99.戦いの末路
ヤバい
色々と
横凪ぎ。なんの工夫もない尾で払う動き。それはまるで子どもが悪戯に積み木の家を破壊するような動きだった。シンプルに、だからこそその過剰な力は目の届くあらゆる世界を破壊せしめようとしていた。
アリスを略奪した者へと目を向けていたセイギには、唐突に空が陰ったように映った。アリスを奪われたことで視界が狭まり、その一撃に気付くことが出来なかった。
間に合うか――一瞬の不安が心を過る。その不安をすぐさま吹き飛ばし、いかにしてこの攻撃を防ぐかに考え及ぶ。腕の中のリズを、守るために。
自身へと迫り来る尾を抑え込むようにして片腕を突っ張る。セイギの筋力ではそれを止めることは敵わない。比べるまでもない。これからセイギが振るうのは神の力。脆弱な人の力とは比べものにもならない、圧倒的なまでの力の塊。
――ゴッ!
急停止した尾と対象的に叩きつける強風。セイギの目の前で不自然に停止させられた黒竜の尾は、その結果に満足していないかのように蠢いていた。その尾が無軌道に加速する。その動きは何者からか逃れようとしているようであり、まさにその通り、黒竜は自らの尾を束縛する不可視の力から逃れようとしていた。
「逃がすかよ!」
セイギが腕を横へ振るう。それに呼応するようにして、黒竜の尾が張り詰める。ギチギチと不気味な音を立てているのは限界が近いせいなのか、敷き詰められたはずの楯鱗と楯鱗の間に隙間が広がっていく。
「俺様を無視すんじャねェよ!」
セイギと黒竜の応酬に付け込もうとする死者が一人、降り注ぐ雨に体を焼かれながらも力を振るう。
骨が、肉が、生者を貪らんとばかりに蠢く。湧き出るそれらは聖なる力に身を焼かれながらも、犠牲の上に犠牲を重ねながらもセイギへと差し迫る。死者にしかできない捨て身の力。おぞましい死者たちの行軍。
しかしそれは地上を這う虫が如く。人の、ましてや死者の手が【神】に届くべくもなく。
セイギが死者の群れを一瞥した瞬間、おぞましい光景は白の炎に包まれて灰と還る。ついでとばかり、カイザルを一瞥、すぐさま黒竜へと視線を戻した。
「舐めるなクソ【死神】があああァァァァ!!」
その遠吠えは、しかし敵うべくもない。
カイザルの意識が離れた隙を狙ってアリスの周囲に三重、土槍が突き出る。完全にアリスの姿が覆い隠される。水がその壁の表皮を覆う。死者には決して触れることができないように。
黒竜は土槍が出現すると同時に不可視の力から解放された。体勢を整えようと一旦距離を取る。
その黒竜を突然飛来した雷が穿つ。眩い閃光が周囲を焼き尽くし、やや遅れて爆音が鳴り響く。
光に焼かれたその黒体は、過分な熱を持ちながらもなおも飛翔を続ける。電流に対する抵抗と耐熱に優れた体躯による賜物か。
その黒竜上空から幾十ものギロチンの如き黒の刃が降り注いだ。巨躯に似合わぬ敏捷な飛行で回避。ほぼ全ての刃を躱しきったと思われた最後の瞬間、黒刃がその尾に食いついた。
突き刺さった刃は尾の中間ほどまで食い込み、巨竜はその刃を振り払わんとがむしゃらに振り回す。かつて人間の住居だったものへと叩きつけられる度、小石とも呼べない石が周囲へと降り注ぐ。
黒竜がその異変に気付いたのはその直後のことだった。
尾へと喰いついた刃、それが形状を変化させていた。次第に丸みを帯び、次第に球体へ――
「ルオオオオォォォ!!」
悲鳴のような雄叫びをあげ、黒竜が身を捩った。それと同時に自慢の尻尾が黒の球体と共に切り落とされた。それを見計らったかのように切り離された尾と球体はみるみる体積を縮めていき、そして虚空へと消えた。
「このトカゲ野郎――」
忌々しそうに、しかしどこか嬉しそうにセイギは呟いた。
今のはセイギが想定した結末ではなかった。かの黒竜が自ら判断し、自らが決断した結果、命を永らえた。
先の黒の球体は接しているものを極限まで圧縮し、最後には自壊して何も残さない力である。世界の常識に当てはめて考えること自体がナンセンスであるかも知れないが、その概念を理解しようとするならば、ブラックホールを想像するのが近いだろう。
そんなことなど理解しようもないはずの爬虫類がその力の危険性を察知して最小限の犠牲を払うことで回避した、それだけで驚嘆すべきだろう。
後ずさるように後方へ飛翔した黒竜が火炎を振りまく。透き通るように深く青く燃え盛る複数の炎弾。竜の巨体と比して極小としか言いようのないセイギにはそのうちの僅かが肉薄する。その熱量は人間にすればひとたまりもないものだ。触れずして気化し、一瞬のうちに灰燼へと帰す。痛みさえ、覚えないかもしれない。
――そんな極小の太陽たちは、しかし地表を焦がしたのみで消失した。
「そろそろ終わりだ」
「グウォアラ!」
セイギの口からそんな言葉が零れる。返答するように黒竜が唸りを上げる。
加速、加速、加速――
黒の輪がセイギの周囲を覆う。風切り音はすでに轟音とも言える域に達しつつある。その姿を捉えることは困難以上、至難とも言えた。
その輪から一条の黒い光が放たれた。誰であろうと、何であろうとそれを回避することは出来ない。刹那、黒竜の牙がセイギを捕らえた。
黒竜の口の端、腹部から下を噛み砕かれたであろう人間の上半身。普通の人間であればどうしようもなく終わっている状況。あとは餌となり、消化され、排泄されるだけ。それが自然の摂理だ。
「これで終わりだよ」
セイギは決して手放すことがなかったリズの頭を柔らかく撫でながら優しく語りかける。
竜の顎がボロボロと崩れ落ちていく。崩れた先からサラサラと砂へ変化し、風に流されて散ってゆく。その様はまるで世界へと還元されてゆく姿を表しているかのようだった。
押さえつけるものが無くなり、当然のようにセイギの体は地表へと向けて落下を始めた。リズを庇うようにして体を丸める。その時確かに、世界には二人だけだった。セイギと、リズと。ただ二人しか存在していない世界。
「だからよォ!俺様を無視してるんじャ――」
「グオアアアアァァァッ!!」
二人の世界を引き裂くように声が大空へと放たれた。まるでカイザルの言葉を引き継ぐように黒竜が吠えている。無力化された者と間もなく朽ちるはずの生物、意識の端にも掛ける必要はないはずだった。
それでもセイギが視線をやったのは、直感としか言えない何かがあったからだ。
浄化の雨に打たれて焼け爛れたカイザルだったものが力を失って倒れ伏す姿。
地面へ向けて直線的に飛翔する黒竜。
その先、黒竜の目指す先、いかに見ようとも無残に飛び散らかった土塊しか存在しない。黒竜の行動は無意味の、無謀で無駄な行動であるとしか思えない。
セイギはその行動の意味を即座に理解した。理解していなければならなかったからだ。
そこにあるのはただの瓦礫ではない。セイギが守ろうとしたその人が、その下で規則正しい呼吸をしているはずだった。
「グワオォォォル!!」
あの質量が飛び込めば当然華奢な少女の体などひとたまりもなく肉塊へと帰すだろう。あの死に損ないの黒竜を殺しただけでは結果は変わらない。集中しなければ。形も残さず、彼の黒竜を殺し尽くさなければ。
落ちる。世界の重力に従って、あるいは強制されてセイギは落ちてゆく。腕の中に抱えた少女を守らないと。地面に叩き付けられるその瞬間まで守ってやらないと。きっと彼女はまたどこかへ行ってしまう。
黒竜が土槍の壁へと肉薄する。些末な命を奪うために全力で滑空する。
アリスは、今日出会っただけの、大した思い出も存在しない少女だ。腕の中のリズと比べれば当然比重はリズへと傾くだろう。リズのためにアリスを犠牲にする、それはセイギにとって当たり前のことだ。そうであるべきだ。
しかし何故だろうか。目を瞑って、見て見ぬふりをするだけで到来する未来を受け入れられないのは。
自身を主人と呼んだ少女。奴隷だった女の子。助けを求められるように向けられた瞳。
――リズが、微笑んだような気がした。
「ごめん、リズ」
セイギは片手を黒竜へと向ける。残った片腕でリズを必死に抱き抱える。決して離さない、そんな思いを体現するように。
怨敵を鬼の形相で睨みつける。イメージするは圧縮。その巨体を極限まで縮めて消滅させること。無闇に力を振るうのではなく、丁寧に、そして大胆に。
瞬間的に黒竜が人間程度の大きさにまで変容した。それはセイギの思い描いた通りだった。しかし黒竜の変化もそこまでだった。
セイギの肉体がしたたかに瓦礫へと打ち付けられる。回る視界。一瞬白濁する意識。一気に吐き出される呼吸。集中力が一気に途切れる。
黒竜がそのままの勢いで土の壁へと突き刺さり、局地的な地震を起こした。体積が縮んだとは言え、それなりの速度だ。軽くはない質量と高速と言える速度、小さくない運動エネルギーを保持したままぶつかったことで土塊は分解され、砂礫となって周囲に降り注ぐ。
「カハッ」
瓦礫の山を転げ落ちる。世界が流動する。そして、時が止まったかのように音が消えた。
「ゴホッ、ゴホッ」
身を強打したせいか砂塵を吸い込んだせいか、咳き込みながらもセイギはすぐさま身を起こす。自身の身を振り返る必要はない。今優先すべきことはただ一つ。身寄りのない少女の命。
「アリスッ!アリスッ!」
瓦礫の山を越えながらも大声でその名を呼ぶ。先程までの喧騒が嘘のようにセイギの声だけが虚しく響く。
「アリスッ!どこだっ!」
瓦礫を掻き分ける。必死になって【死神】が少女の命を探す。まさに倒錯した光景だ。
それでも見つからない。どこにもいない。掘り返す。掻き分ける。投げ捨てる。声を上げる。耳を澄ます。声を上げる。張り裂けそうな声を上げる。
そして、見つからない。
――どこにも、いない。




