98.アンジェリカ
ご無沙汰して申し訳ないです。
――小さい頃から一人だった。
アンジェリカの最古の記憶は一人で花を摘んでいるものだった。
周囲には人っ子一人おらず、閑散とした空気の中を微かに温い穏やかな風が吹き抜けていた。風は遠くの花の香りを運び、鼻腔をくすぐる柔らかな香りは僅かながらに心を癒すようでもあった。
それであっても心に立ち込めるのは暗雲。――あるいは、それを孤独と呼んだのかもしれない。
決して人の立ち入りを禁じている訳でもないのに、近寄る人物は皆無。この音のない世界が子供心に恐怖を覚えさせるのもやむを得ないだろう。だからといって心慰める遊戯を共にできる親しい友人が居るわけでもない。
花の芳香に飽いたわけではないが、一人で延々と花畑を満喫することにも困難を極める。
出来上がった七つ目の花の冠を戴冠し、そして手遊びの手段をなくしてどうしようもなくなり軽く吐息を漏らす。
心を波立たせるものは一切存在しない代わりに心を浮き立たせるものもありはしない。ただ静かに、その空気に身を委ねるしかない。
ただ一人、世界に取り残されたようだった――
不意に目覚めて周囲の圧倒的な量の砂埃にむせ返った。
「ごほっごほっ」
咄嗟に手で口回りを覆うが未だに砂の濃厚な香りは消えてはくれない。歯を食い縛れば砂利を噛むような感触。
世界は暗黒に呑まれ、生の希望さえ抱かせない。世界の終わりがあるとすれば、きっとそれは今のような状態なのだろう。
どれ程意識を失っていたのか、身動ぎした体からはパキパキという小気味のよい音が響く。
辿る。記憶を辿る。何があったのか、何が起こったのか。
初めは鳥だと思った。次は大きい鳥だと思った。違和感を覚えたのは見る見るその大きさを増し、鳥では到底説明のつかない大きさになった頃だった。その瞬間総毛立った。
リックは本能というものを殆ど信じていない。それを知識と理性で超えたのが"ヒト"であると常々考えていた。しかしそれは所詮机上の空論でしかなかった。今にして思えばそれは知らぬ者の傲慢だった。
その姿を認めた瞬間、恐怖、諦観、そんなものが綯い交ぜになった衝動がリックを襲った。
圧倒的強者と圧倒的弱者。狩るものと狩られるもの。どうしようもないほどに、リックは後者だった。
――何が竜退治だ、何がドラゴンキラーだ。
そんなものは無理だ、出来るわけがない。人の身で神に触れることは赦されない。太陽に届くわけがない。
竜殺しで認められる? 死んでしまえば元も子もないというのに。
すべては一瞬だった。
その黒の存在は、恐怖で引き攣ったリックを一瞥することさえもなく、巨大なその尾で周囲を凪ぎ払いながら飛んでいった。まるで玩具のように吹き飛ばされる民家。木の葉のように錐揉みする街路樹。リックがその一撃に直撃しなかったのは、ただ運が良かっただけだ。しかしその後は運良くとはいかない。瓦礫が、砂礫が頭上に襲いかかる。避けようか、そんなことを考えたところで体は動くことさえままならず、ただ呆けたように押し潰される未来を見上げ続けるだけだった。
次の瞬間、リックの体は強い力によって一気に引き寄せられた。見れば腕を引くのはグレンの姿。その視線は中空に投げやられるばかりで、リックの様子など一顧だにしない。それはまるですべてが見えているようで、小さな砂礫が当たるのみで致命的な怪我を負うことは全くなかった。
「チッ」
それは恐らく舌打ちだったのだろう。グレンの表情に焦りが走った。
気が付けばリックの体は弾き飛ばされ、その一拍後にグレンとリックの間に巨大な瓦礫が降り注いだ。轟々と腹の底から響くような騒々しい物音を響かせ、リックは廃墟の世界に一人取り残された。
幸いにして大した怪我は負ってはいなかった。何処かの部位が瓦礫に押し潰されていたり、骨が折れているような様子はない。
直近の問題はこの行く手を阻む防壁だ。辛うじて直撃は避けたものの、うまい具合にパズルのように組み合わさっているため何処を崩しても一挙に崩れ落ちてくるだろう。その時点でリックの命運は尽きる。
かと言って何もしない訳にもいかない。幸運にも誰かが救助しに来てくれる可能性も捨てきれないが、そもそもドラゴンが襲撃に来た時点であらゆる機関は壊滅状態、あるいは多忙を極めるのは想像するに難しくない。そんな中で偶然立ち寄った冒険者の存在を優先してくれるような余裕があるはずがない。それこそ偶然で、幸運で、人生での全ての運をここで使いきってしまう程の奇跡が起こらない限り、そんな都合のいい展開が起こるはずもない。
自らを助けるには、自らが何かを為さねばならない。
助かるためにはどうしたらよいか。それは考えるまでもなかった。――自身の呪われた奇才。【称号】、【声なき声】。声の存在しない無機物から声を聞き取る異能。動物や植物などからは声を聞き取ることは出来ず、土や水などからささやかな声を聴取することのできる力だ。
声には明確な意思はなく、独り言のようなボソボソとした小さな物音を耳にすることが出来るだけだ。会話が成立させることは困難で、盗み聞きをする程度のことしか出来ない。
普段は意図的に聞かないようにしている。その"声"は人ならざるものの声だ。人である自身がその声に耳を傾け続けていれば、いつか必ず綻びが生じる。――いつか、人との間に軋轢を生む。
リックは知っていた。自身の【称号】が人との輪を繋がないことに。むしろより距離を離してしまうことに。それは隔絶された世界だ。一人で声を聞いていた。声なき声を、いつまでもずっと。
だからリックは耳を傾けない。声を聞かない。世界に一人置いていく声を憎んで。恨んで。――その実、罪悪感を抱きながら。
でも今は。
「……死んでたまるか」
生きるためには、足掻くしかない。
今更都合がいいのかもしれない。自身は罰せられはしないだろう。罵りもされないだろう。そこにあるのは自らが自らを許せないだけの感情だ。
自らが切り捨てて、見て見ぬふりをして、捨てたつもりでいたはずなのに危うくなればまた勝手に手を伸ばす。なんて醜い生き物なのだろう。なんて愚かなのだろう。
それでも――
――バラバラだぁ。
――黒いの行った行った行った行った。
――潰れた?
――音音音音、しびれる。
――眠たい。
――ピピぴピピピピピピピれピピピピピピピピ。
ほんの一瞬意識しただけで、一挙に押し寄せてくる物音の奔流。どうにも意味のない言葉ばかりが耳に響いてくる。しかし今求めているのはそんな戯言などではない。どこを崩せばうまくこの瓦礫を撤去できるのか。それがわからないのであれば本人に聞いてしまえばよい。
――粉がいっぱい。バラバラ、バラバラ。
――速い速い、速いの、速い?
――あうあ。まだまだ。まだこれから。
――人埋まった。人? 獣?
ただの独り言。誰に伝えるでもない、野放図な言葉。全く意味がないはずの言葉。それなのにどうしてだろうか、リックはその言葉がひどく心地よい。いつまでもそれに耳を傾けていたい、そんな感情を抱く。そもそもどうして自身はこんなところにいるのだろうか。彼らとともにずっとあれば、そのまま幸せに生きられたというのに。どうして自分には腕がついているのだろうか、足があるのだろうか。こんな無駄なものが存在しているからいつまでも自分は――
爆音が響いた。遠く、しかし近い。そんな場所で何かがはじけたような物音がした。リックはその瞬間、自らの自我を取り戻した。頭上を覆う瓦礫の山はわずかに軋む音を立てただけで、すぐに崩れ落ちてくる様子はない。リックはそれだけを確認するとホッと息を吐いて……そして石の刺さった足に気が付いた。
「あぐっ!」
気が付いたと同時に痛覚が戻ったようで、一瞬で痛みが全身を襲う。全身の毛が逆立つような痛みだ。今の爆発で落ちた小石が突き刺さってしまったのだろうか。それともそれ以外の要因が――
リックはすぐに考えるのをやめた。考えたところで意味があるわけもない。そう思い込むことでリックはその現実から目を背けた。考えてはダメなのだ。そんなことをしたところでリックはまた一人ぼっちになってしまうだけなのだから。
歯を食いしばって痛みを堪える。じんわりと眦に涙が溜まっていく。思わず泣き言が口を衝いて出そうになる。それをどうにか食い殺した。
「ううっ……」
身じろぎをするだけで激痛が走る。『誰か助けて』、そんな悲鳴を上げてしまいそうになる。眦からはその水の塊が零れ落ちた。しかしリックは堪えた。強くなると決めたのだ。逃げるわけにはいかないのだ。例えそれが地獄のような状況であっても、これ以上逃げてしまえばその先にはもう未来など待っているわけがないのだ。
もう必要な情報は手に入った。どの岩と岩がどのように噛み合っているのか、どこを崩せば崩落させずに脱出できるのか。あとはその知識の通りに逃げ出すだけだ。しかしそれには体を動かす必要がある。それも身動ぎ程度ではなく、全身を使って、力を籠めなければならない。そうなれば足での踏ん張りというものは必至となるであろう。それが今のリックにできるのだろうか。
「うっ、くっ」
立ち上がろうと姿勢を変えただけでこれだ。全身を走る激痛。思考する能力など微塵も残されてはいない。立ち上がるだけでも非常に困難だった。もう止まらない。あふれ出る涙が、止まらない。
「う、ううっ」
もうやめてしまいたい。逃げ出したい。早く楽になってしまいたい。どうして、こんな目にあっているのだろうか。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。座りたい。もう立っていたくない。痛い、痛い、痛い。もう死んでしまってもいい、そんな感情が心をよぎる。
立ち上がっても真っ直ぐには立てず、頭を傾げてどうにかなるスペース。それがきっと自身の最期の居所なのだ。一人で寂しく、孤独に消えていくのが最期なのだ。
「い、嫌だよぉ……死にたくないよぉ……」
頭上の岩を腕の力でどうにか押し出そうとする。その度に足に突き刺さった小石が存在を主張し、リックの体から力が奪われていく。そのままくずおれてしまいそうになる。それをどうにか気力で堪えた。今ここで座り込んでしまえば、もう二度と、立ち上がる力は湧いては出てこないだろう。
「誰か……誰かぁ……!」
助けを呼ぶつもりはなかった。それをしてしまえばきっと一気に崩壊してしまうと本能的に感じていたからだ。でも今は、つい先ほどまでの虚勢など吹き飛んで行ってしまったのだ。そして急激に押し寄せる死への恐怖。暗く、孤独。誰に知られることをもなくこのまま息を引き取る。なんのために生きていたのだろうか。ただ死ぬためだけに存在したのか。
再度力を込める。しかし頭上の岩は一寸たりとも動きはせず、逃してなるものかと言わんばかりにデンとして鎮座したままだ。
それはまるで絶望の権化。死の暗示。
「ひっ、ひっ」
しゃくり上げる声はそのままリックから力を奪っていくようで、リックはそのまま腰を地面へと落とした。足は既に小鹿のように震え、ズボンは次第に鮮血に染まっていく。気怠い感覚にそのまま天井を見上げる。
この岩の更に上には、どこまでも広がる大空が広がっているはずなのだ。それなのにリックは今、孤独に岩の独房へと押し込められ、最期の時をひたすらに待ち続けるだけ。
空を求めるように、震える腕を上へと伸ばす。頭は真っ白になってしまったのに自然と涙が溢れてゆく。
そのまま仰向けに倒れこむ。
「もう、ダメなのかな……」
それは諦めの言葉だった。その瞬間、リックの体からは一切の力が失われた。もう上体を起こすことさえ、困難になった。生きる希望を無くした瞬間、リックの体はゆっくりと死へと向かい始めていたのだ。
パラパラ、と砂が滑り落ちてきた。ここが崩れてしまうのももう時間の問題だろう。せめて、死ぬのなら痛くないといいな、そう思いながらリックは目を閉じた。
ガリガリと音を立てているのは岩と岩がこすれるせいだろうか。心臓が早鐘のように鼓動を始めていく。どうやっても、死への心構えは出来ないのかもしれないと自嘲気味にリックは思った。
物音は更に大きくなり、その瞬間がいつ訪れてもおかしくはなかった。そしてより固く瞑ったリックの瞼に突き刺さったのは白い、朝を告げるような日の光。
「やあお嬢ちゃん、生きてるかい」
ゆっくりと瞼を開くリックの視界に入るのは、そう陽気そうな言葉をかけて顔を覗かせるグレンの姿だった。




