96.殺すもの 殺されるもの 逃げるもの
上空に展開される黒の槍は、かつての惨劇を上回る規模であった。
物理法則をまるきり無視したそれは魔法と表現されるものではなく、奇蹟とも言い換えるのが最適であろう。まさに【死神】の御業。
そんな戯けた言の葉の一葉はともかく、現在眼前に広がる光景はやはり異様と言えた。空を覆い尽くす槍の数々は鋭利な矛先を黒竜へと差し向け、今にも飛び出さんと構えている。
黒竜は上空覆う槍へと咆戟を加えるが、圧倒的な物量の前に微塵の抗力さえ見出だすことは出来ない。壊れた玩具のように同じ動作を繰り返すものの、その喩えのように脅威を覚えることは出来なくなっていた。
竜を見上げる人々は皆が一様に感じ始めていた。――助かった、と。
空の黒槍はその厄災と戯れているようで、圧倒的な力を有していることがわかる。それこそ神の思し召しで竜に対する神罰が加わったのではないかと感じていた。
一方で別の考えも生まれていた。上空を覆う黒の槍々。そこには神の神聖な力を感じることは出来ず、その色からして全くの別物ではないかと考察するもの。それこそ時代の変遷、【魔王】の誕生ではないかと推察するものも少なからずいた。
そんな世論の合戦が交わされるのも、少なくとも現在の騒動が収集付くまではお預けである。
黒竜の攻撃も一端収束し、地上に蔓延る悲鳴や怒声を無視すれば、沈黙が訪れていた。攻撃を加える竜とそれを傍観するように睥睨する黒槍。一見すればなんの害意もないように見えるものの、竜はそこに絶対的な悪意を感じ取っていた。それゆえに足元に転がっている害虫の殲滅に乗り出せずにいる。
先に均衡を破ったのは黒竜だった。停滞するように空中に浮かんでいたのだが、急速に速度を上げて移動を開始する。それとほぼ同時に黒槍も射出を開始する。黒竜は予めその動きを感じ取っていたようで、貫かんと高速で降る雨を紙一重で躱し続ける。
黒の槍は竜を貫くことに失敗すると、地面へと突き刺さる前に空中へと融けて消える。その消える瞬間に弾ける光がより世界を幻想的に染め上げる。
まるでお伽噺。悪事を働く黒い竜と、それを諌めようとする黒の槍。世界は光に満ち溢れ、神は人々を救おうとする。まだ誰も知らない物語がそこにはあった。阿鼻叫喚の地獄の中、そこに居合わせた人々は伝説の証人へとなろうとしていた。
黒竜は急下降を開始する。空中での不利を悟り、遮蔽物の創造を可能とする地上付近での戦いを臨んだのだ。地面に突き刺さる槍の存在を認知できないこともその行動を促した一つの要因となっていた。
竜の巨体が地面へと激突する――そう思われた瞬間、ほとんど直角に急旋回を行なうことでその悲劇から離脱する。周囲には衝撃波が放たれ、一辺の瓦礫や砂が一気に飛散する。地面付近まで最大限に保たれた位置エネルギー容易くゼロにしつつも方向を一気に変えて飛翔を続行する強靭な竜の肉体。ある意味地面に叩きつけられたにも等しい衝撃を受けながらも些細なダメージを見出すことも出来てはいない。その異常さに気付いた人間がどれほど居ただろうか。
建造物の合間を縫って高速の飛行を続ける。黒槍はそれを貫こうと幾度も射出されるものの、遮蔽物との関係のせいか未だに直接的なダメージを与えるには至っていない。
しかし竜はここで違和感を覚えていた。どうにも上空に待機している槍の数と攻撃の数がアンバランスであると気が付いていた。それに攻撃の手はやたらと一方からに偏っている。
――誘導されている。それを完全に悟ったのは旋回をして反対の方角へと向かおうとした瞬間だった。そのタイミングで一気に攻撃する槍の数が増加した。まるで竜がそちらへ向かうことを阻んでいるかのように。例えるならばそれは黒い壁のように行く手を遮る。
そこには明確な意思を感じることが出来た。竜の存在がそれを脅かしていることも分かる。つまりそれは、力が能うということの証明に他ならない。あのつがい、あの術師を斃せばすべては解決する。竜はそれを確信した。それが判明した以上、向かう先はただ一方向に絞られる。自らの行く手を遮る者に、制裁を。正義の鉄槌を。無慈悲なる死を。
意味のあることかは分からなかったが、幾度もフェイントをかける。そして急上昇と急下降。緊急で停止しては急発進を繰り返す。滑稽そうにも見えるそれは、しかし高速を伴ってすれば爆弾にも似た衝撃と見るものを呆然とさせる美しさがあった。それはまさに力の権化。世界に愛されている証拠。
竜はタイミングを見計らう。槍が目の前を通過し、地面に突き刺さるのを見た。次に右に旋回する予備動作を見せる。勿論囮だ。右へ向かおうとする体を急反転、今まで背を向けていた後方へと全速を上げて飛翔する。
今までに全速を見せることはしていなかった。それは故意のことである。全速での飛行とは、竜の体を以てしても無傷を保つことなど到底不可能だからだ。
翼の根本を掠めて槍が地面へと突き刺さった。まるで毒が浸透するような感覚に竜は悲鳴を上げる。全身を染め上げるのは悪意の塊だと瞬時に判断する。そこに加わった強烈な風を切る圧力で、翼の付け根から徐々に剥がれ落ちていくのが感覚として伝わる。咆哮する。激痛が走る。それでも高速の飛行をやめることはしない。
たとえ翼が落ちたとして、飛行する能力に損害が出るわけではない。竜の飛行能力とは専ら魔力によるものだ。だから翼とは飛行のイメージを強めるためのものであり、予備のエンジンとでも例えてよい代物なのだ。
黒竜はその翼が長くは持たないことを確信する。それでも行いをやめることはしない。自らの翼を切り捨てる代わりに、自身を追い詰めている存在を殺めることを決めたのだ。
世界を置き去りにする速さの中、竜は視線の先に佇む存在を見出した。
黒のその姿は竜の力を以てしても邪悪そのもの。悪意に苛まれて欲に塗れ、世界を滅ぼしかねない力に満たされている。ある意味鏡写しの自身の姿を見ているようで、嫌悪感が募る。その判断も一瞬のことで、とにかくその存在を消し飛ばしてしまおうと決心する。それさえ果たせてしまえば、自身に能う存在がなくなることを分かっていた。それだけの脅威が目の前にいることを把握していた。とにかく、滅ぼさなければ殺される。
――その判断は偶然だった。
咄嗟に全速で進む体を停止し、慣性で進む勢いに地面に足を突っ張って抵抗する。全力で詰め寄ってしまえばそれで終わりだったのかもしれない。しかしどうしてか体がそれを拒絶した。
黒竜の目の前で地面が急激に、幾重にも盛り上がって突き出す。それは土の槍だった。鋭利に尖った先端は例え黒竜でも貫き容易く命を奪いもするのだろう。
完全に慣性を殺し切れずにその円柱へと衝突する。黒竜は吹き上がる粉塵の中、降りしきる黒の槍を見ていた。
それだけであれば黒竜の命運も尽きていたことは間違いがなかった。
逃げ場もなければ逃げ切れる速度もない。復讐もままならずに死に絶えてゆくしかない。恨んだ。どうしようもなく無慈悲な世界を恨むしかなかった。呪うしかなかった。仇をとることも出来ず、朽ちることしか出来ないわが身を恨んだ。
「ここで退場されちャあ、困るんだよねェ」
どこか聞き覚えのある癖のある話し言葉が、黒竜と【死神】の耳に届いた。
アイツは噛ませ犬ですが、あれだけじゃないんです。




