真面目そうな青年が立っている。
「僕はマモルの主ではないよ、セドリック。僕らは家族だ」
そう言って、レジナルドはようやっとマモルを腕の中からそっと解放すると、セドリックを振り返ることもなく、また跪いてマモルと目を合わせた。
「昼食、いやきみには朝食兼昼食かな。着替えたら一緒に食べよう」
「レジナルド様、一緒に食事など」
「セドリック」
唐突にレジナルドの声が温度をなくした。立ち上がってしまったので、マモルからレジナルドの表情は見えない。
しかしセドリックはレジナルドの横から見えた。ぴしりと呼ばれた途端、怜悧な顔が強張ったのが見て取れる。
「は」
「僕は同じことを二度言うつもりはない。行け」
「…御意」
セドリックは言葉少なく返事をすると、深く礼をして足早に去って行った。
マモルがセドリックの後ろ姿を睨みつけていると、その視線上にレジナルドが割り込んできた。
「!」
「昨日はずっと移動で疲れたよね?今日はご飯を食べたらゆっくりしようか」
「………」
「ここはね、今日からマモル、きみの部屋だよ」
「-…ぇ」
ゆっくりと言われた言葉を飲み込んでいくと、マモルは部屋を今一度見渡した。
広い。何度見ても広すぎる。
どうやらマモルは寝過ぎたようで、日はもうかなり高い。その日は燦々と部屋へと落ち、初冬だというのに部屋は暖かかった。マモルの足で二十歩以上ずつありそうな正方形の部屋には重厚感のある家具が既に置かれており、大きな鏡台まである。暖色である臙脂色の絨毯が部屋全体に敷かれ、寝台や鏡台といった、留まる時間が比較的長いであろう家具の周囲にはやたらと毛足の長い、ふかふかの白い敷物まで配置されている。
異彩を放つのは寝台である。あきらかに小さなマモルが十人は横になれそうな程に大きい。
天蓋付きのベッドは今はあえて日の光が入るように開放的にされているが、カーテン部分を降ろしたらちょっとした個室になりそうだ。
「なんで…わたしにこんな、部屋」
「気に入らなかった?」
「そういう…ことじゃなく」
「ここが駄目だとなると…自動的に僕と同室になるけど」
「…」
「僕は掃除が苦手でね。二番目に日当たりが良い部屋ではあるから僕は一緒でも良いんだけれど、メイドさんに掃除を頼むのも申し訳ないからすぐには片付かないし…ご婦人を泊めるのはさすがに抵抗があって」
「ごふじん?」
「きみみたいな、素敵なレディのことだよ」
この義父になった少年は時々、マモルの理解を越えた発言をする。
それはほぼマモルの顔を赤くすることが多く、現に今も一気に頬が熱くなった。
「さあ、分かってもらえた所で食事にしよう。着替えは…何色が好きかな?」
鼻歌さえ口ずさみながら、レジナルドは金の装飾も美しいワードロープを開ける。するとその中に所狭しと並べられたドレスが入っていた。
「なに、それ」
マモルはぽかんとその光景を見つめる。彼女がここに着いたのは昨日の夜である。どう考えてもここに来る前から用意されていたとしか思えない。
それともこの家には同じ年代の子がいるのだろうか。
「きみの黒髪に似合うのは、やっぱり赤かな。お、これにしよう」
そう言って、マモルの唖然とした声と顔には気づいていないのか、ご機嫌なレジナルドが取り出したのは、赤に黒いレースが縫い付けられた、ふんわりとしたドレスだった。
「まだきみ付きの侍女が決まってなくてね。今用意してある服は全部一人で着れるものばかりだから安心して。着方は教えるし」
…何を安心すれば良いと言うのか。
-その後、諸々すったもんだの挙句、顔をドレスより真っ赤にして荒い息をついている少女と、なにやらご機嫌な頬に引っ掻き傷をつけた少年が食堂に現れたのだった。