9.分水嶺
その日の夕方のことであった。
セイギの視界が妙に歪んでいるのである。
始めは本に集中しすぎたのかとも疑ったが、どうにもそうではないらしい。
視界だけではなく、度々鈍い頭痛がセイギを襲う。頭を抱えるほどのものではないが無視できるようなものではなかった。
それを打ち払おうとするかのように首を振ったり目を押さえているセイギを怪訝に思ったリズが尋ねる。
「セイギ、"大丈夫?"」
おお、大丈夫だ、なんて言って立ち上がり軽くジャンプしようとしたセイギの思惑は大きく崩された。
立ち上がるどころか、そのまま床に崩れ落ちたのだ。
立ち上がるつもりでいたセイギの視界は急に下へと落ちた。そのせいでセイギは世界が反転したような錯覚に陥った。
「セイギッ!」
リズの鋭い声が響く。幸いにしてセイギに外傷はない。朦朧としながらも手を先についたお陰であろう。
「あー、"大丈夫大丈夫"」
そう言って立ち上がろうとするが、その手は空虚をさ迷い掴むべきものを見つけられない。
その手を優しく包み、リズはやんわりとセイギを宥める。
「"強がらないで。私を頼って"」
裏表のない純粋な表情でそう言われては、セイギにも断る術はなかった。
「"ごめん、ありがとう"」
「"ごめんは余計ね"」
イタズラっぽい顔でリズは笑いかけると、セイギに肩を貸してベッドまで辿り着くとセイギをベッドに横たえた。
ベッドに横たわると尚一層の倦怠感がセイギを襲った。布団の温さがじんわりとセイギを癒す。
「"食事は取れる?"」
「"ん、少し……"」
「"トイを作るわ。……いつもそればっかりでごめんなさい"」
どうしてリズが謝るんだ。迷惑をかけているのは俺の方なのに。そう思いつつも言葉にする気力が全く湧かず、視線をリズに向けるばかりであった。
「"じゃあ今から作るから、ちょっと待ってて"」
パタパタとその背中が衝立ての向こう側へ消える。少しばかり焦ったような様子で調理に取り掛かっている様子がわかる。如何せん起てる物音が大きいわ、やたらと独り言が聞こえているからだ。
セイギは怠そうな顔をしながら幸せそうにニヤついていた。
大きく感情を揺さぶる出来事が何度か続き、身体の疲労、セイギを取り巻く環境の大きな変化、そして風土。今回の発病の原因は様々な要因が重なりあったために引き起こったものだった。
セイギは飄々と、淡々と現実を受け入れたつもりだったが、その実、精神には大きな負荷がかかっていた。現に病気にかかるほどに免疫が弱まっていたのだ。
自身が死んだという事実、異世界というプレッシャー、言葉の通じない環境。ただの一つでさえ大きな事件で重荷とも言えるものが三つも四つも折り重なったのだ。疲労困憊も已むを得ない状況であった。
セイギにしろ、リズにしろ、今回の病気は突発的なものですぐに治まるだろうと考えていた。実際、食事を終えた頃にはほぼ全快の兆しさえも伺えた。体力的にも人生でピークにある男子高校生だ、軽い風邪ならば一日も寝ていれば治ると楽観視していた。
しかしそれはあまりにも甘い見通しだった。
セイギが寝込んでから六日目、セイギは未だにベッドに臥せっていた。その顔はひどく衰弱し、意識が混濁しているのか、時折視線があらぬ方向へと投げられる。息は薄く窒息を起こしかけているようにも見える。
傍ではリズが焦燥し切っていた。
こう見えて薬草などに詳しいリズは効能のある薬草を煎じたり調合してはセイギに摂取させていた。単純な風邪であれば疾うに治って談笑でも交わしている頃である。
それがなぜこうなってしまったのか。
既にセイギは自主的に食事や水分すら採れなくなっていた。二三日目はリズに食事を与えてもらっていたが、今ではそれすらも受け付けない。既に三日間、何も口にしていなかった。
こうなっては最早神に祈るだけだ。
リズは祈った。恨みこそすれ、祈ることのなかった神にすらしがみ付いた。祈って祈り続け、そして諦めた。
リズは泣き喚いた。かつてセイギのしたように、赤子のように。
泣き喚いて駄々をこねて八つ当たりをして、そして膝を抱えるようにしてさめざめと泣いた。それでも何も起こらない、変わらない。
不意にリズが立ち上がる。
リズは空腹を覚えていた。セイギには及ばないが既に一日以上は何も口にしていなかった。
危なげな足取りで台所に立つ。うまく脳が働かないながらも、ここ最近で繰り返し作った料理を不自然なまでに危なげなく調理し始める。野菜、野菜、野菜、肉。セイギが受け付けなくなったことで最近入れなくなったそれを、無意識に放り込む。
芳醇な香りが食欲をそそる。
それもまだだ。煮崩れを起こす直前まで煮込まなければならない。我慢、我慢だ。
十分に時間が経ちようやく満足のいく仕上がりとなる。
それを少量皿に盛り付ける。匙でそれを掬い、ようやくその口へと――
セイギは漂っていた。
自分がベッドに横たわっている感覚はある。だが空に浮いている気もする。
くらくらする。だが覚醒している。
臭いがする。それは苦い薬草?それとも甘いお菓子?
喉が乾いている。でももう何も飲めない。
既に半分意識を失っていたセイギ。もう間もなくもすればその意識は完全にブラックアウトするところだ。
そんなセイギを深淵から掬い上げたのは芳醇なスープの香りだった。その香りは鼻腔を満たし、乾燥した口腔を潤す。生きようとするセイギの肉体は夢中でそれを嚥下する。噛まずとも、粉々に砕かれたそれを飲み干すのは容易なことだった。
何度となくそれを繰り返す。
浅く浮上した意識でセイギは目開いた。
そこには皿から"トイ"を掬い上げようとしているリズと目があった。
リズの頬は上気しているが、それでも人を安心させる笑顔でセイギを見つめ返した。
それに安堵したセイギは再び目を閉じた。
そこからまた始まる緩やかな食事。
小皿の料理がなくなる頃、ようやくセイギの意識は深い闇へと落ちていった。
殴り書きのため非常に読みにくいかもしれません