【黒い糸】
【黒い糸】
『本日未明、Y市K区のコンビニにナイフを持った強盗が入り、店員を脅して現金十万円を奪う事件が発生しました。犯人は未だ逃走中です。店員の証言によると、犯人の服装は……』
朝のニュースを聞きながら私は新聞を開いた。目は灰色の紙に印刷された言葉の羅列を追っていたが、私の意識は別に向いていた。
―まだ、付いている―
そう思い、私は新聞を閉じて自分の左手の小指を見た。ここ数ヶ月、私の小指には黒い糸が結ばれている。自分の意思で結んだわけではない。気が付いたら、糸は私の小指に結ばれていた。しかも、この糸は私以外には見えてないらしい。その証拠に糸が付いた日、私は妻に小指を見せて「何だろうね」と聞いてみた。
妻は私の顔と小指を交互に見て「何もついてませんよ」と不思議そうな顔をした。会社の同僚にも同じ反応を返された。初めは、疲れた私の気のせいかと思った。しかし、糸は次の日に経っても私の指に結ばれたままだった。
―もしや、自力で解けと言う事なのかー
そう思った私は、糸の結び目を探した。しかし、それらしいものはない。引き千切れないかと引っ張ってみたが、糸は私の指に張り付いた様にビクともしない。おまけに、鋏を入れようにも隙間がない。糸は私の指から決して離れなかった。しかし、不思議と怖いとか恐ろしいと言う感情は無かった。
何せ、黒い糸が現れてから何も変わった事が起きないからだ。始めは良くない事の前触れかと気を張ったが、一日経ち、二日経ち、一ヶ月も経つと警戒心なぞ何処吹く風。私は普段どおりに生活していた。小指に糸が結ばれていても何かに引っかかる事が無いし、生活に支障は無かった。
―何も起きないなら何の為についているのか―
私は溜息と共に小指を見つめた。会社に行き、仕事をして、妻の作ってくれた弁当を食べ、また仕事に戻る。そして、定時に上がる。昨日と何ら変わりない生活。
―少しだけ、ほんの少しだけ何か起こりはしないだろうか―
私は、同じ毎日に少し、退屈を感じていた。会社や家庭に不満は無い。黒い糸が現れる前は、そんな事すら気に掛けなかった。ただ、黒い糸の出現に伴い自分の日常を気に留めた時、私の毎日は同じ事の繰り返しだと気付いてしまった。
―何か起こらないのかー
ふと、そんな事を考えた。考えた、その時。
―あ―
私の歩みが止まる。否、止められた。私は、徐々に早くなる鼓動に合わせ、ゆっくりと、小指を見た。
―ああ―
私の耳に心臓の撥ねる音が響く。私は、今日まで歩き慣れた帰路を、初めて外れた。毎日通った駅に続く道、その道を外れ、私は小さな路地に入る。歩きを大股に、大股を小走りに、小走りを走りに変え、遂に私は駆け出した。糸の先を知るために。
―こっち、こっちだー
何年も全力で走らなかった体は、急な運動に追いつけず、自然と息が上がる。それでも私は走った。狭い路地を抜け、通りを抜け、私は、無我夢中で走った。
―この先、この先だ―
糸は、今迄の沈黙が嘘の様に私を引っ張り続ける。私は、糸に導かれるままに走り続けた。どれくらい走っただろう。少し意識を周りに移した。狭い路地の先に電車が見えた。何時も帰りに乗っている電車だ。随分と走った様に思ったが、どうやら私は裏道を通って最寄り駅に向かっている様だった。
―何があるのだろう―
そう思った時、急に小指を引く力が切れた。突然の事だったので、私は勢いを殺せず躓いてしまった。
―ぶつかる!―
地面との接触に私は身を硬くした。が、私の体は地面ではなく別の何かにぶつかった。その衝撃で私は尻餅をついた。何が起きたのかと顔を上げると、フードを被った人物が私の前に立っていた。その人にぶつかったのだと気付いた私は、直ぐに謝罪の言葉を口にして立ち上がった。相手は、何も言って来なかった。
―怒っているのだろうか?―
私からはフードの所為で相手の顔が見えなかった。だから、相手がどんな顔をしているのか分からなかった。念のため、もう一度、謝ったほうが良いと思い、私は頭を下げた。その時、私の目に、あの黒い糸が留まった。
「あ」
私は声を上げた。
―糸だー
私の小指から伸びる黒い糸。ずっと謎だった黒い糸。その先が、相手の上着のポケットに入っているのが見えた。私は、慌てて自分の小指を見た。私の小指には、まだ糸が結ばれていた。その糸は、私の小指から相手のポケットに確かに繋がっていた。
「ああ!」
糸の先を突き止めた私は顔を上げ、喜びの声を上げた。その声に、相手が一瞬だけ身を引いた。そうかと思えば、今度は私に向かって来た。ポケットから、相手の手が出る。相手の手に、鈍く光る物が見えた。
「え?」
ドンと言う音がして、私の胸にナイフが刺さる。何が起きたと考える前に、相手がナイフを引き抜いた。胸に、熱く、冷たい感覚が走る。
―倒れる―
空が、ゆっくりと視界に入った。
―糸は?―
体が後ろに引かれている中、私は、自分の小指を見た。
糸は、私が倒れる速さに合わせて、ゆるりと解けていった。
―先は―
どうなったのかと思い、私は探した。顔を巡らすと、私を刺したナイフと相手の手が見えた。ナイフを握った右手の小指。その指から黒い糸がゆるりと落ちるのが見えた。
―ああ、そう言う事か―
運命の赤い糸ならぬ黒い糸。赤い糸は結ばれて、黒い糸は解かれる。赤い糸は愛を結ぶ。では、黒い糸は。
―私が死ぬのは、糸のせいなのか? 糸に引かれて来たのだから、そうかもしれない。しかし―
何か起こればと思った矢先、殺されるとは思わなかった。人生とは、本当に、何が起こるか分からない。
そんな事を考えながら、私は地面に倒れた。
『本日、午後5時頃、Y市K区の○ × 駅付近でナイフを持った男が男性一人を刺したとして現行犯逮捕されました。男は、先日に起きたコンビニ強盗の犯人でもあり、警察から逃亡を図ろうと駅付近に潜伏していた模様です。男性を刺した動機ですが、普段だれも通らない道に、男性が現れ自分を見るなり大声を上げたから刺したと供述しています。刺された男性は・・・』
運命の赤い糸は愛を。
運命の黒い糸は死を。
貴方の手には、どちらの糸が見えますか?
【運命の赤い糸】があるならば、他の色もあるんじゃないだろうか?
そんな疑問から生まれた一作です、後味の良い作品ではないかもしれませんが、読んで下さる方の退屈な時間が少しでも埋まれば幸いです。