94.名前を呼んで
世界は一瞬の静寂に満ちた。その姿があまりにもこの安穏とした街にとってあまりにも唐突すぎ、白昼夢でも見ているのではないかと錯覚に陥ってしまう程にそれは突然だった。
まるで足元を走り回るネズミどものような人間たちを睥睨する。その一睨みだけで心臓の弱い人間は軽く鼓動を停止してしまうかもしれない。 目下にその存在を確認したことで憎悪が膨れ上がるように噴出し、その感情は喉を伝って咆哮へと変わる。
――グオオオオオオオォオオォオォォォオオ!
その雄叫びは世界を揺らす。世界のみならずあらゆる生きとし生けるもの、それを恐怖に慄かしうるほどの威圧と脅威。
何処からともなく悲鳴が上がり始める。空に浮かぶその姿を目撃した人間は須らく等しく絶望を顔に浮かべている。力の差など、分かり得ない、計り得ない。その強大さに人間はただただ捻り潰されるのみだ。一瞬にして恐慌状態へと陥った町では、最低限の貴重品を纏めて家から外へと飛び出る人間、またその逆に家へと飛び込んでその身を隠す人間、腰を抜かしてへたり込む人間、各人それぞれの様子で現実に対面していた。
その中でニポポは立ち尽くしていた。掴んでいたはずの細腕はいつの間にか解かれていた。しかしその事実にニポポは気づくことが出来ない。
呆然、愕然、驚愕、自失、消沈、憎悪、悲嘆、騒然、無情、歓喜、回顧、悄然、毅然、悲壮。どんな感情を混ぜ合わせればそれを表すことが出来るのか、ニポポの思考すべてを奪わんばかりの感情の波濤が容易にキャパシティを超え、まさかに全てを浚って真白へと還元する。故の硬直、そして空白。
逃げるのか、立ち向かうのか、思考している時間すら存在しない。故障した機械がエラーの文字を延々と出力するが如く、ニポポの思考は白に塗りつぶされていた。
その中でたった一人、ドラゴンなどまるで歯牙にもかけない様子の人物がいた。それはつい先ほどまでニポポが組み敷いていた女であり、今となっては完全に自由になって当初の目的を盲目的にも達さんとしていた。
手から離れた凶器の元へと一人駆け寄り、まるで愛おしいものを抱え上げるように仰々しく持ち上げる。だがその表情もすぐに曇りを見せた。彼女の見つめる先からは滴る鮮紅があるべきであった。しかし望みの色を伺うことは出来ず、不満、あるいは不審を浮かべた表情でセイギを振り返る。
今しがたまで上空に視線が囚われていたセイギであったが、視界を駆ける姿が視界の端を過ったことで地上の存在を意識に上らせることに成功していた。そして互いが互いの存在を認めた瞬間、女は再びセイギの元へと向かう。
地面に座り込む少女、アリスはその光景を眺めていることしか出来なかった。女へと飛びついたまではいい。【奴隷】として主人の命を優先することは生まれついてから常々叩き込まれてきた。自身の命さえも主のものであり、躊躇することもなく使い捨てられるべきものである。故に自らの命を削っても主を守ることは道理であり、そして道徳でもあった。
しかしアリスはその本分を全うすることは出来なかった。むしろ逆に主に命の危機をもたらすことになってしまった。アリスの背中を庇ったセイギの体温があった。自身のそれと比べれば明らかに硬質なものであり、触れ心地で言えば決して良いわけでもないが、そこにあった温もりを確かにアリスは感じ取っていた。同時に痙攣するような振動にも気が付いていた。それを感じ取ったアリスは、自身の間違いを悟った。
そして目の前に突き付けられている現実。顔を歪めつつも立ち上がるセイギと、目の前の獲物に舌なめずりをするような様子で歩いている女。力を失って立ち上がることさえも出来ない足腰。空中に滞在する黒き竜。
「ご主人様っ!」
アリスは声を上げる。セイギとの約束を忘れているのか、その呼称は元来のそれ。その声に思い出したかのようにセイギと女がアリスへと視線を投げる。
――嗤った。
女がセイギに向けていた足を止め、それをアリスへと向けた。
セイギの表情が驚愕へと変わる。
「ま、待て!お前の狙いは俺じゃないのか!?」
女はちらりとセイギを一舐めするように眺めると、何も言わずにアリスへと向き直る。
奪うつもりだ。セイギが守るべきもの、その持てる全てを灰燼に帰そうとしている。また奪われる。また、喪う――
ゾクリ、と背筋が震える。飛びかかる火の粉は振り払わなければならない。そうしなければウシナワレル――
セイギは意識の全てをその女に向けた。奪わなければ奪われる。その命をここで散らすしか、手段はない。甘かった。甘すぎた。セイギがその咎を犯した。罰はアリスの命。守ると決めた以上、それを容易に見逃すことは出来ない。だからセイギは決意する。
(謝らない)
誤らない。悪手であると言われようと、正義を貫く覚悟はある。
そんな些事を嘲笑うように一陣の突風が駆け抜けた。いや、駆け抜けるという表現は正しくない。浚った、と言うべき風だ。文字通りに地を這う人間が堪えきれずに一掃されていく。セイギに限らず、アリスも、女も、ニポポも中空へと投げ出される。視界が反転して天地がひっくり返る。空が地面に、地面が空に変化しそしてまた元に戻る。セイギの視界の端を業炎が奔る。距離はあるはずなのにその灼熱がセイギの顔を灼く。セイギが何処かの屋根へと叩き付けられるとほぼ同時、炸裂音が響き渡り爆煙が立ち昇る。――地上の太陽。幻想であればそう表現されるであろうそれは人間の住処へと落ち、地獄を創造した。
幾重もの家々を薙ぎ倒し、その中央では鈍い赤の大地が白い靄の悲鳴を上げる。爆散した衝撃波は瓦礫をさながら散弾銃のように飛び散らせ、あらゆるものを穿つ。例えそれが石であれ、木材であれ、――人であれ。
セイギは頭を振るって立ち上がった。背中の痛みは既にない。腕の中を確認すればそこには変わらずに微笑みを絶やさないリズの姿があった。それを確認してホッとため息を吐くと、続いて取り戻した思考回路で咄嗟に左右へと視線を走らせる。
セイギを庇おうとした赤毛の少女。セイギが守らねばならぬ少女。
「アリスッ!!」
強い声で名前を呼ぶ。セイギの与えたその名前。愛おしい少女を模した名前。――代替品、代用品。次位の少女。
今のセイギはそんな記号をまるで意図せずにその名前を呼ぶ。叫ぶ。希う。それは初めてセイギが少女の名を呼んだ瞬間であった。
「アリスッ!どこだ!」
遠くで地響きがする。破壊音は止まない。雄叫びが空を割る。そんな仮初めの出来事はセイギの足を止めることは出来ない。セイギにとってまず優先すべきことはアリスの命、ただそれ一つ。
「アリスッ!アリスッ!」
情けない声。最悪の状況を思い出して恐怖に声が震えている。喪うことを恐れた幼児のような泣き声。
物音が煩い。心臓が煩い。声を上げているかもしれない少女の声が空気に溶けて消えてしまう。何も聞こえない。
「アリースッ!」
セイギは瓦礫の山を伝って地上へと降り立つ。浮遊感を覚える足取りでよたよたと歩く。瓦礫、人、家財、人、動物、人――
そんな有象無象を無視してセイギは歩みを進める。『よかった、アリスじゃない』と遺体を確かめる度にそう思う。罪悪感はない。ただアリスの身を案じる、それだけが今のセイギの行動原理だった。
「アリスッ!返事をしてくれ!」
呼び掛けに対する答えはない。代わりとでも言うように嗚咽と呻き声、救いを求める悲鳴がそこかしらから聞こえている。それでもセイギはそのどれにも顧みることはしない。所詮何をしたところで無為だからだ。
「アリスッ!アリ――」
唐突にその名前を呼ぶことを止め、駆け出す。その視線の先、見覚えのある赤毛の少女が臥せっていた。ほんの僅かな距離であるにも関わらず、遅々として進まない自身の足に苛立ちさえ覚える。
それでも確かに一歩ずつ、距離は縮まっていく。少しばかりセイギの表情が晴れ上がっていく。
「アリ――」
呼びかけようとしたセイギの声が詰まった。その唇は震え、正しく言語を発することもままならないであろう。その瞳孔は驚愕に開こうとしている。目の前に佇む現実を見据え、そして同時に意識が現世から離れ行く。信じたくない光景が視界を埋め、思考が白濁してヒューズが弾ける。
――少女は、赤い血だまりに抱かれるようにして瞑目していた。




