97.死の腕に抱かれて
その特徴的なしゃべり方にセイギは聞き覚えがあった。いや、どうして忘れられようか。決してそれを耳にした時間は長くはないものの、そう易々と忘れられるような記憶の片隅に蹲るようなものではない。
――カイザル・グェミアン。≪戦場の死神≫の名を冠した者。
それが今、どうしてここに。その答えを持つものはいない。知っているとすれば、それは恐らく当人のみに間違いがない。
セイギの視線の先、知っているハズなのに全く知らない少年がそこにはいた。
「お前は……カイザル、か?」
「もゥ俺様を忘れちまったのかよォ?」
瓦礫が散らばる中、その瓦礫の頂上に優雅に座っている少年。その容貌は決して秀でたものではない。深い茶の髪に紋様のように散らされたソバカス。群衆の中に入れば一瞬で埋もれてしまいそうな十人並みの容姿。だからだろうか、逆に違和感しか感じとることが出来ない。違和感、異物感。それを形容する言葉を挙げるとすれば幾らでも列挙することが出来るだろう。ただ不気味なほどに可笑しい。口に出すことも憚られるような、気色の悪さ。
グリンと人の構造上あり得ない不自然な挙動で右目が回転をする。その動きは間違いなく、セイギの見知ったカイザルそのものの動作であった。
――グォオオオォォオォ……
二人の緊迫とした空気の間に力の削がれた咆哮が響いた。たった今の叫びは、未だに黒竜が生存している証拠に他ならなかった。
今セイギはカイザルと対峙していた。しかし本来は黒竜と対峙すべきだったのだ。最も優先するべきこと、それはカイザルとの決着ではない。今ここで黒竜を屠り、かつての平穏を取り戻すこと、ただそれだけだ。
「そこを退け、カイザル」
「俺様に退けたァ、ちょいと調子に乗りすぎじャァねェか?」
セイギの冷たい視線を正面から受け止めてもなお、カイザルは余裕を崩した様子を見せずにいる。確かにこの男は以前セイギと対峙したところでも同様の余裕を見せていた。結局セイギはその余裕が何処から湧き上がるものなのかを理解することが出来なかった。
だが反対にセイギも敗北という言葉を覚えることはない。能わないとは到底思いがたい。それでもこのカイザルという男の底の知れなさに手を拱いていた。そして現在セイギの膝元に横たわっている、アリスの存在もセイギの行動を制限する要因ともなっていた。
「戦場に子供連れたァ、いいご身分だなァクソ【死神】ィ!!」
人畜無害に見えるその表情がこれでもかと大きく歪む。頬が割けるのではないかと錯覚するほどに大きく開かれた口。その目付きは厭らしくギラギラとセイギとアリスを舐めるように睨め付ける。
次の瞬間、セイギは天地がひっくり返るのを眺めていた。アリスへと咄嗟に伸ばした腕は、その小さな掌を掴むことも出来ずに二人の距離は遠ざかる。
アリスッ! そう呼び掛けようとした声は何処から伸びてきたのかも分からない腕によって封じられた。それだけではない。首が絞められる、耳が思いきり捩られる、指が逆方向に捻られる。肌が引っ掻き傷で赤い線が幾重にも描かれ、殴打によって青く染まる。一瞬、あるいは刹那。たったその間に幾多もの悪意が降りかかった。
――痛みだ。分かるのはそれだけしかない。数えきれない腕が、指が、爪が、苛んでくる。まるで親の仇とでも言わんばかりに、執拗に襲い掛かっている。
時折耳に入る哄笑。一瞬で世界は敵へと変貌した。アリスはどうなった、見えない聞こえない。腕が、掌が、邪魔だ。邪魔だ!
「邪魔だああああああああああああ!」
セイギのその叫び声と共に拘束していた腕が一瞬で弾けとんだ。その一瞬を逃すまいとセイギは立ち上がるが、そうはさせまいと再び腕がセイギの脚を拘束する。
「退けっ!」
蹴飛ばすように脚を前へと蹴りだし、それと呼応するように腕が飛び散っては再び生えてすがり付く。それはまるで地獄に垂らされた一本の糸にすがる人々の姿のようであった。消えては再生する。同じ場面を何度もリピートしているような光景。そしてやはりセイギの耳に飛び込んできたのは嘲笑の声であった。
「カイザルウウウウゥゥゥゥウ!!」
セイギが腕を伸ばす。開けた視界の先、ニヤニヤと笑みを浮かべるカイザルと腕に支配されるアリスの姿があった。
「ここは俺様のフィールドだぜェ?」
しかしその言葉はセイギの耳には届いていなかった。懸命に伸ばした腕の先、気を失い幾ばくか青ざめた様子でぐったりとしているアリスの姿しか目に入っていない。
カイザルはその様子を眺め、そして嬉しそうに頬を釣り上げた。
「アリスを離せええええ!」
「おゥおゥ、偉そうな口を利くじャねェか。どうなッてもいいんだな?」
「ふっざけんなよっ!!」
アリスを拘束するする腕が一瞬で弾ける。しかしそれを気にした様子も見せず腕が再びアリスを捕縛する。同時にアリスの表情が苦悶とも取れるものへと変容した。
「おッと力加減を間違えちまッたじャねェか」
「クソがああああああああ!」
セイギがカイザルへとその憎しみに満ちた瞳をぶつけると同時にカイザルの頭が飛散した。
はぁはぁと怒りに早まった呼吸の音が響いていた。未だに拘束を続ける腕が鬱陶しい。煩わしい。再度それを蹴散らすと今度は再生することもなく素直に解放された。そして一歩、脚を進めると聞こえてきたのだ、あの声が。
「これで終わりなんて訳はねェだろゥ?」
確かに死んだはずだ。セイギはそう認識していた。だが現実はどうだろうか、斃したはずの敵は何の傷も負ってはおらず、代わり映えのしない姿形で居座ったままなのだ。
腕が再びセイギを拘束し、一瞬の間に腰まで捕らわれる。
「言ッただろうが。ここは俺様のフィールドなんだよッ!」
セイギは腕に引き倒され、一瞬仰いだ空は曇天に覆われていたが、それも次の瞬間には土気色をした腕に支配された。
セイギは子供のように身を竦め、襲いくる悪意に対して身を守る。いいようにカイザルの成すがままだった。
「つまんねェぞこのクソ【死神】がァ! どうした足掻いてみろよ!」
カイザルの挑発は間違いなくセイギにも届いていた。しかしそれに対する返答は全く聞こえない。その反応にほとほと呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。
「あァ下らねェ。さッさとこのクソガキもぶッ殺して……アン?」
カイザルの意識を奪ったのは天空から滴り落ちる雨粒だった。ただの雨であるならば、カイザルも気にすることはなかった。しかしどうにも違和感を覚えずにはいられなかった。――痒い。痒い痒い痒い痒い! まるで全身が火照っているように体の中心から熱源が発生しているようだった。軽く頬を撫ぜれば爛れた皮膚が付着した。同時にヒリヒリとした痛みが走る。
「なん、だョこれはァ!?」
セイギを掴んでいた腕もその雨を嫌うように躍り狂い、その任務を放棄せざるを得なくなった。結果として、セイギは再び自由を獲得し、自らの足で立ち上がる。
「さっさと失せろよこの死体野郎がっ!」
それはセイギの導き出した答え。一般に不死者とは得てして聖なるものに弱いとされる。例を上げるなれば十字架や聖水がそれに該当する。そして雨はその代替だ。単なる雨であればカイザルには何の効果も生み出しはしなかっただろう。そこにセイギの殺意が介在するだけで簡単に不死さえも殺しうる。つまりセイギは不死を殺すことを理解した、と言うに他ならない。
「ッざけるなよこのクソ【死神】がァ!! 俺様は死なねェ! てめェが死ねえええええ!!」
土の合間から手が伸びる。しかし地中から飛び出たそれらは雨に打たれると即座に勢いを失い、そして目的を喪失して乱舞する。
カイザルが頭を掻き毟る。皮が剥がれて崩れ落ちそうになる。このままでいけばカイザルは見るも無惨な姿へと変貌し、壊れるのを待つだけだった。カイザルに走るのは焦燥感。不死として生き延びて百年近くになるが、"本当の"死の恐怖を味わったのは随分と久方ぶりの話であった。その恐怖からこの場から逃れようとするが、最早手遅れ、足もそう敏捷には動かない。このままでは朽ち果てることしか出来ない。
今にも終焉を迎えようというその時、予期していなかった出来事が起きた。
――ゴッ!!
何かが爆発するような音がして目の前の瓦礫が吹き飛び、対峙する二人の目に飛び込んできたのは黒竜の巨大な尾であった。




